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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

石川九揚の書のラジオ番組と本

 NHKラジオ第二放送の夜8時半からのカルチャーラジオを毎晩聞いているが、この何ヶ月かの水曜日の番組がおもしろかった。
 石川九揚という人の、書のことを教える番組だった。書道ではなく、書だ。書道と書は何が違うのかというのは、石川九揚の本を読めばわかる。石川九揚もラジオでも本の中でも、書道と言わずに、書と言っている。そして昨日の第十三回目が最終回だった。
 第一回目を聞いて驚いたのは、書とは音楽だということだった。目からウロコが落ちた。私は書というか書道というものは絵画の仲間であり美術だと思っていたが、石川九揚が言うには、書は音楽の仲間で時間芸術なのだそうだ。なぜなら書という芸術は、何という文字を書いているかが重要ではなく、うまいかヘタかということもそれほど重要ではなく、文字を筆でどういうふうに書いているかを見るべきところ、感じるべきことで、書きぶりこそが大切なのだそうだ。
 その書の文字を、筆でなぞってみることで、その書を書いた人の気持がわかるのだそうだ。それこそが書を楽しむ、その書の文字の一点一画の書きぶりを、自分でなぞって、感じて、味わうことで、書とはそういう味わいかたの芸術なのだそうだ。
 書きぶりとは小説でいえば文体で、純文学も、何を書いているかより、ストーリーより、どういうふうに書いているか、どういう文体であるかが重要だが、そういうことだ。石川九揚も文学や小説で言えばそういうことだと言っていた。
 私は第一回目から五回目くらいまでの石川九揚の喋り方が、尊大でわがままな感じで反感を持ったが、あとで思えばそれは、聞き役の男のアナウンサーと呼吸が合わないからだと思った。第六、七回目くらいから、石川九揚も謙虚な物言いをしだしたし、ユーモアも交えるようになった。アナウンサーも、第三回目くらいまでは石川さんと呼んでいたが、第四回目くらいから石川先生と呼ぶようになった。それで石川九揚の機嫌がよくなったのかもしれない。
 ラジオを聞いていると石川九揚は日本人としてはトップクラスに頭がいいとわかる。言う言葉がすべて理屈に合っている。理屈っぽいのがわかる。第十二回目で、自分の書の理論は法学部的だと言われると言っていたが、たしかに法律のように理屈と根拠を積み重ねて、良い意味でハイレベルな理論武装をしている喋り方だ。そして使う語彙がものすごく豊富だ。
 でも石川九揚は、感覚が鋭敏ですぐれてもいる。書を書く時の筆の持ち方や筆の運びの表現を聞くと、石川九揚は芸術家でもあるのがわかる。書という芸術表現をしているのだから当然だろう。
 第五回くらいのとき、図書館で石川九揚の本を何冊か借りて読んだ。やっぱりラジオでの喋り方と同じで、理屈っぽくて、その理屈と根拠を積み重ねていく文体だった。理屈っぽい私には心地よい読書だった。でも本のタイトルは忘れたが、花と和歌とひらがなのことを書いた一冊だけ文体が少し軽薄で理屈が合わない箇所がいくつかあった。そのあとがきを読んだら、その本は講演だったか大学での講義を文字に書きおこしたものだった。だから文体が違ったのだ。他の本は、きっちり、かっきりとした文体で、内容が分かりやすかったし、読んでいて気持ちが良かった。だが、本の中で石川九揚の書の写真があって、見たが、あまりに何の文字を書いているかがわからない書で、私には前衛的すぎる美術品にしか見えず、感動できなかった。それが芸術表現だとは思えなかった。だけれど、本に載っている小さい写真ではなく、実物の書を間近で見たら、もしかしたら感動するかもしれないが。
 それから石川九揚が本に書いている、書や漢字の文字を通して、日本と中国と東アジアの歴史を解き明かすその理論は、私にとって発見だった。そのことも目からウロコが落ちた気分だった。
 石川九揚は、芸術家であり、批評家であり、評論家でもある、すごく頭のいい人だ。いま七十代半ばだが、ラジオの喋りを聞いていると、その頭脳明晰さは衰えないようだ。いつか講演や講義を聞いてみたいと思う。

他力本願のことを悟った2018年11月21日

 今日になったばかりの2時過ぎに、ふっと目が覚めて、右から左に寝返りを打ったひょうしに、悟りをひらいた。
 今年2018年9月24日に、世間では聖職者といわれるある人間たちと争って、そのとき、相手の対話をはぐらかす卑怯な物言いと行動で、私以外の人間は心底バカで自分勝手なクズばかりで、救えない人間なのだと悟った。それまでは、バカでクズも多いけれど、そうでない人はどこかにいるだろうと思い込んでいた。しかしそういう人はいなかったんだと、悟った。
 でもそんなことは普通の人は十代の頃に悟っているのだろう。人に騙されたり、嫌がらせをされたりして、わかるのだろう。良いか悪いか私は幸せに生きてきすぎて、わからなかったのだろう。
 だけれど、人間は、目先のことさえよければいいという浅はかなバカで、泥棒根性のクズばかりなのだということを悟ったとして、それで自分はどう生きていけばいいのかを、悟った後、毎日ずっと悩んで考えていた。
 人に自分勝手なことをされて、嫌な思いをさせられて、あいつはバカなのだから、クズなのだから、仕方がないのさ、と思ってみても、仕方がないと思うことで怒りの感情少しは減るけれど、嫌な感情はなくならない。
 世の中はこれでいいのか、と思ってしまう。それでさらに腹が立つ。何とかしなければならないと思ってしまう。何とかしようとしたら、また人とぶつかってしまう。周りは卑怯な奴ばかりだから、長いものに巻かれる奴ばかりだから、世の中を何とかしようとしたら、自分がつぶされる。

 最近、偶然、親鸞全集の現代語訳を読んで、人間とはバカでクズばかりで、何をしても変わらない、救えない存在なのだと、それをわからなかった私もバカだったのだと悟った。親鸞も私と同じ気持ちだったのだろうと思った。
 そうして、軽蔑していた他力本願が、腑に落ちた。私は自分が頭がいいと思っていて、運動神経も良くて、たいていのことが何でも上手にできて、だからなのかどうなのか、人の役に立ちたい、そう行動したいと思って生きてきたから、自力本願のほうが好きだった。
 人間はバカでクズばかりなのだということは、うすうすわかっていたのだが、それを知ることがどうしてか怖かった。人間は良い心を持って、良いおこないをするべきものなのだと思い込もうとしていた。それは間違っていたということが、そんなことはそもそもできないのだということが、2018年9月24日に悟った。今までそう思い込もうとしていた私はバカだった。自分勝手だった。甘えていた。
 だから、私もバカだったのがわかった。思い上がっていたというこで、私もクズだったのかもしれない。いや、クズだったのかもしれないなどと責任転嫁するように思うこと自体がクズだということだろう。
 となれば、他力本願しかないのだと悟った。何かにすがるしかないのだ。
 といって私はオカルトが嫌いだから、それに私は科学がある今に生きているのだし、自分が合理的な人間だと思っているから(そう思っていることも私が思い上がっているのかもしれないが)、仏とか、浄土とか、輪廻とかという架空のものにすがったり信じたりするということではない。そのことでなら親鸞より客観的になれる。それも思い上がりなのかもしれないが、何かに許してもらいたい。だから、科学的に理論だてて、悟った。悟った後でも考えて、さらに考えつづけている。
 その悟りとは簡単に言えば、私の場合は、もっと力を抜いて生きていって、最期は、そのまま土に帰って、動物に食われれば、その動物のうんこになって、おしっこになって、それが土や水になって、草花に吸収されて、葉っぱから蒸発して水蒸気になって、空気になって、それが風になって、あちこちに吹かれて、遠いところにまで行って、最終的に原子、分子になって、別の何かになって、何かの役に立つということだ。別の何かになって何かの役に立つということも、望んでもできないかもしれないけれど、何かの役に立つというそういうことも、あきらめて、覚悟しながら生きていくということだ。

