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きのう医師ブログにコメントしたこと

 きのう久しぶりにお医者さんのブログにコメントした。初めてコメントするブログだった。そのブログの内容に共感していたから、ときどき読んでいたのだ。

 きのうは、昔のように、医者たちにこのブログを炎上させられた仕返しの意味を込めた、喧嘩を吹っかけるような、突き放すような書き方はしなかった。なぜならそのブログを書いているお医者さんは、おれがそのブログを読むかぎり、おれはその人の人間性に親しみを感じる人だったから。

 でも、たまたま昨日の記事の内容が、おれの信条に反していたから、批判のコメントをした。できるだけ喧嘩ごしにならないように書いた。だけど批判の内容は、曲げないように、ごまかさないように、書いた。自分の気持ちに正直に書いた。それが相手に対しても誠実なことだと思うから。
 おれはそのブログを書いているお医者さんに、いつかしゃべりかけたいと思っていた気持ちもあったのだと思う。

 そのお医者さんが書いたおれのコメントへの返答を読んだら、やっぱりその人は、気持ちのやさしい人だと思った。おれが勝手に思う、お医者さんに向いている人だと思った。たぶん年の若いお医者さんだと思う。まじめな人だと思う。
 だからそのお医者さんが、仕事人としても、生活人としても、もっともっとしあわせになってほしいと思う。

一般人が天皇みたいに医療を受けなければいいが

 いつものことだが、とくに今日は答えの出ないことを書く。
 今上天皇が心臓手術を受けたが、それは一般のそこらへんのどうでもいい年寄りたちが、われもわれもと、さらに高度医療を受けたがるような風潮になりはしないかと心配する。

 私は何度か書いているが、私は日本は天皇制はやめさせたいが、私は明仁天皇個人と美智子皇后個人を好きで尊敬しているから、明仁天皇、長生きしてください、と思っている。

 だけれど天皇という人が高度医療を受ければ、世間の一般ピープルの年寄りたちが、自分も高度医療を受けたいと思うだろう。
 世俗的な欲望にひたって生きてきたほとんどの日本人が、天皇がやっているんだから自分もああいう医療を受けたい、いや受けるべきだ、と思いこむのじゃないかと恐れるのだ。自分と自分の周囲のことしか考えないで生きてきた日本のほとんどの人間たちの、その年寄りたちが、自分も税金公金を使って、際限なく医者にかかる資格のある人間だと、勘違いをしやしないかと怖くなるのだ。

 二月十八日からこのことについて、三百六十度のいろんな方向から深く考えているのだけれど、答えは見つかっていない。

医者ブログへの喧嘩

 このあいだ久しぶりに、ある医者ブログに喧嘩コメントをした。
 私が書いた内容は、税金と公金をむさぼって世間並み以上の暮らしをしているくせに愚痴と生意気を書くな、ということと、自分の仕事(自分の商品)の値段を自分で決めない怠け心と、自分の仕事のユーザー(患者)を自分で見つけようとしない怠け心のくせに、自分本位の勝手なことを言うな、ということだ。

 そのコメントをする前に、仕事でまたある医者の客から理不尽なことをされたから、医者という人間への仕返しをしたかったという気持ちもある。
 そうしたらタイミングよく、卑怯で自分の側からの視点でしか書かないブログの内容だったから、喧嘩をふっかけたのだ。
 だがいつものように返答はなかった。

 クズな医者どもも医者どもだが、日本人は医者にかかりすぎるのだ。
 公的保険料を払っているのだから、かからなければ損だというセコイ根性なのだろうが、ちっとぐらいの風邪ですぐ医者がかりする。
 それはまんまと医者たちのワナにはまっているのが分からないのだから始末が悪い。
 医者も患者もどっちもどっちで、同じ泥棒根性なのだから救いようがない。

 解決策を書く。
 まず、患者の保険負担分は、3割にする。7割分は自分の財布から出せ。
 初診料を、どんな場合でも現金で10000円払う。この10000円は、健康保険の財政の中に入れる。
 そうやって、安易な受診を抑制させ、健康保険の財源を助ける。

 救急車は一回10000円を、患者から徴収する。
 これは自治体の財源に入れる。
 そうやって無駄に救急車が呼ばれることを減らし、少しでも公的医療費と自治体財源の助けにする。
 医者に自分勝手な愚痴を言わせないように、医者の無駄な医療作業を減らす効用もある。

 生活保護の人間は医者代がタダだそうだが、全部を税金から出すそうだが、だから金に糸目をつけずに濃厚な治療が横行しているそうだが、何を言っているんだ!
 そういう人間に対する治療行為は最低限にしろ。
 そういう人間は葬式代を税金で払ってもらえるだけ有難いと思え。
 言っておくが私は、金のあるなしで人の価値を測るような人間じゃない。それはこのブログを読めばわかることだ。
 何でもかんでもタダにしろ、安くしろ、自分がラクをして相手より儲かればいいという、そういう泥棒根性に腹が立つのだ。

 それから、医者は何か不祥事をしたら、すぐに医師免許を取り上げる。欠格期間は五年だ。
 自動車の運転免許だって、飲酒運転とかをすれば一発取り消しなのだ。
 医師免許を取り消されても、医者をしたかったらまた国家試験を受ければいいだけのことだ。
 また受からないということは、医者の仕事への意欲がないという簡単なことだ。

 医師免許を取り消されることまでいかないことをしても、すぐに公的保険医療の世界から出てもらう。
 そういう医者は、自分で自分の商品の値段を決めて、自分で集患して、自費の患者を診ればいいのだから。
 自分の仕事の腕が良ければ、患者は集まるだろうさ、ハハ。
 それこそが真っ当な職業人といえるのだから。
 そしてそれこそが、人体をメンテナンスする作業員という単なる医療作業員ではなく、トータルな仕事人としてのお医者さんといえるのだから。

 それからいつも言っていることだが、私が喧嘩コメントをするときは、必ずこのブログにリンクさせている。
 そうすれば私が誰かは分かるのだから。
 人様に批判がましいことを言うときは、自分の身元を明らかにするのが最低限のエチケットだからだ。
 乱暴で凶暴なダガシでも、自分の言動に責任を持つということが、喧嘩をふっかけるときの最低限の矜持だ。
 それが、卑怯な医者どもと俺が、違うところだ。

※追記
 2011.9.4.日曜、上で書いた医者ブログへ、二回目の喧嘩コメントをした。

これからは税金は、教育業界に使うことにダガシは決めた!

