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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

パソコンを開かない日も必要

 毎日パソコンの電源を入れている。このブログを始めるときに、そのときはまだパソコンは持ってなかったから、ネットカフェに行ったり新潟駅の中のバナナに行ったりして、ブログを作っていた。
 それまではパソコンというものを扱ったことがなかったのだ。
 それなのにあれから三年半、毎日パソコン画面を見てきた。
 見なかったのは、今年の二月、母親が死んだときに実家に帰っていた五日間だけだ。その後パソコンのスイッチを入れたときの、画面がキラキラしていたのは忘れられない。
 その五日間はテレビも観なかった。ラジオも聴かなかった。新聞も読まなかった。世間から断絶して過ごしていた。
 それでも支障は感じなかった。
 携帯電話とケイタイメールだけで外界とつながっていた。といって携帯電話も五日間で数えるほどしか触らなかった。それで済んだのだった。

 この三年半、ほとんど毎日毎日ブログを書き、去年ホームページを作ってからは月一回は大幅に更新して、三日に一回は文章のテニヲハを直して、毎日いくつかのブログを読んで、パソコン画面をにらんで、そういう生活をしている。
 それはパソコンに依存しているのだろう。
 部屋に帰るとすることは、手を洗って、うがいをして、それからすぐにパソコンの電源を入れることだ。

 ホームページを見て依頼してくれるお客さんのためにも、毎日自分のホームページを点検する意味でも、朝と夜に、メールチェックと、検索エンジンの順位チェックと、ホームページがちゃんと表示されているかを確認するのは仕事のうちだと思っていた。そしてそれを実行してきた。

 だが一月に連続して何日かは、パソコンを開かない日があるべきだと思う。
 テレビも観ない日も必要だと思う。
 そして読むのがメンドクサイ本を読む時間を作る気持ちを作ろうと思う。

たまには可愛い女も見つける

 沼垂の交番の前に女の警察官が突っ立っていた。
 ぼーっと突っ立っている人間を見ると俺は、「おい、手を動かせ!」と怒鳴りつけるのだが、交番前で警察官が厳しい顔つきで立っているのは、それだけで世間の安全を見張っている役割を果たしているのだと思うから、「ご苦労さまです!」と挨拶したくなる。

 栗の木バイパスから見えた女の警察官は、この暑いのに紺色の制服を着て帽子をかぶって、太いベルトをしめていた。
 からだは大きめだ。腹も出ている。だけど手首と足首はほっそりしている。小首をかしげているポーズが可愛らしい。クマのぬいぐるみみたいだ。だが遠くから見ているし、俺は目が悪いから顔かたちはわからない。

 信号が青になってクルマが進んで、また見たら、女警官はポニーテールだった。
 女警官の顔はぼんやりとしかわからないのだが、きりっとした目とふっくらした頬で、任務を遂行しているのだろうと思った。

 新潟市の大半の田舎者が大嫌いで、そしてオンナギライのダガシだけれど、一年に何回かは、好きになりそうなぐらい可愛らしい女性を見つけることはできるのだ。

梅雨ざむは昔のことか

 去年からか、おととしからか、梅雨になっても寒くならなくなった。
 松本と岡谷にいたときは、雨続きの季節はストーブをつけることもあったのだに。
 長野県から離れても、梅雨になったら長袖を着る日は何日かあったのだ。
 それが半袖しかいらない年が続いている。お客さんのところに行くのにも、もうサンダルで短パンだ。

 もう秋まで着ないと思って、さっき長袖類とジーパンを洗濯した。
 インターネットで調べたら、明日まで天気は続くらしい。
 外に干したのを、今夜は取りこまないでみよう。

マイケルは精一杯やったろう

 マイケルジャクソンのビデオをひととおりYouTubeで観ているのだが、唄の合間にふっと見せる思索的な顔つきで、彼は本当は、内向的な型の人間なのだろうと思った。
 あの激しいダンスや高いキーの歌唱の裏側で、自分というものを見つめ、考えることをやめない人なのだろうと思った。

 だが何かの理由で、子供の頃からの思いを変えるすべを知らなくて、一途すぎる生き方をしてしまった人なのだろうと思った。

 それは俺もそうだからだ。
 だが俺は三年前高校生と喧嘩して、やってきた警察をも大声で説教して逮捕されたとき、留置場の中で、このままの俺じゃ、いつかこのままの形で死ぬなと思って、変わろうと思った。
 それはすべては変われていないのかもしれないが、変わろうと思えただけでも自分じゃ大したものだと思っている。

 マイケルも、自分で、変わろうと、自分の何かを変えようと、思っていたと思う。
 あの思索的な目の人だ。変わろうともがいていたと思う。

 だが変わろうとするあいだに死んでしまった。
 だが死んだことは善いも悪いもない。

 マイケルは精一杯やったろう。いや、俺がマイケルを精一杯やったろうなどと言うのはオコガマシイことだ。
 ただ、ありがとうと言う。

手羽元とつまみ菜とムーンウォーク

 よく行くスーパーで手羽元が100グラム58円だった。十二本買って、トマト煮にした。
 冬に使っていたおでんの元が残っていたからトマトと一緒に入れて煮込んだ。

 そしてつまみ菜というのが売っていた。
 つまみ菜は落語に出てくるが食べたことはない。初めて見た。草むらに生えている四つ葉のクローバーに似ている。
 どんぶりばち一杯ぐらいの量で198円だった。安いものなのだなと思った。
 鶏肉も人参もジャガイモも玉ねぎもピーマンも、ぜんぶ煮あがったころに一掴みを洗って鍋に入れた。
 さっと煮立てて火を止めた。

 ひさしぶりに食べた手羽元はうまい。鶏肉のなかで一番好きな部位だ。
 そうしてつまみ菜は、ほのかに苦くて、噛んでると甘くなって、これもおいしいものだと知った。
 一掴みはすぐ口の中に入ってしまったから、もうひとつかみ洗って、鍋に入れた。

 テレビを観ていたら、しかし俺はムーンウォークは結局上手に出来なかったなあ、と思い出した。
 バイクに乗っているときのウォークマンに入っているカセットテープは、マイケルジャクソンが一番多かった。踊りながら歌いながらバイクに乗るダガシにとって、なくてはならない音楽だった。

