ハウスクリーニング屋さんの徒然ブログNiigata

ふだんの近況 つれづれの思いなどを

したごころがあるから死ぬことも

 最近人殺しのニュースを毎日やっている。
 女が何人も男を殺して金を騙し取って、いい車に乗っていいものを食っていたとか、男が外人の女を殺してセイケイ手術をして逃げているとか。

 殺した奴は捕まえて死刑にすればいいのだが、そういう人間に殺されたのは、どういうわけか同情できないのだ。
 何か良い目にあいたいという下心があったのじゃないかと思うし、それに生き物としての警戒心がなさすぎる。

 死なせられた人に同情できないという俺も、おかしい人間なのかもしれない。

キーボードを替えたいがもったいないし

 また書きかけの文を消えさせた。
 キーのどこかに手のひらが当たったのだ。
 このキーボードはキーが出っ張っているからだ、と道具の責いにするが実際そうなのだ。
 といっても慣れるしかないのだが。

 古町方面をもう一度活性化させることなど、そして路面電車みたいなのを造ることなども、どっちも根本的に無駄なのだというのを、根拠と一緒に評論的なものを書いたのだが、また気が向いたら書く。

豚肉→鶏肉→魚→野菜→思考が変わるか

 この一年、魚ばかり食べている。肉は鶏肉だけを食べている。
 それまで食べていたのは豚肉がほとんどだった。
 豚肉を食べた次の日、動いて汗をかくと、体から豚肉のにおいがするようになって、だから鶏肉に変えたのだが、それでも次の日は鶏肉のにおいがするようになったから、魚に替えたのだ。

 魚だと今のところは魚のにおいはしないようだ。
 魚といっても、鯖やサンマなのだが、どうしてか青ざかなに手が出る。
 青い魚が好きなのだ。鯖が一番好きだし、その次はサンマだ。一年中安く買えるのもいい。鯖やサンマの缶詰も好きなのだ。

 しかし肉がにおいがするというのも、それは食べ過ぎるからというのもあるだろう。
 手で握ることができるぐらいの量を食べるのなら、次の日に自分から豚肉や鶏肉の臭いがただようということもないのだろうが、ついおいしいから、200グラムは食べてしまうから良くないのだ。牛肉はもともと好きじゃないから、それまでは豚肉がメインで、その後鶏肉がメインになった。
 豚肉の栄養の、ビタミンBというのを摂るためというのも意識の中にあったのだが、それよりも客商売というのを優先した。

 たぶんだが、これから肉も、魚も、食べる量は減っていくのだと思う。
 野菜がほとんどの食生活になっていくのだろうと思う。
 そうすると体が変わるのだろうから、考えも、変わるのだろうと思う。そっちのほうを期待する。

猫の秋の春

 先月十月は夜中に何日も猫がうるさく鳴いていた。
 何匹かでさかっているようなのだが、喧嘩しているようでもあった。
 日付けがかわる頃から明け方まで一晩中窓の下で鳴いているのだった。
 そのたびに目が覚めて枕元の目覚まし時計を見ると、まだ二時か、もう四時か、もうすぐ六時だ、と思った。

 ある朝、自転車でゴミを捨てに行くとき、車道のすみに血まみれのものがあって、牛カエルかなと思ったのだが新潟市の街なかに牛カエルはいないはずだと思い直して、近づいてみると猫だった。
 一瞬私は何かをすべきかと思ったが、急いでいるということを言い訳にして、そのまま通り過ぎたのだった。

 別の日は、作業に行こうとして車に乗ろうとしたら、車の下からのそのそと灰色のかたまりが出てきたから、何だろうと見たら猫だった。
 猫にしては動きがひょこひょこして機敏さがない。よく見たら後ろの両足がカエルの足のように開いたままで、前足だけで自分の体を引きずっている。
 塀に飛び上がって向こう側に行こうとしているのだが、ジャンプする気持ちはあるようなのだが、後ろ足が利かないから飛ぶことができない。しきりにこちらのほうを振り向いている。そのたびに怯えたような目が私を見る。
 そのときも私は急いでいたからそのまま出たのだが、その猫がどうなったのかその後知らない。

