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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

麻薬の半額シール

 帰りにスーパーに寄ったら、ちょうど半額シールを貼る時間だった。
 また買いすぎた。
 千五百円。
 パックが七つだったか、八つだったか。
 ほとんどが揚げ物だった。
 健康に悪いだろうな、と帰ってから思うのだが遅い。
 一日じゃ食べきれないから、明日もあさっても、これを食べるのだ。
 不健康だし、不経済でしかない。
 半額シールは、危険な麻薬だ。

裏切りを許し許され・河合隼雄

 河合隼雄の本のお陰で、俺は昔、昔話の解釈の仕方と、明恵上人のことと、十牛図のことと、ユングの心理学のことを知ることができた。20090729200953
 だが河合の晩年のエッセイを読むと、腹が立ってくるのである。
 河合の言いたいことは簡単にいうと、自殺しなければいいのだ、自殺するくらいなら人に迷惑をかけてもズルをしてもいいのだ、真実や真理というものを求めるなどということより、自殺しなければいいのだ、ということだろう。
 それは俺には、世間の世俗的な幸福を求めることだけに生きるように見えるのだ。

 俺は、人が生きるということの真理みたいなものを知るためには、喧嘩しても闘っても言い合いをしてもいいと思っている。いや真理を追究するためなら、争いはすべきだと思っている。死ぬこともいとわないと思っている。争いや死は、真理を知るための必要経費だと思っている。
 そういうことと逆のことを書いている河合は、ズルイ人間だと思うのである。だから腹が立つのである。

 げんに河合は、文化庁長官だったか、政府の役職などというものに長いあいだ就いていたじゃねえか。あんなことをして嬉しがっていたのだから、セコイ人間だなあと思うのだ。
 河合隼雄は、表現者でもないし、哲学者でもない、単なる学者でしかなかったんだなあ、と思うのだ。単なる大学教授のエッセイに、マジメに怒ってみても始まらない、と思うようになっていた。だから読まないようになっていた。

 河合隼雄の少し後に、俺が知ってハマッた岸田秀は、自分の悩みを表現していて、そのエッセイはまぎれもなく表現だと思って読んでいた。
 岸田は俺と同じだ、俺の悩みを代弁している、岸田が入れ込んでいるフロイトの言うことも納得できる、ラカンも知ることができた、と思いながら読んでいた。
 だから俺は、河合隼雄より、岸田秀のほうに入れ込んでいた。

 それがこのあいだ、図書館で、何となく久しぶりに河合の本を手に取ってしまったのだ。
 またほとんどのところで腹の立つことが書いてあったのだが、二ヶ所だけ、ちょっと身に染みる部分があった。だから、写す。
 いつものように、改行も、行あけも俺が勝手にした。ところどころ俺が勝手に太字にした。

    ※

河合隼雄 『大人の友情』朝日新聞社ニ〇〇五年二月二十八日発行
<117ページ>「碁がたきの味」
 学校へ行けない子、チックの子、いろんな子どもが相談に来るが、われわれ臨床心理士はもっぱらこの子たちと遊ぶ。遊びを通じて子どもが治ってゆくのだ。
 そんなときに典型的に出てくるのがルール破りである。
 弱くて仲間と遊べなかった子が、だんだんと治療者を相手に遊びはじめ、このときにゲームなどをするが、勝ちたい一心でズルをする子が多い。これにどう対処するかはなかなか難しい。
 怒ったり、説教してもはじまらない。といって、ズルを奨励するのもおかしい。
 治療者はその度に心を使いながら、許容したり、自分もわざとズルをしてみたり、笑いのなかのたしなめがあったり

 そのうちに、子どもはズルをせず正々堂々と勝負するようになり、その頃には、それでも何とか関係を続けてゆき、変化を期待し続ける態度に支えられて、子どもは成長してゆくのである。

 ある大学教授で、学問的にも人間的にも弟子たちに尊敬されていた人があった。
 ずいぶん以前のことだが、その当時、この先生をめぐる人たちはよく麻雀をした。わいわい騒いで遊んでいるなかに、急に学問の話がでてきたり、実に素晴らしい集まりであった。麻雀はこのグループの友情を深める役割を果たしており、テツマン(徹夜の麻雀)もしばしば行われた。

 ある夜もテツマンになったが、教授は旗色悪く、負け続ける。
 ところが、明け方近くになって奇跡的に盛り返しはじめた。徹夜でやってモーローとしかけているなかで、弟子の一人は、教授がズルをしているのを発見し、大声をあげた。
 そのときのことは、後になってから皆、あまり覚えていなかった。怒鳴ったり、泣いたりしたような気もする。ともかく、明るくなってから、何とも言えぬ悲しさを感じながら帰途についた。

 そのときのことは、実に長い間、誰も話さなかった。教授も何も言わなかった。その事柄をある程度、心のなかで消化した後、麻雀は何事もなかったかのように再開され、グループの友情も壊れなかった。
 どんなに立派な人、人格高潔な人も心のどこかには陰がある。陰があるのは残念だし、悪は許容し難い。しかし、それによって人を全面拒否するのはおかしい。人生の、友情の味にはほろ苦さが混ざっている。

<130ページ>「裏切るより他はない」
 フロイトとユングは最初に会ったときから、大変な意気投合ぶりであった。そのとき、彼らは十三時間ぶっ続けで話し合ったという。
 フロイトにすればこんな嬉しいことはなかっただろう。せっかくの彼の新しいアイデアは途方もない誤解と反撥を受け、彼はまったくもって孤立していた。特にアカデミックな世界のなかでそれがひどかった。そこへ、大学人として将来を嘱望されているユングがよき理解者としてきたのだ。

 彼らは短時間で急接近し、アメリカに二人が共に招かれて講演旅行に行ったとき、お互いに自分の夢を語って分析し合った。
 現在のわれわれならこんなことは絶対しない。強烈な同一視が生じてくるからである。このあたりの詳しい経過は略すとして、この密着した関係のなかで、二人は互いにどこかで不信感を感じざるを得ない関係になる。
 その過程を見ていると、なぜそうなるのかというのではなく、自立的人格を持った二人としてはこうならざるを得ないのだという感じを抱かされる。
 真実を貫くなら、どちらかの人格が破滅するのだ

 ここで極端な表現をすると、彼らは友情を裏切ることによって、それぞれの自立性を保ち得たのである。二人の人間がまったく一体になることは不可能である。

 スポーツマン、芸能人などの名コンビが、突然に壊れる背後にはこのようなことが生じていることが多い。
 そんなとき、後になって、片方が、あるいは双方が共に、相手の「裏切り」を非難することがある。これらはほとんど泥仕合になって、そこからは建設的なことはめったに生まれて来ない。
 それは、強烈な同一視を破るためには、どうしても「裏切り」しかないような状態になる人間というものの存り方の悲しみ、に関する自覚がないためではないかと思う。

 友情の話題から少しずれるが、このことは、偉大で立派な人や英雄が「裏切り」によって最期を遂げることを説明するのでは思う。シェイクスピアの『オセロー』には、イアーゴーのような人物が出て来ないと始まらないのだ、と考えられないだろうか。

 前章で、北欧神話の、何を投げつけようと斬りつけようと死なないバルデルの話を紹介した。このような絶対に負けない存在というのが出てくると、彼を殺す唯一の秘密を嗅ぎつけ、裏切りによって殺してしまうロキのような存在が出て来ざるを得ないのである。

