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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

2008夏の最近

 酢がなくなってるんだけど買い物行き忘れたから、ないままですませてる。
 朝、水に混ぜて飲むのも、夜、焼酎に混ぜて飲むのも、そしてご飯炊くのに混ぜるのもしないで今、済ませてる。

 シャワー浴びるときに一緒に下着を洗う。
 今年に限っては、まだおお暑というわけじゃないから、ま水だけでシャワーしないで、軟弱だろけど、お湯も混ぜて体に石鹸塗る。

 夏になると太るのは、また今年も同じ、ハハ。

安くできるものは安く、できないものは無闇に安くしないで、そしてニコニコテキパキは、新潟市と反対じゃなかったっけ?

 僕のところの近くのジャスコは安いよ。
 ピーマンもキャベツも人参も、豚肉も鶏肉も、ジュースも焼酎も、サバの缶詰も。
 安いだけじゃなくて、品質良くて美味しいのよさ。

 でもジャスコの惣菜は安くない。
 だけどそれはそれで、作ってる人の手間賃が掛かってるんだから当たり前だし(まあ生鮮品だって、作る時や獲る時や、流通のどこかで手間賃かかってるんだからさね)、そして安くできるものは安く、安くできないものは無闇に安易に安くしない、というのは好感持てるなあ、と思った。
 僕はジャスコの回し者じゃないけど、買い物してて、そう思ったよ(ただね、生鮮品が安いのは、生産者を悪どく泣かせているのかな、と心配もするのだけどさ…。ジャスコに訊いてみたいところだけどさ)。

 そうして一番いいと思ったのは、店員さんが、ニコニコテキパキしてるところだな(新潟市の人じゃないみたいな、いい感じなんだ、ハハ)。
 十年前までは、ジャスコの人間はダラダラしてるのばっかりだったけど、変わったなあ、と思った。
 自分に甘くて人に厳しいダガシが、珍しく誉めて、よく行く店に、なったよ。

水虫がない幸せ感じ

 三十五までのサラリーマンのときは僕、毎日革靴履いてたからかな、夏になると水虫が出てた。
 それから介護の仕事とかお掃除屋さんに勤めてズック履くようになったけど、やっぱりときどき水虫出たよ。

 ハウスクリーニングで独立してから毎日サンダル履くようになったらば、てきめんに水虫なくなった。
 やっぱり大事なのは、風通しなんだなあ、と思ったよ。

 そしてね、食べ物を買いに行くとか、ちょっと散歩に出るとかのときは僕、1000円くらいのサンダル履くんだけど、そのサンダルは遊びっぽい感じのデザインだから、お客さんとこに行くときは、シンプルな素朴な見た目の、100円ショップのサンダルを履いてるよ。

 それにサンダルは、脱ぎ履きがしやすいから、お客さんの玄関でモタモタしないで済むからね。
 そしてそれよりもっと大事なことはね、僕は水虫じゃないですよと、堂々とお客さんとこのスリッパ借りて履くこと出来るし、そして作業の中で必要になったときは、堂々とお客さんのベッドにも、キレイな靴下で上がること出来る、安心感かな。

セミの太陽デビュー

 きのう初めて今年のセミの鳴いたの聞いた。
 今日もチラッと鳴いてたよ。

 雨が上がって太陽出たら、
 ビックリしたみたいに、ギャーッと。

 でも今年は鳴きはじめるの、ちょっと遅いみたい。
 ほんとに暑いぞって日が、少なかったからね。

 六年間も真っ暗な土の中でモゾモゾしてたのに、突然太陽ギラギラの世界に出てきたら、おギャーッと叫びたく、なるかもね。

 そうしてだから、地面の地球はまわってまわってまわってるんだね。斜めにね。

ブログで卑怯なこと書かないししないし、実生活で笑い顔で

 僕の商売のホームページを見て依頼してくれるお客さんは、このブログを見る人は、ほとんどいないんだ。
 どうしてなのか分からないけど、僕のお客さんたちは、実生活で忙しいから、ブログなんて見るほどヒマじゃないんだろな、と思う。
 だからさ、ダガシはいつもの生意気発言を、思う存分ブログで出来るのだけどね、ハハ。

