FC2ブログ

徒然のブログ

つれづれの思いなどを

トランプが好き。アメリカは日本を生かさず殺さず

 この間アメリカのトランプ大統領が来て、帰ったが、パンとサーカスという言葉を思い出した。日本政府はバカな日本国民に見世物を提供して支持率を上げようということだ。もちろんバカな私も日本でのトランプ大統領の動画を見て、おもしろがったし、トランプの日本へのお世辞を聞いて気持ちよかった。そしてトランプ大統領を好きだと思った。
 前に、政治家は哲人か有能なビジネスマンがすべきだと書いたが、世の中に哲人などはいないのだから、有能なビジネスマンが政治をするということに希望をたくすことになる。トランプはそれに当てはまるのだろう。少なくともアメリカにとっては(でもアメリカ人の多くの人に嫌われているようだけれど、トランプを嫌っているアメリカ人は格好つけているだけの人だと思う)。

 日本はアメリカの属国だと言われているが、現実もそうだから仕方がない。今さらもう一回、今現在地球一軍事力があるアメリカと戦争をして勝てるわけがないのだし、戦争をしてもいいと思う日本人は、いや戦争に行きたいと思う日本人は、100人もいないだろう。もちろん私も戦地に行きたくないし、人を殺したくないし、殺されたくない。

 江戸時代の言葉だと思うが、徳川家康だったか、百姓は生かさず殺さずで年貢を取れと言ったという。いや、古代から明治維新後の政府も、民衆から税を取るために、生かさず殺さずで統治していただろう。今の政府もそうだろう。そしてそれは世界の古今東西の統治者の考えだろう。もちろんアメリカも日本のことをそうやっているだろう。アメリカは太平洋戦争で、多大な犠牲を払って日本に勝ったのだから、そして戦争後の賠償金も取らなかったのだから(日本にそういう資産が残っていなかったからということもあるだろうが)。
 だからアメリカは、日本を援助して、復興させて、経済的に繁栄させて、牛や豚を太らせてから食べるというような、後々の世で日本の富を吸い取る仕組みを作ったのだろう。そしてアメリカにとって都合のいい日本人の種を保存するために、肉体的にも精神的にも日本人をいったん去勢して、アサガオの花の色や柄を変えるように、世界で初めてマグロを養殖するように、アメリカにとって都合のいい日本人の種に変えて、繁殖させていったのだろう。
 それはうまくはまっている。富のことだけじゃなく、日本人は精神的にも知性も勇気も剥ぎ取られて、自分から富を差し出させているようにしむけている。私もアメリカが好きだし、トランプ大統領が好きだから、まんまとアメリカの魂胆にはまっているのだ。
 それでいいじゃないかと思ってしまう。牙は抜かれた。
 でも頭だけは、はっきりしていたいと思う。自分の行動を客観的に見つづけていられるように。
 それは苦しくて辛いことだけれど、バカになるよりは嫌な気持ちになることじゃないと思う。

禁酒の日をつくる

 昨日の夜は酒を飲まなかった。
 前に飲まない日を思い出そうとしたが、思い出せない。たぶん二年ぶりくらいに飲まなかったのだろう。
 今朝は頭がはっきり目覚めた。毎朝起きるときは頭の中に霧が立ち込めたようにもうろうとしていた。それが今日は遠くまで見通せるように視力が良くなったようだった。
 金玉の酸っぱ臭いにおいもなくなっていた。耳の裏側や鼻の両脇の臭いもしなかった。おしっこも酸っぱい臭いはしない。でもどうしてかうんこはいつもより臭かった。
 一瞬今夜も飲まないで寝ようと思ったけれど、飲むだろう。でも一週間に一日か、一ヶ月に一日は飲まない日をつくれば、体にも頭にも良いのが実感する。心にも良いことだと思う。でもそれができればの話だが。いや、やろう。こんなに気持ちのいい気持ちがするのだから。

昔の苦しさと今の苦しさを比べる

 昨日は新潟市に雪が降ったし、今日は長岡市に降った。どっちも五センチくらい降っただけだったけれど、今年の本当の冬に入った。
 今年はどういうわけか冬なのにこの間まで暖かかったのが、昨日急に冬の寒さになったから、体を動かすのが辛くなった。
 今年の夏は特別の暑さで、動きたくなかった。少しでも動くと大汗が出て、体が疲れた。
 それで昨日からの寒さで動きたくないのと、今年の夏の暑さでの動きたくなかったのは、どっちが辛かったのかと考えたのだが、今の寒い時期の方が寒くて辛くて動きたくないと思った。
 それは暑くても寒くても、どっちも近い方が辛いと思うのだろう。昔の苦しさより、今の苦しさの方を大きめに感じるのだろうと思う。いつもいつも、昔の苦しさと今の苦しさというのを、よくよく比べたり、考えた方が、今の苦しいというのを、どう感じたらいいのかわかるのだろう。