 完全な善とか、完全な強さとかは、どうしても裏切りを誘発するのである。
 多くの英雄が正々堂々たる戦いではなく、何らかの裏切りによって最期を迎えるのは、このためではないだろうか。

 話を友情のことに戻そう。友人の間で裏切りが生じないためにはどうすればいいのだろう。
 友情が強くなると、同一視や理想化が強まる。
「あんな素晴らしい人と同じようになりたい」だけでは危険である。人間は決して完全ではない。友人の欠点に驚くこともある。「裏切られた」と言いたいときもある。

 そんなときに、自分を人間としてよく見ると、まずまず似たような者であるし、そうでありながら、お互いに異なるよさを持っていることもわかる
 常に裏切りの可能性を持つ関係も認めたうえで、「やっぱり、ええやつやな」と感じるのが深い友情ではなかろうか。友情の強さよりも深さの方に注目することで、裏切りの悲劇は回避されるだろう。

    ※

 俺も完全じゃない人間だということは自覚している。俺だって自分が知らないうちに、何べんも誰かを裏切ったこともあったはずだ。いやあった。ここでは書かないが、まぎれもなくあった。
 その自覚から始めると、世俗的な幸福も、案外いいもんだと、思えるかもしれない。
 そうなると、らくに生きられるかもしれない。
 そうなると、新しい何かが、生まれるかもしれない。

悪徳不動産屋はカタカナ社名

 年に何回か、便利屋さんとしてインターネットで検索されて、アパートから出るときの不動産屋との交渉を依頼されることがある。
 ゴミをためてしまったり、事情で先に引っ越してから退出手続きをしたり、そういうゴミ処分&ハウスクリーニングと、不動産屋への手続きの代行だ。

 そういう時の不動産屋は、理不尽なことを言うもんだなと、こいつらの業界は悪徳だなと、分からせてくれる。

 俺は、不動産屋には、自分を掃除屋だとは言わずに、入居していた者の知りあいで、代理で来ました、と自己紹介する。そうすると…
 部屋の角の壁紙の隅がちょっと汚れているのを指差して、「はい、部屋の壁紙全部張り替えです」
 エアコンをチラッと見て、「はい、エアコンが汚れてますねえ、エアコンクリーニングが必要です」
 床の古い傷を見つけて、「はい、これは困りますねえ。床を張り替えてくれとは言いませんが、傷直しが要りますよ」と、キツネのような目で喋るのだ。

 そのぐらいの壁紙の汚れなど、掃除で落ちる。落ちなければ、そんな狭い面積は上から同じ色で塗ればいい。
 エアコンの外側のカバーは煙草のヤニで茶色くなっている。でも依頼者は煙草は吸わない人だ。ということは入居者何代にも渡ってエアコンクリーニングなどしていないということだ。脚立に乗って内部を見てみたら、十年以上の汚れが溜まっていた。
 床の傷は十年は経っているものだとすぐに分かる。そのときの依頼者は一年しか住んでいなかった。

 そういうとき俺は、不動産屋を怒鳴りつける。おいお前、そうやって調子こいてると、裁判にするぞ、と。
 そうすると、さっきまで得意げにペラペラまくしたてていた安そうなネクタイを首にぶら下げているキツネは、目をしろくろさせて黙るのだ。

 まったく新潟市の不動産屋は、どうしようもない詐欺集団である。
 特に、創業して年数の浅いカタカナの社名の会社は、入居者から詐欺まがいのことをして金を巻き上げることで利益を上げている。
 それは新潟市だけではない。日本中の不動産屋は、とくにカタカナ社名の不動産屋は詐欺で悪徳が多い。中でもテレビでガンガン宣伝している会社は悪徳だ。
 だからなのだろうか、俺は自分の屋号を決めるとき、横文字のカタカナは使いたくないなと思ったのだ。

 俺は不動産屋から仕事を受けてないから不動産屋にペコペコする必要がないし、不動産屋にも建築建設関係の会社にも頭を下げたくないから、絶対に土地建物関係の業者から仕事は受けないと決めている。
 だから下請けはしないぞと、エンドユーザーからしか仕事を受けないぞと決めているのだ。詐欺の片棒を担ぎたくないからだ。

 そして建築現場、建設現場のほとんどの人間たちの怠けているイイカゲンな仕事ぶりを見ていると、殴りたくなる。
 一軒家でもマンションでも、よく見ると床下には、フローリング板の下には、あいつらが投げ捨てた煙草の吸殻だの、飲み捨てた缶コーヒーの缶カラだのが散乱しているぜ。
 そしてどうやったら手抜きができるかということが、あいつらの仕事の第一の目的なのだ。だから俺は、土地建物関係の業者が嫌いなのだ。だから悪徳不動産屋に遠慮はしないことにしている。

 だが不動産屋の中にも、俺を驚かすような、俺の考えを変えてくれるような、一本気な不動産屋が居てくれないかな、と思うのだが、まあ日本中探したって、居ないだろうな、ハハ。

城下町は米のとれた街

 新潟県のあちこちに転勤で住んでみたが、一番カッコイイ場所は六日町だと思う。
 六日町は、歴史もあり、だからだろうが、生活の中に文化というのが根付いていて、だからだろうが、人が人にたいして思いやりがあって、ひとりひとりが頭がいいなあ、という雰囲気がある。

 糸魚川は優しい感じなのだがコズルイ。
 十日町も似ている。

 直江津はガサツだ。
 三条もガサツだ。

 長岡は無骨で融通がきかない。
 高田も同じ感じ。

 新発田はエロな人間が多い。松本に似ている。

 村上はワガママな人間が多い。

 新潟市は一見開放的な感じだが、人間が心底ズルイ。

 六日町だけが、武士のたましいを持っている、という感じなのだ。会津に似ているのだ。
 俺の嫌いな天地人の舞台だが、それは、さむらいの心が残っているのかもしれない。

 ちょっとマジメな歴史のことで思うのだが、新潟市が街になったのは、長岡藩が治めた江戸時代からだ。それまではヘンピな漁村だっただろう。
 米もとれず、風が吹きっさらしているだけの土地だったろう。そういうところに文化というものは根付かない。

 新潟県で初めて文化らしいものが生まれたのは、直江津の国分寺だろう。
 もっと昔は、火炎土器が出た中越地方の縄文時代だろうか。
 簡単に言えば、米が取れる場所かどうかが、文化が育ったかどうかだろう。

 米がとれるために必要なのは、広い平野があって、背後に高い山脈がそびえていて、その山に雪がたっぷり降って、春の雪解けの水が豊かで、大きな川が流れていて、その水が田植えどきの水をささえてくれて、梅雨は雨が続いて、稲に水と養分を与えてくれて、夏は蒸し暑くなって、稲の穂を大きく実らせてくれて、そしてまた寒い雪の冬になる。
 そういう場所は、たくさん米がとれて、文化というのが根付いたのだろう。

 それは越後の北からいうと、村上であり、新発田であり、長岡であり、高田であり、六日町であったのだろう。
 そのどの街も、背後に高い山が自慢の土地だ。大きな川が自慢の土地だ。夏は蒸し暑い土地だ。雪深い土地だ。広い平野の街だ。
 そしてそれは城下町だ。
 それは米がとれることで、栄えたのだろう。
 だがその中で、六日町だけが特別なのはどうしてか、いまのところ俺も分析できていない。

