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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

日本は女の政治になるか

 民主党が竹の子みたいに伸びたが、選挙の前の日にテレビで言っていたそれぞれの政党の予想議席数がほぼ当たったのに驚いた。
 民主が300議席、自民が100議席と、ほとんどそのとおりになった。
 それはどうやって調べたのか不思議だ。

 しかし国会議員に女がおおはばに増えた。
 民主党の小沢チルドレンだか小沢ガールズとかいうらしいが、これほど多くのオンナドモが政治に口を出すのは本当にいいのだろうかという不安がある。

 ただ、女というものは、俺とは違う種類だが一本気のところがあるから、そこをいい方向に伸ばしてもらいたいとは思う。

「朝の傘とパソコン」

 パソコンを使うときに傘をさす。
 冬場の陽が低くなって、東の窓から差し込む光がモニターを見るのをジャマする朝に初めてさしたのだ。
 この夏は使っていたパソコンが熱で動かなくなったから、窓からの太陽の強い光が当たらないように、夏でも傘をさして陽をさえぎっている。
 そうするとパソコンも涼しくなるらしく、動きもかろやかになるようだ。

 傘は深緑り色の。
 持っている中で一番黒い色のをさしている。
 本体のわきに開いた傘を置いておくだけだ。

 傘を使う前はダンボールを折りたたんで光をさえぎってみたのだが、傘のほうがいい。
 ダンボールはスマートじゃない感じだ。でも傘がスマートというわけではないが、要らないときは、サッとじてしまっておけるのがいい。夜は要らないから。

新型インフルエンザに早くかかりたい

 新しいインフルエンザで何人も死んでいるとニュースで言っている。
 医療従事者のお客さんから聞いたが、もう新潟市も新型インフルエンザにかかって病院に来る人がいるらしい。
 新型インフルエンザで死ぬ人は、もともとの病気があって、その病気で死ぬ代わりにインフルで死ぬのだろう。

 今日、大きな本屋でマスクをつけた家族がいた。
 俺もマスクつけようか、それとも早めにかかって免疫を作ろうか、迷うところだが、俺の場合は早めにかかることを選択するつもりだ。

われわれはなどという物言いは仕事が出来ない物言い

 麻生首相の口癖で嫌なのは、われわれは…という言葉だ。
 俺は一人称複数形を使う人間を信用しないことにしているから。
 それは、われわれはなどと言う人間は、自分で責任を負おうとしないからだ。

 私はでもいいし、僕はでもいいし、俺はでもいい、あるいは自分はとか、何でもいいのだが自分個人を特定しない喋り方をする人間は、責任を拡散しながら喋っているのである。
 何かの組織に自分を埋没させて、隠れて、安全地帯で甘いジュースをすすっているのである。

 われわれは、とか私たちは、とかいう物言いは、公務員に多い。
 それは、個人に責任を負わせないという不文律があるからだ。
 なぜ公務員は個人で責任を負わないのかというのは、何年も前の夜中にベッドに横になりながら考えて結論を出したのだが、今忘れたから書けない。

 だがそんな理由はどうでもいい。
 俺は、われわれはなどと言う人間は好きになれないし、絶対に尊敬はできない。
 そういう人間には、仕事はまかせられない。

 ここ何年か政治家だけじゃなくて、そこらへんにいる人間たちも、われわれはと言いだしているように感じる。
 一人称複数形を使いたがる人間は、仕事は出来ないぜ。

パソコンのスペックに有難み感じる

 新しくきたパソコンのほうにホームページのファイルを1ページずつ入れようとしたら、これが時間がかかる。
 このパソコンが来る前に、前のパソコンでhtmlをフリーメールからフリーメールに送信しておいて、それをコピーして、HP作成ソフトにペーストしてるのだが、メール受信したのが全体がブツブツと切れていて、ほとんどの行が変な形に改行されていて、それを直すのに時間がかかるのだ。
 しかしこれがまた単純作業だから詰まらなくて、だけど間違ったら始めからやり直しだから一つひとつをオロソカにできないし、モニター画面をにらみながら頭がヘトヘトになる。何日かかかりそうだ。

 もっと簡単なやり方があるのだろうが、知らないから、自分で考えたのがこのやり方なのだ。
 まあ、20ページくらいのものだから地道に作業すれば四、五日で終わるだろう。

 救いは、パソコンがテキパキ動いてくれるところだ。
 昨日はこのパソコンの悪口を書いたけれど、パソコンの能力がありがたくて、もしかしたら俺も人並みにラクに慣れてしまうようだ。

