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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

法事で乾杯

 母と祖母の法事だった。
 高速道路を走ったのは母が死んだ朝いらいだった。一年半ぶりだ。
 ETCとかいうのは持っていないから、一般車両の入り口を探したがわからず、それらしいところの真ん中の入り口に入ったら、先のほうに黄色い横棒が見えたから、これはしまった間違ったと止まり、降り、後ろに一台来ていた車に走っていって「間違えました、すみません」と頭を下げてバックしてもらい、右だろうと思って入っていったらそこの先にも黄色い横棒が見えて、これも違った困ったと思ってバックミラーを見たら何台もつながっていた。

 あわてて降りて走っていって順番に、「入るところを間違えました、すみませんすみません、後ろに下がってもらえませんか」と頭を下げながら大声で叫んだ。

 そうしていたら、空のほうからしゃがれた聞こえにくい大きな声が響いて、「前に進んでください! 前に進んでください!」と怒鳴りつけられるように聞こえてきた。

 よく聞くとその声は、柱に付いているスピーカーからだった。そうして十秒くらいしただろうか、黄色いヘルメットをかぶった初老の男が二人、わきのトンネルから出てきて、機械を操作して、そこから今までのよく見る通行カードを出して、俺をにらみながら「向こうの降りるところでは、一般用の降り口に入ってくださいね!」と念押しするように怒った声で言った。

 俺は一言もなく、係員の男たちに頭を下げ、後ろに並んでいる車たちに何度も頭を下げてから、車に乗り込んで高速道路に入った。


 お寺様の住職は胃ガンが悪くなったのだろう、法事には来られずに、そしてその娘婿は去年五十代ですい臓だったかのガンで死んでいたから、住職の娘が来たのだった。

 初めて聞く女の声のお経は新鮮だった。
 途中でお経の現代語訳を短く朗読してくれたりして、演出が利いていた。
 終わりごろに、俺はどうしてか葬式のときのように急に悲しみがこみあげてきて、嗚咽の息のしかたになった。そうしていたら、お経が終わり、俺の嗚咽もおさまっていた。

 一時間のお経の後、住職の娘は仏間の隣の部屋で着替えているところを、俺は、「女の人のお経もいいもんですね。……あの、それから、あの、プロに言うのは生意気ですけど、……上手でしたよ」と言うと、住職の娘は「そうですか。でも、プレッシャーがあったんですよ」と、嬉しそうに答えた。

 夫を亡くしてからは、自分が檀家まわりをしている。
 だが顔つきはなぜか晴れ晴れとしている。
 父親も胃ガンで、そう長くはないだろう。息子は今、仏教関係の大学生だという。しばらくは自分がお寺をしょってたっていかなければならない。

 俺ははげましたい気持ちになって、「その白い着物とピンクの袈裟は合ってますね。おしゃれな感じでキレイです」と言ったら、「父のお下がりなんです」と答えた。


 その後の料理屋での宴会で、俺はお寺様に酒をつぎにいったら、女の人だからか、いやもともと飲まない人なのだろう、酒ではなくウーロン茶で、俺も車で帰るからウーロン茶で、お互いにつぎあって、俺は住職の娘のコップに、俺のコップをカチンとぶつけて、「乾杯!」と小さく叫んだら、隣にいた秀さんが「法事で乾杯とは何だ!」と笑った。住職の娘も笑った。俺も笑った。

二度めはないこと

 去年の今は母親がいつ死ぬかと毎日が不安だった。

 今年は、みじかに死にそうな人がいないから楽な日々だ。

 母親が死ぬというような初めてのことは、やっぱり怖いのだな。

 もう経験したから今度は安心だと思ったが、二度はないのだった、ハハ。

盆さんのこと

 何という名前か知らないが、家のほうのお寺で八月一日と七日は、今年死んだ人がでた家の人の集まりが、あるのだそうだ。今日、それに行ってきた。
 ついたちはセケンのもんが多くて、七日はムラウチがあつまるのだ、と父は言っていた。

 今朝起きてご飯を食べてコーヒーを胃に流し込んで、墓掃除に行った。
 親戚の人がときどき掃除してくれていて、いつもきれいなのだ。だから三十分で済んだ。

 帰って、昨日の大酒を流すようにシャワーを浴びて、父と少し話した。
 父の吸う煙草の煙がいやで、話に身が入らない。
 酒の強い父も、七十過ぎて弱ったのか、私の何倍も呑んだ昨夜の冷酒がまだきいているらしく、しきりに胃のあたりを押さえている。