 しかし私は、私のように悟っていない人間は救われてほしくない。人間の99.999パーセントである悪人は救われてほしくない。浄土、地獄があるとしたら、そういう悪人は地獄に行ってほしい。そう思う私は悪人なのかもしれない。とすれば私も地獄行きなのかもしれない。
 ということは人間は全部が地獄に行くのかもしれない。
 それを救うのが、人間の形を捨てた後、原子になることなのかもしれない。

 今日はここまで書いて、また日にちをゆっくりかけて、ここに書き足す。

『あの頃』 武田百合子を読んだ

 まだ読んでいない武田百合子の本を偶然見つけた。『あの頃』という本だ。去年の春に出ていた。知らなかった。
 単行本に載せなかった文章を集めたものだ。だからなのか、武田百合子の文体の味わいが薄い。何だか下手な文だ。だから単行本に載せなかったのだろうと思いながら読んだ。
 あとがきで、この本の編者の、娘の武田花さんが書いているが、「母は雑誌等に書いた随筆を本にする際は、必ず細かく手を入れておりました。そうしなければ本にまとめたくないと、日ごろ、私にも言っていたからです」と。
 とういことは、武田百合子の本の文章は、雑誌に載せた後でも、また何度も書き直した文体だったのだ。だから私は、何回も読みたい武田百合子の文体なのだと思った。天才だって、すごい努力をしているんだと思った。
 武田百合子は遺言で、自分が死んだ後は、自分が書いたものはすべて焼いてくれと娘に言っていたそうで、花さんが言われたとおりそうしたとエッセイで書いているが、武田百合子という人は完璧主義者なのだろう。エエカッコシイでもあるだろう。そうして芸術家なのだろう。

『あの頃』の中に、何の本かは忘れたけれど、前に読んだことがある文章があった。
「……うふふ。うふふ。死ぬ練習。……すぐなおる」
 夫の武田泰淳と花見に行って、ベンチで突然夫がもたれかかってきたときの泰淳の言葉だ。
 前に初めて読んだときは、武田泰淳という人は斬新なことを言うものだなあと驚いた。その時はただ単にふざけて言ったのだと思っていたけれど、本当に眩暈をおこして、それも死ぬ病気のために意識を失ったのだろう。花見に行った半年後の秋に入院して、半月後に死んだのだから。
 別の何かで読んだが、武田泰淳が死んだとき、遺言で、自分の死に顔は妻の百合子と娘の花だけにしか見せるなということで、親友の葬儀委員長の竹内好も、自分も見ていないと葬式で言ったそうだ。
 それはもしかして武田百合子がつくった嘘の遺言なのかもしれない、とどうしてか思った。夫の最後を、自分だけのものにしたかったのかもしれない、などと思った。

『あの頃』は、武田百合子にしては下手な文章だと思って読んでいたが、やっぱり読み終わるときには泣いてしまっていた。前に読んだ武田百合子の本で、百合子が飼っていた犬が死んだことを読んだときも泣いたし、猫が死んだのを読んだときも涙が出たが、今度は武田百合子がもういないのだとよくわかってしまって、また涙が出た。

久しぶりのぎっくり腰で本を読んだこと

 昨日部屋の片付けをして鴨居の上の小さい押入れの中の物を捨てたり入れ替えたりして、椅子に登ったり降りたりしたら、今朝起きたらぎっくり腰みたいに痛くて動けなかった。
 今日も時間をつくって片付けようと思っていたのだが、痛くて痛くて、朝食を食べた後もベッドで横になっていた。昼過ぎになっても痛みがひく気配がないから、去年の夏に右腕が痛くなって整形外科に行ってもらった湿布薬の残りがあったのを思い出して、腰に貼った。そして食事と排泄以外は一日ベッドにいた。
 十年以上前のぎっくり腰のときはエアコンクリーニングで脚立を何回も上り下りして、さらに背中を反って力を入れて動いたのが原因だが、昨日も同じ動作をしていたと気づいた。背中を反って重いものを持ち上げるのをくり返すのが腰にいけないのだろう。
 今朝起きたときにベッドから降りて歩こうとしたら、膝の上も痛かった、それは何回も椅子に上り下りした筋肉痛だろう。今朝から腰が痛いのも本当は筋肉痛だろう。前にエアコンクリーニングで腰を傷めたのも筋肉を使いすぎた痛みだ。
 背中を後ろ側に反るというのは、思ったより腰の筋肉を疲労させるのだろう。といって掃除や片付けではやらなければならない動作だから、年をとって腰を使いすぎたら、その後暖かい風呂に入って筋肉を暖めて血のめぐりを良くするとか、もんでマッサージするとかをしなければならないのだろう。面倒くさがるのがよくなかった。

 だけれどそのおかげでベッドで本を読めた。
 昔の外国人が書いた日本のことがおもしろかった。その外国人は女だ。大阪のドヤ街で福祉の仕事をしたことや、京都の芸者になったことや、パチンコ屋を開いたことなどの奮闘記だ。文章は下手なのだが、熱気がある。そして文をつづる視点が珍しい。視点が珍しいのに共感できるのだ。
 今までなかったものの見方と、そう言われればたしかにそうだという気持ちは、芸術の一番大事なことだ。そのことを再認識させてくれた。
 女の外国人が昔の日本で生きていくのは辛かったろう。でも自分さえよければいいとならずに、筋道を通す生き方をして、自分の弱さもズルさも自覚して、ときどきはユーモアを持って、正直に生きていた生き方を書いた文を読むと気持ちがいいものだなと改めて思った。
 何年か一回はぎっくり腰になってベッドで本を読むのもいいかもしれないと思ったが、別にぎっくり腰にならなくても本は読めるし、もっと年をとってぎっくり腰になったら治るのに日にちがかかるだろうから、これからは腰のことは気をつけようと思う。

自分の昔の食の我がままを思い出させた本

 日本の地方地方の昔の食生活をつづった本を読んだ。『聞き書 新潟の食事』という本だ。それは都道府県別に一冊を書いていて、そのシリーズの中の新潟県のを読んだのだ。
 何回も出てくる言葉があった。食いのばし、かて飯、という二つの言葉だ。米が少ないから、大根などを飯に混ぜて炊くのをかて飯といったそうだ。そしてそうやって米を節約して食事することを食いのばしと書いていた。
 著者は村上昭子という人だ。著者の写真が載っていたくらいだから、写真が発明されてからの人だ。文章にも書いてあったが、戦後のことを書いていた。本には食事のお膳のカラー写真も載っていた。本に書かれていたのは昭和二十年代から四十年代のことだろう。そのころでも食いのばさなければならないほど米はとれなかったのだ。白米を食べるのは盆と正月くらいで、醤油は貴重品だとも書いてあった。それが昭和三十年くらいの時だったのだ。
 その前の時代はもっと米はとれなかっただろう。江戸時代では、ふだんはアワやヒエを食べていただろう。麦やイモや大根が、おいしい食べ物だっただろう。米を食べるのなどは、医者を呼ぶことと同じで、死ぬ前くらいのものだっただろう。いや江戸時代の農村では、死ぬときでも医者は呼べなかっただろうし、白米を食べることもできなかっただろう。