パソコン替わって感じること

 デスクトップ型のパソコンが来た。
 画面の切り替わりがちょっと早いぐらいで、他は別にたいして変わらない。

 モニターが大きくて、まぶしくて目が疲れるから、光度を九割落とした。
 キーボードはノート型のほうがタッチが浅くて打ちやすい。

 CD-RWの機能はやっぱり要らなかった。
 もうCDを聴くこともないからCD-ROMさえ要らない。

 モニターもキーボードも大きくてじゃまだ。
 音はステレオじゃないからか間抜けな感じ。

 新しく来たパソコンは悪いとこだらけだけど、唯一いいところは、初めてたずねてきた人と知り合うみたいな新鮮さを感じるところかな。
 気分が新しくなるところかな。

季節がかわるから目がさえるのかも

 夜中に目が覚めて書いている。
 今夜、季節の空気が変わったのが分かる。
 かくじつに涼しくなっている。

 窓の外で病気の声みたいに猫がすすり鳴いている。
 昨日の朝、出がけに布団を干していてよかった。
 その布団を今夜はかけて寝ていた。

 ぐっすり眠れて目が覚めている。
 季節が変わるからだろうか、
 夜と朝のあいだの時間に目がさえている。

村育ちだから甲子園でさわやか

 日本文理が甲子園で二番になったそうだが、俺は日本文理という高校が嫌いだった。
 日本文理の前の新潟文理という高校が出来た頃の理事に仕事のセールスに行ったとき、ずいぶん横柄な応対で、こんな奴がやっている学校はどうしようもないなと思ったことがあったのだ。

 新潟市に来てから、新潟市民の横柄さや傲慢さや田舎者根性やコズルイ嘘つき根性やタカリ根性やらを知って、あの頃感じたことは間違ってなかったな、と思ったのだった。
 だから俺は、新潟市で生まれ育った人間の大部分を信用していないし、個人の人間としても職業人としても信頼できないと思っている。

 特に新潟市やその周りの下越の人間は、何をやらせても結果を出せないというか、出そうとしない、怠けたがりの人間がほとんどだと思っている。
 だから日本文理も新潟市民が通う高校なのだから、野球だって勝てるわけがないと思っていたのだ。

 それがあれよあれよというまに決勝戦までいって、あわや九回ツーアウトで、逆転して優勝するんじゃないかと思わせてくれたのは、これは一体どういうことだ? と不思議だったのだ。

 テレビのニュースで言っていたが、ピッチャーもキャッチャーも、下越といっても山形県に近い村の出身だというじゃないか。他にも弥彦村生まれの選手も、柏崎生まれの選手もいるらしいじゃないか。
 それならば、ものごとに一生懸命打ち込んで、結果を出そうとする人がいても、そしてその結果を出したのも、不思議じゃないな、と改めて思った。
 何故ならば俺も村で生まれ育ったから、ヘンピな村育ちの人間の素朴さと、村で育った人間の、自分のやるべきことに打ち込む純粋さを知っているからだ。

 だがだ。私立の高校だから、もしかしたら中学のときに野球の素質のある生徒を見つけて、かたっぱしから入学させて、野球やスポーツで有名にして、そうやって中学生の受験数を増やそうとして、甲子園を目指しているのかな、と勘ぐってもいるのだ。

 だけどテレビで観たエースとキャッチャーの顔つきは、村育ちのいい顔をしていると思った。
 いや他の選手たちも、いい顔だなあ、と思ったのだ。

パソコンは壊れてなかった

 動きの悪いパソコンが動くようになった。涼しくなったせいもあるだろうし、扇風機の風をパソコンに当てながら使ったら、普通に動いた。だから今、パソコンで書いている。

 それなのに、もうこのパソコンは寿命だと思って、きのう別のパソコンを注文してしまった。
 私にとっては安くない値段の一万八千円のを。

 ノートパソコンは熱に弱いから、今度はデスクトップ型にしようと思ってインターネットで探した。
 最初は一万円くらいので充分だと思ったのだが、いろいろ見ているうちに、CDに書き込みできるほうがいいだろうなんて思ってしまって、CDを焼けるかどうかで値段が一万円弱高くなるのだが、ちょっとぐらい高くなってもいいやと思って、注文したのだ。
 スペックも今使っているのに比べると十倍くらい高いものだ。この機能と性能は本当に要るのだろうかと少し迷ったのだが、思い切って購入ボタンをクリックした。

