FC2ブログ

徒然のブログ

つれづれの思いなどを

お尻ふきの素材

 お尻をふくのは紙だ。
 自分でふきはじめてから、紙だ。

 最初は新聞紙だった。
 それから、灰色のちり紙。
 そして白いちり紙。
 白ちりは長くつづいた。
 トイレットペーパーになったのは、たしか二十年くらい前だったか、もっと後だったか。

 紙じゃなくてもいいと思うのに。
 布でもいいと思う。
 要らない服は、家の中にあまっている。
 そのうちのやわらかい布を小さく切って、お尻ふきに使えばいいと思う。
 水にひたしてからしぼって使えば、よくふけるぞ。

 人間は大昔は、自分の指でぬぐったり、葉っぱでふいたり、縄ひもを張っておいて、それでこすりとったりしていたそうだが、ふきとらなければならないのなら、紙はもったいない気がして、布はあまっていると思って。

 ああそうだ、布は水洗トイレに流せないのだな。
 ならば使ったらフタ付きのビニール袋の入れ物に入れておいて、その袋ごと捨てられるようにすればいい。
 いいアイディアだと思うのだけどな。
 だけれどよく考えたら、毎日布でふきだしたら、家中の布が足りなくなるな。浅はかだったな。

千円高速は乗るか

 土日だけ高速道路を1000円で乗り放題らしい。
 バイクに乗っていたころは、高速を走りたいとは思わなかった。
 ただ真っ直ぐな道を走るのは退屈だから。
 曲がっている道を走るのが面白いのだから。
 それか、景色のいい場所の道を、70キロぐらいの速度で、スイーっと走るのが気持ちいいのだから。
 あるいは街なかで、大きなバイクを体の小さい俺があやつっているのを、人に見せつけているのが、楽しいのだから。

 バイクで高速道路を走ったのは、東北一周で青森に行ったときか、紀伊半島を一周しようとして、その時は神奈川にいたから、厚木から、名前は忘れたけれど愛知県のどこかのインターチェンジまで東名を走ったそれだけだ。
 愛知県の蟹のはさみみたいな形の半島の片方からフェリーに乗って、三重県に渡った。
 そして帰りは必ず、下道を走った。
 そういえば京都の日本海側の半島に行ったときの帰りにも、高速道路を走った。福井県だったか石川県だったか、それとも富山だったか、インターチェンジから直接、海岸に出られて、そこで夕陽が沈むのを見た憶えがある。

 今ももしバイクに乗っていたら、高速道路に乗るだろうか、と考えたが、乗るだろうな、と思った。
 真っ直ぐ速く走るだけ、ということは普段しないことだし、普段出せないスピードで突っ走ることもできるし、それを道の利用料金1000円でできるのなら、走るだろうかな、一日中走るだろうかな、と思った。
 いい気分転換になりそうだと、思う。
 しかし真っ直ぐ走るだけのことは、続けてやると、すぐ飽きるだろうと思う。

 付け加えておくと、四輪車で高速を走るのは、まるで面白くない。四つ輪は、目的地までの、ただの移動手段というだけのことだ。

犬君ありがとう、新しい旅立ち

 今朝、お得意さんの犬君が死んだ。
 お客さんからメールをもらった。
 十七歳の大往生だ。
 人間でいえば、百歳近い年なのだそうだ。

 犬君は、僕が行くといつも玄関に出迎えてくれて、よく来たなというように、ひとこえ、ワン、と吠えてくれた。
 最初は凶暴だと聞かされていて、どんな犬だろうか、噛まれるのか、と怖かった。
 初めて会ったとき、すばやく僕の後ろに回り込まれ、股の間を思い切り下から硬い鼻で突き上げられて、痛みが走った瞬間、犬君はお客さんから大きな声で叱られた。
 でも、いたずらなだけで、それほど凶暴な性格じゃないなと思ったから、犬君の鼻先に身を投げ出してみたら、僕の口のにおいをしばらく嗅いでいた。
 そうしたらどうしてか、それからは気持ちを許してくれたようだった。

 僕がお宅に行き、すれ違うようにお客さんが、行ってきますと仕事に行くと、三十分くらい、リビングのドアから玄関の方を向いて、じっと座っていた。ご主人様のことを思っていたのだろう。
 そのあと、僕が四つんばいになってフローリングの床を拭きあげていると、いつもこちらへ歩いてきて、僕の口のにおいを嗅ぐようにして、鼻先を顔に寄せてくるのだった。
 といって、頬や手を舐めるということはない犬だった。ベタベタと甘えたふうのない犬だった。そういうところは僕は好きだった。

