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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

近場のスーパーにも行くようにする

 うちの近所のスーパーは、高かった清水フードがなくなって、安かったフジミだけになって、フジミは安心したのか、ちょっと高くなった。
 そうしたらこないだ、新しい市民病院の向かいにチャレンジャーが出来ていて、それはキレイな店で、寄ってみたら、値段も安くて、店員はまあまあ嬉しそうな顔で作業しているから、いっぱい買った。

 前までのチャレンジャーは、安かろう悪かろうの商品が多かったから近寄らなかったのだが、この店はNB商品も沢山扱っていて、そうしてそれも安いのだ。
 たぶん今のご時世だから、安く仕入れが出来るようになったのだろう。
 野菜も肉も魚も、食べられるレベルのものだった。実際買って食べたのだが、まずくはなかった。

 そうしてさっき、近所のフジミに行ったら、ガラガラだった。
 客は分かっているのだろうな。
 フジミのレジ係の若い女は、やることがないから、惣菜コーナーに突っ立って、棚の揚げ物をぼうっと見ていた。

 フジミは、こないだまでの清水フードの戦略の、住宅街での便利な食品提供店として生き残ればいいさ。
 少しぐらい単価が高くても、夜九時まで開いていて、小分けしてある野菜とか魚の切り身とかのパックを売ってほしい。
 だって、フジミがなくなったら、うちの近場のスーパーがなくなってしまうのだから。
 だからこれからも、沢山は買わないにしても、ちょくちょく行くようにしようと思っているのだ。

ブログというのは世界観に浸ること

 俺が読みたくなるブログは独自の世界観を持っているブログだ。
 その世界観にひたりたいのだ。そしてその世界観に感動したいのだ。

 世界観を持つためには、書く人間の、価値観が示されていなければならない。
 その価値観に共感したいのだ。
 あるいは、初めて知る価値観に打ちのめされたいのだ。

 だが価値観のないものには、共感しようにも価値観がないのだから、共感することができない。

 価値観を出すには自分の意見を言うことだ。

 しかし世の中のほとんどのブログは、自分の意見を言わない。あいまいなままにしている。
 ただ今日したことを書いているだけ。
 特に、どこそこの店で何を食ったかを書くのは、しかもその写真を載っけて済ましているのは、一番安易だ。
 いわゆる社長ブログというのもほとんどがそうだ。
 だから共感もできなければ、反感を持つことさえできないのだ。
 その人の価値観が見えないからだ。

 あるいは人の受け売りを書いている。
 そうして上から目線で自慢話を書いて、通り一遍のことを書いて、自己満足に浸っている。それは自己欺瞞でしかないのに。

 自分の価値観を出してしまうと、反感を買って、不利益をこうむってしまうのじゃないかという怯えがあるのだろう。
 匿名ブログでもそうなのだから、名前を出して書いていれば、なおさら自分の意見を書くことは稀だろう。

 価値観を隠しているから世界観も生まれない。
 世界観がないから、感動もしない。

 そういう人間には、価値観というものは、もともとないのだろうな。
 いつも自分以外のものに流されているのだろう。
 あるいは近場の金が手に入るかどうかが、一番の価値観なのだろう。

れんこん、こうこ、油炒め好き

 れんこんをときどき食べる。
 とくに魚を煮たときに一緒に入れて煮て。

 小さい、孫の方がおいしいんだよと母親が言っていたから、買うときはそれを選ぶ。
 薄く切って油で炒めたのも好きなのだが、なぜか面倒なので作らない。

 油炒めといえば、沢庵の油炒めもうまいが、これも作らない。
 今度どっちも作ってみようか。

CtoCというのがこれからのやり方

 俺がなぜ独立したかというと、そこらへんを歩いている、そこらへんをクルマを運転している、そこらへんの人間が嫌いで、そういう人間と付き合わないようにするためにはどうしたらいいかと考えたら、会社に勤めないことが一つの答えじゃないかと思ったからだ。

 だが独立しても、仕事を依頼してくれる人とは、お客さんとして付き合わなければ飯の食い上げなのだが、俺は嫌いな人間からお金をもらいたくなかったし、嫌いな人間にありがとうと言いたくなかったから、好きな人だけをお客さんにしようと思った。

 そのためには、はじめは俺みたいに自分で商売をしている人は、スジミチを分かっていて、自分を律していて、人にも配慮できる人だろうと思って、だから俺は世間で言うBtoBを、目指したのだ。

 しかし新潟市のBは、俺が付き合いたいと思う人間はほとんどいなかった。
 ちょっと考えたら当たり前だったな。
 コズルイ新潟市の人間が、そのままBになっていただけなのだから。

 そうして俺は、やむなくBtoCの分野にも出た。
 新潟市のCは、問い合わせから野獣のようだった。自分さえ良ければいいと思っている嘘が混じった物言い。
 だがそれは、考えてみれば当たり前だった。だってほとんどの新潟市のBも同じなのだから。
 新潟市のほとんどのCは、Bにもなれない、というかBをさえ志向しようとしないそこらへんの人間なのだから。そしてそれが新潟市民の当たり前のことだったのだから。いやもしかしたら、そもそも人間というのがそういうものかもしれないがな、ハハ。