 といって、僕はブログで生意気なことはいっぱい書くけど、
 卑怯なことは絶対に書かないし、
 実生活でも、卑怯なことは、絶対しない、
 と決めてるさね。

 だから、もしかしてお客さんたちが、このブログ読んでたとしても、生意気ダガシでも、僕、やましくないから、
 いつもの笑い顔で、接することできるんだよさ。

 こういうダガシ顔でも、笑い顔なら、なんとか見られるかな、と思ってね、ヘヘ。

サービスのオマケは黙ってするより言ったほうがと思うようになった

 僕の決め事の一つとして、依頼された仕事だけじゃなくて、その周りの手が届く範囲とか、関連したものとかを、少しだけだけどサービスでお掃除することにしてるんだ。
 だって昭美堂は、新潟県の他の掃除屋さんより、一つひとつのお掃除の単価の値段は高い設定だし(でも、トータルで割安になって、得してほしいと思ってるんだけどさ)、それに、つい、あれもこれもやってあげたいな、と思ってしまうから。
 もちろん、そういうサービスの事はお金もらわないし、「ここもしておきましたよ」なんて言わずに、黙ってね。
 黙ってオマケしておくのが、僕が勝手に思う僕の美学であり、僕の自己満足だったんだ。

 でも最近はね、サービスでやったことを、お客さんに言うようにしているんだよ。
 それは、言った方が、ダガシさんは頼まなくともやってくれたと、思いもよらない事をおまけしてくれたと、お客さんは、ますます喜んでくれるのじゃないのかな、と思うようになったから。
 ああ嬉しいなと、実感してくれると、思うようになったから。

 お客さんを喜ばすことが僕のハウスクリーニングの仕事なのだから、「ここもしときましたよ」と言えば、やった事を実感してもらえると思うから。更に喜んでもらえると、思うから。

 だけど、大切な、決め事があるんだ。
 絶対に恩着せがましくならないように、という事だよ。
 その時の僕の、目つき顔つき声質喋り方とかを、いつもどおりの顔で言う、という細心の注意を払いながらだよ。
 でもたぶん、恥ずかしいのだろけど、お客さんから見れば、目を伏せながら言ってると、思うよ、ハハ。

 メールで、「お掃除終わりました。あそこの場所もやっておきましたよ。キレイになりましたよ」と報告するときも、使う言葉に気をつけながら、そうしてできるだけお客さんを幸せにしたいなあと、思いながらケイタイのメールのボタンを押してます。

ゴキブリにはすごい効き目だけど、もしかして自分の体にも良くないのかな

 まいとし夏になると、僕の住んでるアパートにはゴキブリがいっぱい出てね、七月の始め頃には、ゴキの赤ちゃんなのかな、黒い胡麻粒をパラッと落としたみたいなのが風呂場のすみとか、台所の流し台の床のきわとかに、かたまって、いるんだよ。

 そうして七月の真ん中を過ぎるとね、それがいつのまにか親指の先ぐらいの大きさになっててね、ササッ、ササッと動いているのをみると、あんまりいい気持ちはしなくてさ、タダで配ってくる新潟市の情報誌を丸めて叩くんだけど、ゴキブリは逃げ足速くていつも、逃げられるんだよさ。

 それで去年の夏に、ゴキブリ団子みたいなのを一箱ホームセンターから買ってきて、台所の隅と、いつも居る部屋の壁際に置いてみた。
 一箱に二十個ぐらい入っていて、一つずつ置いた。