 僕が犬君を好きになったら、犬君も僕を好きになってくれたようで、キッチンとか窓とかお風呂とかトイレとか、家のいろんな場所をクリーニングするときに、僕が道具を持って移動すると、犬君もそのたびに、僕の後をついてくるのだった。

 僕はいつもラジオをつけて作業していて、犬君はそのラジオの横に寝そべって、まるで聴いているみたいに、音の出ているラジオを見ていた。
 その瞳が白いのは、白内障だったそうだ。

 おととしから、寒くなると足どりが良くなくなっていたのだが、それでも僕が行くと、四本の足を震わせながら、懸命に動かしながら、ゆっくりと玄関にあらわれて、ワン、と吠えてくれたのだった。
 そうして、去年の暮れから具合が悪くなって、ときどき吐いていたそうだ。

 今日は、犬君のこれまでのことを思い出している。
 そうして、彼の新しい旅立ちのことも思っている。

四十九日のくぎりの雪

 今日三月二十六日は、母の四十九日だった。
 午前十時半から家でお経があって、それから昼頃に墓の中に、骨を入れに行った。
 祖父や祖母のときは手づかみで入れたのに、今は箸で入れるのだそうだ。

 あれからもう二ヶ月近くも過ぎているのだなと思ったら、この頃はもう涙も出ることもなくなったのを思って、母の骨を見ても、そして触っても、何かの乾いた食品のような物体を持っているぐらいの感覚と気持ちだったのが、自分でも不思議だった。

 墓の中の底は土だ。
 母の骨は今、土に触れている。
 今日は、私は母からはなれ、母も、新しい場所にジャンプする日。

 そして今日、この季節なのに、雪が降ったのだ。
 お寺様がお経を読んでいるとき、十一時過ぎだったろうか、お経の途中の休憩のときから降りだして、外を見たら、雪が庭の植木を白くかぶせていた。
 母の骨を墓に入れるときにも降っていた。

 終わってから伯母さんに、雪が降って良かった、と言ったら、伯母さんは不思議そうな顔をしたから、続けて言った。
 雪が、とてもキレイだったから、と。

スポーツは代理戦争であっても、やめないでいい

 ワールド・ベースボール・クラシックが優勝してテレビの中の日本人たちが、やった、やった、やった、と考えなしに騒いでいる。
 世界一になったのは嬉しい気持ちするし、アメリカに勝ったのもわくわくしたし、前に新潟市の図書館で、韓国人の自分勝手な振る舞いで、それを注意した私とその韓国人と、いさかいになって、韓国ぜんたいに嫌な気持ちはないつもりなのだけれど、やっぱり、韓国に勝ったぜ、やったぜ、と思っている自分を見つけている。

 そうしたら、ふと、テレビの中で踊るように考えなしに大はしゃぎしている日本人を見ていたら、それはたぶん、戦争のときもそうだったのだろうな、と思った。
 戦争始めたしょっぱなの頃に、アメリカに優勢だった頃に、今のテレビの中みたいに、やった、やった、と嬉しがって騒いでいたのだろう。
 新聞も、その頃のほかのメディアも、そういう記事を、あおるように書いたのだろう。そういう雰囲気を、世の中の側も求めたのだろう。

 そのときの日本中の人、ほとんどの人、戦争してよかったと、思っていただろう。
 私もその頃生まれていて生きていたら、やった、やった、と思っただろう。
 戦争もっとやれ、と思っただろう。思わなかったと言える自信ない。

 スポーツは、とくに国対国のスポーツは、戦争の代理の意味をたっぷりと隠し盛り込んであるのだろう。
 だから外国に勝つと、それも本当の戦争に負けた相手の国や、となりの背比べしている国に勝つと、ことさら嬉しがるのだろう。

 といって、スポーツを見るのは、心がおどるから、勝てばもっと心が跳ねるから、やめないで、もっとやってほしいのだけれど。

玉ねぎにたよるこの頃

 玉ねぎを毎日食べている。
 一日一個食べている。
 母親の葬式で帰ったときに、連日の酒の席で、親戚の人たちの煙草の煙をたっぷり吸い込んだら、心臓がおかしくなって、それから心臓が痛くて痛くて、死ぬのかなと思って、あっさり死ぬのならいいのだけれど、あっさりも死ねなそうだし、それにまだやりたいこともいくつかあるから、ならば、血を清潔にするという玉ねぎを食べたらいいのじゃないかと思って、食べだした。
 ちょうど近くのスーパーで安売りしていて、三十個買って、食べていたのだ。
 そうしたら、玉ねぎのおかげかどうかしらないが、一ヶ月で胸の痛みはおさまった。