 今ふと思ったのだが、六日町は江戸時代の参勤交代で、三国峠を通る街道の宿場町でもあった。
 それは越後の中で、江戸の文化が一番入ってきた土地で、今でも江戸文化が根付いている土地で、だから江戸文化に毒されているダガシは、カッコイイ土地だと思い込んでいるのだろうか。

故郷がない力士と、ある力士

 ふるさとから応援されている実感を持っている力士と、故郷がない力士とは、力の入りぐあいは違うだろう。
 生まれたところの空気の匂いをときどき思い出せば、力が湧き出るだろう。

 モンゴルの生まれ故郷の人々から、頑張れよと、いいぞと、お前のお陰で俺も頑張れているぞと、メッセージがあると、さらに頑張れるだろう。
 そのメッセージを得るためには、自分でも頑張って、結果を出さなければならんだろう。

 政治家も同じだろう。
 ふるさとからの応援と、そして自分には故郷があるのだといつも思い出せるならば、ふるさとを大事にしたいと思うだけで、良い政治をしたくなるだろう。

 といって俺は、郵政民営化を逆にしろとか、道路を作れとか、補助金を増やせとか、そういうことを言っているわけではない。
 田舎のぬるま湯の中で怠けている人間を心配しているわけではない。

 ふるさとの、土にさわったときの匂い、草の葉で手を切ったこと、春の水の冷たさ、夏の夕立の暖かさ、稲の穂の輝き、雪の夜の光り、そういうものを思い出せ。
 山や河を、むやみに崩すなと、それだけ言いたいだけなのだ。

紙帽子のダガシ

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 新潟市の昔からの食品加工会社からエアコンクリーニングの依頼を受けて作業したとき、これをかぶってくださいと言われて渡された紙製の帽子。

 普段、たいがいの新潟市民の悪口を言っているダガシが驚くほど、この会社は礼儀正しい人ばかりだった。
 老舗って違うもんだなと思った。

エアコンクリーニングにはマスクも手袋も必要

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  日本中の掃除屋が言うことで、「うちはエコ洗剤を使っていますから、安心安全ですから、エアコンクリーニングのときにマスクをしないでやっています」というのがある。
 俺は、エコだのロハスだのと根拠もないのに商売上でのことだけでうたっている奴らを軽蔑している。
 そして俺は、エアコンクリーニングの時は、マスクをするし、ゴーグルもする。手袋もする。

 俺はエコという言葉は嫌いだから使いたくないから、ホームページでは植物性洗剤と書いているのだが、その植物性洗剤を使ったって、エアコンに元から付いていたカビやホコリは、顔の近くで作業するのだから、何の洗剤を使ったって吸い込んでしまうことになるのだから、だからマスクをする。
 げんに、マスクをしてエアコンクリーニングをしても、その日は次の朝までカビの臭いが鼻の中から消えないのだ。次の日の昼頃まで、何だか体がだるいのだ。だからもうエアコンクリーニングは、メニューから消そうかなと、何回か思ったぐらいだった。
 だからカビだらけのエアコンを扱うのに、もしマスクをしなかったらと思うと、恐ろしくなる。
 自分の健康を配慮できない人間に、人様の健康を思いやることなど出来るわけがないじゃないか。

 そしてエコだのロハスだのと言っている掃除屋は、たまにでもいいから、エアコンクリーニングのときに床に敷くシートを洗うことはあるのだろうか。そういうことを聞いたこともないし、そいつらが得意げに書いているブログで読んだこともない。だから俺は、口ばっかりで何も考えていない世の中の掃除屋が嫌いなのだ。

 ゴーグルをするのは、メガネに洗剤のしぶきが付くと見えなくなるし、レンズを傷めてしまうから、付けている。
 手袋をするのは、傷があるときに洗剤分がそこから入らないようにするためだ。

 この写真は、猪八戒がハウスクリーニングをしているのかと見間違ったので、ブログに出した。

仕事のやり方のモデル

 ビストロという食べ物屋がある。
 レストランで修行してきたシェフが、助手を一人使って、家賃の安い裏通りの場所でやっている、小さい店のことだと昔なにかで読んだ。
 コストがかからず、だけど美味い店。
 だから、料理の値段もそれほど高くしなくてもやっていけて、それでいて味は一流なのだ。

 レストランというのは、大勢の料理人がいて、表通りにでっかい店構えを開いて、だから経費がかかる商売のやり方。
 味はいいかもしれないが、コストがかかって、値段は高くならざるをえない。
 ビストロで気軽に食べたい人もいれば、レストランに行って金を使って食べたい人もいる。同じ人でもそのときどきで、どっちにも食べに行くだろう。

 俺の商売のやり方は、ビストロを目指していた。仕事のやり方のモデルにしていた。
 だが助手がいなかった。
 仕事を真面目にやり遂げるという人間は、掃除を仕事にしているかぎり見つからないのだと、三十人以上、新潟市の同業者や新潟市の素人を使ってみて、悟った、というか諦めた。
 ダラダラやって、結果を出そうとしないで、それでもゼニがもらえると思っている人間と一緒にいると、そいつを怒鳴りつけてしまうし、そいつを殴りたくなるし、暴力をふるいたくなるから俺自身がアブナイのである、ハハ。
 だから一人でやらざるをえない。

 ビストロの形を諦めて、その次にモデルとしたのは、一人でやってる自由業だった。

 お医者さんをモデルとして考えてみた。だが医療という仕事は、お医者一人じゃ出来ないようだ。
 開業医でも最低看護師一人は雇わなければ実際問題やっていけないし、第一患者から見てカッコがつかないじゃないか。できれば受け付けも要る。せめて看護師は二人は要る。ということは一人じゃ出来ない商売だ。お医者はモデルにならなかった。

 それじゃあ士業をモデルにしたらどうか、と思った。
 弁護士、会計士、司法書士、社会保険労務士、行政書士、…といろいろあるが、その違いをさっぱり知らない。
 だが士業の人たちと俺は、頭脳労働と肉体労働の違いはあれど、士業はその業務の核心の部分を自分一人でやっているだろうから、俺の仕事のやり方のモデルになるのじゃないかと思ったのだ。
 特に知りたかったのは、報酬額の決め方と仕事の取り方だった。

 インターネットで、それらしいホームページをいろいろ見た。でもピンとこない。
 一つだけ分かったのは、士業の業界は、掃除屋みたいに料金をダンピングしていないということだ。
 弁護士さんから、お医者さんから、安いよ、安いよ、と売り込まれたら、かえって頼みたくなくなるだろうな。何だか恐いだろうな。
 俺も絶対に自分の仕事の安売りはしないと決めている。
 お医者と士業の人たちのやり方と、俺のやり方と、同じところは、そこのところだけみたいだ。
 あとは業界として違うところだらけだった。

 ということは、俺は俺だけの仕事のやり方ってのを、俺自身が創らなければならないのだろうな、と諦めた、というか悟っているのである。

何十年後の星の動きが分かる不思議

 ものごとには百パーセントはないと思っている。
 それなのに、何十年後の何日の何時に皆既日食があるとか、いついっか彗星がやってくるとかが分かるのは、そもそもオカシイのじゃないのか?
 誤差ということがあるだろうに。