 CDを焼くなんて本当に必要だろうかと思うのだが、今まで昔ながらのワープロで、気が向くと日記のようなものを書いていて、書いたものをフロッピーディスクに移していた。
 だからそのことを思い出して、CDに保存できる方がいいだろうと思ったのだが、よく考えてみると、別に今までも前に書いたものを読み返すこともなかったのだから、CD-RWの機能がなくてもいいんだけどな、と注文の後で思ったりしながら少し後悔している。

 二年半前に買った今使っているパソコンは、メモリーは64MBで、HDDが6GBで、OSはWindows2000の、今となってはオモチャみたいなパソコンだ。値段は注文したパソコンと同じ一万八千円だった。
 中古パソコンはどんどん安くなるのだな、同じ金額を出せば性能のいいのが買えるのだな、と実感した。

 でも私にとっては、今のパソコンはまだまだ使えるのだ。
 このぐらいのスペックでも、世間のホームページとブログを見たり、自分のブログを書いたり、商売用のホームページを作ったりは充分できる。
 この使えるパソコンが無駄になるのがモッタイナイと思うのだ。
 それなのに、注文してしまったから三、四日うちに新しいのが来る。

 だから、ちょっとは世の中の進歩を実感してみようと思うようにした。
 このパソコンは予備にしようと思う。

やれる予防のマスクするかな

 プロ野球の選手が何人も新型インフルエンザにかかったという。
 毎日練習して肉体を鍛えて、栄養のあるものいっぱい食べていても、かかるんだな。
 ということは体が強くても弱くても、誰でもかかるんだ。
 かかるのは当たり前だと思っていればいいんだな。
 救いは、かかっても重病にはならないらしいということだけど、それも人によって違うだろうから、やっぱりマスクとかうがいとか、やれる予防はしておこうかな。

パソコン使えずだった

 盆を過ぎてから急に暑くなったせいかパソコンの調子が悪い。
 文字を打つと打っていないアルファベットと数字が出る。
 それは同じ文字が出る。
 画面も消えたりついたりする。

 だから久しぶりに携帯から書いている。
 パソコンが使えないならば、ブログは休もう。

 仕事のメールは前から携帯でやっていて良かった。


 後から書きたすのだが、スイッチを切って二時間くらい置いておいたあと、裏側のHDDのあたりを叩いたら調子が戻った。だから今ここからパソコンで書いている。

 この中古のパソコンを買ってから二年だ。これは2000年の製造だから、もうすぐ十年だ。
 壊れてもしかたない年かもしれない。
 安い中古のを探そうかなと思う。

一年くるくる

 しらすに胡麻とみじん切りしたシソを混ぜたのをたまに買うのだが、それをたまたま納豆に混ぜて食べたらうまかった。
 納豆というのは肉よりも魚と一緒に食べたほうが何故だか分からないがうまい。
 それも海の魚と。

 食べながら窓を見たら、この時間はもう空は暗くなっていた。
 かくじつに今年の太陽は離れはじめている。

 そういえば昨日の夜、今年初めて虫の音が聞こえた。
 今日もこれから鳴くのだろうか。

 盆が終わって夏も終わって一年くるくる、一年くるくる。

客と業者の関係

 一回だけ「ホームページ作りませんか?」と電話セールスがきたことがある。
 そして「おたくのホームページの検索順位を上げますよ」という電話も二回来た。
 どちらも、「ホームページはありますし、順位も満足しています」と断った。
 電話回線だかのセールスは三年間で三回ぐらいあった。

 俺はセールスの電話を受けてそれを断るのは、とても丁寧だ。
「すみません、何も要りませんし、何も買いませんので」というと、向こうは「そうですか」と、ああやっぱりなというふうに言う。
 俺は「では切りますね、失礼します」と偉そうにならないように慎重に声質と口調に気を遣いながら電話を置く。

 それは、俺がセールスをして「要らないよ。今忙しいんだ(シッ、シッ)」と偉そうに断られることがおうおうにしてあるから、せめて俺が断るときは相手を悲しませないようにしようと思うのだが、乱暴者のダガシがよく言うぜと思うだろうが事実なのだ。

 それが客すじからの問い合わせで電話を受けるときは、相手が無神経な物言いの人間だと、怒鳴りつけることもある。ガチャンと電話機を叩きつけることもある。

 無神経人間に「ありがとうございます」と言いたくないから、ありがとうございますと言わないで済むためにはお金をもらわないようにしなければならないから、お金をもらわないようにするためには仕事を受けないことだ。