 玉ねぎは日持ちする。
 キッチンのすみに置いておいても、じゃまにならないのである。

 そして玉ねぎを食べていると、玉ねぎは、とっても美味しいということが分かってくるものだ。
 まず納豆に、きざんだ玉ねぎを混ぜて食べておいしい。
 オムレツに一緒に炒めておいしい。
 鶏肉の煮物に大根と一緒に入れておいしい。
 鯖の缶詰、さんまの缶詰に、細かくスライスした生の玉ねぎをいれて食べるのも、さっぱりしておいしい。
 玉ねぎというのは、何の素材にでも美味しさをアシストする、すぐれものなんだな、と思った。

越後という概念も、国という概念も、お前らが言うものと違うものだよ

 また大河ドラマのことだけれど、今日の放送で、謙信の養子どうしの争いで、景勝がたが危機に陥っているときの景勝の母親が言うセリフで、越後が滅びてもいいのですか、というのがあった。
 また反吐が出そうになった。

 上杉家が滅びたとしても越後は滅びないし、ましてや景勝が死んだとしても越後は滅びない。
 何様のつもりだ、と怒鳴りつけたくなる。
 上杉が越後からいなくなっても、土豪の武士が越後を平定するか、どこかの大名が侵略するかして、そこを治める誰かは変わるかもしれないが、越後の民は、そのまま今までの自分の暮らしを、続けていくだけだ。

 ちまたでよくいうセリフで、国のやり方で地方が困っているとか、そういう言い方をテレビで言っている。政治家も言っている。たぶん役人どもも言っているのだろう。
 そいつらが言っている、国、という意味は政府という意味だし、地方、という意味は県庁という意味でしかないのである。

 本来の国という意味は、政府ということより上位の概念のはずだ。
 地方という言葉も、県や市の役場でのことではない。
 国ということは俺たち自身の集まりのことだし、地方というのもここにいる俺たち人間の集まりのことだ。

 政府の役人や政治屋どもが、自分の職場ごときを、軽軽しく国とか地方とか言っていることに、畏れを知らない無神経さを感じて腹が立つのだ。
 それと同じことで、景勝の母親のセリフの、越後が滅びる…などというのは僭越すぎるのだ。

 これはシナリオ作家が書いたのか、原作の大衆小説家が書いたのか、たぶん原作にそう書いてあるのだろう。
 だからものをつくるときに、そのものを突き詰めて考えないで書いたものを読むと、つくったものを観ると、なんだよ結局、こいつも無神経で利己的な役人や政治屋と、そこらへんにいる有象無象と、同じ穴のムジナじゃないか、と腹が立って途中で本をドラマを投げ出してしまうのだ(それと俺は、お上、などという物言いも大嫌いだ。そこには奴隷根性と卑屈さと、はっきりものを言わずに済まそうとする無責任さがにじみ出ているから)。

 いま、裏の教育テレビでやっている新日曜美術館、俺の好きな壇ふみが、今日の放送が最後だから、二分おきぐらいに総合テレビからチャンネルを変えながら、行ったり来たりしながら同時に観ながら、そしてどうしてかさらにYouTubeでイーグルスのホテルカルフォルニアを同時に聴きながら、それからこれも同時に書いている。
 後半は、総合テレビにチャンネルを戻すことはなかった。
 これでもう、今年の大河ドラマも観ないだろうと思う。
 ふっきれた。

 さあ、テレビを消すために、右手の親指に力をこめて、リモコンのボタンを押した。

ドラマなど馬鹿なものを観るのは、自分の馬鹿さから目を反らすことができるから

 大河ドラマで、義とか愛とか言ってるけど、馬鹿馬鹿しい。
 大衆小説に本気で怒ってもしょうがないけれど、それに便乗している新潟県の人間の商売ッケにも、ヘビとミミズの合いのこがこの世にいたとしたら、こんなふうに振舞うのだろうと思うと、つい目を反らしてしまう。

 こないだ、大昔の中国の、三十六計というのを説明している本を読んだら、名前は忘れたけど性悪説を書いたものの中で、人間は基本的に人間を信じないものだし、その行いは利己的なものから発するのだから、そのそれぞれの自分勝手な行動を、何かの理念みたいなもので押さえなければ世の中が収拾できなくなるから、それで、義という架空のものをこしらえて、その白々しい義というもので、考えなしの人間どもを誘導しようとしたのだ、ということらしい。

 義をおもんじるだのと言っている人間は、おのれは利己主義者であり、自分の行為を選択する価値観は、自分にとっての世俗的な利益だけがほとんどであり、自分はセコイ、と言っているようなものだろう。