 読経は十一時からで、その前の三十分、説教があるそうだ。
 きのうはそういうのは馬鹿にしていて、父も私も十一時に間に合うように行こうと言っていた。

 それなのに私は父の煙草の煙を吸いこみたくなくて、やっぱりお寺さんのはなしを聴きにいくよ、と出た。
 父はシャワーを浴びてから行くと言った。

 住職の話は、物忘れの茗荷のいわれと、もう一つ何か喋っていた。
 茗荷の話の中の、自分の名前をお釈迦さまから背中にかいてもらう修行僧のところで、私はいつもの住職のくぐもった声が聞きづらかったのに、何人もの耳の遠そうなおばあさんたちが笑った。
 そしてところどころで、おばあさんたちは、うれしそうに笑うのだった。

 そうしてるうちに父も来て、それから、私も顔を知っている近所の人が来て、父と喋っていた。
 その近所の人は、家に死んだ人もいないのに、毎年この日に来るのだそうだ。
 その人は、今年は人が多いよ、と言っていた。

四十九日のくぎりの雪

 今日三月二十六日は、母の四十九日だった。
 午前十時半から家でお経があって、それから昼頃に墓の中に、骨を入れに行った。
 祖父や祖母のときは手づかみで入れたのに、今は箸で入れるのだそうだ。

 あれからもう二ヶ月近くも過ぎているのだなと思ったら、この頃はもう涙も出ることもなくなったのを思って、母の骨を見ても、そして触っても、何かの乾いた食品のような物体を持っているぐらいの感覚と気持ちだったのが、自分でも不思議だった。

 墓の中の底は土だ。
 母の骨は今、土に触れている。
 今日は、私は母からはなれ、母も、新しい場所にジャンプする日。

 そして今日、この季節なのに、雪が降ったのだ。
 お寺様がお経を読んでいるとき、十一時過ぎだったろうか、お経の途中の休憩のときから降りだして、外を見たら、雪が庭の植木を白くかぶせていた。
 母の骨を墓に入れるときにも降っていた。

 終わってから伯母さんに、雪が降って良かった、と言ったら、伯母さんは不思議そうな顔をしたから、続けて言った。
 雪が、とてもキレイだったから、と。

天秤座がぽっかり抜けている感じ

 母が死んで、占いというものにまるで関心がなくなった。
 朝起きてテレビをつけると、ちょうど今日の運勢というのをやっている。
 それを起きがけのぼうっとした頭で観る。
 それがほとんど毎日の習慣になっていて、だから占いのコーナーを観ないと、何だか気持ちが悪いというぐらいになっていた。
 自分は今日一日運がいいのか悪いのか、良ければ嬉しいし、悪いことを言われれば、そのときは気をつけようと思う。
 がそれも一瞬のことで、番組の中のコーナーが変わってニュースが始まれば、さっきの運勢のことなどまるで忘れているのだけれど。

 死んだと聞かされた日から五日間、ばたばたしながらテレビもラジオも観ず聴かずで過ごしたら、テレビの占いコーナーなど観たくもなくなっていた。
 今は朝、テレビはついているけれど、そして前と同じように画面の中で占いもやっているけれど、朝食の準備をしているか何かしていて、占いというものを流しているな、というぐらいにしか感じない。

 そういえば前は、母や父やカズ子の星座の順番になると、気をつけて観ていた。
 今はもう、それぞれの生まれ星座の運勢を聴いても、力をこめて聴こうとしてない自分がわかる。
 天秤座の今日の運勢を聞いていると、何か忘れものをしていて、それがどうしても思い出せないように感じている。
 占いというものに、近づきたくない気持ちにもなっている。

喉の骨での出き事

 市営の火葬場の係り員の声は、初対面のときから、わざとらしい低音で喋っていて、そういう物言いのし方で、ある重重しさをかもしだそうとしているようだった。
 そしてその背の高い男の視線は、低い声とは不釣合いに、いつも何故かさだまらずにいて、それは空中のどこかしらをフラフラとさまよっている感じで、男はダガシとしゃべるときに、ダガシの視線からギリギリ一ミリだけ自分の視線をはずすようにして、ダガシとも遺族とも、はっきり瞳を合わそうとはしないのだった。
 それはその職業としての何か意味があるのか、それとも男の個人的なものなのか、ダガシはわからなかったけれど、その仕草は男の好意からくるものだと、ダガシはそのときは思いこもうとしていた。

 二時間前の火葬の庫の扉が閉まった瞬間に、男の声は低く何かを言ったけれども、何を言ったのかダガシは忘れていた。ただ、男の低い声が、この場の雰囲気に合っているなと、悪い気はしなかった。
 最後の最後の別れだと思って、母親のお棺の角をポンポンとかるくたたいて、「今までありがとう」とつぶやいて、笑顔で庫の中におくりだしたのは憶えていた。