今年の生まれて初めての暑い夏も終わって、地球も自分も回って変わって

 2018年八月三十一日のおとといの夜中は寒くて、午前三時頃に目が覚めて大きなビニール袋二つを体と足にかけて眠った。それは八月15日頃だったかの急に寒くなったときと同じだった。でもそれ以降はまた暑くなって裸で寝ていた。
 それがやっと季節が変わったのだろう、八月から九月になったときに夜が寒くなって、昨日の九月一日は薄い布団をかけて寝た。寝始めはすこし暑くて扇風機をかけていたが、扇風機のリモコンが切れたころは薄布団をかけているのが丁度よかった。
 これからの九月の彼岸までは暑くなったり寒くなったりするのだろうが、裸で寝ることはなくなるだろう。
 エアコンをかけて眠るのは、盆すぎからなくなった。薄布団をかけて寝るときは窓は閉めて寝る。
 今年の生まれて初めての暑さの夏でも、今日このごろは、かくじつに秋になっている。秋の虫も鳴いているから、季節は変わっている。地球は回っている。自分も変わっている。

冬を越すより夏を越すほうが難しくなるかもしれないこれから

 十五年くらい前から、夏の暑さがひどくなった覚えがある。
 それまでの最高気温は、どんなに暑くなっても31度で、それも八月一日をはさんだ三、四日くらいのものだったのに、十五年くらい前から、30度超えなどあたりまえになってきて、32度、33度の最高気温が出た。そういう夏の暑さが、十五年続いている。
 だからオートバイは夏に乗らないようになったし、山登りもしなくなったし、できるだけ外の仕事は受けないようになった。夏は家にこもって扇風機の風に当たって、パソコンで何かを書いて過ごすのが、ここ十五年だ。

 日本の気候が変わったのだと思う。いや地球の気候が変わったのかもしれない。今年の夏はヨーロッパでも熱波が襲っているそうだから。
 昔の気候で育って暮らしてきた年寄りは、今の気候に合わずに死ぬだろう。いや、年寄りだけではないだろう。十五年前までの暑さで暮らしてきた人間は、若かろうが年を取っていようが、夏の暑さを甘く見た人間は、夏を越せなくなるだろう。
 ちょっと前までは、重い病人は寒い冬を越せないという言葉があったが、今は暖房器具は発達しているし、体の弱い人間は冬より夏を越すことが難しくなるかもしれない。それも自然の淘汰なのだろう。自分がいる環境に合わせて自分が変わることができるものが長生きできて、子孫を残せるのだろう。それは良いことでも悪いことでもなく、自然なことなのだろう。

裁判所と政府とNHKは結託している泥棒

 今日ネットニュースで見たが、NHKと受信料契約をしていなくてもテレビを持っているだけでNHKの受信料金を払わなければならないという最高裁判所の判決が出たそうだが、さすが税金で飯を喰っている泥棒根性のクズの裁判官が大勢いる。
 だが判決を受けた人間も、絶対にNHKは視ていないというのならその言い分も正当化できるだろうが、NHKを視ていないということを証拠だてることはできないのだから、その人間の言うことを信じるしかない。だけれどその人の言うことならば絶対信じられるというような正直な人は、一千万人に一人くらいだろう。ということは日本人の中で十人くらいだ。いや、もうすこし多いかな、絶対正直者は日本の中で百人くらいかもしれない。その人数は当てずっぽうで、根拠もないのだが、感覚的にそれくらいだろうと思う。
 そういう極限までの正直な人は世俗的な欲望を捨てた人だろう。そうしてNHKに裁判で闘った人は、それほどの絶対的な正直な人ではないだろう。日本人一億人の中で百人くらいしかいない正直者は、自分の正直さのトゲが、自分にも、まわりの人間にも、ちょっと動いただけで刺さって、相手の皮膚からも、自分の体からも、血が噴き出て、だからそういう人は生きるのが辛くて辛くて、自分のことで精一杯だろう。だからクズのNHKなどに裁判を仕掛けるほどヒマはないだろう。それにクズの裁判官などに、俗っぽい公務員たちがやっている日本の裁判制度などに、自分の正直さを確かめられるのは、正直な自分の矜持が許さないだろう。
 NHKは解体して、ニュースと天気予報だけをする小さい放送局に徹しろ。

車のフェイスが臭くなっている

十年くらい前から車のフロントフェイスが人間の顔に似てきている。それも怒った顔だ。一部の日本車の顔は可愛子ぶりっこしている顔にしているのもある。どれもわざとらしい。芝居の演技でいえば、臭いのだ。
 車の顔だけではない。映画の演出も、ラジオの演出も、広告も、見ていないがテレビもそうだろう。インターネットのサイトの造り方も大げさだ。クサイのだ。頭が悪いのだ。儲かりたいという魂胆が透けて見えるのだ。
 それは娯楽小説の造り方だ。読み手は頭が悪く感受性が低い人間だから大げさな物言いの言い回しにする。娯楽小説の業界の批評は互いの誉めあいしかしないから、それは金儲けが目的だから、放っておけば質は下がる。そしてそれは放送業界もネット業界も車の業界も同じなのだ。政治の業界も大昔からそうだ。
 今、切磋琢磨している業界は、無いのかもしれない。一昔前の純文学の業界だけはそうだったようだが、今はお笑い芸人に純文学界の主要賞を受けさせて、売らんかなの、下卑た業界になっている。芸術とは、いえなくなっている。日本国中が、売れれば、儲かればいいという風潮になっている。
 車は無機的なフロントマスクが気持ちいい。