 100年に一度の未曾有の不景気だとかといってるけど、それは日本にとってチャンスだよ。
 明治維新に日本の仕組みがひっくりがえったし、昭和二十年の敗戦でもひっくりがえった。
 五、六十年ぐらいおきに、ひっくりがえると、良くなるみたいだから、チャンスだ。

 これまで税金は、道路に金そそげとか、医療に金そそげとか、介護に金そそげとか、雇用に金そそげとか言ってるけど、それみんな、間違いだ。

 金そそぐべきところは、教育だよ。

 教育といっても、校舎を耐震設備するとかじゃないよ。

 先生を増やして給料を上げて、そうして小学校と中学校を、ひと学級ニ十人くらいにして、良い先生から児童を学ばせることに税金を使うことにする。
 ダガシが決めた。

 といって今の先生の給料を上げるわけじゃないよ。

 今の先生の水準は、駄目だ。

 前にも書いたけど、介護業界を建て直すために金そそぐべきだけど、今の介護業界の人間は駄目な人間だらけだから、介護業界で働いている人間たちを総入れ替えしてから、給料を高めて、優秀な人間を呼び込む仕組みを作る。

 それと同じで、教育業界も、総入れ替えして、先生を募集する。
 先生の給料を高くして、人数を増やす。

 道路やハコモノ造るより、そして議員や公務員を減らせば、今の仕組みより、よっぽどコストは減らせる。

 もうすぐ死んでゆく人々や、もう要らない道や建物や、無駄に金喰う議員や公務員に税金は使わないで、これからの日本人をクリエイトするために、税金を使うことにダガシは決めた!
 もうすぐ死にゆく人々は、その中で心ある人々は、これからの世の中をしょって立つ人間を創るために、自分のことはいいいから、そっちの方に金を使ってくれ、と思うのじゃないのかな。
 僕だったら、そうしてくれと、思うから。

 そしてそのための細かい仕組みを、これから考えるよ。

 そりゃもちろん、学校教育より、学校に上がる前の育ちの方が大事だろうけどさ。
 でも育ちは、基本的人権に関することだから。
 育て方が悪い人間は子を産むな、と言えない辛さがあるからねえ。困りもんだよさ。

 そして、そういう困りもんの人間ほど、夜の台所に出る虫みたいに子を繁殖してるみたいだから、だから税金が無駄になるんだろうと、思うよ。

 でも教育業界がうまくいって、そうして日本が、暮らしやすく、良い意味の競争と協調がある世の中になれば、虫は、減るのだと、思うけどな。

今の日本は何百億円かの仕事の供給が過剰になっているって説もあるんだから、特殊な才能の要らない、そこらへんの人々の仕事の給料が安いのは当たり前じゃないのかな

 テレビで介護職の給料が安すぎると言ってたけど、介護業界で働いている人間どもの質の悪い仕事に高給を出すなんて、絶対駄目だよ。
 介護の現場で働いている人間の質を一回でも見てみたら、その経営者どもに接してみたら、反吐が出るほどズルくて、怠けたがっていて、年寄りを見下す人間ばっかりだと分かるさね。僕は何べんも何べんも見て接してきたんだから。

 だけど介護の仕事への報酬は、もう少しは高くはあるべきだと僕も思うけど、…今いる人間が高い報酬は、受けるべきじゃないよ。これは断言できるよ。

 総入れ替えするほど人間的に優秀な人たちが入ってくれば、そういう、客商売としても結果を出せる人が仕事するのならば、そういう人は高い給料をもらえるべきだと思うけど、今やっている人間をクビにしてから、そういう人間がいなくなってから、介護業界にお金入れるべきだよ。

 でも、総入れ替えしてから報酬額を上げるなんてことは無理なんだから、だって日々介護という作業を継続しなけりゃならないんだから、大勢を辞めさせて仕事をストップさせることなんて出来ないんだから、それに入ってきた人間に仕事を教える役目は、今いる駄目な人間がやらざるをえないんだから、だから総入れ替えなんてことは出来るわけがないんだから、このままの給料の体系でいかざるをえないのじゃないかな、と思うよ。

 駄目な人間を受け入れてしまった業界は、売上も上がらずに、無駄なコストも下がらずに、だから一人ひとりが得る報酬も上がらずに、そして駄目な人間がウジャウジャいるから、その業界の報酬を上げさせてもよいと、世論からも認められない業界になってしまって、だからもうそのまま駄目な業界になってしまうんだな、と僕は介護の業界で働いてみて分かったことだよ。

 そうして、介護費用や医療費をジャブジャブ消費しながら呼吸だけしていて(しかも自分の財布からは、その費用をほとんど出さずに)、個人の人生として、お年寄りその人自身の自分の人生に対してさえも、何も生み出すことをしない人生を続けることが、それを肯定できるのかどうかということも考えようとせずに、僕も含めて、先送りさきおくりしている今の世の中の人々が作る世論は、ふだんテレビや新聞や何かで大っぴらに言っている耳障りのいいこととは違って、たぶん本音は、世の中の無意識は、介護業界には(ついでに医療業界にも)お金は行かせないでもいいと、思ってると、思うよ。

 そしてコズルイ駄目な人間がウジャウジャいる業界というのは、今の政治にも行政にも、建設とか土地建物業界とか、他にもいろんな業界に当てはまるんだと思うよ。
 それはもしかして、日本という国全体自体が、そういう病理みたいなのをかかえてるんじゃないだろか、…そうかもしれないな、と思ってる。

昔と今の生まれ変わりの頻度

 僕のおおむかしの先祖のひとりだろう新潟県の水呑み百姓の暮らしは、今の僕から見たら日々退屈な同じ事の繰り返しだったんだろうなと思うよ。

 朝起きて、そのまま田んぼ仕事をやりに行くついでに、近くの小川に水を飲み行って、そこで顔を洗って、田の草取りなんかをしてから、帰ってきて昨日と同じおとといと同じ、毎日同じおかずでご飯をちょっと食べて、そしてすこし休んでからまた田んぼに行って仕事をして、帰りがけに小川でフナなんかを獲ったり、畑や山から菜や山菜を採ったりして帰ってきて、そうして着替えなんかもないだろうから寝て起きて着ていたものを着っぱなしで、そうして何日かおきにしか風呂というものには入らないで、煙草などというものは想像の範囲外で、酒というものは季節の変わり目にちょっと飲むぐらいのもので、毎日毎日、陽が出れば朝起きて、陽が沈めば夜寝るという生活をおくっていたんだろうなと、きっとそうだろうなと、思うんだ。

 それにくらべれば今の僕の生活の中には、テレビや雑誌や本やインターネットなどというものもあって、僕の脳を刺激するものがいろんな方向からこれでもかとあって、そして夏暑ければエアコンから冷気が送り出されてくるし、冬寒ければストーブがガンガンと燃えて暖ったかい部屋の中で半袖でも過ごせるようにしてくれてるし、毎晩のように酒が安価に買い求められるようになっていて、おかずも牛豚鶏肉そして魚と、好きな肉類魚介類を摂取することが当たり前になっていて、ベッドなどというマットレスという腰が痛くなるぐらいふかふかの寝床に毎晩寝そべられることできて、好きなときに好きなところにいける自動車を所有してガソリンという石油を燃やして好きな場所に行けるのだし、用事があれば電話だのメールだので何キロも何十キロも何百キロも離れた人と用事が足せるし、なにより、好きなときに清潔な水を飲めるし、好きなときに熱いお湯を用意して、その頃なら世の中にあることさえ知らないだろうお茶やコーヒーなどを楽しめるのだし、大昔なら存在しない石鹸というものがあって、風呂にも毎日入ったり朝もシャワーを浴びて身体を清潔にたもち、健康にも留意できる環境に恵まれているんだなあ、だから死ぬなんていうことは、毎日生きてる中の意識の範囲外なんだな、とときどき思うよ。

 昔の人は、生きることも死ぬことも一緒くたに考えて、年に一回か二回のお祭りというものを作って、ふだんみられない芸をする人間をよんで、いや自分でも唄ったり踊ったり仮装したりして生や死をイメージしたり、そしてそのときだけ酒というものを飲んで頭の神経をそのときだけくるわせて、日常の自分をそのときだけ、新しく生まれ変わらせていたのじゃないのかな、と思うんだ。