 そうして俺は今は、CtoCというところに出たいと思っている。
 CtoCなんていう概念は世の中の誰も言っていないだろうが、個人が個人のために仕事をして、個人の商売相手に満足してもらうことで、個人の俺が、俺が好きな一人ずつ一人ずつのお客さんだけを幸せにすることで、その分量で、俺という個人がその分を潤わせてもらうという仕組み、というか考え方。

 BtoBやBtoCでは、これまでの商売の、偽装みたいな嘘の混じったやり方から抜け出せないだろう。
 仕事の結果の責任を含めて、ものごとの責任は、個人で負うのでない限り、その責任を意識することはできないだろう。

 それはCtoBでもいいのだが、組織を相手にしても、極限のところでは、その組織の中の誰か一人の人のために、それはそこの社長のためということになるのだろうが、その一人の人を幸せにすることを念じながら仕事をすると、よりいっそう責任を持って細かい配慮を持って仕事の結果を出せるのだろうと思うのだ。
 だからCtoBであっても、それはその中で、仕事の一瞬一瞬に、CtoCを意識しながら仕事をするべきなのである。

 だから個人が個人のために仕事をすることが、これからのやり方なんだと思っている。
 すくなくとも俺はそれを目指したいのだ。

俺がコメントするときのリンクの決めごと

 俺が人様のブログに批判コメントをするときは、こっちのブログにリンクを貼って、批判をした俺が誰だか分かるようにする。
 それは乱暴者のダガシでもわきまえている、最低限のエチケットだ。
 反対に、ほめたり、ほんわかしたことをコメントするときは、リンクはしないようにしている。

 それまではコメントするときは、自分の身元を明らかにするために、いつも自分のブログにリンクさせていた。
 だけど俺が喧嘩コメントしたところの、ある小ざかしい医者ブログのブログ主に、SEOのためにコメントしているのか? と書かれたから、それからはリンクは最小限にするようになったのだ。

 それから、俺が喧嘩コメントしたブログは九割九分のブログが、俺からのコメントを受け付けないように設定した。
 医療ブログも。ハウスクリーニングブログも。
 チイセエなあと思う。
 人間として小せえから、スジミチを分かろうとしないから、そういうブログだから、怒鳴りつけたくなるのだがな。
 だが、気に入らないコメントはするなといって、内輪受けだけで、褒め合いだけで、嬉しがっているのだから、馬鹿馬鹿しくて、もう、そういう馬鹿ブログにはコメントする気にもならなくなるのだがな。

 今は、人のブログにコメントすることもほとんどなくなっている。
 だけどもうちょっとしたら、またコメントしたくなる時期になるような、気がしているのだ。
 それは批判コメントも共感のコメントも、どっちもあるだろう。
 その時のリンクは、どうするかまだ分からない。

恩着せがましい言い方

「仲良くさせていただいています」という物言いがある。
 それは、仲良くしてもらっています、と言うべきだろう。

「買わせてもらう」というのも、売ってもらう、だろう。

 それは謙譲の意をこめているつもりなのだろうが、してやっているという恩着せがましい言い方になっている。

 そしてなぜ恩着せがまし物言いになるかというと、無意識に、してやっていると思っているからだろう。
 自分の恩着せがましさを自覚してないからだろう。

OSはどうでもいい

 Windows7が出たが、俺には何の興味もないし、必要もない。
 ついこないだまで2000を使っていて、満足していたのだ。
 今はXPだが、こんなに早く画面が切り替わるのかと感動しているぐらいなのだ。ネットカフェのパソコンより俺のの方が早い。

 2000でもホームページを作るぐらいは何の支障もなかった。XPのパソコンに替えてもHP作りでは、その使い勝手はそれほど変わらない。
 むしろパソコンのメモリーの大きさが、早さにつながっているのだと思う。

 しかし世間の人間は、別にHPを作るわけでもなし、表現としてのブログを書くわけでもなし、パソコンで音楽を創るわけでもなし、絵を描くわけでもなし、ただただ受身の暇つぶしの手段としてか、記録の格納庫としてのパソコンだけなのに、ビスタがどうのセブンがどうのと騒いでいるのは滑稽だ。

 タッチパネルというのが新しいらしいが、画面が手垢で汚れるだろうに。
 三日に一回は画面を洗剤で拭かないと、見えずらくなるだろうに。

 だがしかし、パソコン関連のメーカーが倒産してしまっては、俺にとっても良くないわけだから、適当なぐらいに潤ってもらわないと困るのだ。
 そのためには、セブンもそこそこ売れてもらうのも悪くはない。

怒ってないこの頃に、いわしの刺身

 きのう原信に行ったら、いわしのPOPに刺身でも食べられますと書いてあって、そしてパックには「下ごしらえします」というシールが貼ってあったから頼んだ。いわしは三匹で158円だった。
 魚売り場の兄ちゃんは新潟市民特有の面倒臭そうな応対で、出来ればやりたくないのだという感じだったが、俺は近頃怒ることがなくなっていて、シレッとして頼んだのだった。
 五分ぐらい待ったか、兄ちゃんに呼びかけられて受け取った。

