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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

新しい病気は世間の目を反らせるアテモノか

 豚インフルエンザで騒ぎがあるが、エイズが出てきたときほどの衝撃は感じない。
 エイズはかかったら死ぬから、かからないように、不特定な女とはまじわらないようにしたし、まじわるならば、この女とまじわって死んでもいいという覚悟で交わるようにしてきた。
 あれから私は良いのか悪いのか交わりについては雑食性をさけて生きてきた。

 豚インフルエンザは、かかってもほとんどは死ぬことないと言われているが、名前のひびきでかかりたくないと思ったりする(いつのまにか呼び名は新型インフルエンザと変わったらしい)。

 しかし騒いでいるのは多分、テレビが発達している先進国だけだろう。
 それはもしかしてアメリカあたりが、病気のごっこ遊びをして、経済とか政治とか軍事とか、大事な何かから世の中の目を反らさせたいという目論見があるのかも…、なんて思ってしまう妄想の夜なのである。

野菜の名前は

 大根は大きい根っこ。
 白菜は白い菜っ葉。
 玉ねぎは丸い葱。
 ここまでは分かる。
 でも葱はどうして葱なのか。
 人参は? ほうれん草は? 生姜は? 豆は?

 人参も豆も、誰が最初に呼んだのか。
 名前を言ってみると、みんな実物は呼び名に似ているようだ。

ヤンマーは変わる

 さっき偶然観たヤンマーのCMはものすごくいい。
 BSNは偽善的で嫌いだから普段観ないようにしているのだが、天気予報を見ようとしてテレビつけたらやっていた。
 子供の笑顔で、しかもコミカルな稲の苗のカブリモノの女の子の笑顔は、新潟市ではあんまり見ることのできない、人間の心底の笑顔だったから、俺のイラつきやすい心もほんわかさせてくれたのだ。

 ヤン坊とマー坊はやめたのだろうか。田植えの時期だから、あれにしたのだろうか。
 このCMは傑作だから、誰かYouTubeでアップしてほしい。

どんどん逮捕しろ

 クサナギとかいう頭の悪そうなコズルそうなタレントが逮捕されたことを騒いでいるが、そんな程度のことは書きたくなかったし、ミーハーっぽくすぐ書きたくなかったから、今日書く。
 夜中誰もいない暗い場所で裸になるのは誰にも迷惑かけてないのだから別にいいのだよ。
 でも夜中三時に住宅地で大声出すのは人様に迷惑かけてるのだから悪いことなんだよ。
 夜中に大声で騒いだことを問題にしないで、裸になったことだけを言っている。
 それをミソもクソも一緒くたにしているのか、本人も世間の人間も、問題をはぐらかして本質的な事をすりかえようとしているのか、それはどっちもなのだろう。
 眠っている窓の外で大声で騒がれたら昔の俺だったらイライラして殴りたくなって外に突っ走っていっただろう。
 暴走族なら、うるさいのは夜中通り過ぎるのに十秒くらいですむし集団でも三十秒ぐらいで終わる。
 通報されたということは三分くらいは大声で騒いでいたのじゃないのか。いやもっと長く騒いでいたのだろう。
 それならば俺ならば「うるせえ! 眠れねえじゃねえか。静かにしろ!」とそいつの頭をはたきに行ってたとおもう。
 そういうことを想像しないで世間の自分自身に甘えた馬鹿どもに話を合わせて裸になったことだけを問題にして、肝心なことをはぐらかしているのは馬鹿でかつ卑怯だ。
 逮捕はやりすぎかもしれないが、こんな俺だって夜中三時に住宅地で騒がないし、これから死ぬまで騒がないだろうし、身勝手な世の中のほとんどの人間でも夜中に住宅街の公園でギャーギャー騒がないだろう。