 ということは今の僕らは、毎日石鹸で顔を洗えることでさえ、それで毎日が自分自身を生まれ変わらせてもらえてるのかな、自分自身を新しく見るキッカケを持たせてもらえてるのかな、とありがたいと思わなきゃならんのかな、とふと思ったりするんだな、ときどきさ。

遅い厄年はワインディングロード

 ダガシも四十六なんだ。
 若い若いと思ってたし、俺はいつ歳を取るんだろ、と自分でも不思議だったけど、確実に人生の半分は過ぎてるな、と分かってきてる。
 なぜならば、自分の身体の動きが、前の身体と違うこと、分かるから。

 それは、膝が笑うようになったし、股関節の動きが鈍くなったのが自覚できてるし、近眼なのにいつのまにか書類を持つ手を眼から遠ざけて見てる。風呂場の鏡を見ると、額のシワが一本増えてるし、そうして色んな欲望が、薄くなった自覚あるんだ、ハハ。

 厄年っていうのに僕は無縁だったから、今ごろ世間でいう四十二の変わり目を迎えてるのかな、と思ってるよ。

 ダガシさんは厄年に何も病気しなかったんですね、良かったですね、と何人もの人から言われたけど、そのときは傲慢にも俺は特別だ当たり前だと思ってたけど、人生は順番に、来るものが来るんだと、最近の身体の変化で、分かる気がするよ。

 僕は四十三のときから徹夜はしてないな。それはもう夜どうし何かに集中するのは、できなくなってる自覚があるから。
 だからお医者さんが当直というのをして、そのまま日勤になだれ込む仕事の仕方は、最高で四十五ぐらいまでしかやっちゃいけない、仕事の仕方だと思うよ。僕にはもう、そういう仕事振りは、真似できないもん。

 そして、あれだけ運動神経いいと自分でも恐いくらいだったし、身体が動く分だけ、肉体的な争いにも積極的な気持ち持ってて、事に当たってきたけど、最近は、争うことに、一歩引いてる自分を発見することもあるんだな。
 それは善悪とはまた別の次元の、来るものの順番が来たのかな、と思ってるんだ。

 そしてこれは、母さんも父さんも、通ってきた道なんだろなと、そして誰もが、ソクラテスも、丸山健二も、豊臣秀吉も徳川家康も(もしかして織田信長や太宰は、この時期を感じる前に死んだのかもな…と思うけど)、そういう人たちも、自覚して過ぎてきた道なんだろな、と思ってる。

 そしてこれからもうちょっとたったら、この峠を過ぎて、また新しい僕と、僕のまわりの環境の変化を、嬉しく感じる自分を感じることできると、特に根拠もなく、楽天主義のダガシは思ってるよ。

 だって母さんも父さんもソクラテスも丸山健二も秀吉も家康も、そしてたぶん太宰も信長も、みんな通ってきた道程なんだと、思ってるからさね。

 この曲がり道を、いろんな意味で楽しみながら、慎重にコーナリングするよ。

拉致された人を助けてくるには浮世離れしたこともひとつ

 北朝鮮に拉致された人たちのために何の行動もしてない僕が、言える立場じゃないことを分かっていつつ書くけど、北朝鮮に、圧力するばっかりじゃ、ものごと展開しないのじゃないだろうかな、と思うんだけどさ。

 僕は気短かで生意気で一本気な人間だけど、何かあるとすぐ、「あ、ごめんなさい」と謝る癖もある。
 それは告白すると、先に謝っておけばこっちの立場が悪くならないだろう、という打算の計算があるからだよ。
 そして本当にこちらに非があったとしたら、すぐに謝ることが、大切と思うからだよ。

 もし相手のほうに非があるのなら、こちらが先に謝っても、最後には非がある相手のほうに責任取らせればいいわけだしさ。
 謝るのなんか僕、いくらでも謝ることできる人間だもんさ。
 昔からダガシは、アタマの下げ比べじゃあ、大概の人には負けない自信あったもんね、ハハ。

 それで北朝鮮にもね、まあ、アタマ下げて、というかアタマはそんなには下げなくてもいいから、ちょっとばかりの何か手助けの手を差し伸べて、そうして恩を着せても、まあ、いいのじゃないのかな、そこから何か新しい展開が始まるのじゃないのかな…、と思っているのだよさ。

 拉致のことで今まで、色んなことで汚らしく騙してきたのは北朝鮮なのだから、貸しがあるのは日本なのだから、一旦、何かで北朝鮮を助けて、恩を着せて、それで恩着せがましくしないで挨拶したら、もしかしたら拉致された人たちを返してくれるのじゃないのかな、と思うダガシは浮世離れしすぎてるかなあ、子供の考え方かなあ…。

 そしてそれでも、それでも相手が理不尽なことを、不正直なことを言ってきたら…、そうなったら気短かで一本気なダガシは、許さねえぞ。
 どうなるか分かってるだろなあ? と脅すだろうなあ。
 いや脅すなんて生易しいことはしないよ、黙ってすぐ行動を実行するだろうなあ。
 腕力で実行するだろうなあ。

 具体的には、さらわれたんだから、言い訳なんか聞かずに有無を言わさずに相手の所に乗り込むだろうだなあ(腕力と体力を使ってだよ。それはもっと具体的に言えば自衛隊でだよ)。
 そうして国じゅうをしらみつぶしに探すだろうなあ。
 なぜなら、卑怯にも一般人をさらっていったんだから、非は、向こうにあるのだからさ。
 アメリカなら、そうするのじゃないかな? イラクでの事を見れば、さ。僕はアメリカは好きでも嫌いでもないけど、見習うべき点は見習うべきと、思う。

 そのぐらいの覚悟で、事にあたることが、ものごとを展開させる方法じゃなかろうかと思うのだけど、でも拉致のことはダガシは当事者じゃないから、お前は本当に先頭に立って自衛隊と一緒に鉄砲持って乗り込めるか? と問われれば、正直、「はい」と言えない恥ずかしさがあります。申し訳ありませんん。
 いや、
 でも、もしかしたら、やるかな、とも思う自分もいるのだよさ。
 揺れてるんだよさ。

 だけどそして、その腕力に訴えたとして、僕の思ってる結果が出るかな、と心配もする。
 それはいわゆる、戦争ってことだから、相手の国の兵士も自分の国の兵士も、殺すことになるから、その家族を悲しませることになるから、もしかしたら戦争に関係ない人々も傷つけることになるから、自分の国が拉致をやったなんてこと知らない人々を、悲しませることになるから。そうして、僕自身も、死ぬことに、なる…。

 それに、北朝鮮がもっともっと、いこじになるだけかもしれないから。

 ああ、どうすれば…、いいのかなあ。
 わからない。わからないんだよ。

      ※

 三日後の二十二日の夜のいま書き足すけど、
 なぜ三日も新しいの書かないで、ここに書き足すかというと、
 この記事をしばらく一番上に置いておきたいから。
 それはこの記事を、今の僕の行動のメタファーとして出しておきたいから(しゃらくさいカタカナ語と七面倒臭い人様を惑わすような語彙は極力使わない約束だけど、たまには使わせてもらいますね、ゴメン)。