 私自身の中には、性悪説と性善説を、両方持っていると思っている。
 それだから、両方を立てようとして、いつもグズグズ、悩んでしまうのだと、思っている。
 今の人々は特に、その中でも新潟市の人間たちは特に、性悪説にかたよっているように見える。
 上品ぶって性善説にかたよっていても、それはそれで、うそ臭いのだけれど。

 あのドラマで出てくる、かぶとに付けられた愛というものだって、あの頃でいう愛と、今の愛は違っているわけだし、ましてや人殺しを商売にしている侍の親分が言う愛などという言葉は、今のそこらへんでチャラチャラしている姉ちゃんたちが言う愛とは似ても似つかぬものなのは、ちょっと三十秒ぐらい喋らずに静かにしていれば分かりそうなものだろうに。

 それもこれも、あのドラマの兼継という人物像に共感できないからだ。
 そしてその原因は、あのチャラけたタレントの芝居の下手さかげんと、シナリオ書きの下手さかげんだ。
 原作は読んでいないが、大衆小説など読む時間が惜しいし、もし読んだら、その文章の下手さかげんと文章への無神経さと、整合性のないプロットに、もっと怒るだろうから、もちろん読まない。

 ならば、あんなドラマなど観なければいいということなのだが、自分より頭の悪い人間のやることを見て、ああ、俺より馬鹿がいる、と思えて、するとどういうわけか、いっときだけ自分自身の馬鹿さかげんから目を反らすことができて、それは自分の怠けごころを見なくともすむというような、これからの自分の不安を凝視しなくともすむというような、そして自分をだますことができて、そうして根拠もなしに、その瞬間だけ、自分のちっぽけさにも理由もなしに安心できたという錯覚で、そんなおのれの自己欺瞞で、観てしまうのである。

 そしてそれは、世間で先生とか社長とか言われてる人間が書いている、おのれに対する自問自答が足らない、独善的な馬鹿ブログを読むのも、一緒のことなのである。
 それを分かっていながら、あんなドラマを観ているのだから、文句を言うのは筋違いなのは百も承知。
 早く飽きればいいと、思っている。

ブログごときで文体などつくれない実感

 母が死んでから、文体を、母親宛ての手紙文から、ふつうの一人称の文章にしながら書いている。
 私や俺や僕を使って、あるいは主語を使わないで、書いている。
 口語体はやめようとして、書いている。
 である、という語尾も嫌いで使わなかったけど、使っている。
 母親が知らなかっただろう語彙を、難しい言葉遣いもカタカナ語も、今まで使わなかったのを、使いだしている。

 それが、書きにくくなっている。
 語尾が不自由になって、単調になっているし、今までは、僕も俺もダガシというのも、人称を自在に使っていたつもりなのが、私とか俺とか、一つの記事で一つの人称でしか書かなくなっている。

 このブログの役割は、日常の中で思いついたひらめきをメモすることだったのが、最近は文体を作ることに移ってしまっている。
 文体を作るなど、すぐには出来ないし、ブログごときでは出来ないと実感している。

 迷ったら原点に戻れという言葉もあるし、ある部分を戻して、良かったと思うところを、伸ばしてみようと思っている。

2009の花粉症と黄砂の始まり日は三月十八日ごろ

 今年は花粉症になるのが遅いと思っていたら、こないだからくしゃみが出はじめた。
 いつも毎年いつごろからなるのだろと思うのだが、忘れるからメモしておこう。
 2009年は三月十五日から鼻がむずむずしだして、十七日からくしゃみが出た。
 十九日からくしゃみが連発した。そのニ三日前、晴れが続いて急に気温が上がった。

 三月十八日に、新潟で黄砂が降り始めたとニュースで言っていた。
 黄砂が振りだしたら、くしゃみが出た。
 黄砂と花粉症はつながっているのだろうか。

 黄砂も、いつから降りだすのか、いつまで降っているのか、おとくいさんの窓ガラスのクリーニングをいつ頃するか、迷う。
 新潟の黄砂は十八日から降ったと言っていたけど、その前からガラスには茶色い細かい砂が付いていたから、その前から降っていたと思う。
 そういうときのクリーニングは、ガラスを傷つけないように、汚れ落としのシャンプータオルは、いつもより水をたっぷり含ませる。

パソコンの中には写真ファイルを置かない

 このブログではお掃除のことはほとんど書かないけれど、シーサーとライブドアで書いている。
 向こうのほうは月二回ぐらいの更新でしかないから、ブログというよりは、ブログを使った宣伝のホームページとしてやっている。

