宮沢賢治
『告別』 1925(大正十四年)
おまえのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴っていたかを
おそらくおまえはわかっていまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のようにふるわせた
もしもおまえがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使えるならば
おまえは辛くてそしてかがやく天の仕事もするだろう
泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがように
おまえはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管とをとった
けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
おまえの素質と力をもっているものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだろう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材というものは
ひとにとどまるものでない
ひとさへひとにとどまらぬ
言わなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう
そのあとでおまえのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまえをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらいの仕事ができて
そいつに腰をかけてるような
そんな多数をいちばんいやにおもうのだ
もしもおまえが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき
おまえに無数の影と光の像があらわれる
おまえはそれを音にするのだ
みんなが町で暮らしたり
一日あそんでいるときに
おまえはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまえは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌うのだ
もしも楽器がなかったら
いいかおまえはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいい
※
賢治よ、ぜんぶ写して、ゴメン。
ちからのかぎり自分の楽器をそらいっぱい
ダガシは早●●好き
まだ掃除屋さんに勤めてたときに、そこの社長と一緒にお昼を食べてた時に、
「ダガシ、お前は食うのが早いねえ。それじゃ駄目だよ。皆と一緒のスピードで、皆ともっと会話しながら食べなきゃ、大人じゃないよ」と言われてさ、それまでも僕は自分で、俺は早食いの大食いだと自覚してたから、それから人とご飯食べるのに何だか躊躇してしまう気持ちになることあったんだ。
それがきのう、石原慎太郎の『オンリー・イエスタディ』という本読んでね、その本の中で、石原慎太郎が若いころ師匠筋の人に言われた言葉で、
「あなた、そんなにゆっくり食べていて、飯が美味いですか。食事は早く食べないと美味しくないでしょうに」実は私(石原)自身はかなりの早飯なのだが、森さん(ある会社の社長)にいわれて、その通りだと感じいったものだった。…と書いていたな。
それ読んで僕、早食いでも、いいんだな、早食いのほうが、やっぱり美味く感じるんだよな、と思わせてもらったよ。
まあ、僕の勝手な言い分とは思ってるけどさ、ハハ。
世間では、それが善いか悪いかは置いといてさ、早食い、早○○、早●●、…と言うんだから、早いのは、まるっきり悪いことじゃないぞと、思わせてもらったなあ。
そもそもダガシは、皆と一緒てのが好きじゃないから、つい、早い●●に、なってしまうのかね。
「ダガシ、お前は食うのが早いねえ。それじゃ駄目だよ。皆と一緒のスピードで、皆ともっと会話しながら食べなきゃ、大人じゃないよ」と言われてさ、それまでも僕は自分で、俺は早食いの大食いだと自覚してたから、それから人とご飯食べるのに何だか躊躇してしまう気持ちになることあったんだ。
それがきのう、石原慎太郎の『オンリー・イエスタディ』という本読んでね、その本の中で、石原慎太郎が若いころ師匠筋の人に言われた言葉で、
「あなた、そんなにゆっくり食べていて、飯が美味いですか。食事は早く食べないと美味しくないでしょうに」実は私(石原)自身はかなりの早飯なのだが、森さん(ある会社の社長)にいわれて、その通りだと感じいったものだった。…と書いていたな。
それ読んで僕、早食いでも、いいんだな、早食いのほうが、やっぱり美味く感じるんだよな、と思わせてもらったよ。
まあ、僕の勝手な言い分とは思ってるけどさ、ハハ。
世間では、それが善いか悪いかは置いといてさ、早食い、早○○、早●●、…と言うんだから、早いのは、まるっきり悪いことじゃないぞと、思わせてもらったなあ。
そもそもダガシは、皆と一緒てのが好きじゃないから、つい、早い●●に、なってしまうのかね。
阿川佐和子の気持ち良いワンパターンを楽しむ
このブログの一つひとつの文の終わりは、よとか、ねとか、さとか、だとかで終わるように書いてるけど、僕の好きな阿川佐和子のエッセイ読んで、あのスッキリ、サッパリした感じの文体で書きたいな、とときどき思うことも、あるんだ。
といってこのブログは手紙なんだから、たで止めるのはチガウだろうと思うんだけどさ。
それでもう一つブログ作って、たとか、であるとか、で終わる文で書こうかなと、チラッと思ってみたんだけど、二つも書けるほどエネルギー続かないから、やっぱり新しいの作るのは、やめました。
それで今日、パソコンの縦書きソフトを使って、阿川佐和子のエッセイを一つまるまる書き写してみたんだ(そのエッセイは、ぜんぶで1600字で、書き写すだけだったら20分で写せたよ)。
そうしてみたらね、阿川佐和子の文体、(ナイショだけど)単調だと思った(スミマセン、ハハ)。
それに本の中の一つひとつのエッセイの、構造というか起承転結というかが、ほとんどみんな一緒なんだな。
書き始めの文章と、それに続く内容と、途中での想いの変化と、それとサッパリとした終わり方。
といって僕は阿川佐和子の書くものを嫌いになったり軽蔑したりしてるわけじゃあないんだよ。
そのワンパターンみたいなものが、なんだか心地いい感じ、するんだな。
それに阿川佐和子のものの考え方、感じ方が、僕に似てるような、気もするしさ。
おっちょこちょいだけど、曲がったことが嫌いで…。阿川佐和子はそんな人だと、僕は読みながら勝手に思ってるんだ。
他に僕が好きな人は、田辺聖子だったり曽野綾子だったり白洲正子だったり、他にも名前がすぐ出てこない何人かの女の人の作家がいる。
その人たちのすべてが、阿川佐和子に似てるし、僕にも似てると、これも勝手に思いながら読んでるんだ、ヘヘ。
でもさ、阿川佐和子の文章を書き写してみて思ったのは、自分が楽しく読んでいるエッセイの、その文体や構造を分析して、批評してみても、始まらないなあ、と思ったよ。
だって、単純に、好きなんだもん。
だから、その気持ちいいワンパターンを、これからももっと、楽しもうかな、と思いました。
といってこのブログは手紙なんだから、たで止めるのはチガウだろうと思うんだけどさ。
それでもう一つブログ作って、たとか、であるとか、で終わる文で書こうかなと、チラッと思ってみたんだけど、二つも書けるほどエネルギー続かないから、やっぱり新しいの作るのは、やめました。
それで今日、パソコンの縦書きソフトを使って、阿川佐和子のエッセイを一つまるまる書き写してみたんだ(そのエッセイは、ぜんぶで1600字で、書き写すだけだったら20分で写せたよ)。
そうしてみたらね、阿川佐和子の文体、(ナイショだけど)単調だと思った(スミマセン、ハハ)。