 0,000…1パーセントの誤差があったら、広い宇宙の中の、ものすごい長い時間じゃ、そのぐらいの誤差でも日食は、一年ぐらいは簡単に変るだろうに。
 何かのキッカケで、彗星は軌道が変って、どっかの星にぶつかって、消えてしまうことだってあるだろうに。

 宇宙の星が動くということは、誤差というのはないのだろうか。
 何かのふいの間違いというのは、起こらないのだろうか。
 そっちのほうが、不思議だ。

耳鳴りと梅雨明け

 セミは今年はおとといの七月二十日に鳴いた。
 だいたい今ごろの初鳴きなのだ。
 だがきのうと今日は聞いてない。
 今年は暑くならないから鳴かないのか。
 セミにも慣れない日食ということがあったから鳴かないのか。

 今ごろは、
 梅雨が明けるのを嫌がるように、どこかで強い雨が降る。
 山を崩したり川をやぶったりする大雨が降る。
 そして、おおぜい人が死ぬ。

 と書いているときに、
 近くの樹でセミが鳴いた。鳴いた。鳴いた。
 …まだ鳴いている。

 思い出すのは、
 耳鳴りがすると、いつもばあちゃんが言っていたことだ。

 もうすぐ梅雨明けだ。

チラシとインターネットがおもの選挙にしたい

 衆議院が解散だというが、また大声でスピーカーで名前の連呼のクルマがやってくるのか。
 あれは暴走族よりタチが悪い。
 暴走族は自分が悪いことをしていると自覚しているからまだましなのだが、その自覚がない人間は救いようがないのである。

 議員になりたいなどという人間は、自分は悪いことをしているんじゃないだろうかという自覚は、ない。
 救われないのだ。

 名前を叫んで歩かなければ、その候補者が立候補したことを知らない人もいるかもしれないと言うのだったら、チラシを配ればいいのだ。
 立候補者が一軒一軒歩いて回って、今度立候補した者ですと個別訪問してくるのは、私だったら迷惑だから、こういう考えで、こういう事をやる、というのを書いたチラシを黙ってポストに入れておいてくれれば、後で読む。

 それとインターネットのホームページで政策を書いておいてくれればいい。それを読む。
 パソコンを持っていない人も多いというのだったら、携帯電話のホームページも作ればいい。それを読む。

 住宅街での街頭演説といううるさい事もやめさせたい。
 駅前とか繁華街でやるのだったらやればいい。生の候補者に接するのも良いことだろうから。

 それから、ボランティアなどといって大勢人集めして練り歩くのは下品だ。
 選挙のボランティアというのは、あれはボランティアでもなんでもないものである。アゴとアシと日当を払って募集した人間たちを、ボランティアだなどと嘘を言っているにすぎないのに。あいつらは結局、選挙費用に群がっているハイエナなのに。

 政策とやる気は、チラシとインターネットで表明すればいい。
 それで誰に入れるかを決めるから。

 政策の結果を出せなかったら、次の選挙で入れない。
 ごくシンプルなことだ。

 そういう選挙ならば金もかからないから、やりたい人が出られるだろうに。世襲もなくなるだろうに。駄目な人間は落ちるだろうに。買収も少なくなるだろうに。

文学もエロも朝に似合わないから

 この何ヶ月か朝六時二十五分にテレビを付けるのだ。
 教育テレビだ。日本文学の有名なものを紹介する番組だ。
 朝っぱらから文学だのなんだのというのが、珍しいから見ている。
 それに目覚ましになるから。

 そいつに俺の神様の一人の井上陽水の娘が出ている。
 そいつが陽水の娘だということは後から知ったのだが、どうでもいい。
 そこらへんのオンナというぐらいにしか見えない。
 しかも父親のコネで出ているのがイヤラシイ。

 昔、水着のエロい女の体操の番組で目を覚ましていた時期があった。
 文学もエロも、どっちも朝に似つかわしくないから、やけに目が覚めるのだ。

地方分権に反対

 地方分権という言葉が騒がしいが、前から思っていたのだが、地方に権限を移したら、ろくな事にならない。
 田舎には頭の悪い人間が多いからだ。
 特に、田舎の自治体の長や議員や役場の職員は、自分で何かを考えて、決めて、実行して、それを検証して、さらにまた考えて、変えて、実行して、などということは出来ないからだ。
 一番大事な、自分でものを考えること自体が、出来ないからだ。

 全国の知事のほとんどは、官僚のお下がりの人間だ。新潟県もそうだ。
 市長や町長や村長は、議員のお下がりの人間か土建屋関係の人間だ。
 地方議員は、土建会社の社長か、人権を商売にしている関係の人間ばかりだ。
 そういう人間たちは、政策を作るなどということは考えもしない、ヤカラばかりだ。
 自分と自分がいる組織の、自分の業界の利益を、いかに増やすかということだけしか考えられない人間ばかりだ。

 そして田舎役場の職員たちを見てみろ。一生懸命に働くのは損だと思っている人間ばかりじゃないか。
 いや役場職員だけじゃなかった。もともと田舎には、都会よりもそういう人間が多い。自分さえ良ければいいと思っている人間が本当に多い。

 だから地方分権は、やっちゃいけないのだ。
 田舎には責任転嫁が好きな人間が多いから、何か問題が起きたときは、原因は分からずに、それが何回も繰り返されている。

 といって今の官僚や国会議員に任せておけばいいかといえば、これも違う。
 でもどうすればいいか、俺も分からない。わからないんだ。

 一つ考えているのは、数は少なくてもいいから、地方の民間の頭のいい社長を、税金から売上げを上げていない経営者を、そういう人たちを政治家に引っ張ってきて、特に国会議員や自治体首長になってもらって、働いてもらうことが、政治を良くして、人々の暮らしを良くすることが、出来るのじゃないのかなと思う。

 だが民間で商売の結果を出している社長たちは、政治など馬鹿にしているだろうし、自分の仕事を追求することが本分だと思っているだろうから、やってくれないだろうな。
 ああ、どうすればいいのかな。

しらすを求めた夜

 なぜだかむしょうに食べたくなってスーパーに走ったのだった。
 魚売り場の中をさまようように探した。
 シラスというのは、普段ほとんど目に入らない、魚売り場の隅にあるのだった。

 1パック178円と書いてあった。
 思っていたよりも安いと思って手に取った。
 会計をすませて素早く部屋に帰った。

 ドアを閉めて、パックからジカに指でむさぼり喰った。
 うまい。
 だがうまいはうまいのだが、この味は、他の料理とは合わなかった。
 さっきまで食べていた、肉料理とも、納豆とも、キュウリとも合わないのだ。

 でもしらすは、そのままパックからむさぼり食うと、うまさが満喫できるのだな。

スピード違反をするのなら、ナンバーをさらけ出しながらすべき

 クルマのナンバープレートのスモークのカバーが禁止されるそうだ。違反になるそうだ。
 やっとそうなる。

 スピード違反という罪をするのは勝手だ。その罰を受ける覚悟で走れば。
 俺も普段は制限速度で走ることはめったにない。これは言い訳だが、流れに乗って走れば制限速度で走るのはかえって周りに迷惑だし(いやホントに言い訳だ)。