列車とバスに乗ってバイクを取りに行ったこと

 今日バイクを実家から新潟市のアパートに乗ってきた。今年は遅くなった。
 連休で運転に慣れないドライバーが多いからだろう、八号線は事故が多かった。ニュースでも交通事故で高速道路が渋滞していると言っていた。

 実家には列車で行った。新潟駅は旅行する人間であふれていた。世の中で珍しい機嫌よい顔の人間ばかりだった。列車の中は女が八割だった。四人がけの座席で男は俺一人で、他の席は女ばかりの座席が多かった。考えたら女は車を運転しない人間が多いから列車やバスに乗るのだろうと思った。
 ほとんどの女たちはスマホをいじっていた。年寄りは二、三人だけで、知り合いと喋っていた。他は若い女ばかりだった。隣の女のスマホを横目で見てみたら、細かい文字が並んでいて、文字よりも写真が多いサイトだった。その写真は雑貨や化粧品や衣服の画像だった。他にはラインというものだった。女はときどき眠った。眠っていてもスマホは握ったままだ。ふと目を覚まして、またスマホを見る。またうとうと眠る。それをくり返していた。

 実家のあたりは農家がほとんどで、ゴールデンウィークは田植えの時期だ。部落の中は静かだった。誰も道を歩いていなかった。皆田んぼに行っているのだ。俺はこれからバイクに乗る。どうしてか申し訳ないと思った。誰にも見られないように車庫からバイクを出してすぐに出発しなければいけない、と思った。駅や列車の中で思ったのだが、この時期に旅行や遊びに行くのは農業をしていない、勤め人なのだ。気楽な人間なのだ。そして世の中はそういう人間の方が大多数なのだ。
 大型連休は気楽な人間が大勢外に出ているから、交通事故も多くなるだろう。連休中は危ないからオートバイに乗るのは近場だけにしておこうと思った。

 新潟駅のホームで列車を待っているときにベンチの隣の椅子に座っていた若い男は、小太りの短い髪の男で、手帳を取り出して、俺のわからない言葉を小声でつぶやきながら、何か一生懸命に書いていた。横目で手帳を見たら、胡麻粒くらいの大きさの数字が活字みたいに整然と並んでいて、男は手帳に顔を近づけて手を細かく動かして文字を書いていた。ときどきスマホを取り出して何かのアプリを起こして、アプリと列車を交互に見ながら細かい文字を書いていた。男が書いている数字は列車を表す記号なのかもしれない。男は列車や鉄道の何かを調べるのが趣味のようだった。
 男は頭がかゆいようで、しきりに文字を書くのを止めて右手の指で頭をかいた。その指を自分の鼻の穴に持っていって臭いをかいだ。それは俺もよくやる。だが男はその指をペロッと舐めた。そこまでは俺もしないことで、今度してみようと思った。だけど誰も見ていないところでやらなければいけないと思った。 男は憎めない感じの男で、どうしてか台湾人のように見えた。
 新潟駅のホームでは高級そうなカメラを持ってしきりに列車を撮っている男が何人もいた。

本当の日本語は日本から遠いところで残る

 土日の夕方は、ちきゅうラジオというのをよく聴く。前にも書いたが、司会のアナウンサーの柿沼郭という人の声質がいいし、番組のゲストとの話の受け答えも即妙で気持ちがいいし、始終謙虚なところからの物言いで人柄もいい。だから柿沼郭という人は頭がいいとわかる。
 それなのに相棒の女キャスターは頭が悪く怠け者だというのがわかるし、聴いていたくなくなる(その名前は出さないでおいてやる。宮城県出身で、東北の大震災のときのラジオ番組で名前が売れて東京に出てきた女だ)。
 何週間か前に、その頭の悪い女キャスターが番組内で自分勝手な物言いをして、柿沼アナウンサーが女に注意したことがあった。そのとき女は一瞬ふてくされた声質になった。公私混同している。頭が悪く我がままだから公私混同するのだろう。世間によくいる人間と同じだ。柿沼さんも前から女の傲慢さに内心腹が立っていたのだろう。
 NHKの若い女アナウンサーは傲慢な物言いが目立つ。ラジオを聴いていると腹が立つことが多い。教養がなく、親の躾がなってないからだが、そういう女しかアナウンサーとして採用しない組織というのが放送局なのだろう。いや、そういう人間があつまるのは放送局だけでないのだろう。今の日本の仕方がないことなのかもしれない。が、それにあらがうことが人間として大事なことだと思う。