 そしたらね、一週間ぐらいしたらゴキ、出なくなったんだ。

 ゴキブリ団子は、それから秋、冬、春と、ずっと置きっぱなしだったから(不精ダガシだから)、今年はどうなるかな、と思っていたけど。
 今年もゴキブリ、出てないよ。

 すごい効き目。

 でも去年、団子を置いた次の日の部屋のにおいは、甘ったるい初めて嗅ぐ体に良くなさそうな、匂いだったなと憶えてる。

 今年は、体に良くない匂いは感じないのは、もう慣れたのかな。

拉致された人を助けてくるには浮世離れしたこともひとつ

 北朝鮮に拉致された人たちのために何の行動もしてない僕が、言える立場じゃないことを分かっていつつ書くけど、北朝鮮に、圧力するばっかりじゃ、ものごと展開しないのじゃないだろうかな、と思うんだけどさ。

 僕は気短かで生意気で一本気な人間だけど、何かあるとすぐ、「あ、ごめんなさい」と謝る癖もある。
 それは告白すると、先に謝っておけばこっちの立場が悪くならないだろう、という打算の計算があるからだよ。
 そして本当にこちらに非があったとしたら、すぐに謝ることが、大切と思うからだよ。

 もし相手のほうに非があるのなら、こちらが先に謝っても、最後には非がある相手のほうに責任取らせればいいわけだしさ。
 謝るのなんか僕、いくらでも謝ることできる人間だもんさ。
 昔からダガシは、アタマの下げ比べじゃあ、大概の人には負けない自信あったもんね、ハハ。

 それで北朝鮮にもね、まあ、アタマ下げて、というかアタマはそんなには下げなくてもいいから、ちょっとばかりの何か手助けの手を差し伸べて、そうして恩を着せても、まあ、いいのじゃないのかな、そこから何か新しい展開が始まるのじゃないのかな…、と思っているのだよさ。

 拉致のことで今まで、色んなことで汚らしく騙してきたのは北朝鮮なのだから、貸しがあるのは日本なのだから、一旦、何かで北朝鮮を助けて、恩を着せて、それで恩着せがましくしないで挨拶したら、もしかしたら拉致された人たちを返してくれるのじゃないのかな、と思うダガシは浮世離れしすぎてるかなあ、子供の考え方かなあ…。

 そしてそれでも、それでも相手が理不尽なことを、不正直なことを言ってきたら…、そうなったら気短かで一本気なダガシは、許さねえぞ。
 どうなるか分かってるだろなあ? と脅すだろうなあ。
 いや脅すなんて生易しいことはしないよ、黙ってすぐ行動を実行するだろうなあ。
 腕力で実行するだろうなあ。

 具体的には、さらわれたんだから、言い訳なんか聞かずに有無を言わさずに相手の所に乗り込むだろうだなあ(腕力と体力を使ってだよ。それはもっと具体的に言えば自衛隊でだよ)。
 そうして国じゅうをしらみつぶしに探すだろうなあ。
 なぜなら、卑怯にも一般人をさらっていったんだから、非は、向こうにあるのだからさ。
 アメリカなら、そうするのじゃないかな? イラクでの事を見れば、さ。僕はアメリカは好きでも嫌いでもないけど、見習うべき点は見習うべきと、思う。

 そのぐらいの覚悟で、事にあたることが、ものごとを展開させる方法じゃなかろうかと思うのだけど、でも拉致のことはダガシは当事者じゃないから、お前は本当に先頭に立って自衛隊と一緒に鉄砲持って乗り込めるか? と問われれば、正直、「はい」と言えない恥ずかしさがあります。申し訳ありませんん。
 いや、
 でも、もしかしたら、やるかな、とも思う自分もいるのだよさ。
 揺れてるんだよさ。

 だけどそして、その腕力に訴えたとして、僕の思ってる結果が出るかな、と心配もする。
 それはいわゆる、戦争ってことだから、相手の国の兵士も自分の国の兵士も、殺すことになるから、その家族を悲しませることになるから、もしかしたら戦争に関係ない人々も傷つけることになるから、自分の国が拉致をやったなんてこと知らない人々を、悲しませることになるから。そうして、僕自身も、死ぬことに、なる…。