 だが自分のナンバーを隠すのは、それとこれとは次元が違う。
 特に後ろのナンバーを見えなくするのは、人をひいても素性を隠して逃げるぜ、ひき逃げをするぜ、と言っていることだ。

 自動車の後ろ側のナンバープレートは、そういうときに逃げるクルマのナンバーを、後ろから見られるように、あるためのものだ。
 だから後ろ側だけは自分じゃ外せないように、ナットにロックがかかっているのだ。

 ナンバーをスモーク色のカバーでおおうのは、スピード違反の取り締まり機械に見えないようにさせるためだろうが、スピード違反をするのなら、堂々と自分のナンバーをさらけ出してスピード違反すればいいじゃねえか。
 俺は二十代に五回も免停になっているが、ナンバーを隠すとか折り曲げるとかは考えたこともなかった。だからナンバーを隠すようなセコイ真似をしてるのを見ると腹が立つのだ。

 ネズミ捕りをしてるのが分かる機械も(何という名前かも忘れたが、…ああ思い出した、レーダーとかいったな。何があんなものでレーダーだ。笑わせるぜ)、それも嫌だったな。あんなものを付けている奴も嫌だったな。

味噌ひさしぶりで美味そ

 私は味噌という調味料は置かない。
 昔、味噌汁を飲むのは塩分の摂りすぎだと何かで読んでから、それから年に数えるほどしか飲んでいない。

 こないだ、お得意さんからキュウリをもらったのだが、そのとき、キュウリに付ける味噌はあるかと聞かれたから、ありませんと答えると、小さなビンに詰めてくれたのをキュウリと一緒にもらった。
 キュウリが新鮮だったのもあるが、味噌も特別なものらしいから、美味しいものだった。

 キュウリがなくなって、味噌が少し残った。
 この味噌を食べたいなと思ったから、何かに付けて食べるかと考えた。
 生で食べられるのは玉ねぎしかない。
 細くスライスして、味噌をのせた。

 玉ねぎの辛さと味噌の甘さが混ざって、お得意さんが良くしてくれて、その優しさがありがたいなっていう味になった。
 これから味噌というものも、台所に置いておこうかなと思った。

猫の毛の模様が違う

 猫はどうしてあんなに模様があるのだろう。
 毎日猫ブログを見ていると、そう思う。

 色も、白黒茶色灰色といろいろある。
 模様も、縞模様、三毛、ふたいろ、さび、複合型とさまざまだ。

 こんなに一匹一匹それぞれが違うのは、錦鯉か猫だけだろう。
 よく見ると目の形も、一匹一匹違うのだな。

素人用エアコンクリーニングを考えてみた。

 これから書くことは、私が仕事でやっている方法を、ものすごく簡素化したやり方だが、実際にやったわけではないから、これをやってエアコンが壊れるかもしれないし、まるで効果もないかもしれないが、書いてみる。
 内部に空気清浄器やお掃除機能などが付いていない、ごくシンプルなタイプでしかやれない。

 用意するもの
 脚立。
 マイペットなどの住宅用洗剤。
 他にあればカビキラー。
 カビキラーは、わざわざ買うことはない。なければ使わない。
 カビキラーを使うときは、ゴーグルとマスクをする。
 新聞紙一日分。

 スプレイヤー一つ。
 窓のサッシ掃除用ブラシ。
 エアコンの風の吹き出し口の隙間に入るぐらいの大きさの柄が付いたスポンジ。
 パイプ掃除用ブラシ。
 布のガムテープ一巻き。
 布ガムテープを使うのは、キレイに剥がせるから。紙製ガムテープだと、はがしたときに糊が残る。
 大きなビニール袋を三、四枚。
 これらの道具は百円ショップのものでよい。

 下準備
 電源コンセントを抜く。
 フィルターを取り外して、洗剤とブラシで洗って干しておく。

 熱交換器のアルミフィンの下にあるドレンパンに、100cc程度の水を、スプレイヤーで流してみる。
 室外機側のドレンパイプから、流した量の水が流れ出ていれば、ドレンパイプは詰まっていない。
 詰まっていれば、灯油ポンプなどで詰まりを吸い出しておく。

 吹き出し口の中に洗剤と水をスプレーするから、その水が戻ってきて垂れるのを受ける工夫をする。
 ビニール袋をハサミで切って、吹き出し口の下全体に合わせるように布ガムテープで貼り付ける。
 500ccくらいの水を受けられるように工夫してビニールを貼り付けておく。
 壁に洗剤や汚れた水が掛かるかもしれないから、エアコンの下の壁にビニールを貼っておく。新聞紙でもよい。
 布ガムテープで貼れば半日くらいならキレイに剥がせる。

 床にも水が垂れるかもしれないから、ビニールを敷いて、その上に新聞紙を敷いておく。

 清掃の手順
    <洗浄>
 住宅用洗剤を二十倍程度に薄めた洗剤水を200ccくらい作って、スプレイヤーに入れる。
 それをアルミフィンと吹き出し口奥の送風ファンにスプレーする。

 まず送風ファンにスプレーする。
 送風ファンは奥にあるため、スプレイヤーの吹き出し口を遠くに飛ばす形にしてスプレーする。
 左手でパイプ掃除用ブラシを持ち、その先で送風ファンを回転させながら、万遍なくファン全体に洗剤水が当たるようにスプレーする。
 ファンの周りのプラスティック部分にも掛ける。使う洗剤水は100ccくらい。

 熱交換器のアルミフィンにも、残りの100ccを万遍なくスプレーする。
 こちらはスプレイヤーの吹き出し部分を、近くに飛ぶ広がる形にしてスプレーする。
 右側の電装基板に水気を当てないようにするために、右側すみの5センチくらいは掛けない。
 掛けない部分の汚れを取るのは諦める(私がやるのであれば当然ギリギリまで汚れは取る)。

 パイプ掃除用ブラシで、送風ファンを地道にこすって汚れを落とす。
 ファン周りのプラスティック部分には、小さい柄付きスポンジで擦ってカビを落とす。

 熱交換器のアルミフィンは、窓サッシ掃除用ブラシで縦に擦ってカビ汚れとホコリを落とす。

 カビキラーがあれば、熱交換器のフィンの下側1センチくらいの場所を目掛けて、少なめにスプレーする。
 このカビキラーはアルミフィンの汚れを取る目的ではなく、フィンの下にあるドレンパンに溜まっているカビを取るため。
 しかしカビキラーはアルカリ性が強いために、アルミフィンを腐食させてしまうから、一番最後の工程にする。
 窓サッシ掃除用ブラシの毛の先端で、ドレンパンを掃除する。毛を縦に動かし、ドレンパン内側にぶつけるように動かす。
 カビキラーがない時は、濃い目の住宅用洗剤をスプレーして、同じ事をする。だがカビには効果がないと思う。

    <濯ぎ> 洗剤分を残さないために濯ぐことが大事。
 汚れたブラシとスポンジを洗う。
 スプレイヤーの中を濯いで、500cc程度水を入れる。

 汚れ分をすすぐために、汚れを浮かせたアルミフィンに向かって強めに水をスプレーする。
 汚れが落ちないところは、ブラシで汚れを払い落としながら水をかける。
 このとき、内部への養生マスキングをしていないのだから、細かいすみずみまでは水をかけないようにする。水が隙間から染み込んでいって、電装基板に水気が行く可能性がある(もちろん私の仕事では、マスキングを厳重にするから、すみずみまで真水をかけて濯ぐ)。