 部屋でぶつ切りにして刺身醤油で食べたらうまかった。
 158円でこれだけ美味い思いが出来るのは、誰にだか知らないが何だか申し訳ないように思った。

 しかし最近俺は怒ることを忘れている。もう十日間くらい人に怒鳴っていない。
 それは多分、他人に興味がなくなっているのだろうと思う。
 大事な人以外はどうでもいいやと思っているのだろう。たいがいの新潟市民の考え方だ
 そういう生き方は今まで良いことじゃないと思っていたのだが、他人などどうでもいいやと思うこと自体を危険なことと思わなくなっているのは、俺がいよいよ、ほとんどの新潟市民に対して、というか他人に対して、どうでもいいやと思い始めているのかもしれない。
 そして、これでいいのかどうなのかということも思わなくなったら、俺は普通の人になるのだろう。いや、なれるのだろう。それは幸せなのかどうかはわからないが。
 それにしても久しぶりのいわしの刺身はうまかった。

好きな女優がいる

 いま大原という専門学校のテレビ広告に出ている女は、俺の好きなタイプなのだ。
 大柄で、むっちりしていて、いや外見よりも、その人はスジミチがわかっている感じで、だからサムライという感じで、だから男っぽくて、だからこそなのか色っぽくて、いい女なのだ。そばかすがあるのも、いい。
 その広告は一、二年やっているようだが、偶然観ることができたときは俺も男だったと再認識させてくれるのだ。

 演出も効いている。
 いや、あれは演出ではないのだろう。
 あの女優、なのかどうなのかあのひとの顔つき、目つき、喋り方が、いいのだ。
 決意がある! という喋り方なのだ。
 実際に俺のそばにいたら、俺は惚れただろう。

 しかし大原という専門学校は、馬鹿だと思う。
 専門学校などという中途半端なところに行くこと自体が馬鹿だろうし、公務員になるためのコースがあるようだが、それが馬鹿馬鹿しいし、「本気になったらオオハラ~」などというツカレる広告コピーは本当に疲れるし、専門学校ごときに行くことに、本気にならなければならないということが馬鹿馬鹿しい。

 だがあの女優を起用したことで、ちょっとは見直しているのだ。

原始的な風向き計測

 指につばを付けて風の向きを調べるのは昔の時代劇で観た憶えがあって、今まではしなかったのだが、どうしてか思い出して今日した。
 でもよくわからなかった。
 タバコでも吸っていれば煙でわかるのだろうが、もう吸ってないからわからない。
 つばを付けた指の腹が涼しいと思う方向が風の来る向きだというのだが、どの向きにしても風が来てない感触なのだ。
 部屋の中で干しているタオルがかすかに揺れているから風は入ってきているのだが、どっちの窓からなのかがわからない。
 それは結局わからずじまいだった。

漬物を食べたい季節か

 かぶがスーパーで三個九十円で売っていたから安いと思って買って、うすく切ってビニール袋に入れて塩でもんで、冷蔵庫に入れて一日おいたのを食べたらおいしかった。
 かぶというのは旬はいつだろうと調べたが春のものと秋のものがあって、秋の方が味が良いそうだが、けっこう一年中出回っているらしい。
 漬物など嫌いで見るのもいやだったのだが、どうしてかここ何年か食べだしていて、そうして自分でも簡単にだがときどき作るのである。
 それも何故だか寒くなりだすと作りたくなるのはどうしてか分からない。

 まだ建て替える前の家の暗い隅の場所で、ばあちゃんと母さんが味噌を作ったり漬物をつけたりしていたのを、それをおぼろげながら憶えているからかもしれない。

毎日旅をしている気分

 旅行というものに興味がなくなっている。
 毎日同じ場所に通勤することがなくなったからだろう。
 お客さんのところでの作業でも、営業セールスでも、
 昨日と同じ場所へ行くことはない。
 それは毎日毎日旅行していると思っているのだ。

フィギアスケートの企画

 フィギアスケートのエキシビションというのを観た。
 浅田真央はキムヨナに百倍離されている。というか一世代遅れている。
 子供と大人の違いにも見える。

 キムヨナは迫力あるダンスであり舞踊であった。
 真央は年取った先生の、何かの古いお手本をなぞっているようでしかなかった。
 扇子などを使ったのは失敗だった。小手先の小道具で誤魔化そうとしているように見えた。
 扇子を振って動きを出そうとしていたが、手首を動かしても扇子の先端は振れなかった。紙で出来ている先の方は、空気に負けて動きを出せないのだろう。扇子に十センチくらいのリボンの紐をつけたらどうだろうかと思ったが、それも所詮スケーティングという本質を誤魔化した、小道具まかせになるように見えてしまうだろう。

 真央の生きる道は、自分の得意分野の、ジャンプと、天然の頭の悪さと人の良さとそれらがかもし出すキュートさを押し出すことが、一か八か勝てる戦略だろう。頑張ってほしい。

 そういうことと関係ないが、テレビを観ながら思ったのは、一つの同じ曲を全員が使って、自分のオリジナルの演技をするのを見てみたいと思った。
 一つの楽曲で、いかにオリジナリティを出すかを見てみたい。
 そういう企画をしてみてくれないかな。

ひさしぶりの天地人を観ての感想

 裏の日曜美術館が最近俺にとって興味がない作家を取り上げているから、この何週か「天地人」を観ている。
 それぞれの役者は、一月の下手な演技が、ちょっとは上手になっているのがわかる。
 これならば観ていても、腹が立つこともないから、チャンネルを替えたくならなくなった。