 それに俺は、仕事とはヘトヘトになってお客さんを幸せにすることが仕事であって、その幸せにした分量を金額に置き換えたのが売上げ金額だと思っているから、そもそもそういう人間を幸せにしたくないし、そういう人間のためにヘトヘトになりたくないから、そういう人間から仕事は受けないことにしているのだ。

 もう一つは、客とは業者に適正な利益を与えて、はじめて客といえるのだし、仕事を依頼したとしても業者に適正な利益を与えられない人間は、業者が出した結果とそのためにかかった経費の、タカリであり泥棒であるのだ(これは業者が出した結果が、契約時に客と業者で決めたレベルだった場合だ。業者が出した結果がそれ以下のレベルだったら契約違反なのだから、何べんでもやり直させるか返金だし、へたしたら違約金だろう)。

 それから、俺にセールスをした人にとっては、俺はまだ客ではないのだから、偉ぶることは出来ない。それに俺は偉そうにされるのも偉そうにするのも嫌いだ。

 そして問い合わせをしてきた段階では、問い合わせをした人間は俺にとってまだ客ではないのだ。むしろ情報をもらうということで、下手に出ろとは言わないが、丁寧に喋ってほしいと思う気持ちもある。

 だから俺は、セールスを断るときはバカ丁寧に喋るし、問い合わせを受けるときは喧嘩することもあるのだが、商売人としては馬鹿なのだろうと思っている。

寒い夏

 今年は入道雲を見なかった。

 水風呂に浸からなかった。

 水でしぼったタオルも首にまかなかった。
 ひたいにも巻かなかった。

 そうめんを食べなかった。

 エアコンもつけなかった。

 八月の電気代は安いだろう。

 稲の花はもう、涼しいなかで知らないうちに咲いたはずだ。
 穂は大きくみのるだろうか。

 そして今年は蚊が多いのだ。

盆になぜ古里に帰るのか

 お盆というのはインドの雨季に始まったものだそうだが、日本ならば梅雨だ。それならば七月始めか中旬か。どうして日本じゃ八月の真ん中なんだろう。

 大昔は七月が盆だったのが、陰暦から陽暦になって月がずれて八月になったんだろうか。
 それとも九月の稲刈りの前にエネルギーをたくわえるために、体を休めて御馳走を食べる習慣としてお盆を作ったのか。

 それから、なぜお盆には古里に帰るということをするのだろう。
 暑くて労働の効率が落ちるから、どうせならそういう時に雇い人を休ませようと、地方から働きに出てきた人間を、ちょうどいいからこの季節に帰して、体も心もリフレッシュさせようと作ったのだろうか。

 関係ないが、そういえば鮭もうなぎも、生殖のために自分が生まれた川に戻る。渡り鳥もそうだろう。
 何故なのだろう。食べるものが沢山あって、子どもを育てるのに適した気候なら、どこでつがっても、産卵しても、いいと思うのに。
 生物学では答えが出ているのだろう。
 魚は生まれ故郷の水の匂いを探して戻るらしいが、もしかして日本のお盆は、生殖と関係があるのだろうか。

お盆は昔話三昧

 お盆だからか、昔話を読んでいる。
 日本のもの、ベトナムのもの、ルーマニアのもの、鳥にまつわるもの、そういうのを図書館から借りてきて。
 今まで、日本のも、インディアンやヨーロッパや中東や、世界じゅうのを読んだきた。
 日本のなかのでは、新潟県南蒲原郡のものが一番しっくり来る。
 九州の昔話は、その地方の方言のせいなのか、外国ののような気分で読む。それもおもしろいと思う。アイヌのは説教がましいところがインディアンの昔話に似ている。

 中学に入った頃から落語の文庫本を毎夜読んでから寝た。だから目が悪くなった。
 落語の文庫本は、古本屋から厚いのを六冊買って、くりかえし、くりかえし毎日読んだ。
 大人になってから、それが昔話に変わった。

 今日は昼間から焼酎を飲みながら昔話を読んで、ちょっと眠って、風呂に入って熱い湯にニ時間つかりながら昔話を読んで、汗が出きって気持ち悪くなって上がって、スーパーに行って半額の刺身を買ってきて、ラジオを小さくつけて、呑みながら食べながらまた昔話を読んでいる。

 ふと思ったが、昔話はラジオ番組に合っていると思うのだが、そういう放送局はないな。

夜中に心の底を波立たせるアグネス

 この三日間、ラジオのボリュームを小さく点けて、それを聴きながら寝ている。
 そして朝方四時ちょっと前に、気になる曲がかかるのだ。
 アグネス・チャンの『あなたの忘れ物』という。