 マイケルジャクソンがテレビの中で踊っていて唄っているのを聴いていたら、死というものが遠いことのものじゃなくて、いつもそこらへんにうずくまっているみたいに、誰の近くにもあるものなんだよ、という気がした。

梅雨はキュウリを塩で

 このところ毎日きゅうりを食べている。
 夕食に一本、塩だけで。

 洗剤をつけて指でこすって洗って、流水をかけながら手の平でこすってよくすすいだあと、包丁で適当に切ったのを塩を振りながら、コーヒーカップに入れる。
 食器がないから朝使ったコーヒーカップで代用する。
 キュウリ一本分の量に丁度いいのだ。

 湿気が多い季節は、キュウリにマヨネーズは要らない。
 塩だけが合う。さっぱりして合う気がする。

時間かかったエアコンクリーニングの疲れを取る小さい笑顔二つ

 今日の午後からのエアコンクリーニングは時間がかかった。六時間もかかった。シャープので、基板が真ん中に付いているのだった。
 小さくてツメで引っかかってるぐらいのならすぐ外してしまうのだけれど、ネジを三つ外しても、びくとも動かないし、あれこれやってみたのだが外れないで、ちょっと力を入れて引っ張ってみたら外れた。

 カビ汚れは五年ものにしては多くて、時間がかかった。
 何とか落として、組み立てようとしたら、真ん中の基板はすぐ直せたが、外側カバーの付属の小さいフタみたいのをはめるのに時間かかって、お客さんに手伝ってもらいながら試行錯誤してはめた。

 お客さんはダガシよりこまかい性格みたいで、最終確認で懐中電灯を渡してファンまわりを見てもらったら、私の見落としたカビを見つけられて、それも落とした。
 仕上がりの不備を指摘されたのは久しぶりだ。だが気持ちのいいものだ。俺と同じタイプの細かい人もいる、それもイヤミじゃない細かい人もいる、と嬉しかったほどだ。

 ただ時間がかかって、午後三時に始めて夜九時半にお家を出たのだ。遅くなってごめんなさい、と奥さんに謝った。
 そのとき、私が帰るとき、その夫婦の子供の、小さい双子の姉妹の可愛い笑顔が見送ってくれて、疲れが飛んだのが、そのときわかったのだ。

普段聴かないラジオは普段使わない語彙を使っていた

 作業のときに聴くラジオを今日は、NHK第二放送を聴いていた。ダイヤル調整を間違えたのだ。でも聴いてるうちに慣れてきたのか、語学の番組も仕事中でも案外聴けるなあと思った。
 何かの小説なのかエッセイなのかの朗読もすごくよくて、作業がはかどるなあと思った。

 誰かが落ち着いた声で喋っているのを聞いているのが、落ち着くのだと思った。
 それに第二放送はアナウンサーが喋っている語彙が、俗世間で普段使わない言葉だから、馬鹿馬鹿しくなくてつまらなくないから、だから落ち着くのだろうと思った。
 そして同時にそういう語彙たちは、非日常の言葉だから、気分を新しくさせるのだろか。

移植には反対はしないが必死に応援する気もない

 ちょっと前に臓器を移植することの法律が決まったそうだが、詳しいことはさっぱり知らない。テレビがAとかBとかCとか言っていた。
 私自身は死んだら、俺の胃でも肺でも眼球でも何でも、使いたければどうぞ好きに使ってくれと思っている。俺の体で誰かがちょっとでも幸せになってくれるのなら嬉しい。
 だがそのための手術費は健康保険は使わないでほしいと思っている。
 そうすると臓器移植に賛成なのか反対なのか自分でも分からないが、やりたい人は、金をためるか集めるかして、好きにやればいいさと思っている。

ケイタイメールは気短か者にピッタリ

 お客さんとのやりとりは、ほぼケイタイメールでやるようになった。
 先方にすぐ用件が伝わって、先方からの答えも、そんなに時間がかからずに受けられるから、気短かのダガシにはピッタリなのである。

 これは携帯電話の通話料がもったいないからケイタイメールでやりとりできたらいいな、と思ったのが最初だ。一回の電話で800円とか1000円以上かかったことがあって驚いたのだ。

 手が離せないときに電話がかかってくると出られないし、こちらから掛けるのも相手の時間を拘束してしまうような気がして掛けたくない気持ちがしてしまうし、電話は相変わらず慣れない。

 といってパソコンのメールじゃ、来てるのかどうかがすぐ分からないし、来たのが分かったとしてもパソコンがそばになけりゃ見られないのだから、不便なのだ。
 そのてんケイタイメールは良い。料金も一回五円くらいのものだから安い。十回使っても五十円だ。
 だから緊急の用件じゃないものは、ケイタイメールばっかりになっている。

 だが父親は、いくらケイタイメールのやり方を教えても、私が送ったものさえ見ないのである。また教えるか。いや機械ギライだから諦めるか。

一つのデザインのエプロン

 こないだお得意さんからエプロンをもらった。
 俺のエプロンは一種類のデザインのが今十枚くらいある。
 でも実際使っているのは二枚で、一枚はヨレヨレになっていて、それは引っ越し清掃などの、お客さんが見ていない時に使うようにしている。
 もう一枚の普段使うのは少しは新しげだが、やっぱりよく見ると色はあせているなあ。
 それをニ、三日おきに洗濯して使っているのだ。
 同じデザインのが引き出しに8枚あるのだけれど、ケチだからおろさないだけなのだ。

 もしかしてお客さんは、ダガシのエプロンがいつも同じだから、新しいのが買えないのかなと思って、買ってくれたんだろうかと思った、ハハ。
 でも、ありがたかったな。

 今度行くときは、もらったエプロンをしよう。
 そしてその次行くときは、同じデザインの新品のをしていこう。

 そして、もらったエプロンは、とてもダガシに似合っているのだ。

デビュー作しかないのだろうか。ないのだろうな

 村上春樹の新作が日本ではものすごく売れているという。どうせろくでもないものだろう。そして春樹が売れているのを、龍がやきもち焼いてるだろうな。

 村上春樹の小説は、まともに読んだのはデビュー作と、初期のごく短いものだけだ。
「眠る男」だったかは面白かったな。だけど二作めのからは途中でつまらなくなって本を閉じた。それからは義務感で何冊か読みはじめたけれど、何行かで読むのをやめた。