 特に上杉景勝役の俳優は上手になった。最初は下手でしょうがなかったのだが、成長した。ガタイがいいし、腕力が強そうで、ヤクザ映画に出せば似合っていると思った(これは茶化しているわけではない。表情を作ることも上手になったのだから、褒めているのだ)。
 主人公の妻役の女優も上手になった。
 景勝の奥方役の若い美人の女優も、取りえは美人ということだけじゃなくなって、表情に影をうるませることも出来るようになった。

 それからそれぞれが、若い頃の役どころから年を取った設定になって、その年相応の太り具合になっているのが驚いた。役づくりのために、食べて太ったのだろうか。
 顔にもしわがあるのだが、それはメイキャップなのか何なのか、不思議だった。

 一番上手なのは徳川家康役の俳優だ。
 名前は度忘れして出てこないが、あの役者でなければ出せない味で芝居をしている。だてに何十年も仕事をしていないとわかる。
 しかしあの頭頂部の出っ張りは史実に基づいているのかどうか知らないが、妙にありそうで、リアルだ。
 これぐらいの芝居と演出ならば、観てもいいかなと思う。

 しかし主人公役のタレントは、まるで上手にならないのはどういうわけだ。
 才能がないのだろうか、それとも俺の期待値が高すぎるのだろうか。

この秋チラシのイラスト

20091017191400
 レンジフード、さかな、フライパン、鍋、水道の蛇口。
 この順番で描くものを思いついてサインペンで描いたのだ。

市長どもは馬鹿で泥棒根性

 きのうだかおとといだか大和が撤退することで新潟市と長岡市と上越市の市長どもがそろって会見していて、「事前に何の話もないし、商店街の核がなくなるのは困る。このまま続けてほしい」などと、馬鹿ヅラを下げて自分勝手なことを恥ずかしげもなく言っていたが、大和は営利企業なんだから赤字なのにやるほうがおかしいだろうに。
 相手が困って続けられないと言っているのに、止めるな続けろというのは、相手の損失分を泥棒することだぜ。

 あいつら市長は公務員体質になっていて、ボケている。
 それに聞いていて一番不愉快だったのは、あいつらの責任逃れで人任せにしている物言いだ。
 大和に任せていればいいじゃないかと、他人に任せていればいいじゃないかと、そういう自分は何も行動しようとしない怠け心、卑怯な心。

 大和が儲かってないのなんか、はたで見てれば俺でさえ分かっていたのに、ということは大和は近近ここで商売を止めるだろうなと予想できただろうに。
 市長ともあろうものがそんなことも分かろうとしないのは、仕事が出来ないということだ。
 大和が撤退した後はどうするか、それを事前に準備するのが市長の仕事だろうに。
 あいつらには、市長をやらせておかれないな。
 といって、市長になりたがる人間に、そういうことを分かれと言っても無駄だろうがな。

 だからこういうスジミチ知らずの自分さえ良ければいいという人間どもの権限を増やそうとする、地方分権などということは、良くないことだと分かるのだ。

ホームページは自分で作った方が良い

 新潟市にもホームページを作る業者が腐るほどいる。
 そしてもう腐っている。
 数が多すぎるし、それに今はホームページなど、自分で作れるからだ。

 ときどき俺は、「ホームページ作成(制作とはあえてしない) 新潟市」とググッてみる。
 ジャンジャカ、ジャンジャカ出る。
 そのどれを見ても、頭の悪そうなサイトだ。人真似のデザインとコピーと、最初から最後まで責任のがれの物言いだからだろう。

「SEO 新潟」とも検索してみる。
 これも駄目そうな、本で書いてあることをそのままなぞっているだけの、しかも古いやり方を載せているだけのサイトが並んでいる。

「新潟」を外して、東京あたりの業者のサイトを見ても、ものを考えていない人間が作っているサイトが並んでいる。
 ホームページ業者というのは、頭の悪い人間がやっている業界なのだと分かるのだ。

 ホームページを作るなどというのは、誰にでも出来るわけだし、SEOだって、厳密な法則は検索エンジン内部の人間以外には誰にも分からないわけだから、SEO業者は他人が言っていることをそのまま受け売りしているわけだ。
 SEOを自社で実験していますなどと言っているが、そんなことは俺でさえやっているレベルのことを自慢げに言っているだけだから笑うのだ。

 せめて個人事業主か小企業だったら、ホームページを制作業者に頼まなければならないなどという会社は、そもそもこのぐらいのことが出来ないというのなら、自分の本来業務でさえ覚束ないだろう。

 だが、ホームページを作ることは、とても手間がかかることは、かかるのだ。
 コードを入力するだけでも1ページ1日はかかる。
 それを見直して、さらに見直して、1ページ最低3日はかかる。これは単なる作業さえで、これだけかかるのだ。そしてそれを、永久に定期的に見直していかなければならない。

 そして一番手間がかかるのは、どういうコンセプトで、どういう構成にして、どういう文章を書いて、どういう写真を入れてと、全体を構想することだ。考えることだ。
 実際の作業をする前に、構想に何ヶ月も何年もかかってしまうのだ。
 その日数をコストに換算すれば、膨大な制作費になってしまう。
 構想に、年単位でなくてもいいが、何ヶ月かを費やしていないホームページは、安っぽく、底が浅い感じがする。そういうところには仕事を依頼したくないだろう。