 そのあいだ、おときの宴席で、父に言いつけられていた、ひとわたり親戚や近所の人たちへの、ある種の義務的な行為のお酌をしてまわってから、その作業を済ませて自分の席に戻ると、葬儀委員長から「ダガシ、あと十分後にお骨ひろいにいくクルマ出るから」と言われて、あわてて目の前の料理を急いでたいらげた。
 骨拾いはシラフでやりたいと思ったから、その全部を記憶したいと思ったから、酒は飲まずに、ウーロン茶で胃袋に流しこむように口に押しこんだ。

 祖父のときとも祖母のときとも違う、細かい砂の上に、誰かが白い骨を、人体の形状そのままに置いたみたいに、人が仰向けに寝ているかたちで、太い骨がダガシの前にあった。
 ダガシはおもわず、「この骨は、焼いてから、係りの人が置き直してくれたんですか?」と聞いた。
 係り員の男は、二時間前と同じ重量感たっぷりの声で、「いえ」とだけ返事をした。「自然なままですか?」と聞くと、「はい」と、さも当たり前だろうというふうに、答えた。

 ダガシはそのとき、母親が骨になったことより、人間がそのままの形で焼かれることの、ある職業的というか、プロフェッショナルな仕事ぶりのほうに、興味がわいていた。
 喉の骨だという、仏のかたちに似ているといわれるピンポン玉くらいの白い固まりが、頭部の左上にあって、ダガシは、なぜ喉の骨だけが飛び越えたようにそこにあるのだろうと、単純に物理学的な興味が起きてしまい、その理由を係り員の男に聞いた。
 男は瞬間うろたえるような顔つきに変わって、言葉を出さなかった。
 ダガシは知らないことはその場で知ろうとしてしまう気質だったから、また同じことを聞いた。
 係り員の男は、さっきまでの、わざとらしくても、それでも重重しさをあらわしていた表情が消え、普通の会社の問い合わせを受ける部署の、あの面倒くさそうな事務的な物言いの担当員の顔つきに変わっていて、今度はダガシの目から自分の視線を、逃げるようにアカラサマに反らして、眉毛の感じをムスッした角度に変えて、ふてくされたように何も言葉を発しようとしなかった。

 ダガシはつい、問い合わせで、事務的形式的に自分の質問をはぐらかされたときの気持ちになってしまい、
「知らないことは知らないと言ってくれ! 正直になれ! 少なくとも自分の仕事で知らないことや分からないことをそのまま放っておくな! 知らないことは罪じゃないんだから! 知ればいいことなんだから! そのためには、それを自分が知らないということを、自覚することから始まるんだぜ!」といつもの調子で怒鳴ってしまっていた。

 とたんに周囲に気まずい空気がかぶさって、ああ、俺はまたやってしまった……と、母親の最期の最期まで、いつもの気短かの性質が出てしまったと、ダガシはその場で背中を丸めてうずくまりたくなった。

 帰りのクルマの中で、叔父さんが、妙にはしゃいだように一人で喋りつづけてくれていた。
 フロントガラスから見える、西のほうの海側の空の雲が切れ、青いところが広がっていくのを眺めながら、ダガシは、またいつものように自分を責めながら、「許し」も、そして「感謝」も、母親が死んだぐらいのことで、人間はすぐには変わらないものだと、自分の、何かをすぐ自分以外に頼ろうとする性格や、何かをすぐ自分以外の責いにする性質に、あるあきらめのようなものを感じていた。
 そのあきらめることが、自分にも人にも、許しと感謝になるのだろうか、なればいいのだが、とお棺の中で目をつむっている母親の顔を思い出して、その顔に聞いてみようとしたけれど、自分の中の母親の顔は、答えようとはしなかった。

 家に帰って、カズ子が抱えてきた骨壷を、両手に持ってみた。かるがると持ち上げられた。
 オムツ交換のときのあの重量のあった母親の体を思い出して、人間とは、これほどまでに変わるものか、と思った。その瞬間、ダガシは、子供もいないのに、どうしてか母親を自分の子供のように感じて、そしてまた涙があふれ出た。
 不思議なことに、いま、自分の子供が生まれた、と思った。そして、それで人間は変わってゆくことができるのだと、悔いと嬉しさが入り混じったような感情を、理由もなしに思った。
 自分が抱えているこの骨壷は、自分の子供なのだという感覚は、錯覚だとはわかっているのに、ダガシはどうしてかそのまま、母親を両手で抱きながら、ほろほろと涙がとまらなかった。