 村上龍のも、二作めの「戦争…」でもう面白くなくなって、三作めの「コインロッカー…」は三行で閉じた。
 だけどそのちょっと後の、娼婦ものは面白かったな。

 ダガシがビールしか飲まなかったのは村上春樹の「風の詩を…」のせいだが、今となっては、どうして世の中が村上春樹を持ち上げているのかわからない。
 たぶん低俗で、わかったつもりになりやすいものなんだろう。

 低俗でも、低俗ながらあれほど世界的になっているらしい作家だからこそ、こういう悪口を遠慮なく言えるのだがな。
 だが作家の評価など、作品の評価など、伝聞のまた伝聞でしかないから、自分でその良さを発見しようなんてことはないのだ、世界中の人間は。
 ああ、世界は低俗で満ちているなあ。

善悪ではないということをまた改めて思った瞬間

 今日、クルマを運転していて信号待ちをしていたら、左側の歩道に、大きな青いランドセルのような学校カバンを背負った、たぶん中学生だろう女子生徒がうつむいてぼんやり立っているのを見た。
 彼女は太りぎみで、そして世の中に何も面白いことはないというような顔で、自分の足元を見つめていた。
 そしてたぶん、彼女はこれからもそういう人生を過ごしてゆくのだろうと、どうしてか思った。
 もしかして彼女は、自分の人生が面白くないから、自分に近しい人をいじめることで、ウサを晴らすような人間になるかもしれない。

 瞬間、思った。
 もしかしてそうなったとしても、それが人生というものだ。
 不幸せになることも、意地悪になることも、無神経になることも、それも人生なのだ。
 それが良いだとか悪いだとか、安易に断じることは出来ないのだ。
 自分が不幸になることも、誰かを不幸におとしめてしまうことも、それも仕方ない、善悪でははかれない、そうなってしまうことも、死ぬまで生きる、それが人生なのだ。
 彼女も俺も、そういうことで、人生を歩んでいくという同じ人間なのだ。
 意地悪な人間も俺も、同じ人間なのだ。
 ということは、俺も意地悪な人間なのだ、と思った。

 意地悪だとかというのも、無神経だとかというのも、それは生き物は自分以外を食って生きてきたのだから当たり前だし、生まれるときも、自分という存在を決定するときも、自分以外を蹴落として、誰よりも早く卵子に突っ込んだことで、自分というものを生まれさせたのだ。
 卵子は、自分以外を蹴落としながら一番に自分に入ってきた精子を肯定して受け入れる存在なのだ。

 そして生まれるときだけじゃなく、生きてきた過程でそうなってしまったどうしようもない原因があって、それはすべてが仕方がないことなのだ、誰の責いでもないことなのだ、自然にそうなってしまうこともあるのだ、それが自然なことなのだ、そしてそれは善悪ではかれることではないのだ、と瞬間思った。。
 留置場に入れられた夜に感じた感覚を思い出した。あの時の感覚から、更にバージョンアップした感覚を覚えた。

先生と呼ばれる仕事の理由

 世の中には学校の先生以外にも先生と呼ばれる仕事がある。
 お医者さんとか弁護士とか。美容院の社長も先生と呼ばれる。作家もそうだ。ああ政治家もそうだった。
 しかしそういう商売の人たちは、なぜ先生と呼ばれるのだろう。

 何年もぼんやりと考えているうちに、答えらしきものをふと思いついた。
 敬う気持ちで呼ぶから先生なのだろうが、もう一つ理由がある。
 先生といわれる人たちは、自分の本来業務の他に、弟子に仕事を教えてもいるから、弟子たちが先生と呼ぶのであろう。
 弟子たちが先生と呼ぶから、お客たちも何気なく先生と呼ぶようになったのだろう。

 特にお医者と美容師は、頭の中の知識だけでは仕事ができない、手や指の動かし方がものをいう仕事だ。
 その技術を覚えるには、教えてもらわないまでも、仕事のやり方を盗むための見本が必要だし、手本がいる。
 その技の手本を見させてもらうわけだから、先達には頭が上がらなくなるだろう。
 だから、先生、と相手を立てて呼ぶのだろう。

 私は顔つきや目つきや着るものや、その着かたや所作や、道具の扱い方や話す語彙も声質も、その全部が、人間まるごと全部が仕事の技術のうちだと思っているから、そういう私の技術を覚えてくれる人を見つけるのは、もうあきらめているが、もし覚えたいという人がいたら、親方、と呼ばれたいと思っている。

山登りで腰袋を使う

 きのうの角田山に登ったことの追加だけれど、格好は普段の仕事のときと同じだ。白いポロシャツで黒いトレパン。ひたいにバンダナのはちまき。
 足元は仕事のときはサンダルだが、山登りのときだけはズックを履く。

 それと自分で画期的だと思うのは、今回は仕事で使っている腰袋をしていたことだ。
 背中が汗ビッショリになるからリュックはしないことにしているから、それで考えたのが腰袋だったのだ。
 そういえばバイクに乗っていたときも、いつもタンクバッグと後ろに大きなツーリングバッグをゴムひもでくくりつけて、絶対にリュックは背負わなかった。そのほうが上半身を身軽に動かせるからだ。コーナリングでバイクを素早く寝かせたり起こしたりするには、膝とももでタンクを力いっぱい挟みつけながら、上半身を自在に左右に動かすのがキモだからだ。

 きのうは縦長の腰袋にはペットボトル、普通の腰袋にはタオル、そして小さいウェストバッグにはコーヒー缶とおにぎりを入れて歩いた。
 体が斜めになるようなアクロバティックな登り方はない山だから、物は落ちないだろうし、現に岩場を這うように降りてもタオルは落ちなかったし、ペットボトルをすぐ取り出せたから便利だったし、このアイディアは良かった。
 しかしこれにエプロンをしたら、まったくの普段の仕事の格好になるのだ。