 私が子供のころ、この本に書いてあるように、朝に母親が米を炊いて、味噌汁(おつけ)をつくり、こうこの漬け物ていどのおかずで朝食を食べていた。生卵をといてご飯にかけて食べるのがごちそうだった。だけれど生卵が出るのなどは二週間に一回くらいだった。いや一月に一回だったかもしれない。
 昼食は父親母親が田んぼ仕事から帰ってくるころに、年取った祖母が朝食の残った味噌汁の半分を別の鍋に移し、その鍋にご飯を入れて煮て、ぞうせを作る。それから残った半分の味噌汁は煮温める。煮詰めることになるから、しょっぱくなるし、苦くなる。
 父母が帰ってきての昼食には、茶碗に朝炊いた冷たいご飯を半分よそって、その上に熱いぞうせをかける。それが毎日の昼の食事だった。茶碗の上の方が熱くて、下の方は冷たいという、それに上の方はしょっぱくて、下の方は味がしないという、へんな食感、食味の食べ物だった。味噌汁の具は、夏ならば毎日畑からとってきた、なすだった。おかずはこうこだった。たまにきゅうりの漬け物があった。
 子どものころの私は、「朝のおつけを昼に食うのはまずいがあて。昼にも新しいおつけを煮ればいいろ。毎日毎日ぞうせは、やらて。別のもんが食いてえて。玉子か豆腐が食いてえて」と毎日の貧しい食事に文句を言った。そうすると祖父と祖母は不思議な物を見るような顔をして私を見たことをおぼえている。父と母はどうしてか私から顔をそむけるようにしながら下を向いて、ぞうせを口にはこんでいた。

 この本を読んでいると、子供のころのワガママな自分を思い出して、読み進めなくなる。とちゅうでつっかえつっかえしながら、何度も読むのをやめて、一週間くらいあいだをあけて、また読んでもいいかなと思えるようになったら、もういちど本をひらいて、読んだ。それで長い時間をかかって、全部読みおえた。
そういえば本の中で、こびるという言葉もいくども出てきた。小昼で、おやつのことだ。おもに田植えや稲刈りのときの十時と三時の食べ物のことだ。子どものころの田植えや稲刈りの日のこびるは、田植えの日は草もちだったり、味噌おにぎりだったりで、稲刈りのこびるは梨だったのをおぼえている。親戚のおばさんが田んぼのあぜ道で皮を剥いてくれた梨は、「ほらっ」と言って私にわたしてくれた梨には稲わらがついていて、私は汚いと思ってしかめっ面をした。その顔つきをおばさんに見られたのが、後で自分を嫌な人間だと思ったのを今でもおぼえている。おばさんはおととし死んだ。

武田百合子の声を始めて聴いたラジオ

 今夜のラジオ第二放送は武田百合子だった。俺が勝手に思っている俺の嫁さんにしたいと思っている女の人だ。
 初めて武田百合子の声を聞いた。あんまりいい声じゃなかった。でも予想していたとおり可愛らしい声だった。年を取った頃の声だから(五十六歳の声)いい声じゃないように聴こえたかもしれない。

 武田百合子は作家という言葉のイントネーションをサッカーみたいに言っていた。おかしいぞ。

 番組を録音したかったけれど、今回が武田百合子だと知らなかったから用意してなかった。
 先回は武田泰淳だった。もちろん聴いていた。来週も武田百合子だそうだ。

岸田秀はもっと書きつづけてください。搾り出しものぐさ精神分析

 昨年末に偶然図書館で見つけて借りて、昨日読んで、私にとって大事なところを書き写した。俺が勝手に俺の先生だと思っている人の文章の引用として載せさせてもらいます。

 岸田秀『搾り出し ものぐさ精神分析』
 青土社2014年5月20日第一刷発行

『唯幻論始末記』
p126  父親を憎んでいるが、それを無意識へと抑圧し、意識的には父親を心から深く愛しているつもりの患者がいるとする(●表面上は俺と逆だ)。
 フロイトが言うように、「抑圧されたものは必ず回帰する」から、体内の毒素が体の表面に噴き出てきてデキモノになるように、抑圧された父親への無意識的憎しみが、回り道を通って歪んだ形で意識の表面に噴き出てきて、いろいろな症状を惹き起こし、彼は神経症に苦しんでいる。
 彼の神経症を治すためには、
 ◆父親への無意識的憎しみを意識化し、引き受けて自我に組み込むか(●思春期から五十を過ぎた今まで俺がやってきたことだが俺にとっては効果はなかった)、
 あるいは、 ◆◆父親への憎しみを「抑圧するのではなく」心の底から明確に認識し、克服し、全人格的に(意識的にも無意識的にも一貫して)父親と和解するかする必要がある(●このあいだ『父という病』という本を読んで、今それをやっている最中だ。父親が死んだからか、俺が年を取ったからか、今のところ効果があるように思う)。

 父親への無意識的憎しみを意識化するとは、たとえば、幼いときに父親に虐待されたとかのことがあって、父親を憎んで当然であると理論的に理解すればいいというわけではなく、心の底から沸き起こる父親への憎しみに押し流れそうになり、心が乱れて壊れそうで恐ろしい思いをするといった体験があり、父親を憎んでいる自分を実感として知るということであって、それではじめて、父親への憎しみに直面することができ、それを克服できるのである(●俺は今まで、膨大な心理学の本を、哲学書を、純文学を、宗教学の本を、仏教の経典の現代語訳を、社会学の本を、科学の本を、他にもいろいろな分野の本を読みあさってきた。だけどまるで心の奥底の肝心なところには届かなかったらしい。それに自分や周りのことを、いつもいつも考えて考えて考え抜いたつもりだったが、それは徒労だった)。


『あとがき』
 世の中には頭の中にいろいろなことが次から次へと浮かんできて一気呵成に一日に何十枚もの原稿を書く人もいるらしいが、わたしにはそういうことはない。なぜかなかなかわからなかったが、あるとき、母との関係に原因があるのではないかと気づいた。
 ●書くことに内的な禁止があるらしいのである。それに気がつくと、昔のいろいろなことが思い出された。

 そして、この「あとがき」のはじめに記したように、わたしには「全体として一貫した」テーマで書いた本がなく、「その折その折にその場で思いついた雑感を気紛れに書い」た雑文を「適当に集めた」本しかないのも、同じ原因であろう。かつて「教養を高めるのに役立つ難しそうな有益な本」を読むことを禁止した強迫観念が、その後もいくらか残っていて、
 ●一貫したテーマを追求した本を書く根気をもつことが妨げられているらしい。
 わたしはあまり頭が悪いほうではないと思うが、「自分は頭が悪い」という観念が根強くあって、論文を書いたり、講演をしたりするときの妨げになる。自分が考えることに心のどこかで自信がもてず、とんでもない的外れのことを考えているのではないかとの疑念に付きまとわれる。したがって、何か考えるためには、そういう疑念の妨害のスキを突かなければならず、「こう考えていいのだ」と自分に言い聞かせていなければならない。そういう言葉ではっきり言われた記憶はないが、この観念はわたしが逃げるのを防ごうとした母から植えつけられたのではないかと思われる。幼いときに植えつけられた観念は、その後いくら現実に反証されても、消えないらしい。

 忘恩の振る舞いだけでなく、自分が加害者だった場合のほうが気になってくる。かつて自分の「脆弱な」自我を「強い」自我にしようとして結果的に傷つけてしまった男の友人、女の友人、わたしがいじめた人や意地悪した人、わたしを頼ってきたのに冷たく拒否された人、そのほかいろいろな人たちに謝りたいような気になる。しかし、謝って済むものではなく、所詮、過去のことは取り返しがつかない。若い頃は、人が馬鹿なことをしているのが自ずと見えて、人を馬鹿にしていたが、今は、自分がいかに馬鹿であったか、あるかがよくわかってきた。いや、まだよくわかっていないであろう。

 ここで、昔のことをくどくど書いたのは、これが最後のチャンスだと思うからである。
 この雑文集もあちこちの新聞や雑誌に書いた雑文を集めたものであるが、もとの文章に適当に訂正、削除、加筆してあり、タイトルを変更したのもある。
 二〇一四年 四月八日  岸田秀

 このごろ図書館でも本屋でも岸田秀の本を見ないから、岸田はもう年でぼけてしまって書いてないのだと思っていたが、どうしてどうして、あちこちにいろいろな文を書いていた。
 それをまとめた本を見つけて、読んで、嬉しかった。でも岸田秀ももう八十歳というのだから俺も年を取っているのだということをわからせてくれた。