僕をすくう歌「夜霧よ…」

 通夜が終わって、式場の泊まる部屋にいくと、いちばん奥の床の間のような場所に、母さんのお棺がきていたのが見えた。
 僕は一瞬とまどったけれど、お棺に近寄っていって、顔のところの蓋を開けて、中を見てみた。
 蓋を開けた瞬間は、昼間湯灌したときそのままの同じ顔に見えたけれど、ふいにどうしてか、いま母さんは怒っていて、つむっている目をカッと見開いて、僕を怒鳴りつけるのじゃないかと、恐くて恐くてたまらなくなった。蓋をしめようと思っても、閉めたら閉めたでそれも悪いことのように思えて、どうすればいいのかわからずに、僕はそのままそこを動けなくなっていた。

 しばらくして伯母さんたちがガヤガヤと部屋に入ってきたから、僕は自分の顔をふだんの顔つきにむりやり戻して、僕と伯母さんたちの分の布団を敷いてから、皆で出た料理やお寿司を食べながら、そして通夜で残ったビールや酒を飲んだ。
 一人の伯母さんの旦那と息子が死んだときの話を聞いたり(それは僕にとっての伯父さんといとこだけれど)、一番年上の伯母さんは耳が遠くなっていて足が悪くなっていてそして寒がりで、トイレに付き添ったりエアコンの暖房の設定温度を上げ下げしたり部屋の中で着る上着を持ってきて着せたりして世話を焼きながら、自分の身近な人が死んだときの話をし合っていた。
 話を聞きながら飲んでるときも、僕は、俺の母親は怒っている、理由はわからないけれど俺を怒っている……、と母さんをというより、母さんと僕と父さんとカズ子の関係や、親戚との関係や、僕がこれまで生きてきたやりかたのことや、これから生きていくことそのもののことや、そういう一切合財に、母さんはどうしてか怒っている、と僕は飲んでも飲んでもいくら飲んでも、まるで酔えなかったし、伯母さんたちの話にも半分以上は上の空だった。

 十一時を過ぎた頃だろうか、ひとりの伯母さんが眠くなったと言ったのを合図に、みんなで布団に入って、誰かが電気はつけておこうねといったから明かりはそのままにして、僕は横になってそのまま目をとじた。だけど何かを悔やむような思いが頭の中を渦巻いて、眠れずに寝返りばかりを打っていた。
 目をとじてどのくらい時間が過ぎただろうか、キッカケがあったのだろうか、それとも何もなかったのだろうか、よくは憶えていないけれど何かがあったのだろう、僕は意識しないのに、きゅうに、「夜霧よ……」のメロディが僕の頭の中に流れてきたんだ。
 僕は布団の中で目をとじながら、どこかから聞こえてくるそのメロディを伴奏にして、そのまま小さくハミングで唄った。
 ゆっくりと最初から最後まで、声を出さずに唄った。

 ぜんぶ唄いおわったら、いつのまにか体の奥の芯のところが、どうしてか暖かくなっているのが自分でわかった。
 そうしたら、ああ、母さんはもう怒っていない、僕をもう怒っていない、とそのとき僕は、理由もないのだけれど、はっきりわかったと思った。
 伯母さんたちはもう寝てるのかまだ起きてるのか知らないけれど、僕は一人で起きだして、もう一度お棺にいって顔の蓋を開けてみた。
 不思議なことに、母さんの顔は、さっき見た恐ろしげな顔とまるで違っていた。
 僕の全部を、まるごとの僕を、ゆるしてくれている顔だった。
 険しい山道のわきに一輪だけそっと咲いている、やさしげな小さい花みたいに見えた。

 僕は今まで生きてきて、許すという言葉も、感謝という言葉も、それまで本当の実感がなく生きてきた。
 インターネットのホームページやブログで、「許す」だの「感謝」だのと簡単に書いているのを読むと、そのブログ主は中身がないオタメゴカシの行動が伴わない口先だけの軽薄野郎だと思って、喧嘩したくなることが多かった。
 だけど僕の目の前で死んでいる母さんの顔をじっと見ていると、僕は四十七年生きて、自分以外を許すということも、自分以外から許されるということも、なぜだかいま実感できている、と感じていたし、僕が今ここに居ることだけでさえ、少なくとも母さんだけには、そして僕自身にも、なんだか理由もなく、理由もなくありがたい……、と胸の奥が暖かい、と感じながら、からだじゅうで実感している、初めての僕自身を感じていた。
 そして僕は、いつまでも、僕の目の前で死んでいる、花のような母さんの顔を、いつまでもいつまでも見ていたいと、思っていた。