 猫がなぜ怪我をしたり死んだりするのかといえば、たぶんメスをめぐってのオスどおしの争いで傷ついたのだろう。
 あるいはメスに乗りかかろうとして拒まれて、逆に噛み付かれたのかもしれない。
 猫というのは鎖につながれていないぶん、街に住むといえども、猫というのは自然を生きているのだなと思った。

近くには幸せはないのだと思ってしまう日常

 今日は急に寒い色の雨が降った日だったが、暖ったかい湘南は良いもんだったなあと思い出すけれど、ここより寒い北海道で暮らしたことがないのだから、北海道の人からみれば新潟は暮らすにはいい場所だと、そして自分のところの冬は辛いと思うだろうが、ロシアの寒さを想像すれば、あそこに比べれば暮らしやすいと思うだろうし、ロシアの人だって北極の熊や南極のペンギンに比べれば、ああ自分は幸せだと思うだろう。

 ホッキョクグマやペンギンが何を食べて生きているのか知らないが、そういうものたちに食われるものたちは、もし知性があったならば、自分を食べるあの白い毛の巨大な凶暴な生き物や、陸上ではのそのそしているくせに海に入ってきたら途端にすばしこくなる狡賢そうなクチバシのある生き物は、確実に自分たちよりも幸せに生きてると思っているだろう。

 そして雪など見たこともない暑い場所に住んでいる人は、毎日暑くて暑くて一度でいいから雪を見てみたい、雪に触ってみたいと思うだろう。

 幸せというのは、誰もが普段の自分の近くにはない遠い場所にある何かなのだと思ってしまうのだろう。それは俺もなのだろう。

郵政民営化を元に戻す根性を、頭の中を、洗濯させなければならない

 この間あることでゆうちょ銀行の窓口に行ったのだが、駄目な対応だった。久しぶりに怒鳴った。
 仕事のやる気もなければ、自分の仕事の知識を蓄えようという気もなければ、客に対して料金分の仕事をしようとする気さえもない。公私混同するだけの泥棒野郎の集まりだった。

 亀井しずかという人間が郵便局の担当大臣になって、生意気にも民営化を元に戻そうみたいなことをやっているが、あいつを誰かが辞めさせないかな。
 郵政を国営みたいに戻す弊害は、俺も細かい意見はあるのだが、長くなるから書かないが、簡単に言うと、景気が一時的にちょっと悪くなったとしても、国民が納めた公金を泥棒するよりは気分いいぜ、ということだ。そして泥棒しないということが、国の活力が生まれるんだよということだ。

 民営化になって、郵政の中の郵便の部門は対応は良くなっている。一生懸命さが見られるようになった。
 俺はそのほかの事業の、銀行、保険、そしてあと何か忘れたが、それらには用がなかったから、今まで関わらなかった。
 だから郵便事業以外の郵政の人間どもの、駄目さ加減を知らなかったのだ。

 ゆうちょ銀行の窓口担当の卑屈そうで、かつコズルそうな顔つきの男は、俺が書いて出した書類を、面倒臭そうに自分の机の上に投げたのだ。俺が見てる前で。
 それは無意識の行為だった。
 それには悪気はないのだろう。なぜならいつもしている事だから。
 だが悪気がないのが一番悪いのだのに。

 他にも窓口での無駄な喋りが多すぎる。無駄な書類が多すぎる。無駄に分かりにくくしていることが多すぎる。
 他の銀行への振込みに使う振込み用紙で、相手先の名前を書く欄に、自分の名前を書くのか相手の名前を書くのかさえも分からないようになっている。他にもほとんどが分かりにくくなっている。
 そして担当者は自分の内輪の言葉しか使おうとしない。たとえば記号番号とは何かをこっちは知らないのにその言葉で押し通そうとする。

 あいつらは、相手の立場に立ってものごとを考えようとすることをしない人間の集まりだ。自分勝手な人間の集まりだ。
 それは新潟市民だからかなと思って、ためしに、あんたは新潟市生まれか? と聞いたら、一人は長野県ですとか、一人は中越ですとかと言った。
 ということは、あの組織に浸っていると、ああいう傲慢な人間になるのだろうな。

 ただだが、中越生まれですと言った女は、俺に怒鳴られてからは、テキパキと小走りに動くようになったし、いやいやながらでも笑顔を作るようになった。そいつは俺も見直した。
 その隣のダラケテいた新潟市民のオンナは、相変わらず不貞腐れた顔つきのままだった。ほとんどの新潟市民の、人間としての出来の悪さが改めて分かった。