 それに、ホームページに載せる写真を撮りためるのもコストがかかる。実際の作業をしながら、その中で上手に撮影しなければならないからだ。
 良いアングルを探すために、一箇所を何回も撮り直すことなどざらだ。
 だからホームページを作るということは、金がかかることなのだと思う。

 SEOは、案外単純なものだ。
 それは意識しなくても偶然当てはまって上位に出ることもある。
 だから、関連の本を何冊も読んで、自分なりに何回も試行錯誤して、やるべきことをやって、後は運を天に任せる、そういう気持ちにならなければやってられないだろう。
 だからSEOを商売にしている業者も、俺のような人間も、上位表示させることには、それほど違いはないのだろうと思っている。

 そういうことをもろもろ考えるに、ホームページを作るのは、自分で作ればいいのだと思う。
 そのほうが作り手の個性が出て、見てもおもしろくて、そのホームページを好きになるだろうからだ。
 好きになったら、そこに依頼するだろう。
 だから、自分で作るべきなのだ。

プラマイゼロになるのだろうな

 大和が新潟県から撤退するらしいが、さびしいけど赤字が重なってたそうだからしょうがないな。
 子供のころ、保育所にも行かない小さい頃、俺はほとんど毎日、「大和いこ、大和いこ」とばあちゃんに駄々をこねていた。それを今でもはっきり憶えている。
 デパートの、なんだか知らないがいつも人がざわめいている、日常にない雰囲気がめずらしく、それと屋上にある遊園地が、目当てだったのだろうと思う。
 その中のモノレールに乗るための階段が、隙間のある階段で、その頃から高所恐怖症だった俺は、段のあいだから下が見えるのが怖かった。だから下を見ないようにしながら登ったのだが、どうしても下を見てしまい、脚が震えて、いつも階段の途中で動けなくなったのもしっかり憶えている。
 それなのにばあちゃんは、どうしてかいつも行くたびに、俺をモノレールに乗せようとしたのだった。

 大和デパートは、その頃は新潟県で繁盛して、いいおもいもしただろう。だが今サビレテいるのも、ある意味で自業自得なのだからしょうがないじゃないか。
 いいおもいもして、辛い時期もあって、それは人が生きると同じ道程なのかもしれない。なにごとも、プラスマイナスはゼロになるのかもしれない。

今の水戸黄門をやめて新しい水戸黄門を作れ

 水戸黄門は好きなのだが、今のは汚らしくて嫌だ。
 何がいやだって、八兵衛役が嫌だ。
 今のシリーズが始まって二回ぐらい観たが、八兵衛をやっている落語家の下手な芝居を観るのが苦痛だし、視聴者は馬鹿だと思っているような大袈裟な演技と、馬鹿だと思っているのにその相手に媚を売るような芝居に反吐が出るのだ。

 あの落語家は林家三平の次男だそうだが、俺は三平の落語は知らないが、その長男も次男も落語家だというが、その落語を聴いたことはない。なぜならあいつらは落語をしてないじゃないか。
 あれらは俳優ではない。ただのタレントだ。そして落語をしていないのだから本当は落語家でもない。

 早く真っ当な演出の水戸黄門にしてほしい。
 でも今TBSは会社自体が良くないらしいから、もしかしたらTBSでは水戸黄門は止めたほうがいいかもしれないな。
 テレビから水戸黄門がなくなって、そうして一、二年してから、どこかの局で、新しくて古くて抑制の効いた水戸黄門が始まらないかな。
 そしてときどき観る夕方の水戸黄門で泣くのが気持ちいいのだ。
 そして夜八時からだと仕事で観られないことがあるから、九時からがいいな。

オープンオフィスとPDFでチラシ作り

 この秋のチラシ原稿を印刷屋さんに郵送した。
 今回は昔のワープロは使わなかった。オープンオフィスのドロウで全部作った。
 作ったはいいが、どうやって紙焼きしようかとまた悩んだのだ。
 ハッと思いついたのは、ドロウで作ったデザインをPDFソフトに変換して、それをフリーメールに添付してフリーメールに送信して、それをネットカフェで起こして、それをネットカフェのプリンターで紙焼きすればいいじゃないかと。

 こないだまでスペックの低い古いノートパソコンを使っていたから、重くなるPDFを入れたくなくて、ドロウでしか原稿を起こせなかったのだ。
 だけど今は私にとってはまあまあの性能のデスクトップ型だから、PDFをインストールしている。
 今年の春にネットカフェに聞いたとき、オープンオフィスのドロウソフトを入れている店はなかったのだ。いや一軒あったのだが電話の喋り方が気に食わなかったから行かなかった。だから自分のワープロで作り直して紙焼きしたのだった。

 念のためにまたネットカフェに電話して、パソコンにPDFソフトが入っているのを確かめてから、自転車をこいでいった。自転車で行けるところに何でもあるのがありがたい。

 私はプリンターの使い方を知らないから、ネットカフェのパソコン画面にチラシ原稿を出すまでをして、そこから先は店員に頼んでプリントアウトしてもらった。
 画面と同じ中身の紙が出てきたのを渡されたら、湿っていて、どうしてですかと聞いたら、インクが載っているからですと言われ、納得した。全面をプリントされてすぐの紙を初めて見たのである。
 それを大切にプラスティックの書類入れに入れたのだが、乾かした方がいいと思って、フタを閉めないで足元にあったゴミ箱に、書類入れのフタを開けたまま置いてから、店の無料のコーンスープを飲みながら、乾かす時間を作った。