角田山頂上のダガシ

20090614192530太陽の方を見てまぶしがっている。
12:30 浦浜登山口から登りはじめる。樹にかこまれて視界がなくて、急な階段を登るばかりで、何かの運動のトレーニングをさせられているようで、楽しくない。登山道の九割が階段。単調で、疲れるだけで、つまらない。

13:30 山頂に着く。一時間階段登りの特訓をしただけの気持ち。初めて登ったが、角田山にはもう来なくてもいいと思っている。
 頂上でおにぎりを食べていると、犬を連れた六十代のおじさんが来て、喋る。犬と一緒にいろんな山を登っているそう。
 おじさんは灯台コースで降りるという。浦浜コースを下るのはつまらないから、帰りは灯台コースで降りると決める。降りたら、灯台口から浦浜口まで五キロくらい、海岸道を歩くことにする。

14:00 灯台コースで降りはじめる。途中の十五分くらいの急な岩場が怖かった。メロンぐらいの石とテニスボールぐらいの石が混じって山肌に張り付いているところを降りる。岩の道からはるか下に海岸がモロに見えて、高所恐怖症のダガシは足がすくみ、這うようにして手と足を使って降りた。一緒に降りていた燕市から来たという中年夫婦のおばさんが笑っている。笑われてもどうしようもない。怖いのだから。
 岩場の少し平たい場所で、燕市の夫婦と休憩する。おばさんは煙草を吸いだしたが、その煙の匂いはどうしてか嫌にならない。疲れに対する刺激になっているのかもしれない。おばさんが胡麻が付いた饅頭をくれた。おいしかった。ちょっと元気が出た。

15:20 灯台登山口に着く。燕市の夫婦が浦浜まで車で送ってくれるという。ありがたく受ける。

15:40 浦浜登山口に降ろしてもらう。
 他にも、浦浜登山口を探すのにバスの運転手から道を教えてもらったことや、山頂で酒飲んでいるような、くどくて大声で喋っている初老の男二人のことや、夫婦で来ていて妻のほうが大きなリュックを背負って、なにくれと夫の面倒をみていた夫婦や、灯台コースですれ違ったマウンテンバイクを背負って登ってきた若者と彼女らしきカップルやらがいた。
 いい登山だった。今度は灯台コースから登ろうと思う。

泣くほど馬鹿な人が好き

 卓球の愛ちゃんの福原選手は、結果を出せていないなあ。
 結果を出せない人間を俺はいつも切り捨てるのだが、愛ちゃんは別だ。
 顔が俺好みだからだ(ここでハハ、と笑わないのだ。マジだからだ)。
 そしてすぐ泣くのも俺を見ているようでかばいたくなる。

 だが泣き顔はもう何年も見ていない。
 大人になって泣いていないのだろうか。
 泣かなくともいいのだが、泣くほど一生懸命さでぶつかる馬鹿さを俺は好きなのだよ、愛ちゃん。

ホームページの模様替え

 ホームページを少し模様替えした。
 見た目はイメージ写真が変わったぐらいなのだが、一番の違いは「h1」タグの不備を直したことだ。
 それと気にかかっていたメニューの一つ一つを、ちょっとだけだがハッキリさせた。

 マウスのポインターを置いたときに、その文字列の一くくりを赤く小さく表示させて、赤く小さくなったその部分だけがメニューの一つなのだよ、というふうにした。

 こないだ、テンプレートを使わせてもらっている『TempNate』から、「h1」タグが直った新しい機能のものが出ていたのを見つけて、それがメニューの一つ一つの間に線があって、一つづつのメニューが独立して見えるのだったから、そのテンプレートに替えようとおもったのだ。

 だがその新しい機能のものはメニュー部分の色が私の知識では変えられなくて、イメージ画像もぼうっと幅が太くて、なんだかぼんやりした見た目になってしまうのが分かって、今と同じパターンのを、写真だけ替えるタイプのもので我慢した。
 それでもそのテンプレートも「h1」タグの不備は直っていたし、作ってから半年たったし、気分転換にもいいし、で変えてみようかと思ったのだ。

 そのテンプレートのイメージ写真は原色が多く、ちょっと下品かなと思ったのだが、また何ヶ月かしたら替えるつもりだから、これから夏場になるし、こういうハッキリしたイメージのもいいかな、と思って使ってみた。
 全体的にはTempNateさんのテンプレートは、センスがいいと思う。自分に甘くて自分以外のものに厳しいダガシが使っているのだから、そうだと思う。

 イメージ写真のフォルダをホームページサーバーにアップロードするとき、FTPソフトの使い方をまだ分かってないから、ミラーリング何とかというボタンのどこかをクリックしたらば、どうしてかサーバーにある写真類を全部削除させてしまった。そうしたらホームページの中の写真が全部見られなくなったのだ。
 あわてて写真を一つ一つ今までの自分のブログからパソコンに取り込んで、細部のhtmlを直したり、広告文を直したりしながら、またその写真を一つ一つサーバーにアップロードするのに、十時間かかった。

 夜中までパソコン画面を睨みつけて、集中力が落ちたのが分かったから、いったん寝て、朝早く起きて、ゴミ捨てしてから昨夜の続きをしたのだった。
 なんとか出来上がって、さっきもまた自分のホームページを自己満足で見ている。

読み物としてだけのタウンページ

 NTTの電話回線を事務用から住宅用に戻した。
 今年の電話帳がまだ配られてこないから問い合わせの電話したら、また責任転嫁の物言いと、新潟市の会社のいつもの、客からの問い合わせに対して偉そうにどなた様ですか、などと名前を言わせる返答で、人様に名乗らせるならてめえの名前を先に言え! でも何で俺がお前に名乗らなきゃいけないんだ? と怒鳴りつけると、なんだかんだではぐらかして、絶対に自分の名前は言わないで済まそうとして(新潟市民というのは、絶対に自分の側の情報を隠して、相手のことを根堀り葉堀り聞きたがる、野次馬根性の醜い習性があって、ウンザリするのである。ちなみに俺のお得意さん方は違う。だから気持ち良く仕事ができるのだが)、その新潟市民特有の物言いで、それでまた電話で喧嘩になって、もうNTTとは最小限の最小限しか付き合わないぞと決めて、手始めに回線を住宅用にもどしたのである。