 ちきゅうラジオというラジオ番組は、世界の国々に住んでいる日本人に向けた放送だそうだ。だからゲストに出る人は、あちこちの国にいる日本人だ。不思議なことに、そのゲストが喋る日本語は、とても聞きやすいのだ。本来の日本語だからだろう。てにをはを省略せずにきちんとした文章として話すし、何かの言葉を縮めないで喋るし、外国に住んでいるのにカタカナ語を使わないし、しっかりした日本語を話している。そして言葉の一つ一つがはっきり聞こえる。口を大きく開けて発声しているのがわかる。声質も力があるように聞こえる。腹から声を出しているのだろう。若い女の人でも、アニメ声などという気持ち悪い声の人はいない。だから聞き取りやすい。だから聴いていて気持ちがいいのだ。
 番組の頭の悪い女キャスターは、よく思われたいというのが見え見えのかわい子ぶった喋り方が気持ちが悪いのだが、外国に住んでいる日本人はさわやかな喋り方なのだ。
 もう昔ながらの本当の日本語は、外国に行かなければ聞くことができなくなるのかもしれない。

今のアナウンサーたちの物言いは田舎者の物言い

 新潟県の民法のアナウンサーの活舌が悪すぎる。ラジオでも、たまにお客さんの家で見るテレビでも、アナウンサーたちは舌ったらずになっている。
 私はアニメ声が嫌いなのだが、アナウンサーたちがアニメの真似というか、舌ったらずにして子どもっぽくしているのは、かわいこぶって好かれようとしているのだろう。失敗をごまかすつもりもあるだろう。自分の低い人間としての本質を隠したいのだろう。その卑怯な無責任な根性が見え透いて反吐が出るのだ。

 活舌が悪いのは新潟県の田舎の民法のアナウンサーだけではない。NHKのアナウンサーもそうだ。活舌だけではない。彼らは言葉のアクセントも正確ではない。それは言葉を知らないからで、それは教養がないからで、それは親の躾がなってないからだ。
 しかしほとんどのアナウンサーがそうなのだから、その世代の人間が、教養がないし、躾がなっていないのだろう。いや子どもの躾ができないのだから、親のほうも教養がないし、親の親からまともな躾をされていないのだろう。だから大昔からほとんどの人間は教養はなく躾もなっていなかっただろう。そして今は、とくに教養がなく躾がなってない世代の人間がアナウンサーをしているのだろう。いや、教養があって躾をされている人が、そもそも日本にいなくなっているのだろう。

 前に書いたが、二年前くらいからアナウンサーたちの二重敬語がひどくなっている。それは十年くらい前のブログ炎上が流行ったときの対処で、ほとんどのブログがいやらしいくらいの謙譲の物言いで、自分を偽りの慇懃無礼な言葉で飾ってブログを書くことになったけれど、それが現実の世の中に移って、人の顔色を見ることが生きるために良いことだという風潮になっている。
 空気を読むなどという、世渡りを上手にすることが人間としての価値があると思っている、世俗的な低俗な欲求にまみれている言葉も出てきている。

 そしてもう一つは私の推測だが、浅はかな政府の官僚たちが、暴力追放の名の下に、しつこいくらいの丁寧語を使うように決めて、放送局に二重敬語でも何でもいいから丁寧な物言いをしろと命令通達をしているのかもしれない。

 でも今わかった。
 官僚たちは大学受験が上手なだけの浅はかな頭の悪い人間どもだし、アナウンサーたちはもともと頭が悪いのだし、どっちも近場の自分の利益を追求する泥棒根性の人間なのだから、表面だけ取りつくろっているのだから、彼らのやっているラジオやテレビの今のしつこい敬語と丁寧語は人間として間違っている。
 本来の人間と人間との関係に基づいた敬語の喋り方に戻すべきだ。

自分を嫌いになりながら生きることと、いつも自己嫌悪の違いを考えるが、まだ

 久しぶりに、いつぶりかわからないが、バイクに乗った。心配していたバッテリーは生きていて、エンジンはセル一発でかかった。
 でもニュートラルの緑色ランプは暗かった。ホーンは女のおならよりももっと小さく、鳴っているかどうかわからない音だった。
 エンジンはかかったが、アイドリングは安定しない。スロットルを戻すと、すぐにエンストしそうになる。アクセルを軽くあおってやって、エンジンの目を覚ましてやる。少しずつ二十回くらいアクセルをひねると、アイドリングできそうになった。暖気運転をしているうちに十分くらいバイクのそばで準備体操をしていたら、いつもどうり1000回転くらいでアイドリングは安定した。
 途中で仕事がらみの用事を済ませて、往復で150キロくらい乗った。

 いつものように、車から嫌がらせをされたから、いつものように仕返しをした。仕返しをすると、相手は途中で曲がって逃げていく
 。今日さとったのは、すぐに仕返しをしないで、我慢して時間をおいて、相手が弱ったところ、相手の隙がでたところで、一気に仕返せば成果が出るということだ。
 今までは俺は一本気を気取っていたから、何かされたら、すぐにアクションを起こすことが誠実だと思っていたから、そうしていた。
 でも一本気の誠実さだけでは損することばかりだから、敵の弱みを突くこともたまにはやってもいいじゃないかと思うようになった。俺の嫌いな、大人になってきたのだろう。自分を嫌いになりそうだが、自分を嫌いになりながら生きていくのを覚悟するのも、人間としてのおもしろさかもしれないと思った。
 いや、俺はいつも自分を嫌いで生きているのだが、そのいつもの自分嫌いさとは今日の自分が嫌いになった感じは違った。