 初めて聴いたときは、ヘンな歌だな、中学生が作ったのかな、歌詞に無理矢理合わせたような不自然な構造のメロディで、これは詞が先だな、それにしてもアグネスは唄が下手だなあ、と目を閉じながら半分眠りながら、聴いていた。
 その歌を聴き終わったところが、妙に心の底が波立つように感じたのだった。

 二日めは耳に慣れたのか聴きやすかったのだが、そのヘンな歌詞のところどころが、どうしてか俺の体の中のひだみたいところに引っかかっているのだ。
 下手な唄い方も、ヘンなメロディも、幼稚な歌詞も、忘れられなくなっているのだった。

 三日めは、わざわざ朝の三時五十分に目覚ましをつけて待っていた。そして聴いた。
 体は眠っていて、精神も半分眠っていただろうから、泣きはしなかったが、聴いていると、眠いのに目がさえてきた。
 俺の昔の裏切りや、苦しいところで助けられたことや、愛した女のことやを思い出すのだった。

 ヘンな歌だと思ったら、アグネスの作詞作曲といっていた。
 YouTubeにはまだアップされていないようだ。

棄権したくないのだが軽薄なオマツリにも参加したくない

 マニフェストを見ようと思って検索したら、民主党も自民党もPDFでしか見られない。
 俺のパソコンにはPDFソフトは入れてないから、見られない。
 クリックしても出るのが遅いから嫌いだから見ないようにしているから、入れていないのだ。

 たぶん投票日まで見ないと思う。
 それでいいのかと自分に問うが、いいやと思う。

 自民党には入れないし、民主党に入れるかどうか、あの馬鹿どもに入れるのも嫌だなと思っているが、四十過ぎてやっと選挙に行き出してから棄権をしてないし、これからはずっと投票しつづけたいと思っているが、どの政党にもどの立候補者にも期待できない。その他の党にも、その人間にも興味ないし、馬鹿だと思っている自民党よりも民主党よりも軽蔑している。

 といって俺が出るわけにもいかないし、俺一人が出ても変らないし、そうなるともう選挙ということもオマツリで、それも下品なお祭りでしかないのかなと思ってしまう。
 だがそれは、俺の血のションベンを出すぐらいの気持ちで出しているわずかだがの額の税金の使い道と、その税金の取られ方を決める唯一の方法なんだから、棄権するのはモッタイナイと思うのだ。

 でも、誰にも入れたくないという気持ちは、どうすればいいんだろう、と思うぜ。

この過ごしやすい暑さは昔に戻っただけかも

 この一週間か十日間か、毎日夜中に雨が降る。
 朝方に振ったのだろう。
 朝起きて窓を開けると、物干し竿に水滴がついているから分かるのだ。
 下を見ると地面も湿っている。

 夜中なのか朝方かに、毎日雨が降る夏は初めてだ。
 夏は夜に外に洗濯物を干しておいて、朝、夜明けの太陽に当てて仕上げの乾燥をしてから、仕事に出る前に取り込むのが、夏の洗濯物の干し方だったのに。

 窓から雨が吹き込まないように、今年は寝るときは窓を閉めてからベッドに入る。
 毎年夏場は窓は全開で、それでも暑さで夜中に時々目が覚めて、扇風機のタイマースイッチを入れ直して風を起こし、それからまた眠りにつく。それをくりかえしていた。
 それが今年は窓を閉めていても、寝がけの一時間くらいの扇風機だけで、すんなり眠れるのがおかしい。

 だが子どもの頃は、いや五年くらい前までは、いつもこれくらいの暑さだったような気もする。

ブログはシンプルで

 ホームページではところどころ文字に色を塗る。
 赤と青。
 太字にもする。
 写真もちりばめる。

 でもブログは文字だけにしたい。
 色もつけたくない。
 飾りもいらない。
 透明な中身だけにしていたい。

涼しくてエアコンクリーニングで罪悪感

 雨が続いている。気温も上がらない。インターネットで週間天気予報を見ても、お日様マークだけの日はない。予想の最高気温の数字も30を見つけられない。28が一番高い数字だ。

 俺はまだ今年、自分の部屋でエアコンを点けていない。エアコンクリーニングしたお客さんも、この夏はエアコンをつける日は、そうはないだろうな。
 数えるほどしか使わないエアコンを洗うのに、安くはない料金をもらって仕事したのに、暑くならない夏に、何だか悪いことをした気分になる。
 といって今年はことさら料金を高くしたわけじゃないのだが、罪悪感みたいな申し訳ないような気持ちになる。