「夜霧よ今夜もありがとう」は、僕をすくってくれた歌だ。
 今も一日何回も、ふっと心の中にメロディが浮かんできて、口ずさむんだよ。
 そのたびに、胸のあたりがあたたかくなるのが、わかるんだ。

見合いで呼ばれたのじゃなかった

 一月の下旬、たしか二十七日だったか、夕方僕の携帯が鳴って、出たら、めったにかかってこない父さんからだった。
「これから来れないか。ヘンな格好じゃなくて、まあまあいい服着て。家に着いたら、俺は出てるから、俺の携帯に掛けろ」とだけ言って電話はきれた。
 僕はそのとき、いい服着て来いというのは何だろう、もしかして俺に見合いをさせようとして、曖昧な言い方したのかな、なんて思って立ち上がって、のろのろと顔を洗いにバスルームに歩いた。
 高校の頃から僕は、膝を擦りむいて切れたジーンズ穿いていたり、雪が降ってなけれれば真冬でもビーチサンダルで通したりと、父さんや母さんに、そんな格好するな、と叱られてばかりいたのだった。

 そのあとニ、三分して、また父さんから携帯に電話があって、さっきとはちがう少し重いような声で、「母さんはもう長くないかもしれない……。今日、また入院した……。今病院にいる……」とだけ言って、また切れた。
 見合いをさせられるのなら、どうやって断ろうかと考えていた自分に呆れながら、すぐに僕は冷たい水で自分の顔を叩くように洗いはじめていた。

 何年ぶりかに運転する高速道路の右側は海側で、太陽が沈む前の薄明るい青空が見えていて、僕は、どうしてかフニャフニャしているような感触のハンドルを握りしめながら、冬の一月の夕方五時すぎだというのに、こんなにもう陽が長くなっているものなんだな、と頭の中で、急いてる気持ちとボンヤリしている気持ちと、不思議なことに両方同時に感じながら走っていたのを、おぼえている。

泣くこともいいし、笑うこともいい

 友引とお寺様の都合で葬式が伸びて、母さんの体をそのままもたせるために、式場の冷蔵庫みたいなところに入れに、叔父さんと僕で行った。
 係りの人は、「ご心配いりませんよ。この中は一℃から三℃に温度設定されていて、ここに入っていれば、何日でもそのままですから。今まで、最高九日間入っていた方もありますからねえ」と、得意げな顔で僕に説明した。
 それを聞いた僕は、少し笑った。
 母さんが死んでも、どうしてダガシはいつも笑っているんだ、と親戚の伯父さんたちから不思議がられていて、ヘンなふうに思われているみたいだったけど、この式場の係りの人からも、僕は変わった奴だと思われているんだろう。

 その次の朝、明け方、急にさむくなって目が覚めて、毛布を首のあたりに引き寄せて眠ろう眠ろうとしたけど寝付けなかったから、そうだ、茶の間に叔父さんと父さんがこたつで寝てるはずだ、ストーブは一晩中つけてるはずだ、と起きだして、茶の間に行った。
 携帯電話の光を懐中電灯がわりにしながら廊下を歩いた。携帯の画面の時計は、まだ六時すぎを差していて、夜は明けきれずに家の中は暗かった。
 茶の間に入るとやっぱりストーブはついていて、薄暗い中のストーブの明かりで、父さんと叔父さんがテーブルをはさんで寝ているのがかすかに見えた。
 僕はもういちどベッドに戻って掛けていた毛布をもってくると、背中からかぶってストーブの前にあぐらをかいた。

 さっきまで足先や首のあたりがじんじん冷えていたのが、ストーブの火に手をかざしていると、ふんわりと体があたたかさで包まれていくのがわかる。
 暗い部屋の中で、唯一赤く明るく燃えているストーブの炎を見つめていると、少しずつすこしずつ体の芯のほうがあたたかくなってほぐされていくみたいだった。
 そうしたら、きゅうに誰かが泣いている声が聞こえてきたんだ。
 よく聞いていたらそれは、僕が泣いている声だった。
 その声は、体の奥底からしぼり出すみたいな音で、高くなったり低くなったりしながら、熱をおびて何かを引きずるように、どこに向かっていくのか自分でもわからないように、たどり着く行き先を探しているように、いつまでもいつまでも泣き続いていた。

 僕は暗い中で炎を見ながら、いつまで俺は泣くんだろう、と自分で自分を不思議がりながら、でも泣きやむことができずに、そうだなあ、三分くらいは泣いていた。
 泣きながら、ばあちゃんが死んだときに泣かなかった分まで泣けるかな、と思いながら泣いていた。
 いままで生きてきて、泣きそびれた分は全部いま、泣きたいと思った。
 母さんも、僕がこんなに泣くなんて思わなかったろうな。