 それに、北朝鮮がもっともっと、いこじになるだけかもしれないから。

 ああ、どうすれば…、いいのかなあ。
 わからない。わからないんだよ。

      ※

 三日後の二十二日の夜のいま書き足すけど、
 なぜ三日も新しいの書かないで、ここに書き足すかというと、
 この記事をしばらく一番上に置いておきたいから。
 それはこの記事を、今の僕の行動のメタファーとして出しておきたいから(しゃらくさいカタカナ語と七面倒臭い人様を惑わすような語彙は極力使わない約束だけど、たまには使わせてもらいますね、ゴメン)。

 去年の春に、このブログが、インターネットで小汚く遊んでる医者たちに炎上させられたのの、今、仕返しをしてる。
 炎上のキッカケみたいに、ここのアドレスを汚らしい言葉の悪口と一緒に面白半分に出した医者がいたから、その医者ブログに。
 闘いだと、思ってる。
 いくつかあるから、一つずつ、倒してゆこうと、思ってる。
 この記事は、その行動指針みたいなものかな、ハハ。

 いちおう断っておくけど、もちろん普通以上の人格のお医者さんのブログもいっぱいあるし、読んで楽しいお医者さんのブログも、いっぱいあるよ。

 そしてこの記事の内容は、北朝鮮には圧力ばっかりじゃものごと進展しないよなんて国家の政策に生意気口きくのは、拉致の被害者の人たちに迷惑かけるかな、とちょっと思ってて、一月ぐらい書くのをためらってたんだけど、何か新しい展開のキッカケになってくれないかなと思って、書いた。
 だって僕だって、拉致された人たちが、ちょっとでも早く帰ってきてほしいと思ってるし、北朝鮮の一般の人たちも、もっと暮らしやすくなればいいなと、思ってるから。

 どっちの闘いも、すぐ結果が出ないのかもしれないけど、気短かダガシだけど少し気長に。

エアコンクリーニングのときにビニールシートの下を掃除機かけるのは、何だかわからないけど宜しくお願いしますという気持ち

 いつも僕、エアコンクリーニングのときに敷くビニールシートを敷く前に、お客さんとこの掃除機借りて、シートを敷く場所とそのちょっとまわりを、掃除機かけるんだ。

 なぜかっていうと、ビニールシートはエアコンクリーニングする度びに毎回毎回新しいビニールシートを使うわけじゃないから、何度も使いまわすわけだから(でも四五回使ったら、うちの風呂場で裏表を洗剤で洗って、窓の物干し竿で乾かすんだけどね)、そのシートの下側にお客さんの家のゴミやホコリが付いたとしたら、そのゴミホコリを次のお客さんとこに持っていくことになるから、だから一回一回ごとに掃除機かけて、シートの裏をキレイにしておくことが、在宅のハウスクリーニング、エアコンクリーニングやる人間の、仁義だと思ってるんだ。

 ただ、厳密に言うと、掃除機だけじゃこびり付いた汚れは取れないのだろうと思うけど、でも何も行動しないよりは、そうしてビニールシート敷く前に掃除機かけるという一と手間かけることが、お客さん、俺はあなたの家を汚さないぞ、という礼儀というか、意気込みというか、自己満足かもしれないけどそういうものか、何だかわからないけど「宜しくお願いします」という気持ちを、込めてるつもりなんだよ、ハハ。

 そんなこと、いちいち恩着せがましいだろうから自分のHPで書かないけど、ここでなら、母さんに言わせてもらおうと思って、書きました、ゴメン。

サムイサムイと言うこと自体が負けてるよ

 何年前だったか十年以上も前だったかな、「サムイ」という言葉が、テレビのお笑い番組から流行ったけど、僕はその言葉が大嫌いだったな。
 一度僕はその言葉を言われたんだけど、僕が何かで誰かを注意したら、「あんたの言うことサムイんだけど!」と言われたな。アタマの悪いオンナだったな(たしか医療と介護業界だったな)。

 そのあとで僕がそいつに怒鳴ったのは、「サムイなんて言うお前の方がサムイんだよ!」ということだったな。
 サムイサムイなんてテレビの流行り言葉を得意げに使うことが、一番サムイんだということなのにさ。