 乾いたのをセブンイレブンでコピーして、部屋で自分で下手なイラストを描こ込んで、完成原稿にした。
 これでもう二十年近く使ってきたワープロは必要なくなる。捨ててもいいかなと思っている。

 しかしドロウのフォントは細くて力が弱そうに見えるのだが、多分太字にすることも出来るのを私が知らないだけなのだろう。調べて、今度作るときは文字にインパクトあるのにする。

うまい米は隠れごめ

 親戚にとても美味い米を作る家がある。
 それは農協に定額で出すだけじゃもったいない味なのだ。

 何が美味さの理由なのかと昔父親に聞いたことがある。
 俺はタネだろうと言ったら、父親が言うには場所なのだそうだ。
 その土地が、土壌が、美味さを作っているのだそうだ。
 それならばなおさらそこでしか採れない米だ。

 インターネットで売り出したら儲かるだろうな。
 だが俺は、ただ売るということしかしないのは、お天道様に悪いことをしている気分になってしまうのだ。
 どうしてか、自分で製造ということをしなければ、それは仕事だと思えないのである。

 ハウスクリーニングという商売は、製造業になぞらえれば、自家製造で直接販売だから、自分で一から十まですることができて、これは仕事なんだ、という実感があるのだ。だから好きなのだ。

 だが考えてみればあの美味い米は、量が少ないのだから、世の中に出そうとしても、商売としての販売量としてはゴマ粒ぐらいのものだ。
 ということは、儲かるなどということにはならないだろうな。
 ということは、知っている人間だけが、うまい、うまいと、食べればいいものかもしれないな。
 あんがい世の中には、誰にも知られずに、うまいうまいと、こっそり食べられているものが、沢山あるのだろうな。

厚手の靴下を出そうか

 短パンはもう全部洗濯して押入れにしまった。
 寝るときは長袖を着ている。

 ピーマンを買わずにほうれん草にした。
 キャベツから白菜にかえた。
 大根を続けて食べている。
 秋鮭と。鶏肉と。ぶりあらと一緒に。

 今日はストーブがほしいと思った。
 でもまだ早い。まだ出さない。
 だから部屋にいるのだけど靴下をはいた。

音楽はヘンピな場所から生まれる

 鳩山総理の奥さんは元宝塚だそうだが、宝塚にいて今テレビに出ている女優は、何となくテレビには向いていない。
 演技が大げさなのだ。それが大雑把で下手に見える。顔かたちも派手すぎるし、体つきがでかすぎるし、手足が長すぎる。
 それはテレビ向きじゃなくて、舞台で映えるタイプなのだろう。

 宝塚に入るということは、あのあたりで生まれ、住んでいた人なのだろうか。
 俺は関西に住んだことはない。
 転勤商売に勤めていたが、いわゆる箱根から先は住まなかった。フォッサマグナから向こうには、何回か出張で行ったぐらいだった。

 だからなのか知らないが、俺は西の生まれの人間とは合わないのだ。
 勤めていたときも、大阪生まれや九州生まれの人間の、無責任で、今が良ければいいやというような物言いにはなじめなかった。いや会社自体があっちで出来たものだからか、会社全体にもなじめなかった。いやそもそも会社勤め自体になじめない人間だったな俺は。

 大学のときも、九州から来た同級生の、無神経で底の浅い喋り方にうんざりした憶えがある。
 どうもフォッサマグナを境に、向こうの地域は、冬でも暖かいからなのか、ラテン系とでもいうのか、神経が生ぬるいように感じるのだ(ちなみに新潟市だけは、東側の感じはしない。フォッサマグナの向こう側のにおいがするのだ。だから俺は新潟市の大部分の人間と合わないのだろう、ハハ)。

 だが、九州の人の音楽を俺は好きだ。
 陽水、こうせつ、甲斐バンド。
 だけれどこれは当たり前だが、西の方の人間が、九州の人間が、すべてクリエイティブだというのじゃない。真似っこだけのズルイ人間が多いのだが、そのラテン系の土壌だからこそ、ある一握りの天才が生まれたのだろう。

 そして青森県や秋田県の寒い土地からも、俺の好きな歌手が出ている。
 三上寛。友川かずき。
 良いものは、ヘンピな場所から生まれるのだろう。

 宝塚にも、九州生まれや東北生まれの女優がいるのだろうか。
 もしいたら、新しい演出と演技が、見られたかもしれない。

天気予報は文明

 大きな台風は新潟県をそれたようで、オオゴトにはならなかったな。
 昨日の夜、何年かぶりの大型で強い台風が来るぞ、来るぞ、とテレビが騒いでいたから、久しぶりに窓に鍵をかけた。
 そのときに外をしばらく眺めたのだが、いつもと変わらない静かな夜で、明日台風が来るなどということは感じられなかった。

 昔の人は、台風が来るとか、大雨が降るとか、何か悪天候のサインが分かっただろうか。
 多分わからなかったと思う。
 いつもどおりに暮らしていて、それが急におおかぜが吹いたり、おおあめが降ったりして、思いがけない怖いことが降りかかって、慌てふためいただろう。