『父という病』

 2016年1月11日成人の日に読み終わった。読み終えるのに時間がかかった。
 読み終わった夜は、暗闇が怖くなくなっていた。枕元のラジオをつけなくても暗い部屋が怖くなくて、眠れた。
 その夜中に、戦争中で中国人が結婚したという夢をみた。どうしてかそれは自分を受け入れたことなのだなと思った。だから暗闇が怖くなくなって、ラジオも聴かなくてもすんだのだと思う。
 本を実家に持っていって、またすこしずつ読みかえした。

 2016年1月12日に思ったこと。
 乗り越えるという言葉。
 この本で言っている乗り越えるという言葉は意味がわからなかった。でも今わかった。乗りこえるということは、山を越えて、新しい地点に到達することだ。

 受け入れるという言葉。
 受け入れるという言葉は、今まで生きてきて、何度聞いてもわからなかった。でも今わかった。
 受け入れるということは、そのことを消化して、自分の血肉にして、いらない物は排泄することだ。

 俺は今まで、できないことばかりをめざしてやってきて、わざと挫折をくり返してきたというのも、今わかった。


 2016年1月14日に思ったこと。
 自分が変わるためには、変わった後の自分を許すしかない。同時に今までの自分も許すしかない。
 自分を許すには、自分をつくった父親、母親、そして父親と母親をつくった祖父、祖母を許すしかない。
 祖父、祖母を許すには、その親や、そのまた親、そのまた親、そしてそのまわりの人たちを許すしかない。
 そうすると、世の中の人たちを許すしかない。
 ということは、世の中の人たちと仲良くならなければ、自分を許すことができない。
 世の中の人たちを許すことができて、仲良くなれれば、自分と仲良くなれる。
 自分と仲良くなれれば、世の中の人と仲良くなれる。
 そうすると、自分を許すことができるだろう。
 そうすると、自分が変わることができるだろう。

 この本を読んでから、人を怒鳴っていない。喧嘩もしていない。喧嘩する気力がなくなっている。自分の精神を治療するために、どこかの病院に入院しているような感じなのだ。薬を飲むようにこの本を読んで、時間があれば暖かいベッドで眠る。おどろいたことに嫌な夢を見なくなった。今までは夢というのは嫌なことを思い出すものだと思っていたのに。
 だけどそうしたら昨日と今日、とても怒った夢を見た。夢の中でこんなに怒ったことはなかったのに初めてのことだ。ゆれているのだろう。

 暗いところも、おばけも、高いところも怖くなくなるかもしれない。それらは幻想なのだから。自分がつくっていた悪いものであり、良すぎるものなのだから。
 五十四歳で生まれ変われるようだ。遅いと思うけれど、仕方がない。

小説を読んで高所恐怖症の発作が出る

 いま山川方夫を集中的に読んでいるが、あまりおもしろいと思わない。都会的という評判なのだが、文の中にカタカナ英語があふれていて そのカタカナを使う意味が不確かで軽々しい。中身も底が浅い気がする。他にも比喩のセンスがいいという評判だ。でもそういう評判のわりにはつまらない。
 だけれども『煙突』は身につまされた。安岡章太郎のタッチに似ていた。だけれど文中に「労務者ふう」などという言葉が出てきて、馬鹿にする人格を労務者ふうといっている。他の小説にも何回も出てくる。上から目線で威張っているように感じる。頭にくる。安岡章太郎はそんな表現はしなかった。
 煙突は山川の私小説になるのだろう。死にたいという無意識があらわれていると思う。その無意識と、それがどうして私小説なのかは、山川の個人的な病気に触れることになるから、ここでは書かない。

 煙突をのぼるところを読んでいたら、高所恐怖症の私は、高いところに本当に上ったときのように、膝が冷たいような熱をもつような、そして金玉が熱くなって上にあがってくるような、腰のあたりも熱をもって震えてしまって、今ここでどうしていいのかわからなくなる、暗い下に落ちる、どこまでも得体の知れないところに落ちる、ああ死ぬ、自分がどこか下の下の暗い知らない場所におちいって、なくなってしまう、そういう怖い感覚におちいった。
 文章を読んだだけでそうなるのだから、それは梅干やレモンを想像すると、舌につばが出るような反射神経なのかもしれないと思ったが、つばが出るのは普段生きるのに困るわけではないのに、私の高所恐怖症は生活するのに困るレベルになっている。
 高所恐怖症と、そして暗いところが怖いことで、私は、高い橋を渡れない、長いトンネルを通れない、飛行機も乗れない。ということは隣の県にも行けない。今のところはそれで困っていないから、よしとしている。

 追記
 『煙突』は二十歳くらいに書いたのを、晩年に(山川は三十半ばで交通事故で死んだからまだ三十過ぎだろうが)書き直したのを全集でまた読んだ。
 後で書いたほうは、小説の中で、解説というか、考察というか、心理描写というのかがしつこくて、まだるっこしくて読んでいられないほどだった。その考察というのも小ざかしい解説も、あたりまえのことを得意げに書き散らしているようで、まるで底が浅いものだった。前に書いたほうは描写に省略がきいて、文体にスピード感もあって、底が浅いなりにも、読んでいて気持ちはよかった。共感する部分もあったし、新しいものの考え方感じ方の発見もあった。中身を書きすぎないから、読みながら想像する楽しみもあった。山川方夫の小説のなかでは『煙突』だけが良いものだと思う。
 その小説では、戦後の食糧不足での空腹の描写が切羽つまって感じられた。山川は私の父母より十歳くらい上の人だ。終戦の時に十五歳くらいだったようだ。いつも何かを食べたい年頃だ。
 そういえば私の母は、私が腹が減っているのをいつも気にしていたように思う。父母のの姉、私にとっての伯母さんたちは、「ご飯は食べたか」というのが口癖だったと思い出した。

 また追記する。
 2015年1月5日で全集を全部読んだ。筑摩書房の2000年8月20日発行のものだ。最後に読んだのは第5巻だ。全部で7巻あるのだが、5巻を最後に読んだ。
 5巻のショートショートのうちの二作品はまあまあ良かった。『千鶴』と『ゲバチの花』だ。誰かを助けて自分が死ぬという題材が気持ちいいのだろう。それは私の自己満足だろうけれど、それが気持ちいいのだから仕方がない。それにその二作品は教訓臭くなかったし、いらぬ解説や心理描写もなかったから、読んでいて気持ちがよかったのだろう。
 ショートショートといえば星新一だが、私は星新一が書いたものをたぶん全部読んでいる。それがすべておもしろかったと思っている。星の、ショートショートも、エッセイも、長い小説も。高校生のころから読みはじめて、二十代でも読んで、三十二歳まで読んで、その年に、何十冊もたまっていた星新一の文庫本を、そのとき付き合っていた女に全部あげた。
 星新一のショートショートはユーモアが勝ちすぎている。読んでいたころはそれが好きだったけれど、たぶん今読んだとしたらそのユーモアはわざとらしいと思うだろう。山川の良いショートショートはことさらユーモアを出そうとしない。それは潔い。上にあげた『千鶴』と『ゲバチの花』は純文学として読める。他の作品も作品の中で自己満足の解説の文章がなければおもしろい純文学になったと思う。山川が長生きしたら、日本のO.H.ヘンリーになっていたかもしれない。短い純文学というジャンルを作って、世界の大作家になっていたかもしれない。
 しかしそれらの作品を書いたのは三十を過ぎたばかりの頃だ。その年代でああいう沢山のアイディアを出せたのだから、頭が良かったのだろう。自分の人生を小説に打ち込んでいたのだろう。だけれど山川は頭が良すぎたから、小説の中で、鼻に付く、いらぬ解説を入れてしまったのかもしれない。