 そして俺がいた時間帯の、ゆうちょ銀行の客は年寄りのババばっかりだった。
 そして窓口でもATMでも、一つ一つのことを、書類の書き方やATMのボタンの押し方を、担当者に手取り足取り教えられながら、時間をかけてやっていた。
 それが、教えるほうも教えられうほうも、当たり前だと思っているようだった。
 やり方を覚えて、次からは自分一人でやろうという雰囲気はなかった。
 教える方も、覚えさせようという雰囲気はなかった。むしろいつまでも覚えさせないようにするために、書くものを、ボタンを押すことを、いつまでも機械的に代行しようとしているようだった。それが仕事だと思い込んでいるようだった。

 それが、俺も、ババたちと同じようになったのだ。
 何故なら書類の書き方が、説明されなければ分からないようになっていて、ATMのボタンも説明されなければ分からないようになっているから、初めてやるときは、隣で教えられながらでないと出来ないのだった。
 初めての場合は、書くべきことや、何のボタンを押すべきかを推測できないようになっているのだ。ゆうちょの担当者に訊かなければ出来ないようになっているのだ。

 ああ、これは、無駄な作業を増やすことで、自分たちは仕事をしていると思い込んでいる組織なんだと分かった。
 郵政は、駄目な人間の集まりだと分かったのだ。

 世間の常識的な書類の書き方や、常識的な機械の操作をすれば、もっと効率良くできるのに、それと反対のことを目指して、公金を無駄遣いしている。
 これは、変えなければ駄目だ。
 あいつらを民間という真っ当な世間の常識に引きずり込んで、頭を洗濯させなければ駄目だ。そしてそれは公務員全部もそうしなければ駄目なのだ。

 民主党が政権を取ってから一年は(本当は半年と言いたいのだが一年としておくが)、あいつらも若葉マークなのだから、政権政党の勉強をしているのだと思って、俺も民主党には文句は言わないようにするつもりだ。

 だが、一年たったら、ヘタを打ったら、良くならなかったら、すぐさま降りてもらうからな。
 それが、甘えのない仕事ということだからな。

近場のスーパーにも行くようにする

 うちの近所のスーパーは、高かった清水フードがなくなって、安かったフジミだけになって、フジミは安心したのか、ちょっと高くなった。
 そうしたらこないだ、新しい市民病院の向かいにチャレンジャーが出来ていて、それはキレイな店で、寄ってみたら、値段も安くて、店員はまあまあ嬉しそうな顔で作業しているから、いっぱい買った。

 前までのチャレンジャーは、安かろう悪かろうの商品が多かったから近寄らなかったのだが、この店はNB商品も沢山扱っていて、そうしてそれも安いのだ。
 たぶん今のご時世だから、安く仕入れが出来るようになったのだろう。
 野菜も肉も魚も、食べられるレベルのものだった。実際買って食べたのだが、まずくはなかった。

 そうしてさっき、近所のフジミに行ったら、ガラガラだった。
 客は分かっているのだろうな。
 フジミのレジ係の若い女は、やることがないから、惣菜コーナーに突っ立って、棚の揚げ物をぼうっと見ていた。

 フジミは、こないだまでの清水フードの戦略の、住宅街での便利な食品提供店として生き残ればいいさ。
 少しぐらい単価が高くても、夜九時まで開いていて、小分けしてある野菜とか魚の切り身とかのパックを売ってほしい。
 だって、フジミがなくなったら、うちの近場のスーパーがなくなってしまうのだから。
 だからこれからも、沢山は買わないにしても、ちょくちょく行くようにしようと思っているのだ。

ブログというのは世界観に浸ること

 俺が読みたくなるブログは独自の世界観を持っているブログだ。
 その世界観にひたりたいのだ。そしてその世界観に感動したいのだ。

 世界観を持つためには、書く人間の、価値観が示されていなければならない。
 その価値観に共感したいのだ。
 あるいは、初めて知る価値観に打ちのめされたいのだ。

 だが価値観のないものには、共感しようにも価値観がないのだから、共感することができない。

 価値観を出すには自分の意見を言うことだ。

 しかし世の中のほとんどのブログは、自分の意見を言わない。あいまいなままにしている。
 ただ今日したことを書いているだけ。
 特に、どこそこの店で何を食ったかを書くのは、しかもその写真を載っけて済ましているのは、一番安易だ。
 いわゆる社長ブログというのもほとんどがそうだ。
 だから共感もできなければ、反感を持つことさえできないのだ。
 その人の価値観が見えないからだ。