「泣くな、朝っぱらから! 近所迷惑だ!」と父さんが低い声で怒鳴った。
「いいねっかや。泣きたいときは泣けばさ」と叔父さんが答えた。
 二人は起きていたみたいだった。

 僕は生まれてはじめてこんなに長い時間泣いて、それで気がおさまったのだろう、「ああ、さっぱりした」と言ったら、その声は自分でも機嫌よい明るい声だと思った。
 その声につづけて、「父さんも叔父さんも、泣けばすっきりするよ」と言ったら、父さんは「ばか! 俺がここで泣けねこってや」と、困ってるのか嬉しがってるのかわからないような感じでつぶやいた。

 そのあと、葬式のときも、お寺様のお経聞いてたら、あの明け方のように泣いてしまった。
 父さんは横から僕のひじを突付いて、「泣くな! 泣きたかったら廊下に出て泣け!」と低い声でまた怒鳴った。
 そのときは三十秒くらいでおさまって、「大丈夫だよ」と答えて静かになったと思ったら、急に周囲の音が耳に入ってきて、カズ子の隣に座っている伯母さんが椅子から落ちそうなぐらいに前のめりになって泣いているのが見えたし、後ろの席のあっちこっちから泣き声が聞こえていた。
 僕は、人が泣いていると冷静になってしまうたちだから、きゅうにシャンと背を伸ばして、向こうに見える母さんの笑顔の写真に笑いかけたけど、それは誰も見てなかっただろうと思う。

無音の中でおくりたかったから

 湯灌の後に、葬式の写真撮ってくれてる、いとこの兄さんから、「ダガちゃん、今夜このカメラあずけるからさ、式場のお通夜の部屋で撮ればいい」とデジタルカメラ渡された。
 お通夜の部屋にはカヅ子は泊まらなかったから、僕と伯母さんたちの四人だけが母さんと一緒に寝た。
 お通夜の式の、酒とか食べ物の残ったのをお通夜の部屋に持ってきてもらってたけど、僕はもうあんまり飲めないなと思ってたら、ぜんぶ飲めたな。寝れなかったからかな。

 次の日の葬式のとき、僕は父さんの横に座ってて、まだカメラがポケットに入ってたのを思い出して、親戚の人達が焼香してるところとか、お寺様がお経読んでるところとか、椅子に座ったまま撮ってた。
 そうしたら、「撮るな、撮るないや」と父さんがひじで僕の腕を突ついて、カメラを止めさせるんだ。
 父さんは写真撮られるのが好きじゃないみたいだし、それだから撮られる人に迷惑だと思ってるらしい。それは僕もちょっと同じ気持ちなんだけどね。
 だからその後はカメラ撮るのは、ちょっとひかえた。

 最後にお棺の中に生花を入れるときに、最近流行ってる「千の風…」という音楽が流れはじめて、僕は父さんに、「この音楽は後で止めてもらう。わざとらしいから」と言ったら、「よけいなことするな!」と父さん小声で怒ったよ。
 それでも係りの人に小さな声で、「すみませんけど、この音楽がすぐ止められるのなら止めてもらえますか」と頼んだら、すぐ止めてくれた。
 無音の中で、したかったから。
 式場の、月並みなかたちで、泣かせようっていう、簡単な商売のやり方が鼻に付いたんだ。
 そういう上っ面のものに乗っかれば、その場はラクだろうけど、僕の好きなやり方じゃない。
 その夜、父さんと伯母さんたちに怒られたけどね。
 でも、商売のやり方でおくるより、僕が僕のやりかたでおくるほうが、母さんも嬉しいのじゃないかと、勝手に思ってやった。

 その次の朝はすごい霧で、いとこの兄さんが玄関に入ってきて、「霧が深くて前が見えなくて、信号一つ通り過ぎたよ」と笑いながら、デジタルカメラで撮ったのを写真集にしてくれたのを、フィルムがわりのCDと一緒に、僕に渡してくれた。一晩で作ってくれたんだな。
 僕は、葬式の直前に僕が撮った葬儀委員長してくれた親戚の兄さんが、ちゃんと撮れてるかどうかだけチェックしようとして、写真帳のページをめくった。
 きのうの夜飲んだとき、その兄さんがなかなか帰ってくれずに、そのときちょっと喧嘩みたいになりそうになって、気まずい雰囲気で帰してしまったから。この葬式のことで随分働いてくれたのに。僕は、それをわかっていたのに。
 おそるおそるページをめくっていったら、写真帳の後ろのほうに、いい顔したその人がこっちを見てる写真を見つけた。僕は背中にたまっていた力みが抜けた感じがした。
 そのとき、窓の向こうに見えた空が、いつのまにか霧が晴れていて、いつもどおりの透き通った青い色になっていたのがわかったよ。