あやとりの記

 私がこれを読んで涙していた夜に、父は一人で死んだ。
 父が一人で死んでいった悲しみを、私はこの本を読みながら感じていたのだろう。

 これは子供が読んでわかる本ではない。大人が読むものだ。いや、そこらへんの年をとっただけの人間が読んでもわからないだろう。自分と自分以外の世界の悲しみを、いつもどうしようもなく感じてきて生きてきた人が読んで、やっとわかって感じることができる文章だ。

p231『生まれない前のわたしかもしれん!』
 さっき萩麿の上に明るくも寂しい光が降りてきたとき、みっちんは、おもかさまの言葉を思い出したのでした。
(陽ぃさまの沈ます闇夜の向こうにゆくものは、美しか位を持っとる)
 それでどういうものかそのとき、萩麿のいる川の中へ這入ってゆきたくなったのです。
 草履を両方とも川の水にあげたのは、もうずうっと大昔の、生まれない前ぐらいから、水に呼ばれているせいかもしれません。
 水蓮の葉っぱの上の露の玉や、小川の岸の草の葉先で、今にもこぼれ落ちそうになっている露の玉を見かけると、息が止まるかと思うほど、胸がどきんとすることがありました。
(生まれない前のわたしかもしれん!)
と思ってしまうからです。生まれない前の自分、ああなんとその自分に逢いたいことか。みっちんが、水とか露とかを見て魂がとろとろなるのは、そういうわけなのです。

 ※

 いま集中的に石牟礼道子を読んでいる。
 石牟礼道子は小説の天才だ。文芸の天才だ。
 あと何冊か読みおわったら、石牟礼道子のことを書く。

あやとりの記

石川達三を読んだこと

 石川達三という作家はルポルタージュみたいな小説を書いた人だと大昔なにかで読んでいたから、私はそういうものに興味がなかったから一つも読んだことがなかった。芥川賞の第一回受賞者なのに。
 でもいつも聴くNHKラジオ第二放送の、カルチャーラジオNHKラジオアーカイブスが、石川達三を取り上げた。2014年10月6日、13日、20日、27日の四回放送したのを聴いたのが、遅ればせながら読もうと思ったきっかけだった。
 そのラジオの番組で元文芸誌編集者という人が、『私ひとりの私』という小説の、母親の死んだ場面が感動的で心に残ると言っていた。私小説作家でない石川達三も私小説を書いたのか、文芸誌の編集者が感動したと言っている、それなら読んでみようと思って、去年の十一月十八日に図書館から全集を三冊まとめて借りた。
 そうして二ヶ月かけて、このあいだ、やっと読み終わった。

 読んだ順番。
『私ひとりの私』
『四十八歳の抵抗』
『結婚の生態』
『赤虫島日誌』

『蒼氓』
『日陰の村』
『生きている兵隊』

『書斎の憂鬱』
『蝸牛の演説』
『創作ノート・其の他(人間の壁のノート)』
『私の少数意見 抄(しょう・ぬきがき)』
『経験的小説論』
『流れゆく日々 抄』

 かんたんにいうと石川達三は、読んで新しい発見はないが、こういう純文学もあっていいかなとは思う、そういう作家だった。
 すべての小説が長い。そしてシーンとシーンのあいだに石川の評論めいた文章がはさんである。それが小うるさいのだ。描写と描写のあいだに、自分の小説の中身の解説みたいなものも書いている。そいういうことは読者が読みながら読者の心の中に思い起こさせて、読者に考えさせながら読ませるから、読むほうは読んでいておもしろいと思うのに、自分で自分の小説の評論や解説や理屈を書いているのだから、くどくて、くどくて、そしてそんなことはわかっているよと思ってしまって、疲れるのだ。
 それにその評論や理屈が思いもよらないことが書いてあるならまだおもしろいと思うけれど、読んでみればあたりまえのことしか書いてないから退屈になるのだ。
 だけど石川達三の文体は直木賞のほうの小説みたいに月並みな感じじゃないし、わざとらしい美文調でもない。まあまあ張りも緊張感もあって純文学として読んでいられた。

 ラジオの元編集者は、石川達三は自分の小説にはユーモアというものはいらないと話していたと言っていた。だけど小説の中、ところどころにユーモアはあった。石川は自分で意識しないで書いたのだろう、だからなおさら、くすっと笑えた。
 石川達三は小説の題名をつけるのがうまかったと元編集者は言っていた。その全部のタイトルを見てみると、斬新だし心に残る。石川達三は頭がよくて、小説が上手かどうかは別だけれど芸術家のセンスがある人だと思う。
 それに石川達三はすごい流行作家だったと言っていた。たしかに私が高校生のころの本屋の文庫本コーナーには、石川達三の本が何冊も並んでいたような記憶がある。記憶違いかもしれないが。それが今では石川達三の本はほとんど見ない。時代が変わって読まれなくなった作家だ。
 石川達三の戦後書いた小説はほとんどが大新聞に連載されて、その後それを出した単行本もほとんどが何十万部も売れつづけたらしい。書いた小説はいくつも映画になって、世の中の人に見られたそうだ。いくつものテレビドラマの原作にもなったらしい。原稿料も印税も原作料も、お金がじゃんじゃん儲かった小説家だったのだ。新聞も本もよく売れた、映画全盛の時代だったからもあるだろう。
 随筆で痛風に悩まされていることを書いていた。うまいものを沢山食べて、お酒もいっぱい飲んだのだろう。でも根が丈夫だから食べられたし飲むことができたのだろう。

 Wikipediaの石川達三の写真は私が嫌いなゴルフをしている姿が写っている。、全集に載っている何枚もの写真もその全部が、わざとらしいポーズで格好をつけたり(特に『蒼氓』のきっかけになったブラジル行きの船での写真)、人を見下したような上から目線でこちらを見おろしている。仲良くなりたくない顔つきだ。石川達三は背が高いから上から見下ろしているような目線に写ってしまうのかもしれないが。

『日陰の村』を読みながら、小河内村の村長は馬鹿だなと思った。ダムを誘致するのは百歩譲って仕方がなかったかもしれないが、誘致が決まっただけで移住の年日はまだ決まっていないのに来年の耕作をしないでいいと思うその頭の悪さが不自然で、うまく小説の中に入り込めなかった。案の定、来年の作物の苗を植えないことが小河内村が苦しむきっかけになった。すぐにわかる底の浅いストーリーだ。それが通俗的な文学作家だといわれたのだろう。
 原発の誘致のことも連想した。登場人物の役人や政治家はずるがしこく描いてある。税金で飯を食っている人間というものはずるいものだというのは大昔からそうなのだ。いや小説に出てくる商人も、庶民も自分のことしか考えていない。人間ってのはずるくて馬鹿なんだなあと、あらためてわからせてくれた小説だった。

『生きている兵隊』のその残虐だといわれている描写は自然に読めた。戦争なのだからそういうふうに殺すだろうと思った。人間というのは古今東西、そういうふうに殺し合いをしてきたのだから。
 日本国内では、南京大虐殺という事件があったかなかったかということが問題になっているらしいが、戦争なんだもん、普通の精神状態じゃないんだもん、人間がそもそも持つ残虐さ、泥棒根性から考えれば、殺した人数ははっきりわからないが、その事件はたぶんあっただろう。だって戦争になってしまえば誰もが普段の精神状態で行動できなくなるのだから。だからこそ絶対に戦争はしちゃいけないのだと思う。石川達三は『生きている兵隊』を書いたせいで戦争時の警察から逮捕されて裁判で執行猶予つきの有罪になっているし、戦後になっても南京大虐殺がなかったと主張している人間たちから良く思われてないようだが、石川はこの小説で、人間とは何かというただそれだけを書きたかっただけだろう。それが純文学であり芸術なのだから。