それに本の中の一つひとつのエッセイの、構造というか起承転結というかが、ほとんどみんな一緒なんだな。
書き始めの文章と、それに続く内容と、途中での想いの変化と、それとサッパリとした終わり方。
といって僕は阿川佐和子の書くものを嫌いになったり軽蔑したりしてるわけじゃあないんだよ。
そのワンパターンみたいなものが、なんだか心地いい感じ、するんだな。
それに阿川佐和子のものの考え方、感じ方が、僕に似てるような、気もするしさ。
おっちょこちょいだけど、曲がったことが嫌いで…。阿川佐和子はそんな人だと、僕は読みながら勝手に思ってるんだ。
他に僕が好きな人は、田辺聖子だったり曽野綾子だったり白洲正子だったり、他にも名前がすぐ出てこない何人かの女の人の作家がいる。
その人たちのすべてが、阿川佐和子に似てるし、僕にも似てると、これも勝手に思いながら読んでるんだ、ヘヘ。
でもさ、阿川佐和子の文章を書き写してみて思ったのは、自分が楽しく読んでいるエッセイの、その文体や構造を分析して、批評してみても、始まらないなあ、と思ったよ。
だって、単純に、好きなんだもん。
だから、その気持ちいいワンパターンを、これからももっと、楽しもうかな、と思いました。
河合隼雄『紫マンダラ』読んで
紫式部の『源氏物語』の僕にとっての新しい解釈を、河合隼雄が書いてたのを読んだ。

時間かかったけど、やっと読んだよ。
源氏物語の登場人物の女たちは、その全部の女たちは、紫式部の分身であり、紫式部は源氏の女たちを描くことによって式部自身、自分自身を表現しているのである、って河合は書いてたな。
そうして、物語の女たちの生き方を、光源氏という一人の男を通して見ることによって、女たちを、いや紫式部自分自身を、表現していたんだ、という解釈。
それはもしかして河合だけが言っていたのじゃないのかもしれないけど、でも今までの作家たちは言わなかったことだと思うんだけどさ。
それもダガシのモノシラズのことかも、しれないけどさ。
でも僕にとっての新しい見方おしえてくれたから、とってもおもしろく読んだんだけど…、でもそれが読むの難しいから、またつっかえつっかえしながら、進んだよ。
古文の点数赤点だった僕は源氏物語の原文は読めないから、現代語訳の源氏をいつか、読んでみようかなと、思いました。

時間かかったけど、やっと読んだよ。
源氏物語の登場人物の女たちは、その全部の女たちは、紫式部の分身であり、紫式部は源氏の女たちを描くことによって式部自身、自分自身を表現しているのである、って河合は書いてたな。
そうして、物語の女たちの生き方を、光源氏という一人の男を通して見ることによって、女たちを、いや紫式部自分自身を、表現していたんだ、という解釈。
それはもしかして河合だけが言っていたのじゃないのかもしれないけど、でも今までの作家たちは言わなかったことだと思うんだけどさ。
それもダガシのモノシラズのことかも、しれないけどさ。
でも僕にとっての新しい見方おしえてくれたから、とってもおもしろく読んだんだけど…、でもそれが読むの難しいから、またつっかえつっかえしながら、進んだよ。
古文の点数赤点だった僕は源氏物語の原文は読めないから、現代語訳の源氏をいつか、読んでみようかなと、思いました。
あの人が死ぬのなら怖くない…と思うから尚更死んでほしくないと、思う気持ちは矛盾?
吉行さんが死んだら、俺も死ぬのが怖くなくなった、という意味のこと言ったというのを読んで納得して共感して、そうかなるほどそういう想いもあるかもなあ、と思わせてくれたその言葉言った作家が村松友み(ともみという本当の漢字がパソコンで出ないからひらがなで書くけど)だけど、村松ともみという作家の小説読んだことないけど、僕の神様の一人の…ええと…、ああ、こういう時に限って名前が出てこないけど『富士日記』書いた人…ああそうだ思い出した武田百合子だ、僕にとっては武田百合子のこと書いてくれただけの作家なんだけど(ゴメンナサイ、村松ともみ…)。
そしてね、吉行というのは吉行淳之介だよ。
それでさ、さいきん僕、吉行に関すること書いてある本、どうしてかまた読んでるんだ。
そうしてね、吉行の文章を最後に読んでから十年ぶりぐらいに読み返してみたらね(でも本気になって読んでたのは二十歳くらいの時だったな)、そして久しぶりに読んで、なあんだこれ、何てことない文章だな、何の飾りもない何の変哲もない、ごくごく本当にノーマルな、すなおな、文章だなあ、…でもそれだからこそなのかな、僕にとっては、すっ、すっ、と自分のからだの中に入ってくるような、文章なんだなあ、だからなんだろな、あの頃のひねくれダガシにも、すっ、すっ、とダガシの体に、すんなり入ってこられた文章だったんだなあ、と思える文体なんだよね、吉行淳之介の文体ってのはさ。
それからそしてね、村松ともみの、「吉行さんが死んだら、自分も死ぬのが怖くなくなった」という言葉…。
僕のばあいは、父さんが死んだなら、僕も死ぬのが、怖くなくなるだろかな…、と思う。
そうして、でも、良いのか悪いのか、生き物としての自然さとか善悪とかは置いといて、父さんにはずっと生きててほしいと、思ってしまう…。これは同性というか同じ男としてだからだと思うんだけど、そして善悪超えてるのかどうか分からないけど、ずっと生きててほしいと思うのは、僕の身勝手なのだろうな、わがままなんだろうな、僕が生き物として人間として未だ、未熟な証拠なんだろうな、とも思うんだけどさ。
そしてね、吉行というのは吉行淳之介だよ。
それでさ、さいきん僕、吉行に関すること書いてある本、どうしてかまた読んでるんだ。
そうしてね、吉行の文章を最後に読んでから十年ぶりぐらいに読み返してみたらね(でも本気になって読んでたのは二十歳くらいの時だったな)、そして久しぶりに読んで、なあんだこれ、何てことない文章だな、何の飾りもない何の変哲もない、ごくごく本当にノーマルな、すなおな、文章だなあ、…でもそれだからこそなのかな、僕にとっては、すっ、すっ、と自分のからだの中に入ってくるような、文章なんだなあ、だからなんだろな、あの頃のひねくれダガシにも、すっ、すっ、とダガシの体に、すんなり入ってこられた文章だったんだなあ、と思える文体なんだよね、吉行淳之介の文体ってのはさ。
それからそしてね、村松ともみの、「吉行さんが死んだら、自分も死ぬのが怖くなくなった」という言葉…。
僕のばあいは、父さんが死んだなら、僕も死ぬのが、怖くなくなるだろかな…、と思う。
そうして、でも、良いのか悪いのか、生き物としての自然さとか善悪とかは置いといて、父さんにはずっと生きててほしいと、思ってしまう…。これは同性というか同じ男としてだからだと思うんだけど、そして善悪超えてるのかどうか分からないけど、ずっと生きててほしいと思うのは、僕の身勝手なのだろうな、わがままなんだろうな、僕が生き物として人間として未だ、未熟な証拠なんだろうな、とも思うんだけどさ。
読書好きは本好きじゃないし図書館好きでもない
きょう夕方クルマ運転しててラジオ聴いてたら、新潟市長が中学生と語るって催しで、新潟市のある区に(あえて何区だかは書かないけど)図書館をつくってほしい、なんて言ってる人間がいる、と聴いて、…ああ、またか、建物つくれ箱モノつくれ(道路もバンバンつくれ)、という人が、大勢いるんだなあ、と思いながら聴いてたよ。
言っとくけど、図書館なんて、新潟市に腐るほど建ってるよ。いったいいくつあるのか、数えるのに困るくらいだよ。
そしてその図書館に集まる人間ってのは、図書館を喫茶店がわりに使おうって連中ばかりだよ。
僕、新潟県に帰ってきて驚いたは、新潟県の図書館の、職員も、図書館に来る人も、…別に本を読むことが好きな人間が集まるわけじゃないんだな、と思ったこと思い出すよ。
初めて新潟県の図書館に行った時、受付にどうしてなのか(新潟県の公共の施設には大概)、女が、ほとんどが中年の女が、二人、カウンターに居るんだよ。
その二人ぐみの女が、いつもいつも、べちゃくちゃべちゃくちゃ無駄ばなし無駄ばなし、をしてるんだ!