 最近は、勝ち組とか負け組みとか、何かどうかするとすぐ、「~をしたら負けだ」とか言ってるな。
 そういうのは考えなしにサムイとか言うこと自体がサムイのと同んなじで、負ける負けると言うのは、そういう人々のセリフで言えば、言ってる自分がすでに負けてるのであって、そいつらがもう、とっても高いところから見られたら、負け組みなのにさね。

 もしダガシがホンキに怒ったら、そういう奴らを、本当に負けさせるぞ! と思って実際の実行に移してしまうけどねえ、ハハ(自分で言うのも何だけど、ダガシは実行力あるもんさね)。
 そうして人生の些細なことにでも、それを勝ち負けで分類するのは、アタマが悪いなあ、と思うよ。

 誰だっけ…、デカルトだっけ? ものごと二つに分けてしか、考えられねえ人が昔いたと、いうねえ(…もちろんここの文は、洒落だよ)。

 そしてそういうこと言ってるのは、「センセイ」と言われて嬉しがってる商売の人々にも、多いんだよさ(断っておくけど、僕のお客さん方の先生商売の人は別だよ。だって僕が尊敬してる人しか、僕はその人から仕事受けないからさ)。

 サムイだの、~したら負けだ、だの言ってる瞬間に、言ってる自分がサムクなってて、そしてその自分の何かに負けてることを分からないんだから、聴いてたり読んだりしてる側が、笑うんだけどね、ハハハ。

パンクロッカーでも漁業を応援する

 船の燃料が高くなって、漁師さんたちが漁に出ないんだってね。
 テレビじゃマグロが獲れなくなると言ってたけど、マグロは年に何回かしか食べないダガシは、日本はマグロを獲りすぎだと思うし、マグロはもっと高くなってもいいのじゃないかと思うんだけど、でも漁業が困るのは、何だか嫌だなあと、思う。

 パンクロッカーでもあるダガシは、無政府主義、とまではいかないけど小さな政府であるべきと思ってるから、政府の補助金なんてのは嫌いだし、農業への補助金も、あちこちの農協のでっかいビルを見ると、ああ、無駄な金を使ってるんだろうし、どこかで不正なことをやってるんだろうなあ、と思っているけど、漁業には、補助金出してもいいのじゃないのかな、と思うんだよさ。

 新潟県の長い海沿いの道を走るときに見える、いくつもの漁業組合の建物を見ると、とっても古くて粗末なのばっかりで、お金に困ってるのだろうかなあと思ってしまうんだもんさ。
 漁業業界は、不正なことやってることもあんまりないと思うし、少なくとも無駄な贅沢なことをやってることはないだろうな、と思えるから。

 漁師さんの仕事って、足元の板の下は、えたいの知れない深さの海が広がっていて、船が沈んだらばそれっきりな、命がけなわけだしさ。
 何だか、いさぎよい感じして、かっこいいと、思うんだよさ。

 だからかな、漁業を、応援したいと、思うんだ。
 小さな政府主義者のダガシでも、漁業には、税金使っても、文句言わないよ。

今年の梅雨の暖かさで、今ごろカーディガン洗った

 今年の梅雨は寒くならなかったね。
 長野県に転勤で住んでたときに聞いたのは、梅雨が明けるまでこたつ出しておくんだよとね。
 そういえば僕の住んでた松本でも諏訪でも、夏が来るまでの雨の日には、厚手の長袖を着ることも何日もあったっけ。

 だから毎年梅雨が明けるまでは、毛糸の長袖を用意しておく癖がついたんだ。
 でも今年は、寒いという日がないんだな。だけど今年は、暑いという日もないんだな。
 こういう梅雨の年もあるんだろうね。