 だが俺のエアコンクリーニングは隅々まで洗うから、だからクリーニングの効果は三年くらいは持つから、来年は暑くなってくれて、来年もさらい年も暑くなってくれて、だから来年もさらい年もそのまた次の年もいっぱいエアコン使ってもらえば、俺のエアコンクリーニングも無駄じゃなかったと思うな。

 昼間も夕方も雨が降りやむと、その一瞬の曇り空の中で、涼しいのにセミだけはうるさく鳴くのだ。

罪を犯すのならば罰を受けるのがスジミチ

 半年前だったか一年前だったか、外人の相撲取りの麻薬事件で、俺は非合法のクスリを吸う相撲取りをかばう文を書いたが、こないだからのチンケなテレビタレントはかばいたくないのは何故だろうと思った。

 それは早く自首しすぎたからだと思う。
 逃げるなら、最後まで逃げ切れよ、警察に出向くようなことをするな、逃げ切れないならばイサギヨク死ねよ、中途半端なことをするな、と思うからだろう。
 これで終わりか? もっと楽しませろよ、と思うからだろう。

 一般人でない人間ならば、世間の人様に直接的に迷惑をかけないことならば、そういうクスリならば、誰にも分からないように静かにやれ、と俺は心の中でかすかに思っている。
 だがそれは、バレたら死刑になるということとセットだぜ、ということだ。
 それは何の業界の人間でも同じことだ。

 特に世間から外れている業界ならば(いや一般の業界でも同じだが)、自分の罪の行為は、即死刑に結びつくということがセットだぜ、ということを覚悟しろということだ。
 とくに非日常の金が舞い踊る業界の人間は、今までいい思いをしてきたんだから、そのリスクを負えよ、甘えるな、ということだ。

 それが嫌なら一般世間の中でおとなしく生きればいいのである。
 それが嫌だから、それが出来ないから、世間から外れて生きることを、自分で選んだんだろう?
 だったら、その世間から外れた業界の中でだけで生きて、そしてその業界の中でイサギヨク死ぬ、というオトシマエをつけろということだ。
 自分で好きで入った業界の特殊なやり方を一般世間の中に持ち込むな、ということだ(業界というのは、すべての業界ということだ)。

 一般世間を喰い物にするのなら、一般社会の掟である死刑も当然受けてもらうぜ、ということだ。

 だいたい日本の刑罰は軽すぎるのだ。
 罪を犯すのは重い罰を受けることとセットのはずだ。死刑をもっと増やすのがスジミチだ。
 自分が死刑になることを覚悟して行為をするのならば、麻薬を吸ったり扱ったりすることは勝手にやればいい(だが絶対に見つけるからな!)。
 それが世間という場所から脱却して暮らさせてもらっている、スジミチだろう。
 スジミチを通してないと思ったから、かばいたくないのだろうと思った。

 だけれどよく考えてみると、相撲取りは俺と同じ肉体労働だから、俺と同じくヘトヘトになって汗みずくになる商売だから、ちっとぐらい世間から外れたことをしても許してやろうかと俺は、思うのだろうかなと思った。

精神病と音

 バイクに乗るときは音楽を聴かなけりゃ乗れなかった。
 音がないと、恐くなるからだ。

 今の仕事でも、作業のときはラジオをつけている(最近は毎日、ラジオ子ども相談室を聴いている)。音がないと、体の動きが鈍くなるのだ。
 クルマを運転するときも、かならずラジオかCDをつけている。無音の中でハンドルを握るのを、想像できない。

 俺みたいに音が鳴ってないと作業ができないのは、精神に異常があるのだろうと思っている。
 分裂病のようなものなのだろうと思う。
 だが俺は、自覚のない妄想も、幻覚も、今のところないし、それに三十過ぎて自覚のない妄想も幻覚もなかったから、たぶん精神のヤマイではないのだろうと思っている。

 それと親戚じゅうにもそういうヤマイの人はいないから、たぶん精神はそういう方面には行かないだろうと思っている。
 だけれど俺のマキは、気短かばっかりだし、お節介を通り越して支配欲のカタマリの人間も多い。
 それは人格が破綻しそうなギリギリの血筋なのだと思っている。

 俺は統合失調症といわれる人を好きにはなれないが、その病名だけで無闇に軽蔑しようとは思っていない。
 その人たちは、単にこらえ性がない、ワガママな人なのだと思うのである。
 ワガママということだけで人間として軽蔑してしまうのだが、だが病名だけで軽蔑しようとは思わない。これは微妙なところなのである。
 病名で差別しないで、行為の結果で差別というか糾弾することが大事だと思うのだ。