それはホントに僕、新潟県に来て驚いたことの一つだよ。
なぜ常時、意味なくカウンターに二人も貼り付かせるんだ?
それ見て僕、税金で飯喰ってる人間は、どうしようもねえな…、と呆れたをまた思い出すけどさ。
それとね、図書館をつくれば、読書する人間が増えるのじゃないか、なんて思うのは、大きな間違いだよ。
それはダガシを見れば分かるじゃないか。
僕は図書館があろうがなかろうが、本を読まなきゃ生きていられない人間だもん。
そういう人間は、図書館なんて建物があろうがなかろうが、本を探して、自分が読みたい本を探して探して、探し回るだろうさ。
本を読みたい人間は、立派な建物なんてものも、新しい建物なんてものも、書籍というブッタイ自体なんてものも、…どうでもいいんだよ。
そういう、モノなんてものは、どうでもいいんだよ。
何に書いてあろうが、どこに置いてあろうが、活字で、良い文章、感動する文章を、読めれば、それで、いいのだからさ。
それを、図書館をつくれ…、だなんてこと言って、良いこと言ったつもりなんだろうけど…、溜め息出そうな気持ちするんだな。
でもさ、今の新潟市長、しのだサン、そういう詰まらないこと言った人間に、ここの近くにある施設に入ってる図書館を使ってくれ、という意味のこと言ってくれてたみたいだから、…ちょっと安心したよ。
もっと言えば僕、小学校や中学校や高校の図書館を、夜に、一般市民に開放したっていいんだのに、とダガシは思うよ。それが節約であり、もったいない精神であり、だと思うんだけどさ。
言っとくけど、図書館なんて、新潟市に腐るほど建ってるよ。いったいいくつあるのか、数えるのに困るくらいだよ。
そしてその図書館に集まる人間ってのは、図書館を喫茶店がわりに使おうって連中ばかりだよ。
僕、新潟県に帰ってきて驚いたは、新潟県の図書館の、職員も、図書館に来る人も、…別に本を読むことが好きな人間が集まるわけじゃないんだな、と思ったこと思い出すよ。
初めて新潟県の図書館に行った時、受付にどうしてなのか(新潟県の公共の施設には大概)、女が、ほとんどが中年の女が、二人、カウンターに居るんだよ。
その二人ぐみの女が、いつもいつも、べちゃくちゃべちゃくちゃ無駄ばなし無駄ばなし、をしてるんだ!
それはホントに僕、新潟県に来て驚いたことの一つだよ。
なぜ常時、意味なくカウンターに二人も貼り付かせるんだ?
それ見て僕、税金で飯喰ってる人間は、どうしようもねえな…、と呆れたをまた思い出すけどさ。
それとね、図書館をつくれば、読書する人間が増えるのじゃないか、なんて思うのは、大きな間違いだよ。
それはダガシを見れば分かるじゃないか。
僕は図書館があろうがなかろうが、本を読まなきゃ生きていられない人間だもん。
そういう人間は、図書館なんて建物があろうがなかろうが、本を探して、自分が読みたい本を探して探して、探し回るだろうさ。
本を読みたい人間は、立派な建物なんてものも、新しい建物なんてものも、書籍というブッタイ自体なんてものも、…どうでもいいんだよ。
そういう、モノなんてものは、どうでもいいんだよ。
何に書いてあろうが、どこに置いてあろうが、活字で、良い文章、感動する文章を、読めれば、それで、いいのだからさ。
それを、図書館をつくれ…、だなんてこと言って、良いこと言ったつもりなんだろうけど…、溜め息出そうな気持ちするんだな。
でもさ、今の新潟市長、しのだサン、そういう詰まらないこと言った人間に、ここの近くにある施設に入ってる図書館を使ってくれ、という意味のこと言ってくれてたみたいだから、…ちょっと安心したよ。
もっと言えば僕、小学校や中学校や高校の図書館を、夜に、一般市民に開放したっていいんだのに、とダガシは思うよ。それが節約であり、もったいない精神であり、だと思うんだけどさ。
マンダラの三次元を、見てみたいな。感じてみたい
マンダラに三次元があるって初めて知ったよ。
いま、源氏物語のこと書いてある本読んでて、そこに書いてあった。
曼荼羅ってそういえば、x軸とy軸のグラフみたいなもんかもしれないからね。
その本にも、マンダラを、二次元グラフになぞらえて、解説してたところもあったよさ。
僕にとって新しいこと書いてある本だから、またつっかえつっかえしながら読んでるから、読み終えるの遅くなるけど、それでもつっかえながら、心の中に入れてるよ。
著者はあの河合隼雄だよ。『紫マンダラ』って、本だよ。
読み終えたら、また感想、書くよ。
いま、源氏物語のこと書いてある本読んでて、そこに書いてあった。
曼荼羅ってそういえば、x軸とy軸のグラフみたいなもんかもしれないからね。
その本にも、マンダラを、二次元グラフになぞらえて、解説してたところもあったよさ。
僕にとって新しいこと書いてある本だから、またつっかえつっかえしながら読んでるから、読み終えるの遅くなるけど、それでもつっかえながら、心の中に入れてるよ。
著者はあの河合隼雄だよ。『紫マンダラ』って、本だよ。
読み終えたら、また感想、書くよ。
死ぬ時期は誰も分からないの、吉行淳之介に教えられたな
吉行淳之介の文章を、偶然久しぶりに読んで懐かしかったから、書くよ。
ひさしぶりの吉行の文章は、あんまりどうってことないなあ、と思ったな。
野坂昭如が編集した、『けむりの居場所』っていう煙草にかんすること書いたエッセイ集の本を読んだら、吉行のエッセイが、その中に一つ入ってたんだ。
そういえば、吉行が生きてるうちは、あれだけ誰からもチヤホヤされてたのに、死んだとたんに誰も吉行のことに何か言ったり書いたりする人少なくなったというか、いなくなった気がする。
というか吉行のこと考える人も思い出す人も、いなくなった気がするな。
そういう僕も、その一人だけどさ。
安岡章太郎という作家がどこかで書いてたんだけど、…