 商売で使う職業別電話帳に電話番号を載せさせるための事務用回線の基本料金は2600円。五十音別電話帳だけに載せる住宅用回線は1600円。それでNTTの売上を、一ヶ月千円減らせることができる。ざまあみろ!(だがNTTにとっちゃ、別にそれがどうした、という金額だろうがな)。

 独立したときに、電話帳に広告を出そうとして問い合わせたら、その失礼な物言いとやる気の無さに幻滅して、絶対NTTには広告は出さない、と誓ったことがあった。
 あれから五年、ぜんぜん体質は変わっていない。変わるわけもないだろうが。

 事務用回線にしてタウンページに電話番号を出しつづけて、今まで電話帳からの依頼は、たったの二回で、売上は二回で22000円。そのうちの粗利益は13000円。そこからさらにもろもろの経費を引いて、俺の財布に入ったのは7000円くらいのものだろう。たしかその仕事には、二日間もかかった。大赤字だ。
 独立したばかりの頃で、新潟では初めてやる分野の仕事で、勉強だと思って受けて、準備と後片付けで二日もかかったのだ。
 まあ、面白い仕事だったし、身になったと思うが、営利を目的とした仕事からはかけ離れていた。今では絶対にそういう安くする仕事はしないことにしている。そういう仕事をすることは、自分に甘えて、自分を甘やかしていることだからだ。

 安ければ仕事が増えるかもしれないという安易なコズルさが自分の中に生まれ、安ければいいんだという安い心の人間が集まってしまうのだ。
 安い仕事が増えたところで自分の時間が無くなるばかりで先行きは暗くなるばかりで、そうして人間としての成長をするための時間が取れなくなるし、安い心の人間が集まると、そういう人間たちに付き合うことで自分の心も安くなるだけだ。

 事務用回線と住宅用回線の差額千円の五年分六万円は、無駄だった。
 職業別電話帳を見て仕事を依頼してくる人はいない。ハウスクリーニングやエアコンクリーニングを電話帳で探さない。
 タウンページに大きなカラー広告を出していたら別かもしれないが、掃除屋を電話帳で探す人はいないだろう。
 それにそもそも自宅にハウスクリーニングを頼もうと思う新潟市民自体が、ほとんどいないのだから(だから俺はブログで新潟市民に言いたいことを書いているのだが。それと、そこらへんの無神経な一般人と付き合いたくないと思っているのだから、大勢から依頼の電話をされても困るし、そういう人間と喋っていると、また喧嘩になるのである)。
 そして俺だって、普段電話帳で業者を探そうと思ってないのだから、だから電話帳で昭美堂を探してもらおうなどというのは、意味のないことなのだろう。

 だが職業別電話帳をボーッと見ていると、面白いことも事実なのだ。
 へえ、こんな商売があるのかとか、こんなに大きな広告を出して、それでも広告料をペイできる仕事なのかとか、こんな広告文やデザインじゃ駄目だなとか、ページをめくって見ていると、飽きないのである。
 そういう意味で、広告好きの俺にとってタウンページは、春先の読み物として価値があるのだ。

干しあみ桃色

 きのうスーパーで干しあみというのを買った。
 桃色で五ミリぐらいのエビの小さいのがパックになって、どんぶり一杯くらいで198円だった。
 初めて見たし、ピンク色に光ってうまそうだったし、安いものだし、カゴに入れたのだ。

 どうやって食べればいいかネットで調べたら、油で炒ったり、大根と煮物にしたりで食べると書いてある。
 ちょうど前の日に大根菜を買っておいたのを一緒に油いためしてみた。
 期待していたほどうまいものではなかった。しょっぱいだけで、味はしなかった。

 今朝、残ったのをご飯にふりかけて食べたら、それがうまかった。
 納豆と一緒に食べたら、それもとてもうまかった。

 今、冷奴と一緒に食べたり、鶏肉の炒めたのと一緒に食べている。何かと一緒に口に入れると、うまいのだ。
 口の中でメインの食材と混ざって、旨みを引き出す調味料の役割をしているようだ。

 別のことだが今日六月十日、新潟県は梅雨入りしたそうだ。平年並みだそう。メモとして。

悪徳エアコンクリーニング、悪徳フローリングワックス

 エアコンクリーニングを8000円でする業者がある。安い。俺は一万円でも安すぎると思っているのに、安い業者はどのくらい時間をかけているのか、ホームページでは書いてない。どのくらいの水を使っているのかも、書いてない。
 そういう安い業者は、一時間半ぐらいで終わらせているらしい。水も5リットルぐらいしか使わないらしい。
 アルミフィンを腐食させてしまうぐらい強すぎる洗剤をスプレーして、中和剤も使わないで、しかも満足にすすがないで、はい黒い水が出ましたと、3リットル程度の汚れ水を客に見せて、汚れが取れましたとスマシテいる。

 俺の場合は一台三時間はかかる。気短かで無駄なことが大嫌いな俺でも三時間かかるのだ。大型で汚れが溜まっているのは、四時間もかかることがある。そして水は最低十五リットルは使う。四時間かかるような時は二十リットルも使う。
 そういう俺からすると、世間の業者たちと俺とでは、仕事の種類が違うのだと思っている。八百屋と占い師ぐらいは違っていると思っている。

 そういう安い業者にかぎって、室外機もクリーニングしなければ良くないですよと言う。室外機など内部洗浄する必要もないのに、セールスがましいことを言う。
 意味のない室外機を洗うことで客単価を上げさせようとするのだ。
 室外機をクリーニングしたほうがいいと言うのに、屋根に置いてある室外機はクリーニングできませんと言う。足場がないから出来ないのである。
 室外機のクリーニングが必要だというのなら、屋根に置いてある室外機だとてクリーニングすべきだろうに。作業がむずかしいのは口をつぐんではぐらかす。