 簡単にいえば、人様に迷惑をかけたら誰でも罰を負う、あるいは自分の冒した罪をつぐなう、人に迷惑をかけた分を償う、できるだけ元通りに弁償する、という単純なことを実行すればいいと思うだけだ。

 俺は音がしないと不安になるけれど、我慢すれば無音の中でも仕事できるし、音楽や文学やデザインなど、本当に集中しなければならない仕事では、音は邪魔だから、ラジオやテレビは消すのだ。
 耳が聞こえなくなったらどういう気持ちになるのか、ときどき思う。

YSTは変えないだろう

 Yahooとmsnが一緒になって、検索エンジンも一つになって、msnのほうに吸収されると言われているが、違うと思う。
 日本のYahooは検索についてもものすごい投資をしているようだし、その部門の人間も検索ということの仕事に打ち込んでいる。
 合併したからといって、今までつぎ込んできたエネルギーとノウハウを捨てるわけがない。

 今までヤフーの検索は精度が悪いと言われてきたし、俺もそう思っていた。
 だが今年に入ってから、検索キーワードから表示されるサイトは、役に立つものが多くなっている。
 逆にグーグルのほうが機械的というか事務的というか、被リンクの数やサイト内キーワードの数とかで、考えなし的に上に来ることが多い。だから役に立たない詰まらないリンク集のサイトが、順位表示で上に来ている。

 それとmsnの検索エンジンのbingは、丸っきり精度が悪い。俺のホームページが出ないのだから。昭美堂とダガシを、絶対載せないように決めてるくらいに表示しないのだ。
 新潟のハウスクリーニングやエアコンクリーニングや便利屋の関連で、昭美堂を出さないのはモグリだぜ.。
 だからbingは駄目な検索エンジンだと分かるのである。

 世間ではヤフーを使うのはカッコワルイと思われているし、Googleを使うのがツウだと思われている。だが、それも考え無しに世間の一般常識の金魚のフンになっていることだ。
 グーグルは今年になって、検索精度では、ヤフーに追い越されている。だから俺は今年から、検索のときはヤフーも使うようになっている。

 YSTは今のところ検索エンジンではいい仕事をしているのだから、変えないだろうし、今のままのやり方をするべきだろう。

丸顔にサングラス

 すれ違うクルマのウィンドウガラスから見えるサングラスが多くなる季節だ。
 だけれどサングラスは本当は冬場のほうが必要だ。
 陽が低くなって斜めから差し込むからまぶしいのだ。

 十八で初めて作ったサングラスはもちろん度付きだった。
 だんだん度が進んで、黒いレンズも厚くなっていった。

 最後に作ったのは三十二のときのだ。
 それから作らないし、四十すぎたら、そもそもサングラスをかけなくなった。

 それは太ったから。
 顔も太ったから、まん丸い顔にサングラスをかけたら、お笑いになるから。
 Dr.スランプに出ていたサングラスかけたブタに似ているのだ。

 だけれどもう二年くらいしたら、お笑いでもいいやと思える気がするから、またサングラスかけると思っているのだ。

なぜ独立したか

 この夏は問い合わせが去年の何倍も増えた。
 だが仕事を受けたいと思わせるのは、ほんのわずかだった。
 電話口で喧嘩になったのも何件もあった。去年までも問い合わせで喧嘩になったのはあるのだが、今年はまたさらに増えた。

 俺はホームページに、料金のことを詳しく書いている。こういう場合はいくらぐらい、こうなったらいくらぐらいになる、と。
 それなのに、ホームページを見たと言っているのに、いくらですか? などと読めば分かる事をノンキそうに聞いてくる、その神経…。
 料金のことだけしか興味がなくて、安ければいいのだ、仕事の品質は二の次でいいのだという神経…。
 あるいは、安くしろ、でも品質は良くしろ、と世の中のスジミチに矛盾することを平気でいう神経…。
 泥棒根性の神経…。
 新潟市民に多い神経…。
 溜め息を殺すのに精神が疲れる。

 そういう奴に限って、人間としての基本的なことを怠けている。
 そしてそういう奴に限って、金払いが汚いし、横柄だ。平気で嘘もつく。大半の新潟市民の特徴。
 だからそういう人間からは仕事は受けないと決めている。
 そういう人間と関わりあいになると、ろくな事がないからだ。