 それと、逮捕ということは別に大したことじゃないのだよ。逮捕されたこんな俺でも今生きているのだから。

風は息をしていて

 今日は風と雨が強かった。
 台風みたいだった。いや台風より強かった。
 風は息をしているみたいに強い弱いの波がある。
 クルマを運転していると分かる。
 風の咳か、くしゃみなのか、一瞬の突風が吹くとクルマが片方に流された。
 隣の車にぶつかる!
 息が止まった。血圧が上がった。体温が上がった。目がくらんだ。
 そのとき手だけがとっさにハンドルを引き戻した。
 息をついたら、ひざから下が、氷みたいに冷えてるのが分かった。

 雨風の中でライトを点けたオートバイが走っているのとすれ違った。
 後ろに大きな荷物をくくりつけていたからツーリングだ。
 そういえば今年は、今日から連休なのだな。

怒りたくないから高い料金を払ってみようか

 ユニクロが新宿に大きな店を出すと言っていたのをテレビのニュースでちらっと観た。
 十五年前に藤沢のユニクロで黒と灰色のカーディガンを買って、灰色のは擦り切れて捨てたが、黒のほうは今でも着ている。
 それからもシャツとかズボンとか、よくユニクロで買った。
 ユニクロの服は安いわりに長持ちすると思っている。

 新潟市に来たばっかりのとき、ユニクロにトレーナーを買いにいったら、店員の対応がやっぱり新潟市民レベルだったから、買わずにすぐに帰ったことがある。
 店員の格好と顔つきと所作と喋り方のチャラけた感じが不真面目な新潟市民レベルで、そして店員どうしのひっきりなしの無駄話で買う気が失せたのだ。
 テレビの中のユニクロの社長は、店のディスプレイのやり方を新宿店の店員に注意していた。注意して直ればいいだろうさ。
 あれからユニクロには近寄らないようにしている。

 新潟市では物販の店でもこれだけ買う気がなくなるのだが、サービス商品である手間賃仕事を頼むと、新潟市の人間に頼んで満足したことがない。仕事の経過と結果に満足して、ああ頼んで良かったと思ってお金を支払ったことがないのだ。
 だから、食料品以外の買い物は、新潟市以外で買ったり依頼すれば、こんなに怒らなくてもすむのかな、と思っている。

 しかしこれも、私が安いものを売っているところでしか買わないから、安い値段相応の質になり、質の悪さに腹を立てているのかもしれない。新潟市で一番高い店で買えば、満足して喜んでお金を払いたくなるのかもしれない。高い料金でやっている手間賃仕事の業者に依頼すれば、その仕事に感動できるのかもしれない。
 よし、今度やってみようと思っている。
 だが高い金を払って、もしハズレたら、怒鳴るだけじゃすまないぞ。暴れるかもしれないぞ。

ホームページは店

 俺の商売は出前の商売で店はない。
 店がないことが身軽で気持ちいいと思ってきたのだが、ふと、ホームページが俺の店なのだな、と思った。
 お客はパソコン画面から俺のホームページにやってくる。検索エンジンから、思い思いのキーワードで俺のホームページを開く。それは店の玄関ドアを開いて入ってくるようなものだ。
 俺の店はいつも掃除がゆきとどいているぞ。
 ガラスは透明でピカピカだし、床は汚れなどなく光っているぞ。
 最低二週間に一回はディスプレイの模様替えをして、入ってきたお客に飽きさせないようにしているぞ。何よりも俺自身が飽きないようにしているぞ。
 陳列方法もいつも考えながら、店の奥まで商品を見やすいようにしているぞ。
 メニューもいつも新しいものを作る研究をしているし、メニューの写真も定期的に撮りなおしているぞ。
 商品の質は地域一番でないと気がすまないから、中身の質を高くしよう高くしようとして、日々研究しているぞ。
「いらっしゃい、いらっしゃい、ごりよう、ごりよう、はい、新しいの入ったよ、見てって見てって、はい、お買い得だよ、ごりよう、ごりようー」とたえず声を出すようにしているぞ。