 あるいは人の受け売りを書いている。
 そうして上から目線で自慢話を書いて、通り一遍のことを書いて、自己満足に浸っている。それは自己欺瞞でしかないのに。

 自分の価値観を出してしまうと、反感を買って、不利益をこうむってしまうのじゃないかという怯えがあるのだろう。
 匿名ブログでもそうなのだから、名前を出して書いていれば、なおさら自分の意見を書くことは稀だろう。

 価値観を隠しているから世界観も生まれない。
 世界観がないから、感動もしない。

 そういう人間には、価値観というものは、もともとないのだろうな。
 いつも自分以外のものに流されているのだろう。
 あるいは近場の金が手に入るかどうかが、一番の価値観なのだろう。

れんこん、こうこ、油炒め好き

 れんこんをときどき食べる。
 とくに魚を煮たときに一緒に入れて煮て。

 小さい、孫の方がおいしいんだよと母親が言っていたから、買うときはそれを選ぶ。
 薄く切って油で炒めたのも好きなのだが、なぜか面倒なので作らない。

 油炒めといえば、沢庵の油炒めもうまいが、これも作らない。
 今度どっちも作ってみようか。

CtoCというのがこれからのやり方

 俺がなぜ独立したかというと、そこらへんを歩いている、そこらへんをクルマを運転している、そこらへんの人間が嫌いで、そういう人間と付き合わないようにするためにはどうしたらいいかと考えたら、会社に勤めないことが一つの答えじゃないかと思ったからだ。

 だが独立しても、仕事を依頼してくれる人とは、お客さんとして付き合わなければ飯の食い上げなのだが、俺は嫌いな人間からお金をもらいたくなかったし、嫌いな人間にありがとうと言いたくなかったから、好きな人だけをお客さんにしようと思った。

 そのためには、はじめは俺みたいに自分で商売をしている人は、スジミチを分かっていて、自分を律していて、人にも配慮できる人だろうと思って、だから俺は世間で言うBtoBを、目指したのだ。

 しかし新潟市のBは、俺が付き合いたいと思う人間はほとんどいなかった。
 ちょっと考えたら当たり前だったな。
 コズルイ新潟市の人間が、そのままBになっていただけなのだから。

 そうして俺は、やむなくBtoCの分野にも出た。
 新潟市のCは、問い合わせから野獣のようだった。自分さえ良ければいいと思っている嘘が混じった物言い。
 だがそれは、考えてみれば当たり前だった。だってほとんどの新潟市のBも同じなのだから。
 新潟市のほとんどのCは、Bにもなれない、というかBをさえ志向しようとしないそこらへんの人間なのだから。そしてそれが新潟市民の当たり前のことだったのだから。いやもしかしたら、そもそも人間というのがそういうものかもしれないがな、ハハ。

 そうして俺は今は、CtoCというところに出たいと思っている。
 CtoCなんていう概念は世の中の誰も言っていないだろうが、個人が個人のために仕事をして、個人の商売相手に満足してもらうことで、個人の俺が、俺が好きな一人ずつ一人ずつのお客さんだけを幸せにすることで、その分量で、俺という個人がその分を潤わせてもらうという仕組み、というか考え方。

 BtoBやBtoCでは、これまでの商売の、偽装みたいな嘘の混じったやり方から抜け出せないだろう。
 仕事の結果の責任を含めて、ものごとの責任は、個人で負うのでない限り、その責任を意識することはできないだろう。

 それはCtoBでもいいのだが、組織を相手にしても、極限のところでは、その組織の中の誰か一人の人のために、それはそこの社長のためということになるのだろうが、その一人の人を幸せにすることを念じながら仕事をすると、よりいっそう責任を持って細かい配慮を持って仕事の結果を出せるのだろうと思うのだ。
 だからCtoBであっても、それはその中で、仕事の一瞬一瞬に、CtoCを意識しながら仕事をするべきなのである。

 だから個人が個人のために仕事をすることが、これからのやり方なんだと思っている。
 すくなくとも俺はそれを目指したいのだ。

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