 時間をおいて仕返しをするのは、恨みをおぼえておく必要がある。俺は記憶力がいいから、いや執念深いから、恨みを忘れないから、できるのだろう。でも恨んでいる時間年月は、いい気持ちはしない。

石原慎太郎は芸術家ではなくなった

 芸術家とはわがままでいいのである。王侯貴族よりも偉いのである。
 石原慎太郎は芸術家だ。石原の純文学の小説をほとんど読んでいるが、どれも芸術だ。だから石原は我がままでいい。そして石原は昔から我がままにふるまってきた。それも芸術家だから許されていたし、芸術家としての振る舞いで小気味いいと思ってきた。
 金に頓着しないのも芸術家だ。だから金が自分のものであろうと他人のものであろうと、どっちでもいいとするのも芸術家だ。石原慎太郎が政治家時代に公金を少し横領したとしても(実際いろんな形でしていたのだろうが)、芸術家だから許されていたのだろうし、日本国や東京都の財政が破綻するレベルで横領したわけではないから許されていたのだろう。
 だが芸術家は卑怯者であってはならない。芸術上での嘘は許されるが、実生活での嘘は、芸術家だからこそ命取りだ。
 石原慎太郎は、小池百合子への批判演説で嘘を言ったらしい。それも相手の容姿を貶めながら。
 その物言いは芸術家ではないし、選挙演説などという形而下で下世話なことで、しかも息子を助けるためという世俗的なことで嘘を言ったのだから、芸術家としては死刑にあたいする。
 石原はもう八十半ばだ。もうろくしたのだろう。そもそも芸術家が政治などに手を出すべきではないのである。
 ということは石原慎太郎という人間は、もともと芸術家ではなかったのかもしれない。芸術家の演技が上手なだけの人間だったのかもしれない。

テロは地球にとっては蚊

 フランスにISの無差別テロがあったそうだが、フランスがアフリカや中東やに先に何をやったかというのは置いておいて、ISは仕返しをしているだけだというかもしれないが、仕返しは古今東西の人間の自然なおこないなのだが、ものごとの根本の解決にはならないというのは、頭のわるいワガママな私にもわかる。
 といって仕返しをするなという権利は第三者にはないだろうし、私も理不尽な嫌がらせをされたら仕返しをしなければ気がすまないほうの人間だから、ISの気持ちもわからないでもない。
 だけれどISが仕返しをするだけのためにあのテロをしたのなら、頭が悪すぎるだろう。ISの中にも頭のいい人間もいるだろうし、トップの人間が頭が悪いとは思えない。ということはテロをして損得の得をえることができるから、あのテロをしたのだろう。
 その得とは何かというのはわからないが、どこかの国から得る闇の金銭でもあり、宗教上のことでもあり、仕返しをしたという達成感でもあるだろう。
 ということは人間というのは、頭が良くても、先のことまで考えて行動するものではないのだろう。目先の得をえることで人殺しさえするし、自分を殺しさえするのだろう。
 人間など地球から見たら目に見えないくらいのちっぽけな一粒の存在だから、殺しあって少しぐらい数が減っても増えてもどうということはないし、人間というものがいなくなっても地球という自分の体勢に影響はない。ましてや宇宙にとっては地球さえなくなってもどうということはないのだから、地球にいる人間などというものがいなくなっても、宇宙にとっては時間にも空間にもまるで影響はないだろう。
 人間が殺しても殺されても殺しあっても、地球にとっては夏の夜中に寝ぼけながら顔の近くを飛んでいる蚊をたたいたぐらいのことなのかもしれないし、宇宙にとっては、日本人が地球の裏側のブラジルあたりの蒸し暑い夜に、母親ぐらいの年かっこうの売春婦のベッドのまわりに飛んできた一匹の蚊の羽音が聞こえたかどうかのことぐらいのものなのだろう。

そうなんですねとは何ごと?

 ラジオを聴いていたらまた変な言葉が世の中に出てきた。
「そうなんですね」
 そうなんですねとは何ごとだ?
 それを言うなら、そうなんですか、だろ。
 そうなんですねは、そんなことは知っていましたよと自分が知らなかったことをごまかす言葉だ。卑怯な物言いだ。
 とくに女のアナウンサーや女のラジオで喋る奴に多い。だからオンナは嫌いなのだ。
 テレビを見ないからテレビでもそんなふうに喋っているのかは知らないが、たぶんそう喋っているのだろう。テレビはもっと卑怯な人間ばかりだから。

 語尾に「ね」をつけられるのは嫌なのだ。なれなれしいのだ。何かをごまかしている感じがするのだ。
 きっかりと、きっちりと、ある一定の距離をおいて接しあいたいのだ。親しき仲にも礼儀ありという言葉もある。
「ね」という語尾は、依存したい、自分を良い人に見せかけたい、何かをごまかしたい、責任を転嫁したい、誰かを搾取したい、そういう泥棒根性が見え透いて腹が立つのだ。