 今では明日がどんな天気になるか分かるのだから、不思議だし、それで台風の備えもできる。
 ありがたいことだ。
 天気予報というのは、人類の文明の中でも、価値があるものだなと思った。

 台風が通りすぎたら、季節が変わったみたいに、なんだか急に寒くなった。
 今夜は長袖を着て眠ろう。

商売でやっているのならば、更新するのは最低限のマナー

 俺は一週間おきぐらいにホームページを手直ししているのだが、それはおもに細かい場所の、読点を打つ場所を変えたり、てにをはを書き換えたり、htmlの不備を直したりだ。
 そして一ヶ月に一回、トップページの一番上の部分、「季節のハウスクリーニング」というのを変えて、更新している。

 俺がよそのホームページを見に行く動機は、新しいことを書いているだろうということだ。
 内容が変わっているのを見るのが楽しいのだ。
 だから俺も、自分のホームページを新しくするわけだ。
 ブログならなおさらだ。
 更新のペースを決めて、それに合わせて書く。

 商売でやっているのなら、更新するのも仕事のうちのわけだから、それを怠っているのは、いくらいいことを言っていても、そいつは怠け心の人間であって、結果を出すことを怠けているわけだから、そういう人間は仕事は出来ないというのが透けて見えるのである。
 俺が客として業者を見るときは、それは大事なことだ。

 俺は、自分を怠け者だと思っているし、いい加減な人間だということを自分で分かっているのだが、そういう俺でも、まあまあやっているのに、商売上で自慢だらけのブログを書いている人間が、自分勝手のペースで更新するのは、そいつの人間性を信用できないのである。
 内容は置いておくとして、せめてペースを守って更新するのが、商売の看板を出しているという、世間に対する仁義だろう。

 俺が何かの仕事を依頼しようと思って、業者のホームページを見たときは、必ずそこの社長ブログをチェックする。
 世間のブログに、しかも商売でやっているブログに、その中身など期待していないが、せめて、その更新ペースが守られていることが、最低限の仕事人の意気地だろう。
 だから、一週間も新しいことが書いてないブログを恥ずかしげもなく出している業者は、信用しないことにしている。
 だが、そういう企業ブログが世の中の九割以上なのだから、世の中は馬鹿であふれていると思うのである。

 もちろん一ヶ月に一回という更新ペースのブログもある。前に紹介した宋文洲のブログは一、二ヶ月に一回の更新だが、その遅い更新を俺はいつも待っていて、新しいものが書かれたら、すぐ読みに行く。そして感動させてもらっているのだ。
 宋文洲は、遅くなっても、その一定の遅い更新ペースを守っている。だから信用できるのだ。

 趣味で書いているのならペースを作ることは要らないが、商売として顔と名前が分かるようにしているのなら、ペースを決め、それを守るのは最低限の仕事の広告マナーじゃないだろうか。

 自己満足で根拠の薄い自慢タラタラの内容と、上から目線が先走って、それなのに三日も四日も書かないで、いや何週間もホッタラカシで、更新ペースがバラバラなのは、自分は頭が悪く怠け者だと公言していることだというのを思わないのだろうな。

 まあ、そんなのは相手にしなければいいのだが、同じ業界の人間だと、業界自体が低レベルに見られるわけだし、そうなると世間から、この業界には低レベルの人間しか居ないと思われて、そうなると、料金だって低くてもいいじゃないかと思われるわけだ。
 ということは俺にとっても迷惑なのである。

 俺は万が一、ブログを書くのが嫌になったら、ホームページを更新するのが面倒くさくなったら、さっぱりと、止めるだろうなと思っている。

国民体育大会はもうやめるべき

 新潟国体の総合優勝は新潟県だったらしいが、昔何かで読んだが、毎年開催県が総合優勝になるように、有力運動選手を、住民票を移すかどうかは知らないが、開催県のチームに入れて、その県の選手として出場させるらしい。
 だから開催県が総合優勝するように決まっているそうじゃないか。
 馬鹿馬鹿しい。
 俺でさえそんなことは知っているのだから、そんなマヤカシは世間で問題になっていて、もうとっくにやめていると思っていたのに、まだやっているのか。
 八百長もどきの順番付けなど汚らしい。
 もうそろそろ国体なんていうのは止めたらどうだ。
 毎年運動の大会をする必要もないだろうに。それぞれの運動種目は、それぞれの何かの大会があるだろうに。県でやる大会をわざわざする必要はない。

 それに、国体ってのは税金でやっているのだろう?
 一般の人々が国体を楽しんでいるわけではない。
 運動選手と関係者が自分で楽しむためと、運動選手と関係者が食うために、税金を使っているのだろう?
 それは泥棒だぜ。
 民主党は無駄を見つけて無駄なことを止めると言っているが、国体も三年後くらいをめどに、止めることに決めたい。

 どうしてもやりたいのなら、自分で金を出してやればいいじゃないか。
 それがスジミチだぜ。
 やり方を教えてやる。
 運動選手を含めた関係者は日本中で三千人はいるだろうから、一人三万円出して、あと少しは寄付をつのって、そうしたら一億円集まる。
 一億円の元手で運営して、観客からは一人千円くらいの入場料を取って、そうすれば出来るのじゃないのか?
 もし観客が入らないのなら、それは金を出してまで観なくてもいいと思われているのだから、世の中から要らないと思われているわけだ。
 だったらそれは、なおさら税金でやる意味はないということだ。何故ならそれは、一般の人から、他者から、必要と思われていないものだからだ。