オヒラキにしましょう

 六日の午前中は、帰ってきて玄関のそばにいったらふわっと線香のにおいがしたから、あれ、もう母さん家に帰ってきたのかとわかった。
 玄関戸をガラガラと開けたらちょうど叔父さんが茶の間から出てきたところで、「おお、ダガシ、来たか。はやくお母さんのとこに行け」と僕に言った。
 僕は座敷には行かずに、まず、洗面所のほうに歩いていって、口の中をゆすいだ。
 さっきまで運転していて、どうも口が渇いてるなあと思ってたから。鏡の向こうの僕を見たら、そのときの僕はどうしてか僕の顔をしっかり見てなかった。

 その夜は、親戚の伯父さんたちや伯母さんたちが泊まってくれると言ってるんだけど、僕は「皆さん、これで今夜は、いい気持ちでオヒラキにしませんか」と言ったら、伯母さんが怒って「ダガシ、何言うてがら!」と怒鳴ったけど、僕は「俺はやりたいことがあるから、すみませんけど、いい気持ちで帰ってください」と頼んだ。
「やりたいことって何ら!」といわれたけど、答えなかった。
 そのとき父さんも、それでいいと言ったから、葬儀委員長をしてくれてる伯父さんが、「家族がそういうのなら帰ろうか」と言って、みんなで帰ってくれた。

 その後しばらくしたら父さんのいちばん下の弟の叔父さんが来て、「よし、俺たちだけで母さんをおくろうぜ」と言いながら、お酒もってきて飲みはじめた。
 それで、いいころあいかな、と思って僕、その日持ってきたギターをケースから出して、軽くチューニングしてから、母さんの横にいって、弾きだしたんだ。
 しのび会う恋を…、とね。

 叔父さんも僕の唄を誉めてくれたよ。母さんも聴いてただろ。

 次の日、昨日むりやり帰ってもらった伯母さんはまた、朝から母さんの横にずっと居てくれたから、僕はありがたいなと思って、伯母さんにも聴かせようと思って、きのう唄った「夜霧よ…」を伯母さんのためにまた唄ったよ。

 伯母さんも、泣きながら、手拍子しながら、聴いてくれた。
 他の伯父さんたちも、誉めてくれました。

 お昼ご飯のときにね、伯母さんは僕に、「ダガシ、唄、いいかったあ! これ、おまえの歌の分。流しの料金ら」と笑いながら一万円くれた。
 僕もすなおにもらいました。
 そのあと、「オヒラキにしましょう」、が家の中でちょっと流行ったよ。

先生、と素直に言える

 父さんが言う、「ガンになってから八年も生きさせてもらった。ありがてえこってや」という言葉。
 僕も同じだ。
 こないだの母さんの、「もうじゅうぶんいきたよ。薬はいらない。もう、ラクになりたい」という言葉。
 だから、看護婦さんが点滴かえに来てくれたとき僕、「もう母親はじゅうぶん生きたと言ってますし、ラクになりたいといってますので、薬は要りません。引きつぎの時に先生に伝えてください」と言ったら、看護婦さんはちょっと笑って、「この点滴だけかえますね」と言いながら点滴のパックを交換していった。
 僕も、「この点滴は痛み止めだけなんだよ」とごまかしたけど、母さんは何も言わなかったな。

 そうしてこないだタイミングよく看護婦さんと、僕は母さんで生まれてはじめて自分の親のオムツ交換した。
 母さんは、きれいな肌で清潔だったよ。

 そのときちょうど先生が病室に入ってきたんだ。
 僕は、初めて見たあの背の高い白髪の先生に、「先生、母親は充分生きました。ありがとうございました」と言ったら、先生は何も言わずにニヤリとして、ベッドのほうのこっちに来ないで、すぐさま廊下に出ていった。

 あの朝は、先生は50キロくらい離れた街に出張していたそうだけど、「私が最初からみていたのですから、これから戻りますから、待っていてください」と言って、朝早く病院に戻って、最期をみてくれたそうだよ。父さんが言ってた。

 先生にお礼の挨拶したかったけど、間に合わなかったから、ここで言う。
 本当にありがとうございました。

これからは手紙文じゃなくて、ふつうの一人称で書こうかな

 心臓が痛い。
 精神的なものじゃない。
 あれから五日間寝不足だから。
 いろんな用事でバタバタ体も動かすし。
 飲むときに近くにいる人の何人も煙草吸ってる。
 その煙吸い込みながら、ふだんよりたくさん酒のむから良くないのだろ。