 エアコンクリーニングは、掃除屋も電気屋も、汚れを落とすということはおろそかになっている。
 エアコンクリーニングは電気屋さんに頼むのがいいと言う人間がいる。だが街の電気屋など、そこらへんの掃除屋と同じレベルの知識しかないし、汚れ落としの知識に関しては小学生のレベルでしかない。
 家電量販店は、それ以下だ。投げ遣りな大袈裟な、あの店員どもを見れば分かるだろうに。
 家電量販店に頼むと、下請けの掃除屋か電気屋が来て、さらに投げ遣りの作業をして帰ってゆく。なぜなら彼らは、6500円程度の下請け金額で仕事をしているのだから、きっちりやっていたら合わない。いや、はじめから仕事をきっちりやる気持ちもないし、きっちりやる知識も技術もない。

 それは新潟市の業者だけではない。全国の業者が低レベルの仕事をしている。低レベルなのに、安くて良い仕事をしていますなどと言って、嘘を言って、悪徳の商売をしている。会社が大きくたって皆、悪徳の商売をしている。

 エアコンクリーニングに限らない。
 フローリング床にワックスを塗るのも清掃業者たちは安すぎる値段設定だが、洗わないで、汚れを取らないでワックスを塗るのだから時間かからないから、安くする。モップで水拭きのことを洗浄だと言っているのだから、嘘もたいがいにしろと言いたくなる。
 汚れを取らないでワックスを塗ったら、ワックスで汚れを閉じ込めてしまって、その汚れは永久に取れないのに、それを知っているのか知らないのか…、どっちにしても罪だ。

 コーティングも同じだ。いやコーティングは剥離ができないのだから、もっと罪は重い。
 硬いと言っている膜も、それほどではないのだから傷は付く。
 硬いということはもろいということなのだから、何年かしたら傷がかさむと剥がれてくる。
 それなのにコーティングというものは補修が出来ないのだ。だから、あとはフローリングを張り替えるしかない。
 そういうことを知ってか知らずか、十年保証だとほざいている。
 ああ、世の中は悪徳の商売で満ちている。

 だが消費者の方も、悪徳の仕事をして、悪徳の仕事で得た金で依頼しているのだから、おあいこだろうか、ハハ。

これからは上っつらコミュニケーションのための道具が売れ筋

 GMがつぶれるというらしいが、GMといわれても何の会社かピンとこなかったのだが、アメリカにある世界一沢山クルマを作っている会社だそうだが、クルマに興味がない私にはどうでもいいのである。

 クルマが売れなくなっているというが、ガソリンを燃やしてピストンを上下させるエンジンを積んでいる四つ輪は、もう需要が減っていくだろう。
 荷物を運ぶための自動車は、ある一定の需要はあるだろうが、趣味としての四つ輪は売れなくなるだろう。
 その一番の理由は、世の中がだんだん進んでいくと、趣味にするものが増えていき、今だったら誰かとケイタイでメールしたり喋ったりや、パソコンを見たりに金を使うようになるからだ。

 排気ガスをモクモク出してスピードを出す自動車を走らせるという趣味は、すたれていくだろう。
 バイクに乗ることはもう、一般人が楽しむことができない、金がかかりすぎる贅沢になっているし、自動車もバイクも、一人で走らせるということを楽しむのは、どうしてなのか誰もやりたがらなくなっている。

 今の若者は、近場の誰かと、たあいない喋りのつながりをすることと、そのための道具に、金をかけようとしている。
 だから自動車メーカーの役割は減るのだ。それは善悪とは関係ないことだ。
 それなのにクルマ屋を存続させることに税金を使うのは、悪いことである。

 今は身体を使ったコミュニケーションをとることが嫌いな人間が増えている。ということは、逆に上っつらのコミュニケーションのための道具が売れる。
 それはコミュニケーション自体が恐怖なのか、他人が信じられなくなっているのか、本当は自分自身が信じられなくなっているのだろうが、だから表層のところだけの繋がりで済まそうとして、表層の繋がりだけが心地いいと思ってしまうのだろう。

 そういう人間が第一に金を使うのは、ケイタイのメール代であり、ケイタイの通話代であり、プロパイダー料金であり、パソコンや携帯電話を買うための料金であり、匂いや肌触りのない人形というフィギアの購入代であり、うそ臭い芝居でなりたっている「ご主人様」と言われて喜ぶメイドカフェの料金であり、手軽に買えてすぐ食べられるジャンクフードの購入代金なのだろう。

 クルマの中やバイクに乗っているときに、息がかかるくらいそばにいる人に、おまえが好きだ、と言える勇気をもつ人が増えるのは、一世代後の三十年後になるかもしれない。いや、もうそういう人はいなくなるのかもしれない。
 だが私自身は、クルマやバイクで恋を打ち明けるのは好きではないが。

マンションへのチラシ配りでまた喧嘩

 マンションへのチラシ配りはどういうわけか今年はやりやすくなった。
 いつも管理人と喧嘩になるから、おととしから管理人が休みの日曜日に配るようにしていた。
 それが今年は平日も少し配ってみたら、どうしてか管理人たちはニコニコしていて、どんなチラシなのですか、…ああ、そういうのですか、いいでしょうどうぞ、と言うのである。
 気持ち悪いのだが、そう言ってもらえるのらばこちらもありがたくて、ありがとうございますと頭を下げて配らせてもらう。

 去年新潟市で一番多いマンションのダイヤパレスというところの建設会社が倒産して、管理人たちの顔ぶれも変わっているみたいだし、自分の会社がつぶれたということで、少しは謙虚になっているのだろう。
 だが今日も、一軒の管理人と喧嘩になった。やっぱりダイヤパレスだ。どういうわけか、そのマンションだけは日曜日も管理人がいるマンションだった。