ふだんカッコツケてて、そしたまた友達付き合いのいい吉行淳之介でも、誰もいない自分の部屋で自分の書いた小説を推敲するときは、すみからすみまで、まるで舐めるように原稿用紙を読み返しては、自分の小説を何べんも何べんも書き直しているのだろう…という意味のこと、安岡が書いてたなあ(僕は実は、吉行淳之介よりも、安岡章太郎が好きなんだ。そして僕は安岡が、いま生きてる小説家で一番好きな作家だよ。その安岡章太郎も、もう歳だし何にも書かないけどね…。そしてその安岡が言うんだから、吉行はそういう人なんだろうな、と思ってる。そうして純文学を書くってのは、そういうふうに、隅から隅まで細かいところをこだわることなんだろな、と思ってる。「神は細部に宿る」って言葉あるもんね)。
ところでさ、僕が盆も正月も気にしないで生きてるのは、吉行の影響なんだよ。
むかし吉行がどこかで書いてたんだ。…私は正月をするのが嫌いだ…とね。
でもね、吉行にまつわる人たちの本を何冊も読んだら、吉行は愛人のところで正月をするから、…あの何て言ったっけ昔女優してて福祉をやってる女の人、その人にバレないように、正月は家にいないし、大っぴらに正月を楽しんでないふうにヨソオッテたんだな、と。
でもさ、盆や正月を、人並みに、というか月並みに、楽しまないことって、何だかカッコイイと思ってるのは、ダガシだけじゃなくて吉行だってやっぱり本当は、そう思ってたと思うけどね。
そうしてね、吉行は七十歳まで生きたんだって(さっき吉行淳之介のことインターネットで調べたら書いてあったよ)。
あれだけ病気して、そしてまた不摂生の生活してたんだから、もっと若くして死んだと思ってたけどさ。
酒の量やタバコの量や、摂る栄養とか休養とか、そういう生活の仕方だけで、人間の死ぬ時期って決められないんだな、ということも吉行淳之介に教えられたな。
ひさしぶりの吉行の文章は、あんまりどうってことないなあ、と思ったな。
野坂昭如が編集した、『けむりの居場所』っていう煙草にかんすること書いたエッセイ集の本を読んだら、吉行のエッセイが、その中に一つ入ってたんだ。
そういえば、吉行が生きてるうちは、あれだけ誰からもチヤホヤされてたのに、死んだとたんに誰も吉行のことに何か言ったり書いたりする人少なくなったというか、いなくなった気がする。
というか吉行のこと考える人も思い出す人も、いなくなった気がするな。
そういう僕も、その一人だけどさ。
安岡章太郎という作家がどこかで書いてたんだけど、…
ふだんカッコツケてて、そしたまた友達付き合いのいい吉行淳之介でも、誰もいない自分の部屋で自分の書いた小説を推敲するときは、すみからすみまで、まるで舐めるように原稿用紙を読み返しては、自分の小説を何べんも何べんも書き直しているのだろう…という意味のこと、安岡が書いてたなあ(僕は実は、吉行淳之介よりも、安岡章太郎が好きなんだ。そして僕は安岡が、いま生きてる小説家で一番好きな作家だよ。その安岡章太郎も、もう歳だし何にも書かないけどね…。そしてその安岡が言うんだから、吉行はそういう人なんだろうな、と思ってる。そうして純文学を書くってのは、そういうふうに、隅から隅まで細かいところをこだわることなんだろな、と思ってる。「神は細部に宿る」って言葉あるもんね)。
ところでさ、僕が盆も正月も気にしないで生きてるのは、吉行の影響なんだよ。
むかし吉行がどこかで書いてたんだ。…私は正月をするのが嫌いだ…とね。
でもね、吉行にまつわる人たちの本を何冊も読んだら、吉行は愛人のところで正月をするから、…あの何て言ったっけ昔女優してて福祉をやってる女の人、その人にバレないように、正月は家にいないし、大っぴらに正月を楽しんでないふうにヨソオッテたんだな、と。
でもさ、盆や正月を、人並みに、というか月並みに、楽しまないことって、何だかカッコイイと思ってるのは、ダガシだけじゃなくて吉行だってやっぱり本当は、そう思ってたと思うけどね。
そうしてね、吉行は七十歳まで生きたんだって(さっき吉行淳之介のことインターネットで調べたら書いてあったよ)。
あれだけ病気して、そしてまた不摂生の生活してたんだから、もっと若くして死んだと思ってたけどさ。
酒の量やタバコの量や、摂る栄養とか休養とか、そういう生活の仕方だけで、人間の死ぬ時期って決められないんだな、ということも吉行淳之介に教えられたな。
寺山修司名言集よんで生きすぎて
寺山修司に一時期、ハマッてたこと思い出して読んだよ。

「男は売買のできない品物である。
魂だけが、いくらかになる。
たぶん、五百円くらいのねうちはあるだろう(寺山の言葉だよ)」
寺山は、しめっぽくて女々しくて、…でもどうしてかそこが男らしいと思って僕、読まずにいられなかったな、その頃は。
寺山が死んだのは47だったんだね。もっと歳いってるのかと思ってた。
寺山が死んだのは、東京のどこだったかの駅で拾ったスポーツ新聞で読んで、知ったよ。
太宰が死んだ歳をとっくに追い越してるのに、そしてあと二年で、寺山が死んだ歳になるんだね、僕は。
男のたましい?
2007年の男の魂は、五千円くらいかな?
もうちょっと値打ちあるかな。
いややっぱり、500円かな。

「男は売買のできない品物である。
魂だけが、いくらかになる。
たぶん、五百円くらいのねうちはあるだろう(寺山の言葉だよ)」
寺山は、しめっぽくて女々しくて、…でもどうしてかそこが男らしいと思って僕、読まずにいられなかったな、その頃は。
寺山が死んだのは47だったんだね。もっと歳いってるのかと思ってた。
寺山が死んだのは、東京のどこだったかの駅で拾ったスポーツ新聞で読んで、知ったよ。
太宰が死んだ歳をとっくに追い越してるのに、そしてあと二年で、寺山が死んだ歳になるんだね、僕は。
男のたましい?
2007年の男の魂は、五千円くらいかな?