 と自分では思っているのだが、自己満足になったらお終いだと思うから、足らないものはないか、出しすぎているものはないかと、いつも思おうとしているのだ。
 少なくとも自分の店というホームページを、ほったらかしにしないようにしているのだ。

安いパソコンでも好きなだけユーチューブを観られるひととき

 私のパソコンはインターネットで買った中古の二万円弱のものだ。
 メモリーは64、ハードディスクは6ギガ。メモリーのスペックをあらわす単為を忘れたから数字だけ。
 OSは昔の、ウィンドウズ2000だ。
 今売っているパソコンと比べると、子供のオモチャのようなものだろう。
 だがこれでも私にとっては、あんまり不足は感じないのである。
 重いホームページを開くのには時間がかかるが、そもそもそういうサイトは開かないようにしているし、写真や映像が多くてデザインにヘンに凝ったホームページも好きじゃないから、丁度いいのである。

 このような性能の低いパソコンでも、Youtubeを観るのには、それほど支障は感じない。
 観たい画面を開くのに30秒ほどかかるのを我慢して待つのも、慣れた。

 夜、スティービーワンダーのライブを好きなだけ観て聴けることなんて、何年か前までは考えられなかったことだ。
 それもタダで、酒を飲みながらで。
 いい世の中になったものだと、思うひとときなのである。

安楽死と深酒(途中)

 このあいだ、犬を安楽死させに、動物病院に連れていってほしいという仕事を受けた。
 ある事情で、空家になっている家で、一匹で暮らしている十五歳の犬だった。

 指定された時刻にその家に行き、事前に受け取った鍵で、誰もいない玄関を開けた。
 突然、ムウッとするくらいの獣の臭いがおおいかぶさってきて、その臭いに圧倒され、息ができなくなった。
 あわてて自動車に戻り、厳重にマスクをしてから、体に臭いが移らないようにジャンパーを着こみ、頭から手ぬぐいをかぶって、もう一度玄関ドアを開け、おそるおそる廊下を奥に歩いていった

 薄暗い廊下を曲がったところに、体長一メートルぐらいの白と黒の模様の、目の大きな犬がいた。
 やっと来てくれたね、というように人懐こい瞳で私を見上げていた。
 病気だと聞かされていたから、寝たきりで動けないくらい弱っているのだろうと思っていたが、ひょこ、ひょこ、といびつな足どりで、遊んでほしいというように、私のほうに歩いてくるのだった。

 廊下の奥を見ると、そこにはペット用のトイレシートが敷いてあり、何日分か分からない糞と尿がしてあった。新しい尿は、フローリングにも染み出ているようだった。まだ若々しい硬そうな固まりの糞も、床にいくつか転がっていた。玄関を開けたときの臭いは、そのせいでもあるようだった。

 もうすぐ死にそうな命ならば、苦しませずに死なせてやるのも意味があると思っていたが、遊ぼうよというように私を見つめている、まだまだ健康そうな犬にたいして、急にさっきまでの仕事への……

※これを書くのは、私の中で、まだ消化しきれていないようだ。
 だから、メモとして書いて、このままブログでは中途半端にしておく。

 その夜は、普段の倍の酒を飲んでしまった。鼻の奥の粘膜に、あの犬の臭いが残っていて、いつまでも消えないのだ。息をすると、あの犬の顔が浮かんできて、すぐに焼酎のコップを空にしてしまうのだった。
 私はただ、命を動物病院に運んだという作業をしただけだが、実際に手をくだしてその命を終わらせた人は、私以上に酒を飲まずにいられなかったと思う。

 それと、私は、臭く、病気で血が出ていた犬の体を素手で触りたくなかったから、ゴム手袋をして、ボックスに犬を入れた。
 ボックスに入れるために犬を抱えようとしたが、犬はそうされるのを嫌がったから、何度も失敗した。しまいに敷いていた毛布ごと、犬を包んで、ボックスに押し込むように入れた。
 だが、動物病院に行くと、まだ若い動物の看護婦さんは、その臭い血が出ている犬をいたわるようにしながら、素手で抱きかかえ、優しい笑顔でボックスから出し、診察台の上に乗せたのだった。
 それを見て私は、俺は何という……