 だから今日、もう寒くなる日はないだろうと、冬場に部屋の中で着ているカーディガンを、洗濯しました。
 およそ四ヶ月分着ていた、海老茶色のカーディガンだよ。

 洗面台のシンクにお湯をためて洗剤入れて溶かしてから、お湯のシャワーで軽く水洗いしたカーディガンを漬けこんで、しばらくしてからもみ洗いしたら茶色い汚れ水がいっぱい出てさ、ああ、これだけ汚れてたんだなあ、と思いながら指でカーディガンの毛糸を何回ももんでいた。
 そのあとお風呂場でお湯で三回すすいだら、カーディガンから出る水は透明になったから、洗濯機を濯ぎだけの設定にして回したよ。

 一日部屋の中に干してたのをさっき帰ってきて見てみたら、今年もまあまあ、ちぢみもしないで型くずれもしないで、乾いてた。
 今ごろ冬に着てたもの洗うんだから、ダガシは横着者だろうかね、ハハ。
 でもさ、まあ、いったん寒くなってからそうして、梅雨明け間近になると暑くなってた去年までだったら、もう少し早めに洗濯してたんだけど…、いや言い訳らかね。

ダガシが新潟市に居るわけの一つ、ロウソクのこと

 僕は大概の新潟市民と京都の人が好きになれないけど(新潟市民と京都人は、見た目は美人ぞろいでオダヤカでテイネイだけど、心底のところは、コズルイところが多いからさね)、でも中には僕が頭が下がる人も、いるんだよ。

 おととしまでの僕のエアコンクリーニングで、クリーニングに使う道具と機械に、ロウを使うことがあったんだけど(それは企業秘密になることだから詳しいことは書かないけど)、そのロウを使うのを、専門のロウソク屋さんに手伝ってもらってたんだ。

 そのロウソク屋さんは、僕が行って、クリーニングの道具にロウを塗ってもらって、いくらですかと聞くと、いらないいらないと手を振って、お金を取ろうとしないんだ。
 たしかに、そのロウソク屋さんにとっては簡単なことなんだろけど、その人の手を使わせてもらったんだから、その人の知識技術を使わせてもらったんだから、その人の時間を使わせてもらったんだから、何かで対価を支払うことが、筋道だろうと思うんだけど、受け取らないんだよさ。

 だから僕、とっても助かったのに、その人にお金を払ってないんだよ。
 それは気持ちが悪いんだ、ずっと。
 生意気ダガシにとっては、とくにね、ハハ。

 だからね、いつか、僕は、そのロウソク屋さんに、絶対に、恩返しするぞと、決めてるんだよさ。
 要らないと、言われてもね。
 いつか、待っててよ。

『廃用身』という本読んだら

20080709151835
 最初の一ページめ読みはじめたら、こんな文章でこの人だいじょうぶなのか? 幻冬社もよくこういう子供の日記みたいなのを出したなあ、もうすぐつぶれるんじゃねえだろかと思ったし、文体も比喩も中学生レベルだし、あちこち矛盾したところが出てくるし、だから何度読みはじめてもニページも続けて読めずに放ったらかして二ヶ月たったんだけど、そろそろ図書館に返さないとまた電話かかってきて早く返せと言われて、そうすると図書館のだらだらしてる職員たちに、怒鳴ったり叱りつけたりのいつもの僕の生意気発言ができなくなるから覚悟して読み出したよ、ハハ。

 そうしたら、夏休みの宿題みたいな日記と下手な評論が混ざったような文体も、それは仕掛けだったんだね(その仕掛けはあえて書かないけどさ)。この作者は頭いいなあ! と思った。
 でもそれが分かる三分の一まではイライラしながら我慢しながら読んだから、何度本をぶん投げようと思ったかしれない。

 ダガシは私小説しか読みたくない人間だから、最初から150ページくらいまでの、コウシャクがかってしかも神経が行き渡ってないような文章は読んでると苦痛なんだ。それにそういうコウシャク小説を軽蔑してしまうし、そういう文を書く人間も軽蔑してしまうから、ハナシの中に入り込めないんだ。