 あまり一時に大量の水を掛けないようにする。
 ドレンパンからドレンパイプを通って時間当たりに排水できる量は決まっているから。ドレンパンからあふれた水は電装基板に行ってしまう。だが手動のスプレイヤーで思い切りスプレーする分には大丈夫だろう。

 室外機側のドレンパイプから汚れ水が出ているのを確認する。
 汚水が流れ出て周辺が汚れるのが嫌ならば、汚れ水の出るところの周りを養生しておく必要もある。

 送風ファンにも水をスプレーする。水をかけながら、パイプ掃除用ブラシで擦り、汚れを落とす。
 周囲もスポンジで擦り、汚れを落とす。満遍なく水をスプレーする。
 このときのスプレイヤーの吹き出し部分は遠くに届く形で。
 送風ファン周りから汚れた水が出てきて、最初にセットしたビニールに溜まる。

 このとき、壁に汚れ水が垂れていってないか、何度も確認しながらスプレーする。
 壁に垂れていれば素早く拭き取る。垂れた直後ならば拭き取れて、汚れは残らない。

 薄い洗剤と少ない洗剤量なので、熱交換器のアルミフィンに500cc、送風ファンとその周りに500ccと、全部で1リットルも水をかければ濯げると思うが、やってみてないので足りないかもしれない。足りなければ繰り返す。水の重さでビニールが落ちないように確認しながらスプレーする(私の場合は、濯ぎ水は10リットル以上使う)。

 ビニールをロート状にして筒を長く伸ばし、バケツを床に置いて、そのバケツに汚れ水を溜めれば、水の重さを気にしなくとも済む。

 目視で汚れがなくなったら、そして垂れ落ちる水が透明になったら、あるいは気が済んだら、やめる。

 アルカリ性を中和するために、お酢をほんのちょっと混ぜた水をスプレーしてみるのもいいかもしれないが、お酢の臭いが残るかもしれない。やってみてないので分からない。
●カビキラーやアルカリ性が強い洗剤を使ったときは、お酢を使うと毒ガスが出るので使わない! 使うなら5リットルくらい真水で濯いでから使う!(本来ならば専用中和剤が必要)。

 ビニールを取り外す。このとき壁に汚れ水が付かないように気をつける。
 エアコン本体を、乾いたタオルで水気を拭く。
 道具を片付ける。
 エアコンから、拭き取れずに残った水滴が垂れてくるかもしれないから、床のビニールと新聞紙はそのままにしておく。

 内部を乾燥させるために、念のため、一時間から半日程度そのままおいておく。一日置いておけば乾燥しているから大丈夫。

 電源をいれて動作確認
 送風ファンが回り始めた瞬間は、ファンに水気が付いていると一気に外に飛び散るから、そういうときは吹き出し口の前で、タオルを両手で広げておいて受ける。

 悪臭が取れていなければ、再度する。今度は洗剤濃度を上げてみる。洗剤濃度を上げれば濯ぎ水も増やす。
 洗剤の臭いがするならば、もう一度念入りに濯ぐ。
 以上。

馬鹿ばかりの政治屋と、それを選んだ馬鹿ばかりの人間たち

 政治家の顔つきを見ていると馬鹿っぽくて腹が立ってくる。
 一人として知能指数が高そうな人間はいない。
 その証拠に、党の親方に麻生首相を選んだということで、選挙に勝てない人間を選んだのだから、それ自体が頭が悪いじゃないか。

 政治屋商売の第一の目標は、選挙に受かることである。
 その自分の商売である選挙に受かるための政党の看板を選ぶ仕事を間違ったのだから、そのことだけでも、そいつらには仕事の能力がないということが分かる。頭が悪いと、分かる。

 頭の悪い人間は、人間としての思いやりというものはない。
 何故ならそういう人間は自分のことで精一杯だし、精一杯だということを自覚していないから、他人を思いやるなどという高等なことは出来ない(新潟県の下越地方に多い)。コズルク立ち回るしか能がない。
 だから俺は頭の悪い人間が嫌いなのだ。

 そして頭の悪い人間は自分以外を思いやれないのだから、オオヤケの仕事をすることは出来ないはずだ。やったら世間がおかしくなる。
 だが頭の悪い人間は、自分が頭が悪いという自覚が薄いから、ついオオヤケの仕事に就いてしまう。やりたがってしまう。
 そういう人間が集まっているのが政治の業界だ。

 選挙の看板を選ぶという、政治屋稼業の大事な仕事の能力が備わっていない人間に、本来の政治家の仕事である、政策を作って、実行して、結果を出して、世の中の人々の暮らしを良くするなんてことは、出来るはずがないじゃないか。

 だがそういう人間を選んだ人間たちも、頭が悪いのであって、頭が悪いのだから、思いやりもないのだから、思いやりがないなりのチッポケな幸せしか得られないのは、当然の理屈だろうさね、ハハ。

グルーブ感たっぷり、トンチたっぷりの山下ラジオ

 時間があるときは日曜午後二時から山下達郎のFMを聴く。お客さんのところでも聴かせてもらうようにしている。そして今日は聴いた。
 番組はいつもどおり体が自然に動くぐらいの、私にとってはノレル音楽電波が出てくるし、いつもの達郎の理屈っぽい喋りも心地いい。

 だがそれと同じくらいいいのは番組提供のカード会社の広告だ。
 何という名前の会社なのか忘れているから書かないが(クレジットで買い物をしたことがないし興味がないから本当に忘れているのだが)、ときどきは馬鹿馬鹿しく詰まらないものもあるが、たいがい頭が良い喋りの広告で楽しませてくれる。
 今日のは、閻魔としての修行中みたいな閻魔大王と現世的な楽しみを追求しているオンナの掛け合いのものだった。おもしろかった。

 書いているうちに思い出した。JCBだった。誰が創っているのか、知りたいのだ。

サウナ

 そういえばサウナというものに行っていない。もう十年は行っていないと気付く。
 裸になって体を洗って重い扉を引くと、ムアッと熱い空気が鼻の穴に入ってくるのを意識しながら、薄暗い穴倉みたいな奥のほうに歩いていく。
 体のまわりの空気は透明なのに重量感をもっていて熱っせられていて、確かにここに空気がある、その中にかすかに酸素もある、と分からせてくれる中を泳ぐように掻き分け掻き分けしながら進んでいく。いちばん奥の、バスタオルが敷いてある木の長椅子に座る。

 しばらく座っていると、熱さにもなれて落ち着いているのが自分でもわかる。
 壁にかかっている時計は目が悪いから見えないが、無いよりはあってくれてありがたい。テレビがあるところもある。だがサウナでテレビは見なくともいいと思っている。

 体の表面ぜんぶから小粒納豆ぐらいの汗が染み出ているのが見えてくる。
 さっきまでの自分の時間が区切られて、別の新しい時間になっているのがわかる。
 そしたらもう出たくなっている。そして逆らわずに出る。
 それを二回くりかえして、冷たいシャワーを浴びて、そのあとのビール。