 母さんはいなくなったんだから、誰かに呼びかける手紙のスタイルはやめて、普通の書き方で書こうかな。
 ブログのタイトル「新潟のハウスクリーニング屋さんが出す母への手紙」も、ちょっとかえよう。
 でもときどきは、呼ぶよ。

ありがとう

 さっき父さんから電話ありました。
 母さん、いままでよく頑張ったね。

 ありがとうね。

こういうときは、おさえておさえて

 こういうときって、クルマ運転してると、どうぞと、いつもいじょうに前に入れてあげたくなる。

 自分をすてて誰かにやさしくする人見ると、僕も優しくした人に、優しくしたくなる。

 でも、足元にゴミ捨てて平気な人間や、ほかにもひきょうなことする人間には、喧嘩したくなる。

 心の振幅が普段よりはげしくなってるのが自分で分かる。

 だからいま、意識して、おさえてるよ。

聴かせたい、唄うのを

 こないだ病室で、ふいに、母さんに何か唄ってきかせようと思って、うたおう、うたおうとしたけど、なに唄えばいいか分からなかった。

 母さんが苦しがっていて、もう薬いらない、ラクになりたい、と言ってるときに、「さくら」もヘンだし、「春の小川」もどうかなと思ったし、「美空ひばり」も「都はるみ」もいま合わないなと思ったから。

 それでそのときは何も唄わずに帰って、その日ベッドの中で横になってるときに、どうしてか「夜霧よ…」が頭に浮かんだんだ。

 でも、むずかしいもんだね、裕次郎を唄うのは。
 それにもう二十年も満足に歌を唄ってないし、ギターも弾いてなかったから、高い音域が出ないし、指も思うようには動かないんだと実感したよ。

 母さんに聴いてもらうのはもう間に合わないかもしれないけど、間に合わせようとして練習してます。
 病院に、そして病室にギター持って入るのは叱られるのかなと思いながら、でも個室なんだし、小さい音と声で唄うつもりだから、周りの人には迷惑かけないようにするから。

唄うよ。夜霧よ今夜も ありがとう

G       Bm  G      C
しのび会う恋を   つつむ夜霧よ

G       D     E7 A7 D7
知っているのか   ふたりの仲を

G      Bm   G     C
晴れて会える    その日まで

G      D      Am  Em
かくしておくれ    夜霧 夜霧

G      Bm   G  C    G
僕等はいつも    そっと言うのさ

   C    G   D7  G
夜霧よ 今夜も ありがとう



G       Bm  G      C
夜更けの街に    うるむ夜霧よ

G       D     E7 A7 D7
知っているのか   別れのつらさ

G      Bm   G     C
いつか二人で    つかむ幸せ

G      D      Am  Em
祈っておくれ     夜霧 夜霧

G      Bm   G  C    G
僕らはいつも     そっと言うのさ

   C    G   D7  G
夜霧よ 今夜も ありがとう

 どうしてか唄いたくなったから、YouTubeという動画サイトで石原裕次郎の歌ってるのを聴きながら、ギター弾いてコード進行しらべた。
 ところどころ合ってないコードもあるけど、まあまあこれで歌える。
 オリジナルのキーはA#だけど、3フレットにカポタストつけて、Gで弾けばいいな。
 練習して、こんど聴かせるよ。

僕が幸せが一番

 母さんと別れるというのに、

 思ってたより恐くないし、悲しくないのは不思議だよ。

 ふっとしたときに、涙がでるけどさ。

 母さんは前から、おまえが幸せになることが一番、と言ってたもんね。

 僕が幸せだということが、母さんも幸せなんだと思ってる。

流星

 カレンダーに絵はなくていいな。
 どんなに心をうつデザインでも、僕が必要なのは日付けがすぐ分かるのだ。
 数字と曜日の文字が大きくて、今年は昭和でいうと何年なのか、とかがすぐ分かるのがいいな。

 ひと月分だけのが丁度いい。
 カレンダーめくる愉しみがあるから。

 日にちはめぐってめぐって、
 何十万年かして、
 僕と母さんは流れ星としてすれ違ったら、挨拶しあおうよ。

教えられるだいじなこと

 じゅうぶんいきたすけ、

 という母さんは、

 おっかながりの僕に、

 死ぬということは恐くないんだよ、と教えてくれてるんだね。

 実際に、死んでみせてくれるんだね。

 ありがとう。

 母さんは観音様みたいに、きれいだよ。

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