 去年の春に、このブログが、インターネットで小汚く遊んでる医者たちに炎上させられたのの、今、仕返しをしてる。
 炎上のキッカケみたいに、ここのアドレスを汚らしい言葉の悪口と一緒に面白半分に出した医者がいたから、その医者ブログに。
 闘いだと、思ってる。
 いくつかあるから、一つずつ、倒してゆこうと、思ってる。
 この記事は、その行動指針みたいなものかな、ハハ。

 いちおう断っておくけど、もちろん普通以上の人格のお医者さんのブログもいっぱいあるし、読んで楽しいお医者さんのブログも、いっぱいあるよ。

 そしてこの記事の内容は、北朝鮮には圧力ばっかりじゃものごと進展しないよなんて国家の政策に生意気口きくのは、拉致の被害者の人たちに迷惑かけるかな、とちょっと思ってて、一月ぐらい書くのをためらってたんだけど、何か新しい展開のキッカケになってくれないかなと思って、書いた。
 だって僕だって、拉致された人たちが、ちょっとでも早く帰ってきてほしいと思ってるし、北朝鮮の一般の人たちも、もっと暮らしやすくなればいいなと、思ってるから。

 どっちの闘いも、すぐ結果が出ないのかもしれないけど、気短かダガシだけど少し気長に。

『廃用身』という本読んだら

20080709151835
 最初の一ページめ読みはじめたら、こんな文章でこの人だいじょうぶなのか? 幻冬社もよくこういう子供の日記みたいなのを出したなあ、もうすぐつぶれるんじゃねえだろかと思ったし、文体も比喩も中学生レベルだし、あちこち矛盾したところが出てくるし、だから何度読みはじめてもニページも続けて読めずに放ったらかして二ヶ月たったんだけど、そろそろ図書館に返さないとまた電話かかってきて早く返せと言われて、そうすると図書館のだらだらしてる職員たちに、怒鳴ったり叱りつけたりのいつもの僕の生意気発言ができなくなるから覚悟して読み出したよ、ハハ。

 そうしたら、夏休みの宿題みたいな日記と下手な評論が混ざったような文体も、それは仕掛けだったんだね(その仕掛けはあえて書かないけどさ)。この作者は頭いいなあ! と思った。
 でもそれが分かる三分の一まではイライラしながら我慢しながら読んだから、何度本をぶん投げようと思ったかしれない。

 ダガシは私小説しか読みたくない人間だから、最初から150ページくらいまでの、コウシャクがかってしかも神経が行き渡ってないような文章は読んでると苦痛なんだ。それにそういうコウシャク小説を軽蔑してしまうし、そういう文を書く人間も軽蔑してしまうから、ハナシの中に入り込めないんだ。

 でもね、『廃用身』は最終的には私小説なんだと思ったよ。最後のほうの五分の一くらいから、三人称で自分のことを語っているなあ、と分かったよ。
 150ページ過ぎたあたりで語り手が代わって文体が変わって、作者の仕掛けが分かってから、読みやすくなったしさ。
 ただね、感情移入できる登場人物がいなくて(それはたいがい主人公だけど)、やっぱりホンキにはこの小説の世界観には入り込めなかったな。
 そしてこの小説は、僕の嫌いな精神分析小説と探偵小説が混ざったようなものでもあるんだ。プロットと伏線があざとい感じしたしさ。それが臭みを感じたよ。

 でも今までにない新しいもんだと思う。
 読んでよかったよ。
 この久坂部羊というヘンな名前の人は、頭いいと思うし、(とくに処女作で)私小説書いてるわけだし、お医者さんだけど、作家と名乗ってもいい人だと思ったな。

 そうして、この本を読んでよかったと思った一番の理由は、始めは嫌々読んでたけど、読み終わって、新しい世界を見ることできて良かったなあと思えて、…だからものごとは最後までやってみなけりゃ、見てみなけりゃ、その良さは感じ取ること出来ないこともあるんだ、と知ったことだな。
 気短かなダガシにそれを分からせてくれた久坂部羊という作家には僕、感謝するよ。

 実は僕、半年前に、この人の新書を二冊読んでてね、タイトルは忘れたけど、中身は医療のことで僕が普段考えてることと似てるなあ、と思った。
 そしてね、驚いたんだけど僕がブログに書いてる言葉を、この人も自分の本で書いてるんだ。「親方日の丸」とか、「…かきくけこ(さしすせそ)」とかさ。他にも俺が使ってる語彙を使っていやがる! と思ったけど、この人のほうが時間的に先に書いてるんだよね。…こういう事もあるんだなあ、と思いました。

 写真に撮ってるもう一つの本は一緒に図書館から借りたんだけど、あんまり長くて、それに僕の興味の範囲外だから、申し訳ないけど読みません。
 新書みたいな短くて、小説じゃない本が出たら、また読むよ。

自分が生き長らえるコストと、自分が生き永らえる意味を、考えること大事じゃないのかな

 さっき偶然教育テレビ観たら北海道の夕張市の医療のことやってた。
 どうしようもないと思ったよ。
 そこの住民も、医者も。
 どっちも、自分の生きてるコストは、天から降ってくると無意識に思ってるのがありありに分かる。

 結論から言うと、自分は、これからまだ生きてて、世間も自分も、幸せになるんだろうか幸せにさせられるんだろうか、とちょっとでも思ったことあるんだろうか、と訊いてみたいよ。

 その問いで自問自答して、悩んで悩んでのた打ち回って、鬱になって、逆に躁になって、心も体も傷ついて、…それで出した答えが、ジャブジャブ医療費使って、税金使って、呼吸を永らえるのならば、ダガシは文句言わないんだけど、…そうじゃ、ないだろう?

 テレビに出てた人間たちは、医者も患者も市民も、死ぬことが悪いことだと思ってる奴らばっかりだから、善悪を決め付けたがる人間ばっかりだから、だから、自分が「無駄」に生き長らえているコストが、これから先の人たちに負担かけることになることを、想像しないんだろなあ、と思った。
 自分の好きな事する場合は、その費用は自分の財布から出すことが、人間としてのエチケットだろうにさ。
          ※
 次の日に追加で書くけど、夕張の、あのお医者の行動力は僕、尊敬しているよ。
 よし俺がやってやる! と決心してリスクを負って、一人で突っ込んでいったんだろからさ。

 ただね、テレビで言ってた暖房費を市役所に出せ出せというのはゲンナリするんだ。
 寒かったら一枚よけいに着ればいいじゃねえか、一枚よけいに布団かければいいじゃねえか、それでも寒いなら一部屋に何人も居るようにして人間の熱で暖ったまればいいじゃねえか、ダンボールか板か布か何かで壁や窓を断熱すればいいじゃねえか、…それでも寒いならば…、我慢すればいいじゃねえか、と思ったんだ。基本的に我慢が足りないのじゃねえのか? とね(お金かけないで工夫すれば、まだまだやれる事はいっぱいあるだろうさね)。
 昔は、子供のころは、その場所はもっと寒かったはずだろし、その寒さの中で、その頃の人々は、入院も治療も、そして日々暮らしていて、そして寿命が来れば、死んでいったのだろからさね。