カタツムリの腹

 雨が続くと、小学生のときの登校の道々で、あじさいの大きな葉っぱをめくって、葉の裏側にニ、三匹カタツムリがくっついていたのを、毎日探したことを思い出す。

 玉子の白身とか、納豆とか、一日じゅう祖父が咳をするたびに吐き出す痰とか、カエルを裏返したときの白い腹とか、ナメクジとか、そういうヌルヌルしたものがおっかないし気持ち悪いと思っていた私でも、カタツムリは背中に背負っているカラがあるから、いくらか乾いた感じがして、おっかなびっくりでも手を伸ばして触れることができたのである。

 ヌルついた身にさわらないように、カラを持って葉からそっと引っ張ると、指先に伝わる一瞬の手応えのあとカタツムリは空中に浮き上がり、その腹を見せるのだ。

 でもカタツムリの腹がどんなだったか、遠い昔だから、忘れている。

泥棒根性かどうかすぐ分かる才能

 留守番電話に自分の携帯電話の番号を言っておいて、さも当然のようにこれに掛けてくれというのが多い。
 携帯電話に掛けるのは通話料が高いから手短かに喋るのだが、相手はノンキに要らないことや当たり前のことの方に話をめぐらす。

 ホームページを見たのですが、と言っているわりにはエアコンクリーニングはいくらですかだの、二台頼むといくら引くのですかだの、お風呂掃除はいくらですかだのを聞いてくる。それもすべてカネのタカの事だけだ。仕事の内容のことを聞いてくるのは一割ぐらいのものだ。
 俺はHPで、掛かる料金のことは全部書いておいている。見れば分かることをまた更に聞いてくる神経を疑うのだが、それで結局、おたくは高いんですね、また考えます、と終わる。
 きちんと全部読めよ、読んでから電話しろよ、と言いたい。

 俺んとこは安売り競争はしてないんだよ、俺んとこは安くないんだよ、とチラシにもホームページにも書いてあるじゃないか、そこらへんの低レベルの掃除屋と一緒にするな、と言いたい。お前の人間のレベルと一緒にするな、と言いたい。

 留守番電話で自分の携帯電話に掛け直せと言う人間が、だいたいそういうことになっている。だからもう今は、そういう問い合わせに対しては、その八割以上は時間の無駄だと思うようになっている。
 俺は最初から、そういう人間から仕事を頼まれようとは思っていない。俺の顧客対象から外れているのだから。

 大学生の一人暮らしならば、最近は固定電話を引かないで、携帯電話だけで暮らしている人も多いらしいが、いい大人になっているのに、だいたい自分の固定電話の番号を明かさないということは、何か隠しているのか、何かやましいことがあるのか。

 俺の場合は、誰かに自分の携帯電話に掛け直してくれというときは、申し訳ないですがすみませんが、お手間かけますが、宜しくお願いします、と言ってる。それが生きるエチケットじゃないかと思っているからだ。相手に手間を掛けさせることになるからだ。相手に電話代を払わせる事になるからだ。ましてや携帯電話に繋げる代金を払わせるのが申し訳ないからだ。

 まったく新潟市には泥棒根性の人間が多すぎる。
 この何年か俺はそのお陰で、相手の喋り方と声質で、電話の向こうの相手が泥棒根性の人間かどうかが、三秒で分かるようになってきている。
 これも一つの才能なのかもしれないな、ハハ。

空がいないいないばあ

 降ったりやんだり、降ったりやんだり

 わがままな太陽がむずがっているのを
 雲が両手を広げて遊んであげて、あやしている

 地上の俺からは、雲の手の形が変わるとき
 太陽の笑った顔がチラッと見えるのだ

サクラで見せかける方法

 講演商売というものがある。おもにコンサルタントという胡散臭い人間がやっている。
 そういうヤクザ商売の人間に、仕事をしているフリをしたくて作業を増やしたがっている自治体職員が、考えなしに税金を使って頼んでいる。
 俺も昔そういうのをいくつか聴きにいったが、ためになったなあというものは一つもなかった。

 疑問なのだが、公共のところがやるのでなく、講演者が自分で純粋に商売としてやる講演は、聴きに来る人間が少なかったら利益も出ないし、はやらないコンサルなのだなとマイナスの評判が立ってしまうだろうし、そういうときはどうするんだろう、とずっと思っていた。

 さっきふと思いついたのだが、受講者をアルバイトで何人か何十人か雇っておいて、講演を満席に見せかければいいのじゃないのかなと。
 だがそういうことはもう、ずるがしこいコンサルタント商売の人間はやっているだろうな。

暑いのに背広を着て電気製品のスイッチを押したがる新潟市の田舎者

 こないだ梅雨になって、ひと雨降った次の日に、イエローハットに車のオイル交換に行った。店の二階の待合室のような部屋で終わるのを待っていた。曇っていて、湿度が高い日だった。
 しばらくすると、中年の男二人組みが入ってきた。ネクタイをしている。どこかのサラリーマンだろう。それほど大きな会社の雰囲気はない。何となく胡散臭いような商売の人間にも感じる。
 一人の男は、この蒸し暑いのに背広を着ている。もう一人は、自分の背広を片手に下げている。私はその日は、半袖のポロシャツに短パンだった。それで丁度いい気温だった。私は新聞を読んでいた。

 背広の男は、何の意味か溜め息なのかうめき声なのかヘンな息を出しながらソファに座ると、すぐにテーブルに置いてあったリモコンに手を伸ばし、テレビを点けた。消えているテレビの電源を入れるのは当たり前の事だというような顔つきだった。
 静かだった部屋に、突然馬鹿馬鹿しい何かの番組の音が吹き出た。
 男はチラッと画面の方を見たが、そのあと自分の点けたテレビを見るでもなく、何だかソワソワしている。
 男は視線をめぐらしながら、エアコンが点いていないことに気付いたようだった。テーブルの上のリモコンを取リ上げると、指先に意味なくチカラを込めて、小さいスイッチを押した。冷たい風がおおいかぶさるように私の肩に吹き付けてきた。
 男は部屋の中にある電気製品のスイッチを入れなければ気がすまないような人間のようだ。それとも他人の機械はいつでも動かせておきたいのだろうか。電気代は他人持ちだからだろうか。

 半袖の私は肩口から体全体が冷えてきて、「寒いからエアコン消しますよ。暑けりゃその着てる背広を脱げばいいじゃないですか」と男に言った。
 男はムッとした顔で、黙ってこちらのほうを睨むように見た。
 私は睨んでいる男を無視して、素早くリモコンをとってスイッチをオフにした。新聞をまた読もうとした。
 だがテレビがうるさくて集中できない。テレビも消してくれと言おうと思ったが、そこまでは私の権利ではないだろうと思って言わなかった。
 男は相変わらずテレビなど観ていない。部屋の中を落ち着きなく視線をキョロキョロ泳がせていた。誰も観ていないテレビ画面が、無駄な喋りを続けている。

 そうしているうちに店内放送があり、作業が終わったと男の名前が呼ばれて、男二人は私を睨みつけながら部屋を出ていった。テレビは点けっぱなしだった。
 私はすぐにテレビを消して、新聞を読むことに集中しようとした。