 言葉が出てこないから、途中で終える。

 その日の前夜、この仕事の意味とは何だろう、と考えながら寝た。なかなか寝付けなかったが、寝付けない私を救ったのは、裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」だった。

プロ意識と謙虚さ持つアナウンサーを久しぶりに観られる

 二年前、新潟のNHKにいた女のアナウンサーが東京の本局に転勤して、それからあんまり番組には出なかったのだが、さっき偶然画面の中に出ていた。「大人時間」とかいう、小朝が司会のものに、小朝のアシスタントとして出ていた。

 最近はNHKは、若い女のアナウンサーは派手なチャラけた感じの人間が多い。それを見ると、そのオンナたちの、自分が自分がというさもしさと、見た目とは裏腹の精神的な田舎臭さを感じてゲンナリしてしまうのだ。

 久しぶりに見た彼女は、髪の毛を中途半端に短く切っていた。
 その見た目はちょっとオバサンぽくなっていたが、彼女が新潟の天気予報を喋っていたとき、新潟局のアナウンサーは皆が面白くなさそうに不貞腐れたように喋る中で、彼女一人だけが口角の端を上げて、それは意識したプロの仕草だと見えたのだが、その一人だけ笑顔で喋るアナウンサーが、彼女だった。

 私は、オバサンぽくなった彼女を見て、それでも、ああ、あの頃と同じ美しさを持っている、謙虚な感じが好ましい、と観ながら思った。そして何故か安心したのだった。

ときに、まなこが光るという野生

 子供の頃、夜中の廊下のすみにいた猫が、こっちを見たとき、その目が光ったのを憶えている。
 暗いなかで、おぼろげに光っている緑がかった二つのまなこは、それがふだん自分が可愛がっている猫の目だとわかるのを、一瞬だけ躊躇させる恐ろしげな色をおびていた。

 瞳が光るのは、ペットといわれる動物のなかでは、猫だけではないだろう。
 犬も、夜になると、そのまなこを光らせてしまうのだろう。
 飼い主は、自分の愛玩の生き物と、夜中に不用意に視線を合わせると、昼間は見せない野生の本性を垣間見てしまうのだろう。

 もしかしたら、人間も、真夜中に、そのまなこを光らせてしまう時があるのだ。

咲いて散るのを見てわかるのは四十から

 桜が咲いただの、桜が散るだの、そういうことを思いわずらうのは、四十になってからだろう。
 近しい人が死んだやら、自分が死ぬものであることやらが、腹の底からわかるようになってからなのだろう。

 桜が、咲いて散るのは、それは来るものが来てくれた安堵のような、だけれど、得体の知れない何かが怖いと思うような、そして自分の何かを惜しがっているような、それは何重にも何層にも、たてよこに入り混じっている気持ちで、桜を見ているのだろう。

 そんな気持ちになったのは、三十九の年からだった。

日曜美術館、いい。

 新しい日曜美術館の司会は韓国の人だろう。
 経済学者だそうが、文学の場所からものを見ようというか、根源的なところからの目をもっている人なのだと思う。
 韓国人にいいイメージを持ってなかったけれど、よいキャスティングだ。

 今夜の番組で、昔から見てみたかった三面の阿修羅像の後ろ側を映してくれた。
 思っていたとおり、すんなりした感じの彫りだった。
 それか、彫らないで、さらさらした木目をそのままにしているのかもと思っていた。

 曽我しょうはくという江戸時代の絵師の絵も、そして話も、身につまされて、テレビ画面から視線がはずせなかった。

網戸張り替えのカット

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 今日できてきたチラシに描いた網戸。
 うれしがっている顔は、いつも同じ顔になってしまうのだ。