ブラックの世界から脱却するには泥棒根性を捨てること

 このあいだラジオでブラックバイトというのを言っていた。ブラック会社でアルバイトをしている大学生が、賃金を支払われなかったり、休みの日でもむりやり出て来いといわれて出社させられたり、仕事がヒマな日は今日は帰れといわれたり、そういう会社だから辞めたいといっても、いろいろ難癖をつけて辞めさせられないということがあるらしい。
 ブラックといわれる会社の人間たちは言い訳できないくらいに卑怯だから私的死刑にしてもいいが、ブラック企業に勤めている大学生たちもいい加減な人間だろうから、同じ穴のムジナだと思う。人間のほとんどはいい加減で、泥棒根性の人間なのだから、それは若いうちからも自分さえよければいいという人間ばかりなのだから、ブラックバイトの会社も、大学生たちも、どっちもどっちなのだ。
 嫌なら辞めればいいのだ。アルバイトを辞めたら生活していけないというのなら、大学も辞めればいいのである。それでどこかに勤めればいいのだ。
 そこがブラック会社なら、また辞めればいい。別の会社に勤めて、そこもブラックならまた辞めて、また別のところに勤めて、それをくり返せばいい。そうしてその間に自分で独自の勉強を続けて、仕事と世間を勉強しながら自分を鍛錬していって、あるときがきたら、自分で商売をすればいいのだ。
 だが自分で商売をできる甲斐性がある人は一握りだろう。自分を自分で鍛錬しつづけなければならないのだから。その苦しさを自分に課しつづけなければならないのだから。だけど人生とはそういうものだ。世の中とはそういうものだ。自分で自分の食い扶持をゼロから稼ぐことができないならば、ブラック企業にもぐりこむしかないじゃないか。ちなみに、どんなにキレイゴトを言う人間でも、その人間が税金公金で飯を食っていれば楽して儲けているのだから泥棒根性でありブラックである。
 現実の世界がブラックになるのはあたりまえのことで、だって人間の男も女もほとんどは泥棒根性なのだから、泥棒というのは自分さえよければいいのだから、世の中がブラックになるのはあたりまえだ。
 ブラック企業の中の人間たちも、雇われている大学生たちも、どっちも泥棒根性なのだから、その人間たちの欲望は同じ方向を向いている。楽して金儲けすることが第一だという欲望だ。欲望が同じだから、同じものを求めているから、目指すものを取り合いになって、自分のために相手を利用して、お互いが利用しあおうとするから、戦いになるのである。今は被害者ぶっている大学生も、年取ったらブラック企業で人をブラックに利用するだろう。なぜならもともと泥棒根性なのだから。
 税金と公金のことだが、税金公金から離れて、ゼロから自分の力だけで稼いで、そうして絶対に自分以外の人にブラックなことをしないなら、その人はホワイトな人だろう。
 ブラックから抜け出したいなら、泥棒根性を捨てなければならない。それは世間的な欲望から抜け出すということだ。そのためには、まず自分が泥棒根性を持っているブラックな人間だという自覚をしなければならない。ものごとは、そこから始まるのである。
 それができる人だけがホワイトの世界に行けるだろう。世俗的な欲望を捨て去れば、明るいホワイトな世界に入れるだろう。でもそれができる人は十万人に一人だろう。なぜなら、世の中は男も女も目先の儲けと近場のセックスが欲しい人間ばかりだし、自分のことは棚に上げる自分勝手な人間ばかりだから。
 十万人に一人になれないなら、他人様のブラックさに文句は言わないことだ。

 後日の追記だが、ブラック会社でアルバイトをしている大学生は、そのアルバイトを辞めて昼間の大学を辞めて、仕事をしながら夜間大学に通うとか通信制の大学を卒業するとかという道もある。
 今の大学生は馬鹿で泥棒根性の人間ばかりだから、そういうのの仲間になっているより、早く社会に出て、そうして仕事をしながら大学の勉強をするほうがいいと思うようになった。

喋る意味がわからないから気持ちいい歌

 さっきラジオで、たぶん中国語か韓国語の歌が連続してかかっていて、気持ちよく聴いていた。
 日本語の歌を聴いていると、いつも歌詞の中身が浅くて自分勝手で、腹が立ってきて聴いていられないのだけれど、知らない国の言葉の歌は、何を歌っているのかわからないから、腹も立たない。その聞いてもわからない言葉を、自分でいいように意味をつけて聞くのだろう。だからかえって奥深い詩を聞いているような気分になるのだろう。

 中国も韓国も嫌いで、それは世間の風潮で嫌いになっているのじゃなく、身近な実体験があって嫌いになったのだが、大仰な歌い方でない中国語や韓国語の歌は、たまに聴くといい。
 意味がわからないからいいといったが、英語の歌は、子供のころから日常の中で耳に入りすぎていて、もう飽きているところがある。