 お掃除のことを書くときは、お客さんが誰だかわからないように書くし、初めてやる種類の作業は、うまくいってから、お客さんがいい気持ちでお金を払ってくれてから、その後しばらくしてから、書く。
 ホームページで、うちは守秘義務ということを取り入れてますとうたってるから、なおさら細かいことは書かないようにしているし、お客さんには、他のお客さんのことは絶対に話題にしない、というのは貫いている。

 ということで、シーサーとライブドアでは、ずいぶん前のことを書いているし、写真も前のものを載せることになる。
 だから向こうのブログの日付けは意味がないし、ホームページらしくするために日付けを表示したくないのだけれど、ブログの中にもともとある基本的なものを表示しないようにすると検索エンジンに嫌われる、と前にSEOの本で読んだことがあって、消さないで、CSSで表示を小さくしている。

 こっちのブログはブログと思って書いているから、日付けは大きくしている。ブログは、日付けにも意味があると思っているから。
 横文字が嫌いだから、最初にテンプレートを選ぶときに、曜日はちゃんと日本語で出て、月も、セプテンバーとかそういう英語のスペルが嫌だったから、これにした。
 文字も大きめのほうがいい。
 なるべく見た目は素朴なほうが、というか田舎っぽいほうが、中身とギャップがあったときに、中身が冴えて見えるという計算も、自分の中では、あるのだと思う。

 ブログに写真を載せるのは、自分のパソコンにファイルを置いておきたくないという理由もある。
 急にパソコンが壊れるかもしれないからパソコンの中に大事なものは置いておきたくないし、軽くするためにもファイルを少なくしている。
 シーサーとライブドアの二つのブログ会社に同じ写真を使って、別の記事を書いて載せるのは、万一片方のブログ会社がなくなったとしても、もう片方のほうからファイルをダウンロードして、新しいサーバに載せられると思うからだ。

 パソコンの中には写真ファイルは、ほとんどない。
 自分で写真を撮る趣味もないし、本や写真を残す趣味もない。というか、ものを残したくないから、本も写真もほとんど持っていない。物体に興味を持てないから。
 だから仕事の宣伝で必要なファイルは、ぜんぶインターネット上に置いてある。

オープンオフィスの良くないところ

 オープンオフィスも完璧なものではないということを書こう。
 今まで使っていた昔ながらのワープロのゴシック書体は、太ったファニイなかたちで親しみやすいのだけれど、オープンオフィスのドロウで作ると、そのフォントは決まりきった冷たい感じで、チラシになったときに、目の前の紙から文字が目の中に飛び込んでこないのだ。
 フォントを増やせばいいのかもしれないが、やり方を知らないし、どうしてか知ろうという頑張りが出ないから、そこで止まっている。

 文書ソフトも、縦書きの二十字詰め二十行に設定すると、全体が画面に入りきらないで、見づらいのである。
 文字の大きさを調整すればいいらしいが、それもピッタリと収まりそうにないし、その正確なやり方を知らないし、知ろうとする頑張りが出ない。
 文章を書いた後、読み返して手直しするときに、ずっと前のところや最後に近いところに、カーソルを任意の場所に飛ばすことも今のところ出来ない。
 ワープロでは簡単に出来たことばっかりが、出来ていない。
 出かせようという気も、機械が嫌いだから、今のところ起きない。

 だからなのか、縦書きソフトはバーティカルエディターでもいいと思っているし(バーティカルエディターも、カーソルを好きな場所に飛ばすことは今のところ出来ないし、他にもいろんなことが、ワープロよりは使いこなせていない)。
 そして図画ソフトも、ワープロを使いつづけるほうが上手にできそうだ、という気持ちになっている。

 今、オープンオフィスを使えるようになるためのコスト、誰かから教えてもらうためのコスト、その料金はいくらぐらいするのだろう、とそっちのほうを知りたい。
 それを知るための頑張りだったら、すぐにでも出そうなのだが。

単純作業をしているのなら怒りっぽくならないのかも

 チラシ原稿は結局ワープロで作った。
 プリンターは買わなかった。
 電気屋に行ったら、新品でも安い機種が五千円で売っていた。
 ということは、中古で買うなら、高くても三千円ぐらいにしたい、という気持ちになる。
 リサイクルショップで一番安いのは四千円だった。
 インターネットのオークションだと五百円とか千円のがあるにはあるが、五百円で落札できても、送料が千五百円はかかるし、代金の振り込み手数料が五百円くらいかかるし、本体五百円だとして、全部込みだと二千五百円。
 それに中古品は、インクが切れかかっているとか、インクが詰まってるとか、印刷がかすれたり線が出たりとか、紙詰まりになりやすいとか、いろいろ不具合があるらしく、それを、インク補充したり修理するとしたら、その代金もコストに入れなければならない。
 そうなると、さらにプラス二、三千円見たとして、支払う総額は五、六千円になる。
 ということは新品の安い機種を買うほうが、プリンター全部にかける金額が安く済むということになる。