『蒼氓』も、『日陰の村』も、『生きている兵隊』も、主人公がいないような小説だ。こういうのは初めて読んだ。だから最初は小説の中に入り込めないのだ。それでもいつのまにか、登場人物だけでなく読んでいる私も、怒ったり喜んだり悲しんだりしていた。小説を読みながら笑ったりうれしがったりしている私もいた。

 小説の中の評論めいた文章のところを読むと、石川達三はすごく頭がいい人だとは思う。いろんな角度からものを考えられる人だ。それが小説がおもしろくなるかどうかは別だけれど。
 石川達三は随筆で、自分の小説は評論家から説教小説だと言われていると書いているが、石川という人は、心の中からいくらでもあふれ出てくるほど正義感のある人なのだと思う。『私ひとりの私』を読むと、小さい頃から勉強も運動もできて、背も高くて、何をやらせても優秀な子どもだったのだろう。そういう子は何かのはずみで理想主義者になるだろう。世の中の不正が許せなくなるだろう。石川達三はそういう人だったと思う。自分で言うのも何だが、背は小さいが、私もそういうタイプになってしまっていると思っている。それが豊かで幸せな人生を送れるかどうかは別問題なのが困ってしまうのだ。
 石川達三の小説や随筆を読めばわかるが、石川は理想主義者だから世の中の不正を追求したいという気持ちがありすぎたのだろう。自分の理想を追求したいと思ったのだろう、社会のために役に立ちたいと思ったのだろう、戦後に国会議員に立候補もしたそうだ。落ちたけれど。私も理想主義者だから石川達三の気持ちがわかる。でも私は世の中のほとんどの人間たちのずるさが見えてしまって、世の中の人のためになりたいなんて思わない。お前らは勝手にずるく生きろ、俺のほうは勝手に自分の流儀の誠実さを追い求めながら生きるから、お互い迷惑をかけない範囲で勝手に生きるだけだ、できるだけお互い近づかないで関係ないところで生きるだけだ、と思っている。そうやって生きるのは、幸福なのか不幸なのかはわからない。自分では自分を、幸せだと思ったことはない。でもこういうふうにしか生きられないのだから仕方がない。こんなふうに生きているのは俺だけだな、と寂しさは感じている。でももう慣れてもいる。慣れたと思いこんでいるだけなのかもしれない。石川達三は自分の生き方をどう思っていたのだろうか。

 いまの私はもう、石川達三の小説は満腹になっている。二ヶ月間も石川達三だけにどっぷりひたってきたのだ。全集の胡麻粒みたいな小さい文字を追ってきたのだ。目も疲れている。もう読みたくない。でも石川は『経験的小説論』の中で、『約束された世界』という小説を自分の新境地のものだと書いていた。
 それと『創作ノート・其の他(人間の壁のノート)』は、どんなふうに『人間の壁』という小説ができていくかをイメージさせてくれた。
 だから『人間の壁』と『約束された世界』の二作品は、もうすこし時間がたって、また石川達三を思い出したころに、あの長い理屈っぽい小説が私の腹の中に入るすきまを感じたときに、読んでみようと思っている。

『苦心の学友』をネットで元旦に読んだ

 今朝、青空文庫のサイトを見たら、今年に著作権が切れる作家のものが何人か出ていて、その中で見おぼえのある名前があった。佐々木邦で、苦心の学友だった。
 読んだのは中学生だったと思う、小学校のときではないと思うがわからない。もしかしたら高校生のときかもしれない。でもたぶん中学校のときだと思う。

 読みはじめて、主従とか家来とかという言葉が出てきて嫌な気持ちになった。それで小説の世界にうまく入り込めなかった。それは初めて読んだときには思わなかったことだった。私がオトナになって、そういうことを憎むようになったからだろう。
 でも半分くらい読みすすんで、作者はところどころ照彦のことも華族のことも批評的に書いて客観視しているし、だから佐々木邦は封建主義者ではないとわかったから、作者を信用できたから、やっと素直になれて小説の世界観に入り込めた。

 この小説は、作者とタイトルとその中身のイメージだけは憶えていたけれど、こまかい筋は忘れていた。だから読んでいて、これから何がおこるかわからないから、かえっておもしろかった。だけど不思議なことに、小説のなかの文章の一つひとつはおぼえていたのだ。読みすすめるうちに、この文はこうだった、ここのところの文はこうだったなと、一つひとつの言葉をはっきり思い出しながら読んだ。デジャブーみたいな、ひょんなひょうしに昔見た幸せな夢を思い出したような心もちで読んでいった。

 小説の分量が長いから、朝から一日がかりで読んで、夕方すぎのさっき読み終えた。何か所かで泣いた。子どものときに読んだときも同じところで泣いたなと思い出しながら、同じように気持ちよく涙が出た。
 私が嘘や卑怯を憎みすぎるようになって世間のほとんどの人間と上手にまじわれなくなったわけの一つが、この小説を読んだせいだ。それでも後悔はしていないし、かえって気持ちがいいのだ。

戊辰戦争と江戸時代の経済のことを考えたこと

 今年の夏にふと戊辰戦争のことに興味がわいて、それも武士ではなくて百姓の視点から見た戊辰戦争を知りたくなって、そういうことが書いてあるホームページや本を捜した。探し方がわるかったのか知りたいことが書いてあるサイトも本なかった。
 少し関係がありそうな本を図書館で見つけたから読んでみた。一人の大学教授が書いた6冊の本だった。6冊は、題名はそれぞれぜんぜん違うのに、内容はほとんど同じだった。文体は幼稚で、中身も浅いものだった。
 これは編集者が目を通してないのだろう、だから小学生が書いたような文章なのだろう、ということは自費出版なのだろうか、そう思ったから、その本を出している一つの出版社をネットで調べたら、自費出版の商売をしている会社の子会社が発行元だった。でも6冊は全部違う出版社で、他の本は自費出版をしている会社だけでもなかった。
 その6冊の本を読んでいると、文体は幼稚なくせに上から目線で腹が立つのだが、あとがきに、大学で自分が教えていることをそのまましるしたと書いていた。だから生意気な口調なのだなと思った。そしてたぶんその本は、自分が教えている学生たちに買わせて、授業の教科書がわりにしているのだろう。大学には毎年新しい学生が入学してくるから、ひとりよがりの内容の本でも、毎年一定数が売れるわけだ。いい商売だ。
 こういう本を臆面もなく何冊も出すというのは、自分が書いたものの中身のなさや底の浅さを、その大学教授は自覚していない。今までうすうす思っていたけれど、大学教授などというのは頭が悪いものだなあと、あらためてはっきりわからせてくれたのが、この大学教授が役に立ったことだった。

 百姓から見た戊辰戦争というものを知ることはあきらめて、江戸時代の農民のことが書いてある本を他に何冊か読んでみた。そうしたら今まで漠然と思っていた百姓と、実際の百姓というのは違うものなのだと知った。江戸時代の百姓は、それほど社会でしいたげられていた階級ではなかったし、生活も食うや食わずで生きていたわけではなかったらしい。住んでいる家も、掘っ立て小屋みたいなものでなく、贅沢ではないがちゃんとした一軒家に住んでいたらしい。一揆も少なくない回数をおこしたり、訴訟もよくやっていたそうだ。訴訟の書類に五六人の百姓たちの印鑑が押してあるものの写真が本にあって、その頃には百姓だって印鑑というものを使っていたのには驚いた。
 現代の集落というのが、江戸時代で村といっていたものらしい。それでオートバイで下越と中越の、いくつかの昔ながらの集落の中の道を走ってみた。注意してよく見ると、その一軒一軒の家の敷地はたぶん江戸時代のそのままの敷地だと思うが、どれも広いものだし、その家の建坪も江戸時代の頃と同じくらいだと思うが、けっこう立派なつくりだった。
 百姓というのは自分が作った米のほとんどを武士に取られて、年中アワやヒエを食べるしかなくて、一間か二間の小さい小屋みたいなものにさむざむと暮らしていたのだと思っていたけれど、本当は衣食住もしっかりしたもので、季節季節の祭りもあって、あんがいと生きることを楽しんでいたのだろう。
 そうして百姓というのは、その村の中で、領主からと寺からと村のほかの百姓から、その村に住んでいてもいいよと存在を認められたもので、その家の戸主だけを百姓といっていたらしい。だから百姓という呼び名は、本人にとってはプライドがある呼称だったのだろう。