 広く一般の人々に必要なものだけこそが、税金でまかなうべきことだ。
 ある特定の人間たちのためにやるものは、その人間たちがコストを払うべきことだ。
 それがスジミチだ。

 だから国体は、やめるべきものなのである。少なくとも税金を使うのは駄目だよ。

パソコンの配線をしばる

 パソコンをデスクトップ型にしてから配線が増えて、その配線の下を箒で掃くときに、ぐしゃっと一つかみにめくるように持ち上げて、掃いてから、またどさっと置くから、配線がこんがらがって、それを何回か繰り返すと、配線が固まりになっていって、マウスのコードが固まりに引き寄せられて短くなって、マウスを動かしずらくなるのだ。
 だから一つ一つのコードを水道ホースのように丸めて、糸でしばった。
 マウスの配線、キーボードの配線、モニターの電源コードとパソコンへの配線、パソコンの電源コード、モデムの電源コードと配線、電話線。
 糸を使ったのは、ビニールひもだと熱で溶けるとか、溶けないまでも何となく良くないのじゃないかと思ったのだ。
 一本ずつをまるめて、それを四箇所ずつぐるぐる糸でしばった。時間がかかった。
 これで、それぞれのコードは絡まないようだ。
 ためしにつかんで、どさっと置いてみたが、良いようだと思った。

秋の月に見られている

 今日は今年の中秋の名月だそうだが、夕方からの月はよかった。
 東の空の低いところで、水色の雲と一緒に遊んでいるような大きく丸い月は可愛かったな。

 暗くなって、月あかりで見える雲の中で、満月が浮かんでいる。
 雲のせいで、あらわれたり消えたり、三日月になったり、雲のカーテンに隠れたり、いろんなかたちを見せている。

 部屋の電気を消してみた。
 しばらく見ていると、月の色は白く透き通ってきて、さっきより高くのぼっている。
 お月見のBGMは鈴虫バンドだ。

 大昔の人も、こんなふうに今夜の月をながめていただろう。
 今日のためにとっておいた酒を飲みながら、月を見ただろう。
 好きな誰かといっしょに、月を見ただろう。

 僕はうっとりと月を見ている。
 月も空から僕を見ている。

   ◆

 次の日明け方、なぜか目が覚めて、西の窓を開けて空を見たんだ。
 星も雲もなくて、黒いスクリーンが広がっていて、その中で月だけが一つ浮かんでいた。
 真っ黒い幕の、一箇所だけ斜め上に穴があいていて、誰かが向こう側から懐中電灯でこっちを照らしているみたいだった。
 僕は月をしばらく見てから、また眠くなって窓をしめた。

携帯業界はまだ膨らんでいる

 新しくした携帯はとてもいい。一番いいのは薄いことだ。携帯を替えるたびにだんだん薄くなっている。
 ズボンのポケットに入れるのに厚ぼったいと、脚の付け根あたりが膨らんで、自分の動きがさまたげられるように感じるのだ。
 次にいいのは、文字の打ち方や音の出かたが、自分の好きなように変えられることだ。自由度があって、自分のいいように使えるのがうれしい。

 だけれど駄目なところがある。スケジュールのアラーム音量が上げ下げできないところ。目覚まし時計代わりに使うとき、音が大きいと、びっくりして心臓に悪いのだ。
 だがそれも、マイルドな音を使えば解決することだし、スケジュールじゃなくてアラームで起きればいいのだけれど。アラームなら音量調節が出来るから。

 そしてワンセグという機能が付いているが、使わない。
 携帯でまでテレビは観ないから。

 たしか、前に買った携帯も褒めた。
 携帯電話というものは、年年よくなっているのだと分かる。
 まだまだ、のぼりざかりの業界なのだろう。
 買い替える人間が多いから、しかしそれは買わせる戦略が効いているのだろうが、いまだに業界のパイが膨らんでいる最中で、そのハード商品も開発が進んでいるのだな。

 もう携帯の機能はこれくらいでいいと思っているのだ、しかしまた二年後に、それをどう思うかは分からない。

古米も食べる、食べる

 去年のコシヒカリを父親からもらった。
 今それを食べているが、美味くないのだ。
 茶色い袋に入った30キロの玄米だ。
 それを健康のためにと思って80パーセント精米にしたのだが糠臭いのだ。
 前に新しい玄米をもらって同じように八割の精米で炊いたがおいしかったのに。
 梅雨を過ぎると古米になるというが、やっぱりそうなのだな。

 うまくはないが食べられるのだから食べる。
 おいしくないから誰かにあげるわけにもいかないし、さてどうやったらうまく食べられるかと考えたら、炊くときに酢を小さじ一杯くらい混ぜて炊いたら、まあまあ臭いは消えたから食べている。

 米ぬかごときを健康のために使おうなどと、姑息なことを思っていたから悪いのだろうか。
 まだ茶色い大袋の半分が残っているから、今度は無洗米になるぐらいに強く精米してみる。
 それでも駄目なら、いや駄目でもおいしくしながら、食べるのである。

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