 で、こないだ、今までどおり、昔ながらのワープロで作った。
 原稿は、パソコンのオープンオフィスソフトで完全に作ってから、パソコンをワープロの隣に置いて、その画面を見ながら、ワープロで作った。
 それならば、ワープロでの作業は、ゼロから作る、というものじゃないから、クリエイティブというか頭を使う仕事じゃなくて、見本を見ながら真似る、という単純作業だから、画面が変わるのが遅くても、それほどイライラせずに済んだのだった。
 画面が変わるのが遅いと、さっきまで考えていたアイディアを忘れそうになって、さらに新しく思いついたアイディアとさっきのアイディアが分断されて、それでイライラするのだ。
 左の画面を右の画面に書き写すというような、決まりきったことをするのならば、ほとんどものを考えずに作業するから、画面が切り替わるのが遅くなっても、怒りっぽくならずに済むんだな、と思った。
 だから俺が、短気な人を好きなわけが、少し分かった気がした。

 しかしオークションで五百円で出品している人は、五百円の売上で、品物を梱包して発送する手間をまかなうのだろうか。
 もしかしてその作業は、オークション出品ということを、趣味としてやっているのだろうか。
 趣味ならば、どれほど手間がかかっても、その手間は趣味なのだから、その手間自体が愉しみとして、儲けようとしないのだから、五百円でもやれるのだろうかな、とちょっと不思議に思った。

ひとの不幸と幸せは蜜の味、金

 テレビを毛嫌いしてるけど、映像を観るのも悪くないものだというのが、こないだの拉致された母親の息子とキムヒョンヒの抱擁だった。

 初めて観たときは、キムの仕草がわざとらしく見えて、何かの意図でやってるのか、シナリオがある芝居なのか、と思ったけれど、後の会見で息子が晴れやかな顔で、良かったと言うのを聞いたら、キムは本心で息子を抱きしめたのだろうと思った。
 たとえ本心でなかったとしても、抱きしめられた息子が本心で抱きしめられたと思えばいいのだし、オンナというものはその場その場で本心が変わるのだし、あの瞬間が、キムの本心だったのだろう。
 それをテレビのニュース番組で何回か観て、ああ、キムは本心なのだと思ったら、観るたびに涙がわいた。
 それか、あの抱擁は、拉致被害者を戻させるシナリオの中の芝居だったとしても、世の中のほとんどの人を信じられない病の俺を泣かせたのだから、ある程度の結果を出したのだろう。

 人様の不幸と、そのあとの幸せは、涙が出るほど蜜の味だ。
 それを味あわせてくれるテレビは、たまには観たいと、思った。

天秤座がぽっかり抜けている感じ

 母が死んで、占いというものにまるで関心がなくなった。
 朝起きてテレビをつけると、ちょうど今日の運勢というのをやっている。
 それを起きがけのぼうっとした頭で観る。
 それがほとんど毎日の習慣になっていて、だから占いのコーナーを観ないと、何だか気持ちが悪いというぐらいになっていた。
 自分は今日一日運がいいのか悪いのか、良ければ嬉しいし、悪いことを言われれば、そのときは気をつけようと思う。
 がそれも一瞬のことで、番組の中のコーナーが変わってニュースが始まれば、さっきの運勢のことなどまるで忘れているのだけれど。

 死んだと聞かされた日から五日間、ばたばたしながらテレビもラジオも観ず聴かずで過ごしたら、テレビの占いコーナーなど観たくもなくなっていた。
 今は朝、テレビはついているけれど、そして前と同じように画面の中で占いもやっているけれど、朝食の準備をしているか何かしていて、占いというものを流しているな、というぐらいにしか感じない。

 そういえば前は、母や父やカズ子の星座の順番になると、気をつけて観ていた。
 今はもう、それぞれの生まれ星座の運勢を聴いても、力をこめて聴こうとしてない自分がわかる。
 天秤座の今日の運勢を聞いていると、何か忘れものをしていて、それがどうしても思い出せないように感じている。
 占いというものに、近づきたくない気持ちにもなっている。