花粉症のメモ

 きのうか今日か、桜が咲いたと思ったら、鼻がつまってくしゃみが出る。
 今まで、それほどでもなかったのに。
 何日か天気がつづいているからだろうか、まだ花粉症はおわらないようだ。

 今日はシャワーの後でも、ストーブをつけなくても寒くない。

番号も新しいものが好き

 上原がメジャーリーグの初めての登板で勝ったという。
 テレビに映った背番号が、巨人のときと同じ19だ。
 松井もイチローも松坂も、日本での番号をそのままつけている。
 芸がないと思う。

 日本時代と同じ背番号にすることで、そのままの好調さを持続させたい、という気持ちなのだろうが、たとえば、日本のときの数字かける2にするとか、誕生日にするとか、自分の名前や出身地にいわれのある数字にするとかしたらどうだろうと思う。

 クルマのナンバープレートも、1111とか3333とか7777とかの並び番号をありがたがる人がいる。
 私はそういう作為的なものが嫌いだから、シャッフルされた、意味のない数字のほうがいい。

 特定の番号や数字というものにこだわる気持ちがないから、こう思うのだろうか。
 数字で、自分を特定されたくない、という気持ちもあるだろう。
 前の自分のものと同じものにこだわりたくない気持ちもある。
 たぶん、新しもの好きで、番号も新しいものが好きなのかもしれない。

嫌いな奴が増えるのは年のせいだったのか

 安倍譲二という小説家が世の中に出たての頃はニ、三作読んだけれど、今ではその中の一行も憶えていない。だけどエッセイはときどき読んでいる。
 そして安倍のホームページはよく開くのだ。
『あんぽんたん日記』

 2009/4/5の、「歳を取ると嫌いな奴、顔も見たくなければ声も聞きたくない奴が増える」というのは、まさしくそうだと思って笑った。
 私が年々気難しくなっているのは、自分が完璧主義者だからと思っていたが、ただ年のせいで、精神のやわらかさがなくなっているのかもしれないと、気付かせてくれた。
 たぶん、そうなのだろうと思う。

土から生える旬の色

 思い出す春の色の記憶は
 畑いっぱいに咲いていた菜の花の黄色。
 そして苺の赤。

 季節の色は、植物の色。
 ベースは茎と葉の緑。
 その下の土の色。

 野菜も果物も旬がある。
 知らない人が増えている。
 近くに畑がある幸せ。

 桜ももうすぐ咲く。

歌手はコネがきかない商売

 アーティストという言葉がある。アートをする人ということらしい。
 わざわざカタカナ語でいうのもカッコワルイのだが、外国ではどうか知らないが、日本ではアーティストというのは歌手ということになっている。それも自分で作った歌を唄う歌手をアーティストということが多い。

 同じ芸能人でも、俳優はアーティストとは言われない。
 なぜだろうとずっと思っていたが、さっきふと考えついたのは、俳優は仕事を得るときに、直接エンドユーザーに向き合わないで済む存在だ。テレビや舞台の監督などに選ばれて、役を得る存在だ。
 だが歌手は、その歌を買ってもらうのは、直接エンドユーザーに選ばれなければ報酬を得ることはできない。

 そして俳優はコネがきく商売だけれど、歌商売は、実力と運だけが結果に響く仕事だ。
 だから俳優は、親が俳優だと子も俳優として、あるていどはやっていけるかもしれないが、歌手の場合は親が歌手だったとして、それが子にとって、何も役立たない。まったくの実力社会だ。
 そして俳優はチームでやる仕事だが、歌手は個人プレーであり、より作家性が要求されるものだろう。
 時代にのって、パッと現れて、売れて、パッと消えてゆく、その厳しさと潔さも、芸術っぽい雰囲気がする。
 だから芸能商売の中では、歌手だけが、アーティストと称されるのだろうと、思った。