 八月に入っても、続けてそういう電話がかかってくる。
 そういう人間は、三秒喋ると、そういう人間だと分かるのだ。いや電話の最初から、ピンとくるのだ。声質と使う語彙と息遣いで。

 俺は、そういう人間と関わらないで済むために独立したのだから、そういう人間から問い合わせされても、邪険にする。そういう奴を相手にしないし、無視する。
 そしてお互いに気持ち良く付き合える人をだけ、ヘトヘトになって仕事を通して幸せにする。
 だってそうしなかったら、苦労して独立した意味がないじゃないか。

三毛がしゃなりしゃなりとしている

 三毛猫に雄猫はめったにいないもんだと、子供の頃にばあちゃんから教えられた。
 毎日見る猫ブログでも、三毛を擬人化するときには女としている。
 だからなのか三毛猫を見ると、しゃなりしゃなりとしている。

 三毛がメスしかいないのは何故なのか、やろうと思えば科学で証明できるのだろうが、無粋な行為になりそうで、誰もやらないのだろうか。

 私が好きな猫の模様は、キジの縞模様と白の混ざりで、とくに手足の先が白の猫を見たいし撫でたい。

時期は時期なりの暑さで欲望が湧く

 今ごろが一年で一番暑い時期なのだろうが、今年は涼しくていい。
 いつもだったらクーラーを点けているのだが、今年は扇風機も部屋の隅でうなだれている。
 このまだ薄明るい夕方も、窓から涼しい風が入ってくるから、電気で部屋を冷やす必要がない。
 三十度という気温が懐かしいが、たぶんあさってあたりから、猛撃に直射日光が当たり散らすのじゃないかと、不安と一緒に期待もしているのである。
 そうでないと、米の取れが悪くなるし、商売のほうも、時期は時期なりの暑さにならないと、人間の欲望が湧かないから。
 人間の欲望が湧かないと、商売にならないから。

くれたい人がお客さんになるのかな

 こないだお客さんのところで御馳走になったキュウリ入りのカレーは美味かった。
 ぶつ切りのキュウリが入っているのだが、カレーの辛さにあうのだ。
 今度俺もつくってみようと思っている。

 作業が終わったところで昼頃になるときには、食べていけと言われることが多い。
 俺は遠慮をしない人間だから、時間があるときはもちろんいただく。
 そして、もりもり食べるようにしている。

 おにぎり一つもらうのも嬉しいし、おいしい。
 俺のお客さんは、俺に食べ物をくれたい人が、お客さんになるのかもしれない。

 ただ今までそういうことは書かないようにしてきた。
 ダガシにものをやらなければ仕事を頼めないのだろうかと、思わせたくないからだ。
 もちろん俺は、もらうもらわないに関わらず、仕事の結果は出すに決まっているのだ。

盆さんのこと

 何という名前か知らないが、家のほうのお寺で八月一日と七日は、今年死んだ人がでた家の人の集まりが、あるのだそうだ。今日、それに行ってきた。
 ついたちはセケンのもんが多くて、七日はムラウチがあつまるのだ、と父は言っていた。

 今朝起きてご飯を食べてコーヒーを胃に流し込んで、墓掃除に行った。
 親戚の人がときどき掃除してくれていて、いつもきれいなのだ。だから三十分で済んだ。

 帰って、昨日の大酒を流すようにシャワーを浴びて、父と少し話した。
 父の吸う煙草の煙がいやで、話に身が入らない。
 酒の強い父も、七十過ぎて弱ったのか、私の何倍も呑んだ昨夜の冷酒がまだきいているらしく、しきりに胃のあたりを押さえている。

 読経は十一時からで、その前の三十分、説教があるそうだ。
 きのうはそういうのは馬鹿にしていて、父も私も十一時に間に合うように行こうと言っていた。

 それなのに私は父の煙草の煙を吸いこみたくなくて、やっぱりお寺さんのはなしを聴きにいくよ、と出た。
 父はシャワーを浴びてから行くと言った。

 住職の話は、物忘れの茗荷のいわれと、もう一つ何か喋っていた。
 茗荷の話の中の、自分の名前をお釈迦さまから背中にかいてもらう修行僧のところで、私はいつもの住職のくぐもった声が聞きづらかったのに、何人もの耳の遠そうなおばあさんたちが笑った。
 そしてところどころで、おばあさんたちは、うれしそうに笑うのだった。

 そうしてるうちに父も来て、それから、私も顔を知っている近所の人が来て、父と喋っていた。
 その近所の人は、家に死んだ人もいないのに、毎年この日に来るのだそうだ。
 その人は、今年は人が多いよ、と言っていた。
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