嘘をつく医者は、隠す医者は、人間として免許返してもらうぜ

 こないだ患者を死なせた整形外科の医者のことやってるテレビをさっき観た。
 その医者の薄ら笑いの顔。
 次の日の似非涙(泣き顔してるのに涙出てないぜ)。

 そのこと書いてる医者ブログ、ないんだな。
 自分の業界の不始末を何とかしようと発言しないんだから、たいがいの医者って、自分の業界と自分の既得権益を守ろうとすること、土建屋や小役人や政治家やマスコミなんかと一緒なんだなと分かったよ。

 医師免許は国家資格なんだから、ダガシも国民の一人なんだから、国民の一人ということは国家をかたちづくっている要素の一つなんだから、ダガシが、ああいう人間の医者の免許を取り消すよ。

 嘘つきや自分の間違いを隠す人間は、命にかかわる仕事は、させない。

自殺ってのも安楽死ってのも、マナーと、そして矜持がいるぜ

 さっきNHKで安楽死の事やってて偶然観た。
 僕、安楽死や自殺は、その人の最終的な権利だと思ってる。
 だけどその権利を行使するのは、人様に迷惑を掛けない範囲でで、と思ってる。
 ということは最近世間でやってる人がいる酸性とアルカリ性混ぜて出させるガスで自殺するのは、人間としての生きるエチケットとして、というか死ぬエチケットとして、違反だよ。
 なぜなら、近所にガスが行って、近所の人の健康…というか生き死ににさえ影響させるからね(といって、死ぬ人間に、何言っても聞分け持ってもらえるかというと、難しいだろけどさ。これも困りもんだよ)。

 ところで安楽死には、お医者さんが関わらなけりゃ出来ないものなんだろかな。
 僕がお医者さんなら、人を死なせる手伝いはしたくないよ。いや医者じゃなくても、したくないよ。
 人を生かせること商売にしてる職の医師って人たちが、安楽死を肯定するわけもないと思うしさね。
 だから、安楽死の議論に、お医者さんたちを混ぜても、結論は出ないろうさねね。
 安楽死するのって、お医者さんの手を借りなきゃ出来ないのかな。…そんなことないろう。
 今はインターネットでも何でも、情報はいろいろあるだろからね。

 でも何べんも言うけど、人様に迷惑かけない範囲で、自殺するのが、人間としてのスジミチだよ。
 それは、絶対だよ。
 これは、これから自分で死のうとする人に、言いたい。これはホント、絶対だぜ。人に迷惑は、掛けるな!

 そうして、僕が思ってる人間としての尊厳ある自殺は、餓死、だろうと思う。
 身のまわりを整理したあとで、山奥の誰も来ない場所に行って、岩に座布団か何か敷いて枕にして、そこに寝転んで、食べないで我慢して、飲まないで我慢して、過ごせば、一週間ぐらいで、朦朧として、そのまま朦朧としたまま、死ねるのじゃないのかな、と(やったことないから分からないけど)思うんだよ。

 でも、飲まず喰わずじゃ、苦しいだろな。
 でも、その苦しさを乗り越えられる人だけが、尊厳ある自殺ってのを、できる人なんだろな、と思うよ。
 その苦しさを乗り越えられない人間は、カッコワルクても、カッコワルク生きつづけなきゃ、ならんろうな。

払いたくないんなら益を受けない覚悟必要ら

 世間の人は、後期高齢者医療保険ってのの、呼び方をいかんいかんなんて言ってるけど、呼び方なんてどうでもいいじゃないか、と思うんだけどねえ。

 何でもさ、その本質は何か? ということを、まず考えなきゃならんろうにさ。
 その、本質を見極めることをホッタラカシて、目をつぶって、表面のウワッツラの、どうでもいいこと瑣末なことを喋ってる。…ヒマだなあ、と思うよ。
 といって、この保険制度のことだけじゃなくて、世の中の人は、世の中の何にでも、本質を考えることをホッポラカシテおいて、ウワッツラの話しかしないこと多いんだけどね。
 どうしてかというと、そのほうが、簡単でラクだからさね。
 何でも安易にラクを求めようとする。
 ということは世の中の人のほとんどは、ズルくて怠け者だと、いうことらよ。…これ、真理だね(ダガシも含めてね、ハハ)。

 さて、後期高齢者医療制度のことは、こないだ書いたから簡単におさらいすると、医者にかかりたければ金を払え、金を払いたくなければ医者にかかるな、ということだよ。…これも真理だねえ。
 個人にも社会にも国にも、お金がないのに、世の中の人々が、自分は医者にかかりたい、もっと診てもらいたい、もっと治療してもらいたい、いつでもしてもらいたい、もっともっと贅沢な機械あててもらって沢山のクスリ飲みたい、なんて言ってれば…、これじゃあ、もし仮に世の中に、いくらお金が余ってたとしても、お医者さんが余ってたとしても、いつまでたっても足りないろうね。

 じゃあどうすればいいかというと、今みたいに、世の中の人たちが、医者に沢山かからなきゃいいんだよ。
 掛からせないようにするための仕組みは色々あるだろうさ。それを実行すればいい。
 そうして、お医者に掛からずに、人々は、何をどうすればいいか…。自分の生き死に対して、毎日何か考えつづけてれば、何かしらの答えが見つかるろうさ。
 医者に掛かることだけが人生の仕事みたいに生きてる人が多すぎるんだ。自分の病気のことしか頭にない人が。まるで病院に行くのがレジャーみたいな人も、大勢いるよ。

 もちろん、保険料が年金から天引きになってるのなら、年金が少なくて生きるのにやっとの人には、何かで補てんすることは必要だろうけどさ。でも、そういう人も、いっぱい医者通いをするのは控えてもらいたいよ。

 そしてね、サービスを受けたり益を受けたら、その対価を支払うのは人間としてのスジミチだよ。
 それをしないのなら、泥棒だよ。
 だから、保険制度の名前がどうのこうの、呼び方が気にくわないなんて言って、自分と自分のやってることを自分に誤魔化してる人々は、…奴隷か家畜に似てるんじゃないかと、思うんだけどねえ。

 それは医療関係者にも大勢いるよ。
 何かあれば、何とかの一つおぼえみたいに、日本の医療費を増やすべきだと言う人たち。
 それは自分の関わっている事が、医療の業界が、膨らめばそれでいい。それが自分の生きがいだ、やりがいだ。社会がどうの人間としての生き方がどうのなんて二の次だ。俺がいる分野が発展すれば、それでいいんだ、嬉しいんだと。
 そして単なる呼吸を長引かせるというナガイキが、人生の、唯一の、絶対の、幸せなんだ。なぜなら、呼吸するだけなら、考える必要がないからラクだから。っていう怠け者であり自分勝手である自分の中の無意識を、自覚してない医療者たちが大勢ね。

 まてよ、いまテレビで、この後期高齢者…の呼び方がどうのこうのと騒いでるのは、もしかしたら、その中身をはぐらかそうとするために、政府のコズルイ公務員が、姑息に考えついて、テレビにやらせてるのかな、と思ったよ。

 まあ、どっちにしろ、益を受けたら、その対価を払う。
 対価を払いたくなければ益を受けないようにする。
 少なくとも、保険料や税金を払いたくないなら、公的なところからは最低限の益しか受けないぞ、というぐらいの覚悟が、世の中の人々には、必要だと、思うんだけどさねえ。