エアコンはつけないでアクセルを踏む

 クルマに乗って窓を全開にして走ってもひたいから汗が流れ落ちる暑さになった。今日はエアコンを入れようかなと思ったが、まだまだ我慢だ。
 エアコンで冷えた車内から外へ出た瞬間の、あの太陽の光で全身の皮膚が刺されるような熱気を感じるよりは、走りながら適度に風を受けながら暑さを我慢しながら季節に慣れたほうがよっぽどいい。

 クルマというものは、夏なのに窓を閉めきっているのが不思議なのだが、周りのクルマのほとんどは、窓を閉めて密室になっているのに、涼しい顔つきで汗ひとつかかないでハンドルを握っているのが不思議なのだが、それはエアコンをつけているからなんだなと再認識する。
 そういえば家でだっても、エアコンをつければ、号令をかけるように窓をしめる。密室にして、電気のチカラで、自然に反して、冷気を生ませるのだ。

 額からあふれ出る汗をぬぐっていたら、俺はどういうわけか今日、エアコンが効くかどうかを試したくなって、スイッチを入れてみた。
 ちょっとだけだが、冷えた空気が出てくる。
 ああ気持ちいいもんだ、と思ってアクセルを踏んだら、エンジンが壊れたみたいに加速しないのだ。エアコンをつけると。
 あわてて手を伸ばしてエアコンを切った。

 ふと周りを見ると、走り屋と言われるような格好の大袈裟なスポイラーをつけてるようなクルマは、ぜんぶ窓を開けているじゃないか。生意気そうな兄ちゃんの顔が良く見える。全部薄着だ。ほとんどが赤い色のTシャツだ。薄着なのに俺の真似をしているように汗をかいている。
 彼らは俺と同じで、クルマの中での涼しさよりも、思う通りの加速の方を選んでいる。

 クルマのエアコンは、一年に二、三回しかつけない。それはエアコンが壊れていないのを確認するための儀式みたいなものだ。
 今日それをしたから、ホビオのエアコンは、来年までまた休みになるだろう。

パソコンもテレビも、スイッチを切るタイミングを見つけられるかどうか

 何日か前、もうパソコンを毎日開かないことにすると書いたけれど、毎日開いている。
 テレビも観ない日も必要などと書いたが、毎日観ている。
 本を読むのは少し増えた。だがここで書けるほどの内容の本は読んでない。身になると読んでみたが時間つぶしの中身のばっかりが続いている。

 パソコンもテレビも、観ているうちに惰性で見ていることになっている。
 今はもう惰性だな、と思えるかどうかがスイッチを切るタイミングだ。
 自分はいま惰性でやっているのだと、分かるかどうかが、そのタイミングを見つけられるかどうかが、自分を発見することができるかどうか、なんだろうな。

ダガシの公務員嫌いの原因は細い目の先生

 小学校の五、六年生のときの社会科の先生が、いやに公務員とは給料は少ないものだと授業中に繰り返し言っていた。
  そのときの先生は、たぶん今の私と同じくらいの年格好だろう。彼は目が細くて顔つきも細面てで、背が高くて、いま思えば良寛に似ていた。

 その社会科の先生は、授業では教科書はホッタラカシで、相撲のことや、外国のことや、仏教のことやらを話してくれた。それはとても面白くて、私はそのときは社会科が好きになったのだった。
 その先生は、どうしてか私を可愛がってくれて(いやそういえば私は、親からも、祖父母からも、そして親戚のおじさん、おばさんたちからも、そして近所のおじさんおばさんたちからも、なぜだか可愛がられて育ったのだったのだが、だからこんな我儘ものになったのだろうと思うが)、彼は授業が終わった後でも、私が質問をすると、その質問以外のことを時間を惜しむそぶりも見せずに、嬉しそうに喋ってくれたのだった。
 とうぜん私はその先生が好きになって、彼が言うことは信じるようになっていたのだった。

 彼は、公務員は民間より給料が安いものだ、公務員は民間よりも割に合わない仕事だ、とことあるごとに言っていた。それを嫌そうなそぶりでなくて、当たり前みたいに言っていたのだった。
 そしてそれを私は真に受けてしまっていたのだ。

 だから私は、公務員は給料は民間より安くあるべきである、公務員は楽しみながら仕事をするべきではない、と思っているのだ。

 さて、この考え方を私は変えるつもりはない。
 だが公務員でも、給料は少なくしておくべきだが、楽しみながら仕事をするということは、あってもいいと思っている。
 そして楽しみながら仕事をするということは、自分の仕事の結果の責任を負うという事である。
 それさえちゃんとしてくれれば、楽しんでくれればいいと、思っている。

 ただだが、公務員の仕事の結果とは何ぞや?
 それは自分を殺して、世間のために、世間が発展する事が、そして世間が出すコストを少なくすることが、公務員の仕事だよ。
 そしてそれは、誰にでもできることじゃない事だよ。
 だからそういう仕事は私は、私の性格上ハナから出来ないわけだから、高校生の頃から、俺は公務員などには成りたくない、と決めていたのである。

 あの社会科の先生は、年恰好からいって、もう死んでいるだろうが、あの細い目がもっと細くなりながら、授業中に言っていた相撲の話なんかを、ときどき思い出して懐かしくなるのだ。

敬語は家族が使わせてくれる

 さっきクローズアップ現代という番組で、辻井というピアニストのことをやっていた。
 私はピアノの演奏の良し悪しのことは分からないから、彼が才能があるかどうかも分からない。
 だが驚いたのは、彼のしゃべりだ。
 辻井という若者は盲目だ。それなのに敬語をきちんと喋る。それも気持ちの良いすがすがしい喋り方だ。
 なぜ目の見えない若いピアニストが敬語を喋るのか。
 そして普通なら、あの若さなら、もっと不遜な喋り方になるはずだろう。

 乱暴者の私は、十代の頃はとくに生意気な言葉遣いもしたが、きちんと敬語を話すこともできた。自分で言うのもなんだが、荒い言葉も丁寧な言葉も上手に使いこなせていたと思う。
 それは、テレビとラジオと、そして沢山の本を読んでいたせいだと自分では思っている。
 私の親は、田舎育ちだし、きちんと敬語を喋ることはできない。だから私の敬語は親ゆずりではないはずなのだ。自分で物にしてきたと思っている。

 だから敬語を使えるかどうかは、テレビとラジオ、そして何よりも本を読んできたかどうかがカギだと思うのだ。
 だから辻井という人がさわやかな敬語を使えることに驚いたのだ。

 彼はテレビは観なかったはずだ。だがテレビの音声を聞いていただろうか。ラジオは聴いていただろう。
 いやそれよりも、彼の親が、ふだん敬語を使って喋っていたのだろう。それを彼は聴いて育って、あのサワヤカな喋り方になったのだろう。

 だがもしかして、親が敬語を喋ることが出来ることと、その子供が敬語を喋ることが出来るということは、あまり関係がないのかもしれないと思ってもいる。
 一番大事なのは、親と、いろんなことを喋ってきたかどうか、そこに、素直に、自分の思いを喋る雰囲気があったかどうか、自分の思いを伝えることができてきたかどうか、それを受け止めてもらってきたかどうか、が大事なのではないかなと思った。

 私の敬語も、私の親が、家族が、私が小さい頃に、私が喋りはじめた頃に、私と沢山喋ってくれたから、出来るようになったのだろうと、思った。
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