 でもね、『廃用身』は最終的には私小説なんだと思ったよ。最後のほうの五分の一くらいから、三人称で自分のことを語っているなあ、と分かったよ。
 150ページ過ぎたあたりで語り手が代わって文体が変わって、作者の仕掛けが分かってから、読みやすくなったしさ。
 ただね、感情移入できる登場人物がいなくて(それはたいがい主人公だけど)、やっぱりホンキにはこの小説の世界観には入り込めなかったな。
 そしてこの小説は、僕の嫌いな精神分析小説と探偵小説が混ざったようなものでもあるんだ。プロットと伏線があざとい感じしたしさ。それが臭みを感じたよ。

 でも今までにない新しいもんだと思う。
 読んでよかったよ。
 この久坂部羊というヘンな名前の人は、頭いいと思うし、(とくに処女作で)私小説書いてるわけだし、お医者さんだけど、作家と名乗ってもいい人だと思ったな。

 そうして、この本を読んでよかったと思った一番の理由は、始めは嫌々読んでたけど、読み終わって、新しい世界を見ることできて良かったなあと思えて、…だからものごとは最後までやってみなけりゃ、見てみなけりゃ、その良さは感じ取ること出来ないこともあるんだ、と知ったことだな。
 気短かなダガシにそれを分からせてくれた久坂部羊という作家には僕、感謝するよ。

 実は僕、半年前に、この人の新書を二冊読んでてね、タイトルは忘れたけど、中身は医療のことで僕が普段考えてることと似てるなあ、と思った。
 そしてね、驚いたんだけど僕がブログに書いてる言葉を、この人も自分の本で書いてるんだ。「親方日の丸」とか、「…かきくけこ(さしすせそ)」とかさ。他にも俺が使ってる語彙を使っていやがる! と思ったけど、この人のほうが時間的に先に書いてるんだよね。…こういう事もあるんだなあ、と思いました。

 写真に撮ってるもう一つの本は一緒に図書館から借りたんだけど、あんまり長くて、それに僕の興味の範囲外だから、申し訳ないけど読みません。
 新書みたいな短くて、小説じゃない本が出たら、また読むよ。

顔洗う回数十回もある

 こないだから一日何度も顔を洗ってるよ。
 多いときにはシャワー浴びるの入れると、朝起きてから夜寝るまで十回も洗った。

 お客さんとこでも、特にエアコンクリーニングの仕事だと緊張するから顔から汗吹き出てね、作業が一段落したときに洗面所で顔洗う。
 そういうときは体からも、特に胸と背中から汗出てるから、特に二台以上のときはマスキングが終わって洗浄前に、集中力を一段階シフトアップする前に、トイレとかでシャツを着替えさせてもらってるよ。

 暑くなると毎年そうなんだけど、それでもさ、寒いよりは暑いほうが、僕のからだもあたまも、よく動くみたい。

自分が生き長らえるコストと、自分が生き永らえる意味を、考えること大事じゃないのかな

 さっき偶然教育テレビ観たら北海道の夕張市の医療のことやってた。
 どうしようもないと思ったよ。
 そこの住民も、医者も。
 どっちも、自分の生きてるコストは、天から降ってくると無意識に思ってるのがありありに分かる。

 結論から言うと、自分は、これからまだ生きてて、世間も自分も、幸せになるんだろうか幸せにさせられるんだろうか、とちょっとでも思ったことあるんだろうか、と訊いてみたいよ。

 その問いで自問自答して、悩んで悩んでのた打ち回って、鬱になって、逆に躁になって、心も体も傷ついて、…それで出した答えが、ジャブジャブ医療費使って、税金使って、呼吸を永らえるのならば、ダガシは文句言わないんだけど、…そうじゃ、ないだろう?