おめまだ春らかや

富所正一という見附の人の歌は、中学生の土曜日の午後、NHKFMで何度も聴いた。

 一九七七年に、二十五歳で死んだというのは今日はじめて知った。
 三条大橋から信濃川に飛びこんだって。

 五十も近いのに、春のまま生きている俺を、わらっているのか、応援しているのか。
 ああ俺は、あの頃のまま、生きながらえてしまっている。

電話嫌いでも、たまには気持ち良く電話できた

 プリンターのことを聞こうとして、新潟市でキャノンの名前が付いているところを電話帳で調べて電話したら、何年ぶりかぐらいに、理解力があって、人に説明する能力もある、そして喋って楽しい人にあたった。
 私はいつも、問い合わせで電話に出た人間と話していると、…おい、返事は「はい!」と爽やかに素直に言えよ! 「は」と「い」の間を伸ばすな! 語尾を伸ばすな。気持ち悪いぞ! おいお前、お前は今仕事中だろうが。初めて喋ってるのに客筋に対して「うん」なんて返事は何様のつもりだ? なれなれしいんだよ。俺とお前は友達じゃねえぞ。親戚でもねえぜ。甘えるな。わきまえろ! といつも怒鳴りつけてしまうのだが、その若い男には、そんなことをいう必要は全くなかったのだった。

 そういう人の声は、歯切れがよくて力強い。
 そしてそういう人は、意識しているのか無意識なのか、自分に関連するものごとを、人の責いにしない、というふうに決めて生きているように感じられる。
 だから喋ってて頼もしいし、信頼できるし、潔さを感じるし、だから気持ちいいし、そういう人が間違ったとしてももちろん許してしまうし、そういう人は間違ったときは自然にすぐ素直に「ごめんなさい」という言葉が出る。
 だからこちらも自然と敬意をもって喋ることになるし、それがまた、人に丁寧に接することが出来るということで嬉しい気持ちになるのである。

「あなたは新潟市の生まれですか?」
「いえ新発田です」
「年はいくつですか?」
「三十三です」
「大学は行きましたか?」
「はい」
「東京ですか?」
「いえ北のほうです」
 関東に住んだことはないらしいが、それにしては標準語が上手だ。
 カツゼツの良い話し方だ。
 こういう人は頭がよくて耳がいいから、楽器を覚えるように、上手に歌を唄うように、言葉も自然に覚えて上手に喋るのだろう。
 そしてよくあるタイプの、他人に無闇に甘えたがるように、語尾を伸ばさない喋り方だ。
 自分の言動からの責任逃れのように、曖昧なことを言わない喋り方だ。

 この男はプリンターの事で、補足説明として、こちらが聞いたこと以外の、こちらが知らない、あるいは意識していない上位の次元で、こちらに必要な事柄まで教えてくれた。仕事として当たり前といえば当たり前のことだが、そういう人と接したのがとても久しぶりで、昼どきのコンビニで弁当を買っているときに、普段かからないような心地よい楽曲を偶然聴いたみたいな感じだった。
 この男を、職業人として尊敬できる人間だと思った。

 これはキャノンという企業だから優秀な人がいるわけでもないのだろう。たまたま、その時、この人が偶然、その場にいたということなのだろう。
 そして話の仕方が、私と少し気が合って、私と喋ったことで、この男も普段以上の能力を発揮した、と思うのは私のうぬぼれが過ぎるだろうか。

 新潟市に住んで電話嫌いになっている人間でも、こんなに気持ち良く電話ができた。
 あの男に感謝だ。

物を増やしたくないのにプリンターを用意しようとする

 この春のチラシを考えていて、大体あたまの中で出来たから、白い紙にラフスケッチを描いた。
 今までずっと十五年前のワープロで作ってきて、ラフスケッチをA4の原稿に作り直すのに二十時間以上の二日がかりだった。時間がかかったのは、原稿の部分直しのワープロ画面の切り替わりにだ。画面が変わる間、ああ遅い遅いと腹を立てながら、今までワープロをにらみつけていたのだった。
 それならばパソコンで作れば早いじゃないかと思っていたのにそうしなかったのは、どこも壊れていない、まだ使えるワープロを、ゴミにして捨てるのがもったいなかったからだ。
 でも今年は、この古くて、かさばって、重いワープロで、原稿の中のほんの小さな一ヶ所を直すたびに、画面が切り替わるのに二分もかかるのを、イライラしながら見てるのがイヤになっていて、今度こそパソコンで原稿を作ろうと決意したのだ。

 こないだ、オープンオフィスをダウンロードして、その中のドロウという画のソフトで作りはじめた。
 パソコンを買ったときにオープンオフィスは入っていたのが、そのときはまだ年代物のワープロでチラシを作っていたし、人に見せない日記を書くための縦書き用ソフトは必要だったけれど、オープンオフィスのワープロソフトは縦書きができないと思っていたし、だからこのソフトは使えないなと思って、それにパソコンを軽くするためにも、すぐアンインストールしたのだった。