 江戸時代の年貢のことを読んで思ったのだが、江戸時代というのは、大名の参勤交代や江戸勤めによって、地方の各地で生産された資産が江戸に集められて、江戸文化が発展したのだと思う。大名の年間予算の20%が参勤交代の費用で、40%が江戸屋敷の経費だったらしい。地方の村々でとれた米や商品作物の半分くらいを、百姓から年貢として大名が取り、その中の6割の資産、価値が江戸に集められる。ということは日本中の農民たちが汗水たらして作り出した価値の30%が江戸に集中して運ばれて使われたのだから、江戸の町が栄えたのは当然だろう。そのほかに幕府の直轄地の年貢も江戸に来る。江戸は人口世界一の都市だった。

 武士は農民から取り上げた年貢の米を売って現金を得なければならない。ということは米のエンドユーザーは町民だ。だから米を買ってくれるお客様である町民の人口は、ある程度必要だっただろう。地方の米という資産が江戸に集まったから江戸に町民が増えたのだろうし、その人たちが米を食べるために米を買ってくれるから、武士も米を売ることができて生活できたのだろう。
 武士たちが生活するには、家の修繕、食料を買う、外食をする、衣類を買う、芝居を見る、酒を飲む、女を買う、金を借りる、貨幣の両替を依頼する、そういうサービス産業が必要だから、町民は町民からも武士からも小売や手間賃仕事のたくさんの需要があって、そうしてその仕事をして生活して、そして町人も米の最終消費者として武士のお客にもなって、そうやって経済がまわっていたのだろう。
 江戸時代のことが書いてある本を読んで、そういうことを考えさせてくれた。

三浦由紀江という人のビジネス書を読んだこと

 三浦由紀江という人の書いたビジネス書を読んだら共感した。
 内容に共感しただけじゃなく、三浦という人の書く文体が気持ちよかった。素直なのだ。正直な子供が飾りけなく自分の気持ちをあらわしているような文章なのだ。
 そのすぐ前に純文学の本を読んだのだが、感覚がするどいという方向だけにむかった言葉の羅列で、中身が何もなくて、ただ当たり前のことを得意げに書いている小説を読んで、そいつにうんざりしていたところに三浦由紀江の本を読んだから、よく眠って起きた、晴れた朝のような気持ちになれたんだ。
 世の中の純文学もビジネス書も、そのほとんどが馬鹿でつまらない中身の本ばかりなのだけれど、何年かにいっぺんぐらい感動するものを見つけて、自分が生まれ変わったような気持ちになれることがあるから、読んでいる。

 三浦由紀江という人の『1年で売上を5000万アップさせたパート主婦が明かす奇跡のサービス』本の中でメモすべきところを写しておく。

「お客様に声をかけるときは、作業をしながらかけてください。かしこまった感じでお客様に近づき、どのようなものをお探しですかと声をかけたら、お客様は身構えてしまいます。」

「店長にとっては発注業務もノートをつけるのも、普段のパート業務以外の仕事になりますが、その分、店長手当てとして毎月決まった額を支給することにしました。超過勤務にすると、家で仕事をする人は損をするし、仕事の遅い人のほうが稼ぐことになってしまうので不公平です。そこで一律に店長手当てをつけることにしたのです。
 この仕組みをつくることで、スタッフのモチベーションは上がりました。自分たちが好きなものを売って、なおかつ店長手当てをもらえるのですから当然です。」

「報告はできるだけ早いほうがいいと思ったのです。会った人や見たことの感想はその場で書いておかないと、会社に帰ってきたら忘れてしまいます。訪問直後にメモした文章にはわれながらものすごく臨場感がありました。そういう文章は後で書こうと思っても絶対書けません。」

 三浦由紀江という名前でググッたら、何年も前からメディアに取り上げられていたようだ。そして最近病気になったようだ。良くなってほしい。
 三浦由紀江は俺の好きな気持ちの人だし、俺の好きな顔の美人だ。

島尾敏雄『東北と奄美の昔ばなし』という本を読んだ

 初めてのお客さんから注文を受けて部屋の掃除と修繕に行ったら、そこの本棚にあって、島尾敏雄ので見たことのない本があったから、読みたくなって、借りた。

島尾敏雄『東北と奄美の昔ばなし』

 目次を書いておく。

 東北の昔ばなし
 まえがき
 地蔵の耳 11
 正直正兵衛 25
 縁結びの神様 39
 ほととぎす 53
 笛市 63
 壷の宝 75

 奄美の昔ばなし
 蛇性の姉 91
 猫女房 95
 妹と妻 99
 夫と妻 103
 舌きり娘 107
 三人の娘 111
 継母継娘 115
 二人のわかもの 119
 三人兄弟 123
 奄美のユリワカ 127
 鬼と四人の子ら 133
 あとがき 149
 ●付=語り聞かせ 鬼と四人の子ら(レコード)

 奥付け
 一九七三年四月五日 第一刷発行
 定価 九八〇円
 著者 島尾敏雄

 発行者 竹内達
 発行所 株式会社 創樹社
 東京都文京区湯島二-二-一 〒一一三
 電話 東京 八一五-三三三一~二
 振替東京一五四五八〇

 印刷・清和印刷 製本・関川製本

 落丁・乱丁本はおとりかえいたします

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 奄美の昔話は、登場人物が欲望のためにすぐ人を殺す話ばかりだった。未開の南国の島というのは、こういう野蛮な人たちが住んでいたところなのだろうか。それとも島尾が、ことさらそういう話を選んで載せたのだろうか。それとも大昔というのは、奄美だけでなく日本の本土のそこらじゅうに、いや世界中に、親兄弟のあいだでも、すぐに人が人を殺すことなど当たり前に日常のなかにあったのだろうか。

 この本は私家版だった。だから私は見たことがなかったのだった。
 勇気を出してお客さんから本を借りて、読んでよかった。
 付録のレコードは、YouTubeにアップされていて聴くことができた。でも沖縄の方言なのだろう、言葉は聞き取れなかった。

虫眼鏡で読書

 このごろは昔のマイナーな作家の全集の本を読んでいるのだが、そういう昔の小説は旧かなづかいで、今は使わない漢字を書いているし、文体もくどいような感触で、まだるっこしくて、読みすすめるのに時間がかかる。それに本は厚くて、重くて、そうして文字が小さい。一文字が胡麻一粒くらいの活字だから、ど近眼で、乱視で、老眼になってきた目には、古い紙に文字が溶けかかっているようで、ぼやけて見えないのである。
 パソコンで見る文字はそれほど見えにくいことはない。紙の上の文字が見えないのは、歳で目が明るさを感じられなくなっているのだろう。パソコンのモニターは光ってくれるから、文字は黒くて、文字以外のところが光っているから、文字の黒さのコントラストがはっきりして、見えやすいのだろう。

 このあいだ百円ショップで虫眼鏡を買ってきた。それが役立っている。全集の本の細かい文字の上に天眼鏡をあててみると、文字が紙から浮き上がって、大きくなって見えるのである。でも天眼鏡は重いから、しばらく読んでいると手が疲れるのだ。そういうときは、右手で持っていたのを左手に持ちかえたりして、手の疲れを分散している。
 いつも眠る前にベッドで本を読むのだが、仰向けや横向きで天眼鏡は使いづらい(そしてそういうことは今まで知らなかったことで、人生の中の新しい発見なのだ)。だからこのごろは、寝床の読書はしなくなっている。