 追加だけど、そうするためには、公的なところは清潔に、そして最小限の小ささにしておくことが、絶対条件だよ(ブクブクに太って腐ってる公的機関ばっかりだから)。…でもこれも、難しいだろけどねえ。だって人々が奴隷や家畜に似てたら、自分の親方は大きな存在になっててほしがるからねえ。もっと大きく、もっと、もっとと、できるだけ大きな、(人々の幻想の集合体である)親方日の丸に、頼りたがるだろからねえ。

なぜ仕事、という答えはまだ見つけてないのだけど

 世の中で、名ばかり管理職ってのを批判してる風潮だけど、身体が持たないと感じたら、その仕事を辞めるべきだろうにさ。
 辞めない理由は結局のところは究極のところは、自分が可愛いからだろうにさ。
 だってテレビでコンビニの店長で名ばかり管理職だった人が言ってたもん。この正社員の職を辞めたら、またフリーターに戻ることになってしまうって。それが嫌だったと。
 正社員なんてものにこだわるから、その面子というか幻想の安定性というかにこだわるから、自分の身体と心の健康管理も何も見えなくなってしまうのにさ。
 それって、思考停止だよさ。

 去年の春、小児科のお医者さんが仕事が忙しいっていう理由で自殺したことで僕、嫌なら辞めるべきだ、辞める権利はあるし、辞める義務もあるんだということ書いて、お医者さんたちからのコメントでこのブログが炎上したけど、そのときあるお医者さんから教えられたのは、そういう辛い環境で鬱病になってしまったら、辞めることにも思いが及ばなくなるってことだったな。

 ただね、鬱病になりやすい人は、その人自身の体質が大きいと思うよ。あるいはその人のものの考え方が、鬱になりやすいのだと思うよ。
 なぜダガシがそう思うかというと、それは僕自身がクヨクヨしがちな人間だからさ。僕自身が、鬱になりやすいという自覚があるからさ、ハハ。
 だから、今俺は鬱になりかけてるかな、と思ったら、すぐさま気分転換しようとするし、身体を休めようとする。
 もちろん仕事の中では手が離せないこともあるけど、時間と気持ちをやりくりして、必ず、今とは別の考え方というか視点を、取り入れようとするよ。

 そういう、今と別の視点からの想いを、名ばかり管理職になっている人々も、持つべきじゃないのかな、と思うんだけどね。
 そのためには、自分の今までの何かと、自分の現在の何かと、自分のこれからの何かの、その中のあるいくつかを、良い意味で、諦めることが、大事だと思うんだよ。

 それと、名ばかり管理職として、人を安く働かせようとする人は、昔から大勢いただろうし、これからも減らないと思う。なぜなら、人間はほとんどの人間は、自分だけが可愛いから。

 それを批判できる人間は、自分が経営者になったとしても、絶対に人を安く使おうとはしないと、自分に誓っている人に限られるだろうさね。
 だけど当たり前だけど、人件費を沢山使っても、経営を成り立たさなけりゃならないんだから、その矛盾するような事をやらなきゃならないんだから、口ばっかりじゃ駄目なんだよ。
 人には給料を高く払いたい、と自分が言った事の結果を出さなきゃならんのだよさ。少なくとも結果を出そうとしなけりゃならんのだよさね。

 だけど、そういう珍しい事ができる人は、世の中の…そうだなあ、十万人に一人ぐらいの割合だろうなあ。旧新潟市の人口が五十万人だから、そのうちの五人だね、ハハ。
 そうしてダガシも、その五人の中の一人だよ。

 だって僕、独立したばっかりの頃、お客さんから受けた仕事で手が足りない時に、他の掃除屋さんに手伝い頼んだんだけど、三十人ぐらいは頼んだんだけど、そういう時は、僕の取り分よりも、手伝いに来てくれた人へ支払う金額の方が多かったもんさ。
 なぜなら、安い金額でしか仕事できない人間って、やっぱりそれなりの仕事しか出来ないと思ってるから。出すものは高く出して、そして仕事で出すべき結果を出してもらおうと、思ってたから。
 でもさ、僕よりお金を高く払ってる人でも、仕事の結果を出してくれた人は居なかったし、結果を出そうとしてくれた、一生懸命さが見えた人も、今まで二人しか居なかったんだけどさ(その二人のひとは掃除屋さんじゃなくて、大学四年生と主婦のひとだった。ということは、掃除屋さんって人間のレベルは…? ハハ、愚痴だね、馬鹿だね)。

 だから、自分が安く使われていると思ったら、そうしてそれが少しでもチラッとでも思った時点で、これは自分という人間に、今の自分の能力に、いや自分が出した結果に、見合ってる仕事なんだろうか、と疑ってみることが大事だろうさねえ。
 でもたぶん世の中の人にとって、その大概の人の仕事は、その人にとって給料もらいすぎの仕事だと、思うけどねえ、ハハ。

 そうして、なぜ仕事するのかな、と考えてみることも大事だろうねえ…。多分それが一番大事なことじゃないろかな。
 そしてその答えは僕も、まだ見つけてないのだけどさ。

ちゃんと自分自身の死に方を、ちゃんと考える人を好きだよ

75歳より生きたら医者にかかるのは、患者本人にいっぱい金かかるよという制度に、政治家たちが特に野党の政治家たちが、そしてテレビ関係者たちが、面白半分に批判してるけど、
 じゃあ、誰が金出すの? と問われたら、誰も返答できないだろうにさね。

 それよりもさ、
 年取ってさ、まだ医療費ジャブジャブ使って、からだじゅうにパイプつながれて、人工呼吸器つながれて、半分意識ないのに、世の中に貢献してないのに、世間に自分の知識技術伝えてないのに、そうして伝えるべき技術知識も、伝えるべき生きるための哲学も、そしてまた、伝えるべき死ぬための哲学も、ないのにさ…。

 まわりの人間も、自分も、いつまでこのままこの状態のまま呼吸しつづけるのか分からないまま呼吸しつづけて、若い者が怪我や治る病気で医者にかかろうとしても掛かる医者病院がないのに、ベッド占領している、この事実…。

 僕は、地球上の生き物の、健康的な地球の生き物の生き方は、今の日本の人々の生き方じゃあないと、思ってるよ。
 年取ったらさ、自分の死に方を想う、いつかは死ぬ生き物としての、自分の生き方を想う、そういう生き方が…、真っ当な地球の生き物としての、行き方だと、思うんだけどさ。

 なのに、75歳過ぎても、まだ、たっぷりと医療を使いたがる、医者に掛かりたがる、自分の生き物としての死に方を考えずに、いつまでも生きたい生きたいと、死にたくない死にたくないと、浅はかな生き方続けたがる、そういう生き方続けたがる日本の人々には分からないだろうなあ(…それはきちんと、ちゃんと、それまで生きてこなかったんだろうな、自分自身にふさわしい死に方を、自分自身で考えて生きてこなかったんだろうな、と思うよ)。

 でももちろん僕は、健康なお年寄りに、あえて早く死ねと言ってるわけじゃないよ。
 そして事務的に75という数字で区切ることは、ナンセンスだとも思ってる。

 だからこの法律は、75じゃあなくて、この法律は60でもいいと、ダガシは思ってしまうんだけど、そう言うと、またかえって叩かれるんだろうなあ。

医療業界ってば分裂病的で

 病院に看護助手で勤めて思ったのは、看護婦さんってチンピラみたいな人間が多いなあ、ということだったよ。
 患者をイジメることで、そして自分の後輩や下の立場の人を虐めることで、自分の何かのコンプレックスをすりかえてなぐさめてるように、思えたな。
 だからダガシは看護婦嫌いになったし、オンナギライが加速したんだけどさ、ハハ。