もうちょっと値打ちあるかな。
いややっぱり、500円かな。
丸山健二『生きるなんて』…読んでさ。自営業のことでさ
丸山健二は、この人も僕が勝手に思ってる僕の先生…、というか丸山の場合はもう先生というより僕の同士、かな。
作家なのに東京じゃなくて長野県に住んでる変わり者だよ(当然誉め言葉だよ)。
丸山、それほど売れてもないのにさ、この本でじゃないけど昔、…自分の本はこれでもまだ売れすぎてる、自分の書くことは、世の中にそんなに理解されないはずなのに、なんて意味のこと書いてるんだからさ、ハハ。
93ページからちょっと書き写すよ…。
勝手に改行したり行空けしたりと、カッコの中は僕が書き加えたよ。
※
当然ながら、あなた自身が全責任を負わなくてはならないこの道は、片時も気を緩めることができない、険路です(この道っていうのは丸山は、自営業の道のことを言ってるんだ)。
しかし、この世界に首を突っ込んだときから、一日一日二十四時間が、一年三百六十五日が、そして一生涯がまるまるあなたのものとなります。
あなたはもう誰からもつべこべ言われず、指図もされない、わが人生ここに在りとしみじみ実感できる道へ出たのです。
もしその仕事が食べるためにしぶしぶ始めたことでなければ、かなり気に入ってやっている仕事であるならば、どんなに忙しく、どんなに気苦労が多くても、あなたは間違いなくめくるめく自由のなかに生きていることになります。
自営業において最も大切なことは、ひとえに自立した人間像に向かって邁進できるかどうかです。
勤め人の世界においては却って妨げとなったそれが強く求められるようになるのです。
(だから)迷いに迷ったあげくに、自分よりももっと力のありそうな者にすがりつこうとしたり、業界の力を頼みにしようと考えたりしたら、もう先が見えています。
不幸にして軽蔑の対象と出会ったときにはその者を冷笑したり罵倒したりする前に、彼を反面教師にすることをしかと肝に銘じてください(…この文が今、僕には一番勉強になったよ。そして今、出来ないことだよ。僕のお客さんじゃないけどその軽蔑してしまう人間に僕は、変わらせよう…なんてお節介が出てしまって、つい怒鳴ってしまうことあるんだ。いや只、八つ当たりしてるだけなのかもしれないけどさ…)。
あなたはいかなる事態においても、あなたの魂はむろんのこと、あなたの精神も切り売りしてはなりません。
売っていいのは、自営業者であるあなたが扱う商品や、製品や、サービスや、技術や、作品のみに限ります(いつも僕は仕事で僕の魂を切って売っている。いや良い意味で仕事で、僕の魂を売ろうとしているんだけどさ…。そしてそれが、それこそが仕事なんだ、なんて思っているとこあるんだよ)。
魂や精神まで売って成功した者に待ち構えているのは、大きな裏切りや途方もない大失敗です。そして、拭いきれないほどの深い挫折感と、心に負った深手ばかりでしょう(そして今のところ、(成功もしてないけど)これも丸山の言う通りなんだけどさ…ハハ。でもこういうこと言えるということは、丸山も、そういう経験あるんだろな)。
※
読まなきゃよかったというか、読んでよかったというか、ハハ分からないよ。
※
次の日十月二十日に書き足すけど、魂を売ってとか精神を切り売りしてとか、これは、丸山が言うのと僕が思うのとは違うんだろな、とも思ったよ。
丸山健二が言う魂を売る、というのは、不正をしてまでも利益を追求すること、組織を守ろうとすること、そういうことを魂を売る、精神を切り売りしてると言うんだろうな、とね。
それならまあ、分かるんだよ。安心するんだけどさ。
でも、それで安心してしまうことが、何だか鈍感に思えてしまう僕は、もうある意味病気なんだろね、ハハ。
自分のしていることに、いつも批判精神持って生きることが、大事だと思い込んでいる人間は、…ちっと生きづらいんだけど、…まあ、鈍感よりは無神経よりは、いいのじゃないか、と思うこともまた、…考えすぎなんだろな。…こういう風に考え出すと、無間地獄にはまるんだけどさ。
そして丸山は、僕の思いもよらない深くて広いことを含んで、魂を売る、という言葉を使ったんではないか、とかね。そういうこと考えてしまうんだよ、ハハ。
後で僕の嫌いな中村天風でも読むかな。それともジョギングでもしたほうがいいかな。
作家なのに東京じゃなくて長野県に住んでる変わり者だよ(当然誉め言葉だよ)。
丸山、それほど売れてもないのにさ、この本でじゃないけど昔、…自分の本はこれでもまだ売れすぎてる、自分の書くことは、世の中にそんなに理解されないはずなのに、なんて意味のこと書いてるんだからさ、ハハ。
93ページからちょっと書き写すよ…。
勝手に改行したり行空けしたりと、カッコの中は僕が書き加えたよ。
※
当然ながら、あなた自身が全責任を負わなくてはならないこの道は、片時も気を緩めることができない、険路です(この道っていうのは丸山は、自営業の道のことを言ってるんだ)。
しかし、この世界に首を突っ込んだときから、一日一日二十四時間が、一年三百六十五日が、そして一生涯がまるまるあなたのものとなります。
あなたはもう誰からもつべこべ言われず、指図もされない、わが人生ここに在りとしみじみ実感できる道へ出たのです。
もしその仕事が食べるためにしぶしぶ始めたことでなければ、かなり気に入ってやっている仕事であるならば、どんなに忙しく、どんなに気苦労が多くても、あなたは間違いなくめくるめく自由のなかに生きていることになります。
自営業において最も大切なことは、ひとえに自立した人間像に向かって邁進できるかどうかです。
勤め人の世界においては却って妨げとなったそれが強く求められるようになるのです。
(だから)迷いに迷ったあげくに、自分よりももっと力のありそうな者にすがりつこうとしたり、業界の力を頼みにしようと考えたりしたら、もう先が見えています。
不幸にして軽蔑の対象と出会ったときにはその者を冷笑したり罵倒したりする前に、彼を反面教師にすることをしかと肝に銘じてください(…この文が今、僕には一番勉強になったよ。そして今、出来ないことだよ。僕のお客さんじゃないけどその軽蔑してしまう人間に僕は、変わらせよう…なんてお節介が出てしまって、つい怒鳴ってしまうことあるんだ。いや只、八つ当たりしてるだけなのかもしれないけどさ…)。
あなたはいかなる事態においても、あなたの魂はむろんのこと、あなたの精神も切り売りしてはなりません。
売っていいのは、自営業者であるあなたが扱う商品や、製品や、サービスや、技術や、作品のみに限ります(いつも僕は仕事で僕の魂を切って売っている。いや良い意味で仕事で、僕の魂を売ろうとしているんだけどさ…。そしてそれが、それこそが仕事なんだ、なんて思っているとこあるんだよ)。
魂や精神まで売って成功した者に待ち構えているのは、大きな裏切りや途方もない大失敗です。そして、拭いきれないほどの深い挫折感と、心に負った深手ばかりでしょう(そして今のところ、(成功もしてないけど)これも丸山の言う通りなんだけどさ…ハハ。でもこういうこと言えるということは、丸山も、そういう経験あるんだろな)。
※