ラジオでO.ヘンリーを思い出した

 NHK第二放送でOヘンリーの番組のシリーズがあって、ずっと聞きつづけてきて、今夜の放送が最終回だった。
 放送の話者は作家について、何ほどのことも言っていなかったが、私がO.ヘンリーを、私が少年といっていい年頃のときに読んだことを、私に思い出させてくれた。
 O.ヘンリーという人は、ヒューマンでユーモアを書く短編作家というのは私は思っていたが、ラジオの話者のいい分では、そのとおりらしいけれど、さらにもっと奥深い中身があるらしいのだった。話者の言うことを聞いていたら、あのころ読んだことの記憶に残っていた細部を思い出して、そうなのだなあと納得した。 
 でもラジオで言っていて初めて聞いたO.ヘンリーという人の、私の知らなかった人となりは、貧乏で、わがままで、妻と別れたり、人と喧嘩したり、逮捕されたりして、ずいぶん俺と似ていると思った(ちなみに私は離婚はしていない。結婚もしていないから離婚はできない)。
 ラジオを聴いて、そしてO.ヘンリーのWikipediaを見て、そうしたらO.ヘンリーを、アメリカにいる自分の生まれ変わりみたいに思ってしまって、O.ヘンリーのほうがとっくの先に生まれているのに、会ったこともないのに、おれが死んだらおれの代わりにおれの生きたいように生きてくれる人みたいに思ってしまって、O.ヘンリーをもういちど読んでみようかなと思った。

安岡章太郎のラジオ

 ほぼ毎日聞いているNHKラジオの第二放送の番組が、今日から安岡章太郎をとりあげている。夜八時半から始まるから毎日聞けるのだ。カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブスという番組だ。
 大昔テレビに安岡章太郎が出ていたときに見たことがあって、声をきいたのはそれ以来二回目だ。たしか日曜美術館だったと思う。それかクラシックの番組だったかもしれない。
 今夜の声は鼻にかかって、でも力強くて、女の人が聞いたらセクシーな響きに聞こえるだろうと思った。昭和四十八年の録音だそうだから、安岡の五十代半ばの声だ。
 偶然だが連休前に図書館から安岡の本を何冊か借りてきていて、今読んでいるところだ。
 安岡章太郎の本はすべて読んでいると思っていたけれど、何冊かは私の知らない本が出ていた。エッセイだったり、編集者に喋ってそれを編集者が文字にしたものだ。あいかわらずおもしろいと思いながら読んでいる。ラジオも四週も続くらしいから聴くつもりだ。

岸田秀『唯幻論大全』

『唯幻論大全』は、岸田秀の全集というような本だ。
『唯幻論大全』岸田秀
 私は岸田の本はすべて読んでいると思っていたけれど、この本の中の三つの章は初めて読むものだった。その一つは書き下ろしだった。その三つの章は第一部の自我論の中にあった。自我論は岸田が自分のことを書いた小説のような文だ。
 あとがきでも岸田はこう書いている。
「今では、それほど欝状態に陥ることはないが、電車に乗っているときなど、ふと死んだ日本兵のイメージが浮かんできて、涙がにじんでくることがある。敗戦からもう三分の二世紀を過ぎているが、十代で心に刻み込まれた印象は生涯消えないようで、死んだ日本兵たちはまだわたしの心のどこかに住みついているらしい。はじめは、欝状態に陥るのは治さねばならない変な病的症状だと思っていたが、治らないので、その後は、光栄ある名誉の戦死を遂げた兵士もいたであろうが、多くは惨めな死を死んだ日本兵のイメージ(幽霊?)に取りつかれた者が日本人の中にいてもおかしくはないだろうと考えて、抵抗しないことにしている。」
 もう八十歳になろうとする老人でさえ、そして私は世界の精神分析学の天才だと思っている岸田秀でさえ、日常のふとしたところで、自分の長年の神経症で、苦しんでなのか、つらさなのか、それとも別の感情なのか、それで涙を流すというのは、ある清らかなあきらめの心で、そおっと自分を包みこむことが、自分を救うことになるのだろうかと思った。
 その場所の文章を読んで、岸田秀をますます尊敬して、ますます好きになった。

 第三部のセックス論は、十五年くらい前に月刊の文芸誌に連載されていたときに読んでいたが、第一部の自我論と第二部の歴史論ほどには、私には身につまされなかった。だが岸田が言うキリスト教と資本主義とセックスとの関係は発見だった。

 自我論は私小説としておもしろかったし、そうして歴史論は私の神経症の解決のヒントになるようで、その二つは、つっかえつっかえしながら考えながら、カーテンを引いて部屋を暗くして、スタンドの明かりだけで読んだ。夜中に読むときは枕元のスタンドをつけて、布団の中で胎児のような格好で読んだ。

ものぐさ精神分析で、また暗いところが怖くなくなった

 ものぐさ精神分析を読みかえしたら、自分の部屋の夜の暗さが怖くなくなった。二十年前に初めて読んだときも、おばけが怖くなくなったのだ。
 人間にかんすることのすべてのことは幻想なのだという岸田秀の理論は、いろんな神経症をもつおれを、やっぱり生まれかわらせてくれる。
 暗いところが怖いということは幻想なのだし、おばけというのも幻想なのだと理解して納得したら、幻想というのは事実ではなくて、自分が思いこんでいるだけであって、実際には無いものなのだということだから、暗がりが怖いことは自分が思いこんでいるだけであるのだし、お化けというものも実際には無いものなのだと腹におさまるのだ。そうすると理屈屋のおれは自分で納得した理屈で、暗がりもお化けも怖くなくなることができるのである。ありがたいことだ。

 でも読みおわって図書館に本を返したら、夜トイレに行くときにキッチンの暗がりが、またすこし怖くなった。本がお守りみたいになっていたのかもしれない。
 ならばお守りとして本を買って、体の近くにおいておこうかと思ってインターネットで値段を調べたら、文庫本は980円だった。高いと思った。でもこれからずうっと使えるお守りだと思えば安いかなと思いなおした。
 また暗いところが本当に怖くなりはじめたら買おうと思う。

 このあいだユーザー車検をしたが、車検の最後で機械で車ごと高い場所に持ち上げられて車の下まわりを検査されるのだが、高所恐怖症のおれはそれがいつも怖い。普段見ない上からの景色で、そして車を持ち上げている機械が倒れて、車ごとおれが地面にたたきおとされるのじゃないかと、心配で心配で心臓が大きく脈打って、体のあちこちから変な汗が出て、めまいがして、検査官の指示する言葉が聞こえなくなるほどなのだ。
 でも今回は、すこしは怖いは怖いのだが、今までほどは怖くなくなっていた。ものぐさ精神分析のおかげだと思った。唯幻論で、高所恐怖症も治るようだ。

 しかし、今回読んだ本は、二十年前に読んだ本とは違う内容だと思った。前に読んで憶えていたのは、国家論の章と、岸田の私小説のような章だけだった。それ以外は初めて読む内容だと思った。改訂版とかいてあったから、全面的に書き直したのかもしれない。でも、昔読んだ中身を、おれが忘れているのだろう。
 読みながら新しい発見ができたのは、憶えていなかった章だった。とくに自我が時間を発明したところは納得した。哲学書で時間のことを書いてあるのを読んでも、いつもちんぷんかんぷんでわからなかったのだが、岸田の時間の論はわかりやすくて納得できた。だけれど昔に読んでいたのだろうけれど忘れていたのは、ほんとうに忘れていたのか、岸田が書き足したのかはわからない。
 それから、岸田の私小説ふうの章は、文章のぜんぶを憶えていた。それほどおれには身につまされる内容だった。それは岸田の純文学なのだと思った。おもしろいのだ。

 中公文庫の本の中で発見をして、しおりを挟んだページをメモしておく。
 p220 p232 p312 p346
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