 俺はどのマンションでも、最初は正々堂々と仁義をとおすために、管理人に、チラシ配りたいんです、と言うことにしている。
 そのまま、どうぞと言われたのは新潟市内の全部のマンションで今までニ回しかない。あとは横柄に、駄目だよ、駄目駄目! とさげすまれるように上から目線で言われる。
 それでこっちもカチンと来て、お前の会社だってマンションを売るチラシをあちこちのアパートやマンションに無断で入れてるじゃねえか! と言う。
 そうなると管理人はうろたえたように、そんなことは関係ない! 駄目なものは駄目だ、上の方から言われているんだから、決まりなんだよ、管理組合でも決まっているんだ、となおさら決まり決まりと、決まりと言えば大丈夫だと思っているように杓子定規になる。
 あるいは、チラシをそのまま床に捨てる人がいて掃除が大変なんだとか、チラシを入れられたくない人もいるんだよ、と言う。

 だが分譲マンションの管理人がチラシを入れさせたくないのは、入居している人間に、競合相手である他のマンションメーカーのチラシを見せたくないからだと俺はにらんでいる。
 だからマンション管理会社からの管理人への指示は、マンション販売のチラシだけを排除するのはスジミチが合わなくなるから、ええい面倒だ、チラシは全部入れさせなけりゃ簡単だ、となったのだろう。
 だが俺が入居していたら、何の情報でも情報は沢山欲しいし、いろんなチラシを見たい。だから管理人がチラシを入れるななどというのは出しゃばりすぎだぜ、と叱りつけるだろう。

 今日は新潟駅裏のダイヤパレスで喧嘩したが、その管理人は新顔のようだった。この不景気でやっと管理人の職にありついて、その職を逃したくないのだろう、上からの指示に絶対に従っていれば何とかなるだろうというか、自分でものを考えないで思考停止しているというか、要するに頭が悪くて精神的に怠け者というのがありありと分かって、そのくせ自分より立場が弱そうな人間には横柄になるという新潟市民特有の性格で、だから腹が立って腹が立って、といってこちらが勝手に進入して頼まれてもいないものをポストに入れているのだから、非はこっちにあるのだから、そのことで相手を怒鳴りつけることも出来ないし、腹が立ちまくって、もうあのマンションには行かないことにした。

 もしかしたら気が向いたらダイヤパレスの本社に電話して、お前らのやっている事は何だ? 偉そうに俺に言えるのか? 俺は正々堂々とチラシを配りたいと頼んでからやっているんだぜ、お前らは人にはやるなと言っていて、自分たちは隠れて他人のマンションにチラシを入れてるじゃないか! 自分のやっている姑息な卑怯な事を自覚してから人様に接しろ! だから倒産したんだよ! と喧嘩するかもしれないが、どうするかは気分しだいだ。

 だが最初に書いたように、物分りのいい管理人も増えてきているのは、新潟市も捨てたものじゃないのかな、と少しだけ思ったのだった。

玉子は飲みたくない

 玉子を飲むということを、何かの読み物か昔の映画か何かで知っている。
 殻をチョチョッと割って白身をこぼさないように上手に口に持っていって、上を向いて殻から卵の中身を落とし込む。
 それか、いったん茶碗に落としてから、かき混ぜてから飲むか、かき混ぜないでそのまま飲むか。

 ヌルヌルしたのを飲み込むのも、そして飲んでから、口の中でクチャクチャと噛むのも、気持ち悪いと思っている。
 玉子を飲んだことはないから、玉子そのままの味は知らないが、ヌルッとした見ためと食感で、気持ち悪そうな味だとつい想像してしまう。

 だがさっきふと思ったのだが、玉子かけご飯だって生玉子をそのまま食べるのだ。
 ご飯にまぶしてはいるが、ヌルヌルしているのはそのままである。
 醤油で味付けしてあるから玉子そのままの味はしないで丁度良いしょっぱさがよい。

 といって玉子かけご飯は、今まで生きてきて、ニ百回は食べていないだろうな。
 子供の頃は玉子は貴重なもので頻繁には食べられなかったし、大人になって玉子が安くなったが、今度は鳥インフルエンザだので生の玉子を敬遠しているから。

 それでも玉子は毎日食べるようになった。
 フライパンでササッと卵焼きを作る。
 冬場はほうれん草、夏場はピーマンを入れる。すぐできるから。
 玉子が安くなったおかげだ。

 それにしても玉子を飲んでみたいのだが、死ぬまで飲まないだろうなと、思っている。

人が集まらない地下街をどうにかするかね

 西堀ローサが空き店舗だらけになっているから新潟市の市の出先みたいな施設を置く、とニュースで言っていた。

 もう西堀ローサは辞めればいいのだよ。

 俺も一回だけ行ってみたことがある。
 独立したばっかりの時、名刺持って自転車で乗りつけて、階段を下りて、一軒一軒全部セールスした。
 アイシャドウが濃い頭の悪そうな女の店員がいる店ばかりで、床ワックスクリーニングをおもに話をしたのだが、話がかみ合わなくて、一軒も仕事は取れなかった。
 どこも儲かっていなさそうで、店全体が薄汚れていて、掃除どころじゃないだろうな、という店ばっかりだった。

 それから五年たったが、テレビ画面の中は薄暗くて、あの頃よりもっと人が歩いていなかった。
 もう西堀ローサは役目を終えたんだろうさ。

 東京の真似をした服を、東京の真似をしたやり方で売るのは、いくら新潟市民が田舎者だらけでも、そのビジネスモデルは胡散臭く見えるだろう。
 ましてやテレビに出ていたローサの社長の公務員気質が透けて見える顔つきじゃあ、あれじゃ仕事は出来ないだろうな。
 そしてテレビに映っている市長も、もう最初出てきたときのやる気はなくなっているみたいだし。

 まず西堀ローサがやるべき事は、古町には年寄りが多いんだから、足腰が弱って階段下りるところには行きたくなくなるのだから、エスカレータかエレベータを置く。
 そしてエスカレータの近くに年寄り向けの店を集める。

 それから、店の配置を圧縮する。
 空き店舗をそのままにしておいたら見っともないし、買う気もおこらなくなるから、年寄り向けの店、若向きの店、とくくりをはっきりさせて、店を移ってもらう。
 そうなると空き店舗がかたまるから、そこの場所は店じゃなくて、事務所として安く貸す。倉庫でもいい。何かの工場でもいい。