 それがダウンロードしてよく見たら、縦書きもできるし、チラシづくりのときの文字の固まりを、固まりごと斜めに傾けることもできるのがわかったし、なにより原稿の中の部分直しをしても、この低いスペックのパソコンでも、すぐ画面が切り替わる。だからオープンオフィスも、使えるソフトなのだと思いなおした。

 あとは紙焼きをどうするかだけれど、一年に二回だけニ枚をプリントするだけの事にプリンターを買うのは無駄だから、ネットカフェでプリントアウトしようと思って問い合わせたら、オフィスのドローソフトが入っている店はなかった。いや一軒だけあったのだけれど、電話の受け答えがなってなくて腹が立って怒鳴りつけてしまったら、おまえのような人間には来てもらわなくてもいいと言いやがったから、上等だ、馬鹿野郎! とこっちも電話を叩きつけて(桜木インターのそばの店だ)、それならば自分でプリンターを用意するしかないと思って、ヤフーオークションで探したりリサイクルショップで探したりしている。

 使うのは一年に二回で、プリントアウトもニ枚だけなのだから、全部で四千円以内くらいで手にはいればいいなと思っている(そのぐらいの価格のものは、あるのである)。
 しかし調べてみるとプリンターも、インクの補充のコストやらインク詰まりやら、その他いろいろな選ぶために考えるべきことが沢山あるのだと知るものだ。

 ものを、物体を、そばに置きたくないと思っている身としては、また機械が増えることに憂鬱な気持ちになるのだが、仕方がないと、あきらめてもいる。

重石と鎖を解く

 母が死んだことで、自分の人生の足かせみたいなものが減ったような気がする。
 まだ父がいるけど、カズ子がいるけど、もう重石や鎖を解き放ってもいいような気がする。

 今までだって、世間の人から見れば突拍子もないことをしてきたけれど、自分じゃ意識、無意識に、自分自身を押さえてきた。
 といって反社会的なことをしようというのじゃない。
 おのれの恥をさらけ出すことに、遠慮はしないということを、はっきり意識して生きようということ。

高所恐怖症を克服できるか

 母が死んで、死ぬことが怖くなくなったからか、高い所に登るのも怖くなくなっているのじゃないのかと、ふと思った。
 八海山に登ったとき、ふもとから五合目ぐらいのところまで、ロープウェイに乗ったのだが、そのとき自分の足の下に地面がないということが怖くて怖くて、ステンレスの棒につかまりながら、足先と膝がぶるぶる震えて、一緒に乗っていた老年の夫婦に珍しいものを見たような顔で、きたながられるような感じで、笑われながら、ケーブルカーの床の真ん中で、その夫婦の奥さんの片方の足首を握り締めながら、震えながらうずくまっていたのを思い出す。
 それがロープウェイのケーブルカーを降りたとたん、自分の足の下の固い土を踏みしめたとたん、シャキッとして歩き出したのだから、自分でも、高い場所怖いというか、足の下がスカスカで何もない事が不安だという、そういう病気なんだろうと、ますます自覚した。

 高所恐怖症は、死ぬ事が怖いこととは別問題だろうけれど、今なら、八海山のロープウェイにも、すずしい顔して乗れるかもしれないと思っている。高速道路や高い場所の橋も、怖くなく走れるかもしれない。
 高い場所が怖いという気持ちは、精神分析学上では、父親的なものが怖いということから起きるものらしいが、自分もそうだと二十代から思っていた。
 だからこの高所恐怖症は、父が死ななければ治らないものだと思ってきた。
 それがもしかしたら、母が死んだ今、屋根の上にも登れるかもしれない、210センチの脚立にもカロヤカに登れるかもしれない、観覧車にも乗れるかもしれない、…そうだ、もしかしたら飛行機にも乗れるかもしれない、と思っている。

 手軽なものから試してみようか。
 手始めに、安田町の観覧車に乗りに行くか。弥彦山のロープウェイに乗りに行くか。
 いや一番手軽なのは、180センチの脚立に上がることだろう。

血豆

20090302194427
 このあいだ、父に言い付けられ、庭の植木の冬囲いをはずす手伝いをした。
 脚立に登って、慣れない型の剪定鋏でわらなわを切っていると、鋏の持ち手の隙間の尖った場所で、親指を思いきり挟んでしまった。
 血豆など、子供の頃につくってから、何十年ぶりだろう。
 挟んだ瞬間は、誰かにペンチでつね上げられたみたいに痛みが走ったけれど、血が固まってからは、あんがい何ともないものだ。
 この血豆は、鳥類か両生類の目に似ていると思った。
<<