 テレビに出てた人間たちは、医者も患者も市民も、死ぬことが悪いことだと思ってる奴らばっかりだから、善悪を決め付けたがる人間ばっかりだから、だから、自分が「無駄」に生き長らえているコストが、これから先の人たちに負担かけることになることを、想像しないんだろなあ、と思った。
 自分の好きな事する場合は、その費用は自分の財布から出すことが、人間としてのエチケットだろうにさ。
          ※
 次の日に追加で書くけど、夕張の、あのお医者の行動力は僕、尊敬しているよ。
 よし俺がやってやる! と決心してリスクを負って、一人で突っ込んでいったんだろからさ。

 ただね、テレビで言ってた暖房費を市役所に出せ出せというのはゲンナリするんだ。
 寒かったら一枚よけいに着ればいいじゃねえか、一枚よけいに布団かければいいじゃねえか、それでも寒いなら一部屋に何人も居るようにして人間の熱で暖ったまればいいじゃねえか、ダンボールか板か布か何かで壁や窓を断熱すればいいじゃねえか、…それでも寒いならば…、我慢すればいいじゃねえか、と思ったんだ。基本的に我慢が足りないのじゃねえのか? とね(お金かけないで工夫すれば、まだまだやれる事はいっぱいあるだろうさね)。
 昔は、子供のころは、その場所はもっと寒かったはずだろし、その寒さの中で、その頃の人々は、入院も治療も、そして日々暮らしていて、そして寿命が来れば、死んでいったのだろからさね。

安いものも高いものも、その理由がはっきりしてないものはデンジャラス

 よく行くスーパーで、先週から、お米が特売で安く売ってるよ。
 どこか産の(よく見なかったから分からないけど)コシヒカリの5キロ袋が1500円ぐらいでカゴ車に山積みで売られてた。
 そして僕が見たときは、もうほとんど残ってなかったから、よく売れたんだろね。

 米って、梅雨が過ぎたら古米になると昔どこかで読んだ記憶あるから、売り物もそれで安くするのかな。
 でも去年までそんな売値でこういう売り方は見たことなかったんだけど、僕がよく見なかったからかな。毎年この時期は米が安くなるのかな。

 最近のニュースの食べ物の偽装ってので、いや僕は元から食べ物で、いや食べ物に限らず、嘘ついて売らんかなのものに飽き飽きしてるから、嫌になってるから、あんまり安いのには、近寄らないようにしてるから、その安売りのお米も、ああ安く売ってる米があるんだな、時期のせいかな、どうなのかな、と思っただけで過通りしたよ。

 ダガシよ、もっと節約せよ! と言われるかもしれないけど、僕は安いものを食べてるし、そして、安いものは安くなった理由を、明確にしてないものは、危険だと、思ってるだけのことらよ。

自分に似ているカタツムリ

 小学生の頃、アジサイの葉っぱの裏に、カタツムリがくっついていたのをよく取ったな。
 学校の通り道に、アジサイがいっぱい植わっている場所があって、帰り道にそこを通るとき、大きな葉っぱを一枚一枚裏返してみて、カタツムリを探してた。

 いつのまにか花の色がかわってる、と思ったら葉っぱの隅っこに、一匹だけ、どうしてなのか欠けてる殻を背負っているカタツムリが、いたよ。
 背中の殻にポッカリと、おおきな穴が空いているんだ。

 梅雨になると思い出す、カタツムリなんだ。

ちからのかぎり自分の楽器をそらいっぱい

宮沢賢治
『告別』   1925(大正十四年)

おまえのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴っていたかを
おそらくおまえはわかっていまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のようにふるわせた
もしもおまえがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使えるならば
おまえは辛くてそしてかがやく天の仕事もするだろう

泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがように
おまえはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管とをとった
けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
おまえの素質と力をもっているものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだろう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材というものは
ひとにとどまるものでない
ひとさへひとにとどまらぬ


言わなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう
そのあとでおまえのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまえをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらいの仕事ができて
そいつに腰をかけてるような
そんな多数をいちばんいやにおもうのだ

もしもおまえが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき
おまえに無数の影と光の像があらわれる
おまえはそれを音にするのだ
みんなが町で暮らしたり
一日あそんでいるときに
おまえはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまえは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌うのだ
もしも楽器がなかったら
いいかおまえはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいい

        ※

 賢治よ、ぜんぶ写して、ゴメン。
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