読まなきゃよかったというか、読んでよかったというか、ハハ分からないよ。
※
次の日十月二十日に書き足すけど、魂を売ってとか精神を切り売りしてとか、これは、丸山が言うのと僕が思うのとは違うんだろな、とも思ったよ。
丸山健二が言う魂を売る、というのは、不正をしてまでも利益を追求すること、組織を守ろうとすること、そういうことを魂を売る、精神を切り売りしてると言うんだろうな、とね。
それならまあ、分かるんだよ。安心するんだけどさ。
でも、それで安心してしまうことが、何だか鈍感に思えてしまう僕は、もうある意味病気なんだろね、ハハ。
自分のしていることに、いつも批判精神持って生きることが、大事だと思い込んでいる人間は、…ちっと生きづらいんだけど、…まあ、鈍感よりは無神経よりは、いいのじゃないか、と思うこともまた、…考えすぎなんだろな。…こういう風に考え出すと、無間地獄にはまるんだけどさ。
そして丸山は、僕の思いもよらない深くて広いことを含んで、魂を売る、という言葉を使ったんではないか、とかね。そういうこと考えてしまうんだよ、ハハ。
後で僕の嫌いな中村天風でも読むかな。それともジョギングでもしたほうがいいかな。
岸田秀、僕のイケナイこと書いてくれてたと思って、苦しくて苦しくて、でも
本読んで、自分に、とっても重大に関係あること読んだときは、前ならワープロ、今年からはパソコンに、書いてあること書き写してたんだけど、ここに書き写そうかな、とちょっと気まぐれに思って、書きます。
書いた人、岸田秀、という精神分析学者で、僕が勝手に思ってる僕の先生の一人だよ。僕のオバケ怖い病を治してくれた人だよ(岸田が言うのは、人間が感じている事、思っている事、全ては幻想なんだ、という事なんだ。…だから、オバケも幻想なんだ、と僕、思って怖くなくなったんだよ、ハハ)。
『古希の雑考』という本の「日本人および日本国家の生き方」というページだよ…。
※
人間は生まれてしばらくは完全に自己中心的であろうが、そのうち他の人たちとの関係に入らざるを得ないので、成長するに従ってだんだんと自己中心性から脱してゆく。
しかし、この過程は生物学的に決定されているわけではないから、個人差が大きく、なかにはいつまでも幼児的自己中心性の段階に留まっているものもいるし(ダガシだ。…トホホ)、また、どれほど聖人君子であろうが賢者であろうが、完全に自己中心性から脱するものはいない。
自分にとって有害な事をする人を悪人とし、自分に役立つ人を善人とする初期の天真爛漫な自己中心性、完全な自己中心性はそのうち不可避的に破綻する。
では、その段階から脱した次の段階はどういう段階であろうか。
自己中心的な自分の基準が破綻すると、それを捨て、盲目的に他者の基準に服従するという方向もある。
これで、とにもかくにも一応は完全な自己中心性からは脱することになるが、他者は他者でその人自身の都合で動いているから、他者の基準への服従は、自分を危険に曝すことが多い。これは主体喪失の段階である。
もちろん、これもそのうち不可避的に破綻する。
しかしまた、完全に自己中心的な基準でもなく、他者の基準への服従でもなく、何らかの基準を自分で考え出して、その基準で自分および他者の行動の善悪を判断しようとする方向もある。
この基準に従うならば、自分に有害な他者の行動でも基準に適っていれば容認し、自分に役立つ自分の行動でも基準に反していれば禁止することになり、確かに、最初の自己中心性、いわば一次的自己中心性(…自分の言う事だけ聞いてくれる人を良い人と思い込む?)からは脱しているが、
自分の基準を自分にも他者にも等しく適用しようとする点において別の自己中心性、いわば二次的自己中心性に陥っている(これはまさしくダガシのことだよ。…コマッタねえ)。
すなわち、一次的自己中心性からは脱して、他者の苦しみを理解するのであるが、自分が苦しむのと同じ状況における他者の苦しみしか理解しない。
自分なら苦しまない状況においても他者は苦しむ事があることを理解しない(…いや僕はそれを理解はするんだよ。理解はするんだけど、でも、俺がやってるんだから、お前だって出来るだろ? 同じ人間じゃないか、やれよ、お前もさ。…と思ってしまうんだよ)。
この基準は、自分がして欲しいことと人がして欲しいこと、自分が嫌なことと人が嫌いなことが同じであることを前提としている(…だって、僕が小さい頃から散々言われてきた「同じ人間なんだから」というセリフが効いてるんだよ)。
「すべての国がわが国と同じように自由な民主主義国家になれば世界平和が実現する」と思っている国や、「わたしなら同じような状況におかれてもあのようなひどいことはしない」と言って人を非難する者がいるが、これも同じこの段階の考え方である。
自己中心性から脱した成熟した生き方とは、もちろん、前述の一次的自己中心性からも二次的自己中心性からも脱し、そして、他者の基準に服従するのではなく、自分の基準を持ち、自分の基準に基づいて生きるが、しかし、それを普遍的に正しい基準と見なして他者に押し付けるということをしない生き方であろう(うーん、…ムズカシイなあ)。
世界の国々を眺めてみるに、この成熟した段階に達している国は一つもないようである。
未熟な日本としては、同じく未熟な他の諸国を他山の石として、成熟した生き方を探るしかないであろう。
日本人個人としても、日本国家としても。
(…文の改行や、カッコの中の書き込みは、僕が勝手にした)
※
この文章、僕、簡単に書き写せたわけじゃないんだよ。
自分の人間としてイケナイこと言われてると思って、読んでると苦しくて苦しくて、また、つっかえつっかえしながら読んだんだ。
でも、なんとか心の中に入れることできたから、書けました。
そうして岸田秀を、五、六年ぶりに読んで、ああ、まだ書いててくれたんだ、と思って、嬉しかったよ。
書いた人、岸田秀、という精神分析学者で、僕が勝手に思ってる僕の先生の一人だよ。僕のオバケ怖い病を治してくれた人だよ(岸田が言うのは、人間が感じている事、思っている事、全ては幻想なんだ、という事なんだ。…だから、オバケも幻想なんだ、と僕、思って怖くなくなったんだよ、ハハ)。
『古希の雑考』という本の「日本人および日本国家の生き方」というページだよ…。
※
人間は生まれてしばらくは完全に自己中心的であろうが、そのうち他の人たちとの関係に入らざるを得ないので、成長するに従ってだんだんと自己中心性から脱してゆく。
しかし、この過程は生物学的に決定されているわけではないから、個人差が大きく、なかにはいつまでも幼児的自己中心性の段階に留まっているものもいるし(ダガシだ。…トホホ)、また、どれほど聖人君子であろうが賢者であろうが、完全に自己中心性から脱するものはいない。
自分にとって有害な事をする人を悪人とし、自分に役立つ人を善人とする初期の天真爛漫な自己中心性、完全な自己中心性はそのうち不可避的に破綻する。
では、その段階から脱した次の段階はどういう段階であろうか。
自己中心的な自分の基準が破綻すると、それを捨て、盲目的に他者の基準に服従するという方向もある。