 そしてその時はお医者さんとはあんまり接しなかったけど思ったのは、お医者と、かすかに喋ったり顔つきや仕事ぶりを見たかぎりでは、医者って、チンピラもいるし、逆に(愛すべき)ハクチ的な一生懸命さ持ってる聖人君子のような人もいるなあ、と思ったよ。…それは岸田秀的に言えば、個人の統合失調症(分裂病)的な感じを、医療の業界全体として、そういう分裂病的なものを持ってるなあ、と思った。

 そういうこと、お医者さんたちは、自覚してるんだろうかとも、思った。
 まあ、自覚してると、期待したいよ。
 でもさ、そういう普通じゃない精神持ってるから、人の生き死にに関わる苦しい現場でも、結果出しやるぞ、俺は、やってやるぞ、と良い結果出そうとするんだろな、と思うんだけどね。

 そして看護婦さんの中でも、チンピラだけじゃなくて、聖人君子の女性もいたから、看護婦さん全体としても分裂病的な感じ持ってると僕は思ったけど、それはお医者さん達と同じで、いや、ある意味で世の中の、仕事に打ち込んでる人々は全ての人が、分裂病的なものを持ってるんだろかもしれないな、と思ったよ(ダガシも含めてね)。

 そうしてね、分裂病的なものを持ってるのは、いわゆる聖職、といわれるショクギョウの人に多いように見えるよ。お医者さん、看護婦さん、学校の先生、警察官、介護福祉の業界の人たち…。

 それはそういう人は、仕事してて、幸せかどうかというと…。まあ、幸せの定義は、そういう人にとっては、幸せの中に、いろんな苦しみが含まれてないと、幸せと感じないんだろな、と思うね、ダガシと同んなじでね。
 それは、ある意味でマゾだかららろうからね。
 そういう人は可哀相だね。
 でも僕は、そういう人に、共感してしまうんだけどねえ、ハハ。

医者を増やすより医者に掛からなくすれば、医師不足は解消するこんぽん

 医者不足医師不足と世間で言われてるけど、じゃあ、医師を増やせば事足りるというわけじゃあないんだと思うよ。
 だって、いくらお医者さんを増やしてもさ、それ以上に人々が医者に掛かりたがれば、お医者さんがいくら増えても増えても、もっともっとと言うだろうさね。
 人間って欲望って、もっともっとと、いつも言うもんねえ。

 じゃあどうすればいいかというと、簡単なことだよ。
 医者に掛かるのを減らせばいいのだよさ。
 よっぽどの事でなけりゃ、医者や病院に行くなんてことは、しないことにすれば、お医者のほうも診てもらうほうも、すんなりうまくいくだろうにさね。

 僕、小学校四年生だったかな、冬、風邪ひいて、どうしてかその年の風邪は熱が出てさ、おかしいなおかしいな苦しいな苦しいな、頭がボーっとするな、初めての感覚だなと思って、夕方だったかな、学校から帰ってきて、普段使わない体温計なんてものを薬箱から引っぱり出してわきの下にはさんだ。
 しばらくしてもういいだろうと思って見てみたら、あれ、いつもより体温計の赤い棒がやけに長いな、と思いながらよく見たら、赤い先端が39と40の目盛りのあいだにあったのをよく憶えてるよ。

 どこかで聞いたことはあったけど、ああ体温ってのは39度までも上がるものなんだなあ、僕の体もそうだったんだなあ…、とボウッとしながら自分の身体を珍しいもののように何故か嬉しく思ったのを、これまたよく憶えてるよ、ハハ。

 そんな熱でも、お医者に行こうとはどうしてか思わなかったな。
 医者に行くということ自体、僕の考えの中に、あの頃からなかったからだろね。それだけ医者に掛かるという事がよっぽどの時のことだけだと、無意識に思ってたんだろな。

 それとさ、風邪に効く薬は世界中さがしても無いんだということ、その頃読んでた小学生向けの雑誌の付録本に書いてあったのも憶えてる。
 風邪に効く薬を開発したらば、それは水虫を治したり禿げ頭に髪の毛生やしたりできるぐらいな、ノーベル賞ものだと書いてあったな。
 だから風邪ぐらいじゃあ、お医者に行っても治らないんだ、寝てれば治るんだと書いてあったし、僕もそう思ってたから行かなかったんだけどね。

 そうしてさ、あの高い熱出してもそれでも今でもちゃんと、生きてるしさ、それにさ、死ぬときは死ぬのだから、生き死にの事で人間がジタバタするのは、何かわからないけど高くて大きなものに対して、不遜なことなのじゃないのかな、と思うのだけどね(長いものには巻かれたくないダガシなのに、そういうことだけは、思うんだな、ハハ)。

 だからね、医者を増やすのももちろんいいことだろうけど、こんぽんの根本は、医者にかかるという事を、安易にはしない、ということを人々がわきまえることが大事だろうなと、思うんだ。

 そうして、超未熟児で産まれたり、植物人間のようになった時や、もうたすからない病気や怪我の時は、寿命だと、いい意味であきらめするのも、大切じゃないかと、思うんだよさ。

 いい気持ちになってあきらめられるためには、日々何かに打ち込んでいることが、大事じゃないかな、と思うんだけどね。
 最後の最後だけヘンにチカラコブ入れて、「出来るだけのことをしたい、してやりたい」なんて言うのは、日々のことに投げ遣りになってるスリカエじゃないのかな、と思うんだけどね。
 何でも最後は、あっさり系が、カッコイイなあ、と思うんだけどね。

 こんなこと考えるということは、もしかしたら、あの小学生のときに40度近い熱が出たせいで、あれからダガシは頭がおかしくなったのかもしれないねえ、ハハ。

悩んで悩んで考えて考えて、政策作ろうよ

 最近、厚生労働省の政策が、どんどん医療費減らす方向をやってるようだね。
 それは今、結果としてダガシがいつも言うことに、不思議な事に合わさってなってるんだけど、…どうしてか僕、大丈夫かなあ、なんてヘンな想いも持つんだよ。

 それはね、厚生省の役人は、ダガシみたいに、血のションベンが出るほど悩んで悩んで、考えて考えて、夜中にハッと目が覚めて飛び起きるとか、時々ビールも焼酎も不思議な事にいくら呑んでも全然酔わない、…でも次の朝は二日酔いで苦しむ、なんて思いをしながら考え考え、悩み悩み、その政策を決めてるのだろかな、という心配なんだ(もちろん酒呑むことが良いことだと言ってるわけじゃないし、こんなふうに、悩めばいい、悩めば許される、とも思ってないけどさ。そしてそれは、僕が悩みたがりというだけかもしれないけどさ。そうして実際の血のションベンは、出ないけどさ、ゴメン)。

 もしそういうぐらいまで考えて日々生きているのなら、まあ、彼らを信用できると思うんだけど、大勢に流されてやってるのんなら、それは怖いことだよ。

 自分の人生が終わるとき、自分のためにも、人のためにも、これで良かった、と思える生き方をしたい、と思いながら生きてれば、まあ、血のションベンが出るほど悩むことも考えることも、いとわないんだろけど…、そういう人って、あんまり見ないから、だから、心配、なんだな。