 言葉がわからないのに、いや言葉がわからないからこそ、その歌がいいと思ったことで思ったのは、喋った中身ではなく、何を行為したかでその人の価値が決まるといつも思っているが、喋ることがわからなくて、それなのに立派なことをしている外人を見たとしたら、その人をもっと好きになるかもしれない。

 赤ちゃんが何をしゃべっているかわからないけれど可愛いのは、そういうことに近いのだろうか。そうでもないかもしれないが、関係もあるかもしれない。

鯖缶と原発と尊厳をかけた闘い

 ひと月ちょっと前からスーパーで鯖缶が売り切れている。テレビで鯖缶の栄養効果を大げさに言って、それが原因でむやみに売れているらしい。去年だったかの納豆もそうだし、栄養のことではないが、ナタデココとか、ココアとか、テレビの中でいい加減な奴らがテキトウなことを言えば、つられて買ってしまう馬鹿どもが買いあさるから、私が買いたいときに売り切れる。

 鯖の缶詰に使われている鯖は、魚の姿を出して、産地を出して、そうすると売れない福島とか宮城とか岩手とか、そういうところで水揚げされた鯖を原料にしているのも多いだろう。放射性物質をたっぷり含んだ鯖が、缶詰になって売られているのだろう。それをありがたがって、嬉しがって食べて、体の中に入れて、栄養があるとか健康に良いとか言っているのだから馬鹿馬鹿しい。

 今日、東京電力が柏崎刈羽原発を再稼動させる手段の段階を一つ進めるというニュースがあったが、なぜ関東の人間のために、東京の人間のために、新潟県の人間が犠牲にならなければならないのかという理由が示されていない。それを、日本の中で誰も言わない。

 私は、関東の人間のために、東京の人間のために、私の命が危険にさらされるのが、ただ素朴に嫌だ。私が使うわけでもない電気を作るために、私の健康が損なわれるかもしれないということが、単純に嫌なのだ。
 自分だけは安全な場所にいようとしている卑怯な東京の奴らから、私の健康や命を軽んじられていることが素朴に嫌なのである。それは、お前は俺のために死んでもいいのだと言われていることだから、一個の人間として、素朴に腹が立つのである。そしてそれは人間の尊厳の問題だから、善悪を問うているわけではないし、原発が安全かどうかということを問題にしているわけでもない。人生の中で一番大切な、自分の人間としての尊厳を守りたいだけだ。だからそのために死ぬまで闘うつもりだ。そしてそういうことも日本中の誰も言わないし、新潟県の中で誰も言わない。それが不思議だ。

 東京に原子力発電所を作って稼動すれば、危険なのはお互い様と思えるから、私も少しは東京と闘う気持ちは減るかもしれない。だからまず東京湾に原発を作れ。話はそれからだ。だって原発は安全なのだろう? 安全じゃなくても東京湾に作って動かせ。房総半島でもいいぞ。自分が使う電気は、他人様に迷惑をかけずに、自分で作れよ。それがスジミチだ。そうじゃなければ、使う電気の量を減らせばいいじゃないか。
 鯖缶は安くておいしいから、ちょっとは放射能が入っていても、毎日食べるわけではないから、そしてその味は私の人生を楽しませてくれるから、ときどきは食べるつもりだ。

自分より頭のいい人を喜ばすのはむずかし

 さっきふと思ったことなのだが、いや今までずいぶん考えてきたことがふいに言葉に固まったことなのだが、世間の大部分の人間は、自分より頭の悪い人間に向けて言葉をはっしている。ブログもホームページも、そして商売もだ。
 俺の場合は逆に、俺より頭のいい人に向けてそれを発している。
 俺は十万人に一人ぐらいの頭のいい人間だと自覚しているが、そういう頭のいい俺が、どこかにいる俺より頭のいい人間を探して表現をしている。言葉や行動をしている。そしていつも、俺は俺より頭のいい人に向けて商売をしたいと思っている。

 自分より頭の悪い人間に発信したい、自分より馬鹿な人間と付き合いたい、という奴は、自分自身に自信がなくて、不安で、自分より低いレベルの人間を探して安心したいだけなのだ。それは俺も大昔、ときどきそうなったからわかる。だから頭の悪い人間のブログやホームページを見ると、浅はかで、泥棒根性で、そして大昔の自分を思い出してしまって腹が立つのだ。
 頭が悪くて客観を持てないことを書くのは、十代のうちで、そして一年に三回ぐらいなら許されるけれど、それじゃオナニーでしかないから進歩はしない。それを自覚してないなら人間として醜い。世間にはそういう臭いのブログがほとんどだ。ハウスクリーニング業界のブログを読めばわかる。研究会などと自称している奴らはとくにそうだ。いや、そいつらだけではない。マスコミの人間、大学の人間、政府の人間、組織の上位の人間、そして父親母親、兄姉、それは、世の中のほとんどの人間のことだ。
 組織の中の部下も、新入りも、弟や妹も、泥棒も乞食も、家畜やペットでさえ、自分より下位の存在を、無意識に必死で探しまわる。