返事ができない新潟市民

 新潟市の会社で、新入社員の研修で自衛隊に二日間入らせたというニュースをやっていた。
 いいことだ。
 団体行動を取らせるためだといっていたが、私は団体行動など糞だと思っているが、団体行動などより、新潟市の人間は仕事場での返事がなってない人間ばかりだから、はい、という素直な返事ができるようになるだけでも、いいことだ。
 仕事場で客に向かって、はーい、などと遊び半分に「は」と「い」の間を伸ばして喋ったり、ひどいのになると、すこし注意しただけで投げ遣りに返事する人間ばかりだ。驚くことに五十六十過ぎた人間も、そうなのだから呆れるのだ。

 その原因は、公私混同しているからだ。
 公私混同する原因は、その人間の育ち方だ。
 子供は、親や周りの人間の行動が写るのだ。
 親がきちんとした返事をしないのは、きちんとした返事をしなくても済んだからだ。
 公私混同するのは、親が公私混同していたからだ。

 それは街に、多種多様な気質の人間がいなくて、いろんな意味で自分と同じような人間としか付き合ってこなくて、また付き合わなくともすんで、それで人の心を思いやるということをしないで生きてこられたからだ。
 新潟市の大半の人間は、人を思いやるということはしないのに、人に対しては、絶対に責任をとりたくないという一心で、いつも卑屈にビクビクしている。そうして、うまくコズルク立ち回ろうとすることだけは一生懸命になっている。その反動なのか、自分より弱い立場の人には横柄になる。そして目先のミミッチイ益を得ることに夢中になっている。
 ようするに、田舎もんということだ。

 田舎もんは、生きてきた中で、音楽や絵画や文学などに接することもほとんどなかったし、そういうものを楽しむ心もなかったし、いろいろな情報を得ることもなかったから、想像力も少ない。
 経済的に芸術に接することができなかったというのは言い訳だ。図書館はただだ。
 別に芸術にふれてきたから想像力がやしなわれるということもない。
 親に想像力があれば、そういう親に育てられれば、子も自然に想像力がつくだろう。

 想像力が少ないということは、今やっている事よりもっと良い事があるかもしれないとは思えず、だから現状維持になりやすい。
 現状維持をやめて良いことを志向することはラクではないから、ラクをしてきた人間は、そういう意味でも現状維持になりやすい。
 悪い意味で頑固なのである。
 だから本当は、そういう人間の根本は変わらないのだろうが、せめて仕事場で、勤務時間中だけでも、演技できる人間になればいいのだが、演技ができるくらいなら、初めから、はいと素直に返事しているだろう。

 きちんとした返事ができるようになってほしいなどというのは、幼稚園レベルの話なのに、それが二十歳過ぎた人間に求めるのだから、呆れる。
 だがそれで、私の怒る時間が少しでも減れば、ありがたいと思わねば。
 しかし、怒りっぽくて、自分の価値観を曲げようとしない私自身も、自分と違う価値観の人間と付き合いたくないし、そういう現状維持をしたがっていることでは、返事がなってない人間と同じ田舎もんなのかもしれない。

今お時間いいですか? は無用

 携帯電話嫌いの私はこちらから掛けるといつも、今喋ってもいいですか? と聞いていた。そのセリフは事務的形式的になっているな、と思っていたのだが、最近は聞かないようにしている。
 忙しければ、電話に出られないわけだから、電話に出たということは、電話で喋ることができるほどの時間はある、ということになるわけだから、今お時間いいですか? などは無用のものなのである、と思い始めている。

 相手が電話に出たら、早口っぽく短い挨拶の後は、すぐ用件を言う。
 そして答えが出たら、すぐ電話を切る。
 切ったら、すぐ行動する。
 その間、約二十秒。
 携帯電話とは、そういう使い方をするものだと思っている。

 今ふと思ったが、私が電話嫌いだから、私が掛けた相手も、ダガシめ、この忙しいときに電話など掛けてきやがって、と思っているのではないかという不安や怖さが無意識にあるから、今喋ってもいいですかとつい言っていたのだろうと思う。
 それか、営業上、相手におもねっているのだろうか。
 たぶん、どっちもなのだろう。

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