 まずやることは、無能な社長を辞めさせて、東京あたりから、成功報酬三千万円ぐらいで社長を募集する。あくまで成功報酬であって、成功しなかったらば、報酬三百万円でだ。仕事の報酬ってものは、本来そういうものだからだ。作業じゃないのだから。
 そういうことが出来ないならば、ダラダラして仕事ごっこしている市長も、辞めるべきだろうな。

長芋は体にいいと実感

 七時半になろうかというときに書きはじめて、窓を見たらまだ真っ暗じゃないのだ。
 遠くの鉄塔がはっきり見える。
 そういえば今月は六月で夏至の月だった。
 陽が長くなっているはずだ。
 そうしてこれから、梅雨を超えたら、すぐ夏なのだな。

 こないだ、お得意さんのところで昼ご飯御馳走になって、長芋のおろしたのがおかずに出た。
 長芋は夏の野菜なのかどうか知らないけれど僕はあんまり好きじゃなかったけれど、どうしてかおいしそうに見えて、一口だけもらって食べてみた。そうしたらどうしてか、美味しいものだと思った。
 その夕方スーパーに買い物に行ったら長芋が売っていて、普段は長芋があっても目に入らないのだがその日だけは売り場で見つけて、ふと値段を見たら、長芋というのは高いものなんだなと思った。
 長芋のおかげかどうか、それから、体調がいいのだ。

 七時四十分になるところだ。パソコン画面から窓を見たら、暗くなっている。鉄塔も見えなくなっている。だが窓の外は、まだ黒色に一滴の群青色を混ぜたような色だ。

 そうして四十分を過ぎた。完全に黒くなった。

田舎者とは

 俺は田舎者が大嫌いだ。
 田舎者とはどういう人間か。
 二つあって、まず誰かの真似をすれば済むと思っている思考停止している人間。
 オリジナルということの正反対にいる人間。
 だから何でも東京の真似をしたがるのだ。
 ということは地方にいても、東京とは違う方向で、独自の生き方をしている人は、田舎者ではないのである。

 去年だったか、高校生の女子のスカートが日本で一番短い街は新潟だと、何かのニュースみたいなので言っていた。
 新潟というのは新潟市のことを言っているのだろうが、聴いていて恥ずかしくて馬鹿馬鹿しくて疲れた。
 東京で流行っているものを闇雲に考えなしにやればいいと思っているのだろうが、雪が降っている中で短いスカートを穿いて足をむき出しにしている様は、滑稽というより、頭の悪さを自覚していない痛々しい感じがした。
 寒い日にはズボンを穿けよ! それがスマートなことだぜ。
 その根性は、周りの人間と同じであれば安心だという家畜根性と、足を出せばセックスアピールがあるだろうと単純に思う頭の悪さと、イロキチガイ的な土地柄と、見栄っ張りの土地柄が生んだ性格だろう。

 田舎者の特色の二つめは、自分さえ良ければいいと思って行動する人間。
 コズルイ大概の新潟市民の行動規範である。

 雨が降っている歩道ですれ違うとき、傘をななめにして、相手の傘とぶつからないように配慮することは、江戸時代からの江戸のマナーらしいが、そんな当たり前のことは、俺だって誰からも教えられなくとも小さい頃からやっていた。
 だが新潟市に来てからそうしている人を見たことはない。

 そして田舎者とは、住んでいる場所から決められる言葉ではない。
 その人間の心根が決める言葉なのである。
 東京にもカッペは大勢いるし、雪深い山奥に、洗練された独自の生き方をしている人もいるだろう。
 だが新潟市民は確実にイナカッペがほとんどだと、精神的な田舎者がウジャウジャいると、三日住めばわかるのである。

携帯電話からの検索で依頼

 こないだのエアコンクリーニングは、また十年以上経ったエアコンで、賃貸マンションに住んでいる男子大学生からの依頼だった。
 エアコンをつけると、ヘンな咳が出るということで、エアコンの汚れを取りたいという電話をもらった。

 昭美堂は、7年過ぎたエアコンは汚れがひどくなっているから16000円からの料金で受けている。
 お客さんはホームページを見てくれて頼んでくれて、値段のことは了解済みだったから、あとは精一杯結果を出すだけだった。

 時間はかかったけれど、もちろん結果は出して、お客さんは満足してくれた。
 それで、HPを検索したときのキーワードを聞いてみたら「エアコンクリーニング 新潟市」で、いくつかの会社のHPを見たが、昭美堂が一番頼みたくなったから電話した、と言ってくれた。
 そして、驚いたことに携帯電話で検索したそうだ。

 パケホーダイという定額料金でケイタイのネットを見放題だから、普段もネットでの探しものは、ケイタイでするそうだ。
 ケイタイのネット検索で探して、気に入ったらケイタイですぐ電話して、頼むのだそうだ。
 今の若者は、もうそういうことをしているのだな、進歩しているのだな、と驚いた。

 お客さんのケイタイの画面を見せてもらったら、大きな画面で、昭美堂のパソコン用のホームページそのままが、ケイタイ画面に出るのだ。これもおどろいた。写真が出なかったり、ところどころ不具合があったり、文字が小さくて見ずらかったりしたけれど、若い人は目がいいし、慣れれば読めるのだろう。

 今までケイタイから検索してもらうことは考えていなかったが、これからはそういうこともちょっと意識して、ホームページを作ろうかと思ったのだった。
 そうして彼は、県外から新潟の大学にやってきて、話すと心根が素直な感じで、ああ、ときどき新潟市民以外の人と喋ると、やっぱり気持ちがやすらぐなあと思った。

年のせいの指差し

 四十も半ばをすぎてから、何かをしたと確かめるときに、指差し確認をするようになっている。
 部屋を出るときに、窓を閉めた、留守電にセットした、ストーブを消した、ガスコンロも消した、と間違ったらオオゴトになることを一つずつ人差し指の先を向けてチェックしている自分がいるのだ。

 赤ん坊というのは、興味のあるものに指を差すものらしい。それは本能なのらしい。だから幼児期になると指差しはしなくなるものらしい。
 ということは、年取って指差しをするということは、赤ん坊にだんだん帰ることなのだろうか。
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