医療もバブル

 何でもバブルにして儲けようと、たくらんでる人がいるね。
 医療もバブルにして。
 きのうコメントしてくれたお医者さんから教えられた「医療施設のこと
 あとさき考えずに、
 自分さえ良ければいい、と思ってる地獄に住む餓鬼みたいな人が、
 この世間にも、うようよ居そうだ。

今度は『医療の限界』読んだよ

小松秀樹というお医者さんの本、僕にとって二冊めだ。
20071207203615

 前の『医療崩壊』という本と比べて、とっても読みやすかったよ。
 母さんでも読めるな、ハハ。
 特に前半は小松という人の人生論のような内容で、それほど変わったこと書いてあるわけじゃないんだけど、死ぬということ良い意味で上手に受け入れようということ書いてて、なんだ小松って人もダガシと同んなじこと考えてるじゃないか、と思ったよ。
 だからかな、この本の内容ぜんぶにまた、共感した。
 そうして最後のページまで読んで、小松秀樹という人は、ものすごく善意の心もってる人なんだなあ、と分かった(でもダガシほどじゃあないけどね、ヘへ)。
 それに僕、善意とか自己犠牲とか真ごころとか言う人に今まで会って、この人こそはそういう人だ、と思い込んだら実際はそうじゃなかった、というのが今まで99、999パーセントだから、この小松というお医者さんも、本当はどうだか分からんけど、でもこの人なら信じられる人だかもしれないぞ、とまた(僕の勝手な思い込みからだけど)裏切られること覚悟でそう思った、というか思いたくなった、と思ったよ。

 でもただ一つだけ、このやろうと思ったところがあってね、それは前の本のときにも書いたけど、「医療費を増やせ」と書いてあるところだよ。
 医療費を増やさなきゃならんその根拠を示してくれれば、そしてその根拠に僕が納得して共感できれば、別にコノヤロウなんて思わないんだけど、世の中のお医者さんは医療費増やせ増やせと言うばっかりで、その根拠を言わないんだもんさ。小松秀樹という人もだよ。

 その根拠は、患者のためだ、なんて偽善を言うのは駄目だよ。信じられないよ。
 なぜなら、頃の良いところで気持ち良く死ぬことが出来るようにしておく、そういうふうに日々、精一杯生き抜くようにするのが、僕もそして多分この人も願うことだろうと思ってるのに、ただ無闇と長く呼吸する時間を延ばすことのための医療費を増やせなどというのは、言う事に矛盾するもんさ。

 そうじゃなくて、「俺たちの報酬を増やしてほしいんだよ。そしてもっとラクに仕事したいんだよ。そのために売り上げという医療費を増やしたいんだよ」と言われれば、理解もするし共感もするんだけどさ、ハハ。
 だけどそれを言えるのは、食うや食わずの貧乏で、かつヘトヘトになってる人だけだろけどね。でも食うや食わずの貧乏なお医者さんって、世の中にいるのかな(見習いさんや、医者に向いてない医者は、貧乏であるべきだよ)。

 そうしてね、一番の医療費増やしたい理由は、自分のやってる分野を膨らましたいという心理、からだろうね。
 意識してるか無意識かは別としてね。
 それを正直に言ってくれれば、善いか悪いかは置いといて、理解もするし共感もするんだけど、それを言わないで、ただ患者のためだなんて人の責いにすり替える根性が、嫌なんだ。

 もう一つは、お医者さんたちは、政治家や官僚のハコ物行政を批判しているくせに、自分たちは自分たちの業界の売上を増やせ増やせと声高に叫ぶのが、恥ずかしげがないなあと思うんだ。しかも税金や医療保険という公的なお金なのにさ。
 保険や税金からの分じゃなくて、自分の呼吸する時間をカタチはどうでもいいからただ延ばしたいっていう患者の、その患者自身の財布から出る分の方をもっと増やせと言うんなら、それはスジが通るだろうけど、税金から引っ張れというのは、官僚や政治家と同類になってしまうろうさ。
 公務員と政治家をやっつけようとするなら、まず自分のやることを、自分の身を、キレイにそして質素にしてから、言える言葉だろうと思うからさ。

 ただね、そのこと以外には、小松という人の言うことに全面的に感動した。
 特に二つあってね、
 一つめは70ページの「架空の免許皆伝モデル」というところ。
 僕は、お医者さんたちは、新しい医療の技術は、それぞれ自分の師匠に教えられて上手になってゆくもんだと思ってた。でも違うんだね。
 そういう新しい技術は、誰かに教えられて習うもんじゃなくて、やる気のある人一人一人が、自分でリスクを取って、自分で修練するもんらしいね。
 初めて知ったよ。
 でも考えてみればそうだろね。だって世間にない新しい技術は、そもそもそれを出来る師匠なんていない訳だから、自分で開発しなきゃならんろうね。
 そういう意味じゃ、医者もクリエイティブなところあるね。
 だから、お医者さんの免許皆伝モデルは、架空なんだな。

 もう一つは、186ページに書いてある…、
 (写すよ)大井氏は、日本に帰国して、数年後、寝たきり老人や認知症の老人の宅診事業を始めたとき、診療後、自分が、決まって急性反応性うつ状態になることに恐怖狼狽しました。
 その根底には、能力を失い他人に依存すること、他者に自尊心を傷つけられること、自我が崩壊していくことに対する恐怖心がありました。
 彼の若い同僚たちにはそうした反応は起きませんでした。
 大井氏は、その原因を、「アメリカという本物の競争社会に生活し、競争の過酷さを目撃したから」と分析しています。

 …これはダガシと全く同じだよ。
 病院に勤めたときも老人ホームでもホームヘルパーのときも僕、誰もいないところで吐きそうになることが幾度もあった。
 僕はその原因を自分で分かってたから、それほど不安になることはなかったけど、俺と同じことを悩んでいる人はいないかな、居てほしいな、と思って何人かの同僚に聴いてみたけど、誰一人そんなこと思う人間は居なかったよ。僕だけが吐きそうになってたんだな、ハハ。

 もう一つ悩んでた事あって、僕は世の中の人のほとんどの人を、しんそこ好きになれないで生きている。それは(良いか悪いかは分からんけど)もうほとんど悩みじゃなくなってるぐらいなんだけど、そういう俺が、好きになれない人を介護するのは、介護される人に対して失礼なのじゃないか、とずっと悩んでた。
 そして利用者の中には好きになれない人もいた。だから、そういう利用者に対して俺は、誠実に仕事していないのじゃないか、とね。俺は嘘つきじゃないか、とね。
 ただ仕事と、いや作業と割り切ってしまって、金のためにやるんだと思えば苦しくないんだろけど、…僕は、(子供なんだろさ)そう思えないんだから、駄目なんだよ。病気だね、ハハ。

 小松という人は、その事に関連したこと書いてくれてて、ああ、俺の思ってた悩みを考えている人も世の中には居たんだ、と嬉しかったんだ。
 小松医師にお礼言いたいくらいだよ、ハハ。

 この本、世の中の人に、高校生のうちから、読ませたいな。充分、読めるよ。

 そういえば、上の本の写真ね、本の右上の白い紙は、いつも僕が本読むときに、大事な場所を後から読み返そうとして挟む、メモ用紙の切れっぱしなんだ。
 この本は、十ヶ所くらい挟んだよ。
 またまた、長く書いてしまったね。
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