これで、とにもかくにも一応は完全な自己中心性からは脱することになるが、他者は他者でその人自身の都合で動いているから、他者の基準への服従は、自分を危険に曝すことが多い。これは主体喪失の段階である。
もちろん、これもそのうち不可避的に破綻する。
しかしまた、完全に自己中心的な基準でもなく、他者の基準への服従でもなく、何らかの基準を自分で考え出して、その基準で自分および他者の行動の善悪を判断しようとする方向もある。
この基準に従うならば、自分に有害な他者の行動でも基準に適っていれば容認し、自分に役立つ自分の行動でも基準に反していれば禁止することになり、確かに、最初の自己中心性、いわば一次的自己中心性(…自分の言う事だけ聞いてくれる人を良い人と思い込む?)からは脱しているが、
自分の基準を自分にも他者にも等しく適用しようとする点において別の自己中心性、いわば二次的自己中心性に陥っている(これはまさしくダガシのことだよ。…コマッタねえ)。
すなわち、一次的自己中心性からは脱して、他者の苦しみを理解するのであるが、自分が苦しむのと同じ状況における他者の苦しみしか理解しない。
自分なら苦しまない状況においても他者は苦しむ事があることを理解しない(…いや僕はそれを理解はするんだよ。理解はするんだけど、でも、俺がやってるんだから、お前だって出来るだろ? 同じ人間じゃないか、やれよ、お前もさ。…と思ってしまうんだよ)。
この基準は、自分がして欲しいことと人がして欲しいこと、自分が嫌なことと人が嫌いなことが同じであることを前提としている(…だって、僕が小さい頃から散々言われてきた「同じ人間なんだから」というセリフが効いてるんだよ)。
「すべての国がわが国と同じように自由な民主主義国家になれば世界平和が実現する」と思っている国や、「わたしなら同じような状況におかれてもあのようなひどいことはしない」と言って人を非難する者がいるが、これも同じこの段階の考え方である。
自己中心性から脱した成熟した生き方とは、もちろん、前述の一次的自己中心性からも二次的自己中心性からも脱し、そして、他者の基準に服従するのではなく、自分の基準を持ち、自分の基準に基づいて生きるが、しかし、それを普遍的に正しい基準と見なして他者に押し付けるということをしない生き方であろう(うーん、…ムズカシイなあ)。
世界の国々を眺めてみるに、この成熟した段階に達している国は一つもないようである。
未熟な日本としては、同じく未熟な他の諸国を他山の石として、成熟した生き方を探るしかないであろう。
日本人個人としても、日本国家としても。
(…文の改行や、カッコの中の書き込みは、僕が勝手にした)
※
この文章、僕、簡単に書き写せたわけじゃないんだよ。
自分の人間としてイケナイこと言われてると思って、読んでると苦しくて苦しくて、また、つっかえつっかえしながら読んだんだ。
でも、なんとか心の中に入れることできたから、書けました。
そうして岸田秀を、五、六年ぶりに読んで、ああ、まだ書いててくれたんだ、と思って、嬉しかったよ。
吉本隆明、僕の先生のひとり

また二ヶ月くらい、つっかえつっかえしながら読んだ本だよ。
『生きていくのに大切な言葉』という本。
勢古浩爾という人が書いた。
その中で出てくる言葉がこれだよ…。
「結婚して子供を生み、
そして、
子供に背かれ、
老いてくたばって死ぬ、
そういう生活者をもしも想定できるならば、
そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、
いちばん価値がある存在なんだ」
とか…。
「市井の片隅に生まれ、
そだち、
生活し、
老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、
千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値と
まったくおなじである」
とかね(文の改行は僕が勝手にした)。
僕これ読んで初め、こんな偽善的なこと書くとは、吉本も耄碌したのかなあと、思ったよ。
だって、吉本隆明は、自分はリッチ&フェイマスのくせにさ(吉本がリッチかどうかは分からないけど、充分フェイマスだからね)。そういう人間が、市井の人の生活がイチバンだみたいなこと言ってスマシテルなんて、偽善だぜ、と思ったんだ。
でも読み進んでゆくうちに、この言葉も僕、僕自身納得してたよ。
ちょっと話ズレルけど、市井という言葉、僕23、4までイチイと言ってたよ。
ある酒蔵の社長のとこに広告の営業に行った時、何かの読み物の話題になって、その中に出てくる言葉で「市井」というのを僕、イチイ、イチイと言ってたら、その社長、これはシセイと読むのだ、と教えてくれました、ハハ。
しかし僕、僕の行動というか生き方というか(オオゲサだけどさ)、吉本隆明の言う事を真似しながら生きてきた覚えがあるよ。
なんせ高校のときから吉本読んでるんだからね(ろくに分かりもしないくせに難しモノに憧れてたんだけど)。
だから僕が、勝手に思ってる僕の先生の一人が、吉本隆明なんだ。
河合隼雄は、いつも笑ってたな
ちょっと前に河合隼雄が死んだのは知ってたんだけど、なんだか河合のこと書くのいやだったんだ。
どうしてか、きょうになって、書こうかなと思ってね。
僕にとって河合隼雄という人は、昔話の読み方を教えてくれた人だよ。
それと、十牛図ってのを教えてくれた人でもあるよ。
十牛図ってのはね、ええと、禅宗における悟りの仕方みたいなものの順序をさ、牛と若者と年寄りを描いてね、悟りの順序を教えてるというか、悟りにいたる工程表、みたいなものかもね。その工程を順番にあらわす、十枚の素朴な墨絵だよ。
それから河合のお陰で、僕はユングっていう外国の心理学者のことも知ることできたな(僕はユングの考え方だけに、どっぷりハマッてるわけじゃあないんだよ。いろんな心理学のいい所取りがいいと、思ってるからさ)。
だから河合は、僕が勝手に思ってる、僕の先生の一人なんだ。
河合の書いたことの中でよく憶えてるのはね、仕事に打ち込んでというか仕事にかまけて、自分の家庭をないがしろにしてきたと、自分で書いてたことだな。
精神病んでる人を相手にして、その病んだ精神にどこまでものめりこんでゆくと、自分の生活というか自分の人生も、病んだ人の中に埋まりこんでしまう、みたいなさ(これは河合の文章じゃなくて僕の例え方だよ)。
そして僕はそういうこと、想像できる気がしたよ。
でも河合はいつも、写真でも、時々出るテレビのときも、いつも笑ってたんだよなあ。
どうしてか、きょうになって、書こうかなと思ってね。
僕にとって河合隼雄という人は、昔話の読み方を教えてくれた人だよ。
それと、十牛図ってのを教えてくれた人でもあるよ。
十牛図ってのはね、ええと、禅宗における悟りの仕方みたいなものの順序をさ、牛と若者と年寄りを描いてね、悟りの順序を教えてるというか、悟りにいたる工程表、みたいなものかもね。その工程を順番にあらわす、十枚の素朴な墨絵だよ。