 小説は、自分より頭のいい人に向けて発しているのは、純文学だけだ。ほかには詩もそうだし、俳句や短歌もそうだろう。だから俺はそれらが好きなのだろう。
 金儲けが目的なら自分より馬鹿な人間に向けてコンテンツをつくれば、もうかるのだろう。
 でもそれじゃあ、人生がおもしろくない。
 俺の場合、自分より頭のいい人がとんでもなく少ないのだから、詩の心と客観性を同時に持っている人、そういう人に向けてコンテンツをつくるのも、そういう頭のいい人に対して商売をするのも、需要が少ない。それにそもそも、自分より頭のいい人を幸せにする方法を考えるのがむずかしい。
 そのためにはやっぱり、正直になることと自分のオリジナルなことで勝負することなんだろう。

原発が安全かどうかは別問題で、関東の電気は関東で作れということ

 原発をまた動かしてもいいと、柏崎市と刈羽村が言っているとラジオで言っていたが、馬鹿げている。
 柏崎市と刈羽村とは誰のことだ? 首長と議会が議決してそう言っているのか? それならそう言っていもいい。言うぐらいはそいつらの勝手だから。
 だが原発を再稼動させる権利は柏崎市と刈羽村だけが持っているのではないぞ。その根拠は(前にも書いたが)、原発というものは土地も水も空気もものすごい量を使って動かすものだから、立地している自治体の人間だけで決める権利はない。土地も水も空気もつながっているのだから、何か事故があったら立地自治体だけが被害を受けるのではない。周囲の百キロや二百キロの場所に住んでいる人々も被害をこうむるのである。フクシマの事故を見ればわかる。
 だから立地自治体だけで再稼動を決めるなどというのは言語道断なのだ。
 被害が及ぶ地域の全ての人々だけが決める権利があることだ。だから関東の人間たちには再稼動を決める権利はない。

 それから、原発を再稼動させるかどうかということは、原発が安全かどうかとは別問題のことだ。
 もっと大事なことがあるのである。
 関東で使う電気を新潟県で作らされるいわれはないということだ。
 関東で使う電気は関東で作れ。それがスジミチだ。
 原発は安全なのであれば東京湾につくって、運転すればいいじゃないか。
 そのことの方が大事なことなんだよ。心の問題として一番大事なことなんだよ。
 もちろん今ある柏崎の原発は、責任を持って更地にしろよ。
 更地にするまでは迷惑料と心配料を払えよ。
 更地になったら迷惑と心配をかける料金は要らない。
 そうなった時点で、もう東京とは同じ国家でいたくないと思っているほどだ。

原発を再稼動させないためと、東京憎しの思い

 原発をまた動かせと東京の人間たちが言ってきているが、イヤだ!
 事故になったらどうしてくれるんだ?
 そして関東で使う電気をなぜ新潟県で作らなければならないんだ? それも危険をおかして。
 これは、俺はエアコンをつけて涼しく過ごしたいから、そのために原発がいるけれど、そのために原発の事故がおこってお前たちが死んでも仕方ないよと言っていることだ。自分がラクをしたいために自分以外を殺すという心だ。
 お前は俺のために死ねと言われて気持ちいいか?

 これは東京の人間が横暴に東京以外の人たちの生活をおびやかしていることだ。断固東京と喧嘩したい。
 関東で使う電気は関東で作れ。それがスジミチだ!
 原発が安全なら東京湾に作って稼動しろ。

 しかし東京と喧嘩すると、最悪のケースは新潟県が日本国から独立しなければならないが、それは世界の他の国々から賛同は得られないだろうから、独立はできないだろう。
 とすれば東京をやっつけて、東京を新潟県の支配下に置かなければならない。でもそうするとアメリカが黙っていないだろう。武力でアメリカにはかなわないから、これもできない。

 となれば、のらりくらりと東京が言ってくることに反対することしか今はできない。
 沖縄県もたぶんそういう思いなのだろう。
 しかし沖縄の基地問題は原発の問題より直接命にはかかわらない。アメリカ軍の基地があっても、アメリカの飛行機が頭の上を何機も飛んでいても、大地震や大津波がおこっても放射能がじくじくと漏れることはない。
 大阪都構想というのも、これに似た思いから出たのかもしれない。東京の横暴さが憎いという。

 新潟県を独立させることができないまでも、東京の力をそぐためには、代議士を新潟県からいっぱい出して、その中でも総理大臣になるような人物を送り出して、国会を牛耳って、そうして新潟県を首都にするぐらいのことをやらなければならない。
 もしかして田中角栄はそう考えていたのかな。だからアメリカにやっつけられたのかな。
 だけど田中角栄は世俗の欲望が強すぎた。あの目白の邸宅の広さを見ろ。長岡市の信濃川の河川敷の広さを見ろ。金の亡者だ。角栄には共感できない。アメリカと東京と同じ穴のムジナだ。だから同類のアメリカにやっつけられたのだろう。

 アメリカと東京に勝つためには、アメリカと東京とは違う価値観で生きることだ。今自分にできることは、世俗的な欲望など捨てて、もちろん電気など最低限しか使わずに、地べたを這いつくばって、泥を舐めながら、その場所からものを考えながら、何かを始めることだ。
<<