それから河合のお陰で、僕はユングっていう外国の心理学者のことも知ることできたな(僕はユングの考え方だけに、どっぷりハマッてるわけじゃあないんだよ。いろんな心理学のいい所取りがいいと、思ってるからさ)。
だから河合は、僕が勝手に思ってる、僕の先生の一人なんだ。
河合の書いたことの中でよく憶えてるのはね、仕事に打ち込んでというか仕事にかまけて、自分の家庭をないがしろにしてきたと、自分で書いてたことだな。
精神病んでる人を相手にして、その病んだ精神にどこまでものめりこんでゆくと、自分の生活というか自分の人生も、病んだ人の中に埋まりこんでしまう、みたいなさ(これは河合の文章じゃなくて僕の例え方だよ)。
そして僕はそういうこと、想像できる気がしたよ。
でも河合はいつも、写真でも、時々出るテレビのときも、いつも笑ってたんだよなあ。
エリートの鈍感さはイライラするけど大庭みな子は違うかな、だって作家だもんね
大庭みな子のエッセイを一冊、やっと読み終えたよ。
『雲を追い』というの。
倒れてからの日々のこと書いたの。
大庭みな子の文章、僕はそれほど好きでたまらないってわけじゃないんだけどさ、死んだばかりの人のを読むと、また今までとは違った感じだ。
大庭の文章の批評を僕がするのはオコガマシイけど、僕には何だか、エリートの鈍感さみたいなのを感じてイライラするんだよ。
でもね、大庭みな子も、気短かでワガママだったみたいだから、この本では、そういう文体のタッチみたいなもの感じられて、僕も少しは安心した(何を安心してるのかね、ハハ)。
『雲を追い』というの。
倒れてからの日々のこと書いたの。
大庭みな子の文章、僕はそれほど好きでたまらないってわけじゃないんだけどさ、死んだばかりの人のを読むと、また今までとは違った感じだ。
大庭の文章の批評を僕がするのはオコガマシイけど、僕には何だか、エリートの鈍感さみたいなのを感じてイライラするんだよ。
でもね、大庭みな子も、気短かでワガママだったみたいだから、この本では、そういう文体のタッチみたいなもの感じられて、僕も少しは安心した(何を安心してるのかね、ハハ)。
出雲崎にちょっと、行ってみたい
おととい凡太のこと書いたけど(凡太と呼び捨てなのは、カッコよく文学やってる人として、尊敬してるから)、そして凡太さんのいる出雲崎のことなんだけど。
僕、何百回も(…は大げさだかな)、出雲崎の海沿いの道、バイクで走ったよ。
出雲崎の街、昔の道、一ヶ所だったか二ヶ所だったか、カギ型に直角に曲がっている場所があった。
道も細くて、家がくっついて並んでて、出雲崎の街に入る前の、ただ海と山に挟まれてる道走ってる時は、思いっきりスピード出して出して走った。
けど出雲崎に入ったとたん、家が密集してて、子供とか歳いった人が歩いてたりしてて、とたんにスピード落とした。
それまでの道で僕がブッちぎったクルマが急に追いついてきて、その細い道で僕を後ろからアオルんだ。
こんな家が建て込んでて細い道で、スピード出しやがる…と思って、僕、わざとのらりくらりと、そして時々蛇行運転なんかしながら、そして左手で後ろのクルマにおさえろ抑えろなんて合図したりしたりしてさ。
まあ、それも僕の自己満足なんだけどね。それも分かってやってたんだけど…。
そうして出雲崎は良寛の生まれ在所なんだよね。
あの頃は僕、良寛なんて、子供相手に鞠つきしてるじいさん、いい気なもんだ…なんて思ってたんだよ、告白すると…ハハ。
出雲崎で、そんなこと、思い出しました。
僕、何百回も(…は大げさだかな)、出雲崎の海沿いの道、バイクで走ったよ。
出雲崎の街、昔の道、一ヶ所だったか二ヶ所だったか、カギ型に直角に曲がっている場所があった。
道も細くて、家がくっついて並んでて、出雲崎の街に入る前の、ただ海と山に挟まれてる道走ってる時は、思いっきりスピード出して出して走った。
けど出雲崎に入ったとたん、家が密集してて、子供とか歳いった人が歩いてたりしてて、とたんにスピード落とした。
それまでの道で僕がブッちぎったクルマが急に追いついてきて、その細い道で僕を後ろからアオルんだ。
こんな家が建て込んでて細い道で、スピード出しやがる…と思って、僕、わざとのらりくらりと、そして時々蛇行運転なんかしながら、そして左手で後ろのクルマにおさえろ抑えろなんて合図したりしたりしてさ。
まあ、それも僕の自己満足なんだけどね。それも分かってやってたんだけど…。
そうして出雲崎は良寛の生まれ在所なんだよね。
あの頃は僕、良寛なんて、子供相手に鞠つきしてるじいさん、いい気なもんだ…なんて思ってたんだよ、告白すると…ハハ。
出雲崎で、そんなこと、思い出しました。
今の僕の、好みの本の、種類
図書館から借りる本の種類、めっきり変わったよ。
ついこないだまでビジネス書が7割くらいだったのにさ。
変わったというより、戻ったのかな。
いま、年末から借りてるのを言おうか。…
『マンボウ夢のまた夢』北杜夫
『私の嫌いな10の人びと』中島義道
『無為の力』河合隼雄・谷川浩司
『プーさんの鼻』俵万智
『人生への恋文』石原慎太郎・瀬戸内寂聴
『いま、そこにいる良寛』北川フラム・編
『ビッグベビー』沖藤典子
いま僕、ビジネス書も、純文学も、読みたくないみたいらね。
といってこの何冊かの本、さっと読めるわけじゃないんだけどさ。
そしてそれでも、読みたいみたい。
昔、母さんに言われたね、
「こんなに本読んでるのに、どうしてダガシは、いい子にならんがろうか」…ハハ。
ついこないだまでビジネス書が7割くらいだったのにさ。
変わったというより、戻ったのかな。
いま、年末から借りてるのを言おうか。…
『マンボウ夢のまた夢』北杜夫
『私の嫌いな10の人びと』中島義道
『無為の力』河合隼雄・谷川浩司
『プーさんの鼻』俵万智
『人生への恋文』石原慎太郎・瀬戸内寂聴
『いま、そこにいる良寛』北川フラム・編
『ビッグベビー』沖藤典子
いま僕、ビジネス書も、純文学も、読みたくないみたいらね。
といってこの何冊かの本、さっと読めるわけじゃないんだけどさ。
そしてそれでも、読みたいみたい。
昔、母さんに言われたね、
「こんなに本読んでるのに、どうしてダガシは、いい子にならんがろうか」…ハハ。
戒語は良寛さんに叱られてる気分

この本、読むのに三ヵ月くらいかかったよ。良寛の戒語のこと書いてある。
一冊の本を三ヵ月もかけて読むなんて初めてだけど、だって、書いてあることはね…、早口はダメ、とか相手を理解しなさい、とか他にもいろいろ…僕の出来ない難しい事ばっかり書いてあるんだから。
ことばのおほき
ことばのたがう
ものいいのことごとしき
くちのはやき
かしましく物いふ
とはずがたり
さしでぐち
ぜんぶ僕のことだよ。…はーあ。ハハ。
だから読んでいると、良寛さんに叱られているような気になって、読み進むこと出来なくなるんだよ。
それでも最後まで全部読もうと思って、つっかえつっかえしながら、終わりまでたどりつきました。
だけどね、全部読んだからといって、僕が良寛から誉められるような人間になったかというと、そんなことないんだけどさ。
たぶんこれからも、ときどき戒語読んで、良寛さんに叱られながら、生きていくんだろな、と思うよ。
