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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

タイヤ交換は季語

 おおむかし十二月一日に初雪が降って、出社にすごく時間がかかったのを憶えているから、雪国にいるときは、その日までにタイヤを替えている。
 今年も一週間前に履きかえた。

 雪は大嫌いだったが、それも生きているなかの在るものなのだと思えば、おもしろい。

 替えたタイヤを洗って、三日間乾かして、水気をとってから、床にゴムの跡が付かないように紙を敷いて、春までしまうのだ。
 これは雪国の歌をつくるときは、季語になるだろう。

いのちは循環 きれい

 小泉首相が前に、政治家とは使い捨てと言っていた。
 もっともだと思った。
 政治家だけではない。
 すべての職業人が使い捨てなのだ。

 いやすべての人間が
 すべての生き物が
 すべての命が
 使い捨てなのだ。

 命は、瞬間瞬間で終わる。
 すぐに終わって消えるものなのだ。

 命は、自分のDNAのためにあるわけではない。
 まわりまわって、知らない命に使われているのだ。

 それを循環というのだ。
 それはきれいなのだ。

仕分け人のオンナ頼み

 民主党の仕分け作業は良いことだ。
 仕分け人が偉そうだと言われているようだが、俺から見たら別に偉そうでもない。普通の顔つき目つきで仕事をしているし、喋っている中身も偉そうではない。

 ただ、女を、それも民主党議員では若くてまあまあの顔のオンナを真ん中に据えてやっているのはパフォーマンスだな。
 仕分け作業自体がパフォーマンスなのだろうが、悪いことではないのだからそれでいいのだが、レンホウとかいうオンナと(これは美人すぎるのだが、たぶん美容整形をしたのではないかというぐらい女離れしているぐらい美人すぎるのが、浮世離れした顔で政治家向きなのかもしれないが)、それともう一人、いつも田舎っぽい黄色かオレンジの原色のスーツを着ている、加茂市がある選挙区の、何とか真紀子というのが真ん中に座っている。

 これは女を矢面にして前に出して、タカリ根性でソネミ根性の日本人たちから見ると、仕分け人たちが高圧的に見えるところを軽減させる魂胆だろう。
 だが、まあ良い。無駄をなくすのならば。

 それから仕分けというのは財務省に踊らされているというふうに世間の浅はかな者どもが言っているようだが、今は順番に仕分けているだけだ。
 今は財務省に手伝わせて仕分け業務をしているだけであって、これからおいおいと財務省関連のものも仕分けていくわけだ。
 もしそうしなかったら、民主党が次の総選挙で負けるだけだ。

新潟市長と新潟県知事の人間の不出来さ

 昨日の帰りに車のラジオで言っていたが、大和の社長と新潟店の店長が、新潟市長に、「撤退してごめんなさい」と挨拶に来たという。
 市長の篠田は、「商人の義はどうしたんだ?」と言ったらしいが、何を高みから立って物を言っているんだ。
 義などという自分でも分かっていない言葉を使って。無神経で頭が悪い。
 篠田は俺が留置場に入っていたとき読んだ新聞に、「市役所の職員を怒鳴りつけている。職員から煙たがられている」と書かれていたから、やる気のある結果を出そうとしている人なのだと思って、留置場の中で不在者投票をしたのに。

 民間企業が赤字でこれからも赤字だろうと思ったら、その商売をやることはないじゃないか。
 だったらてめえがやってみろ。
 これまで大和があったから益を受けてきたことは沢山あったはずだ。それを考えないで、思い出さないで、今だけの自分の不利益だけを声高に言い立てるミミッチイ根性。
 さすが新潟市生まれだぜ。根性が汚らしいぜ。

 篠田が言うべきことは、「今まで新潟市を盛り上げていただいてありがとうございました。これから私たちも頑張りますので、大和さんも頑張っていただいて、また新潟市にお店を開いていただける日を待っています」ということだろうに。
 新潟市で生まれ育った篠田は、人間として駄目だ。
 篠田が部下に怒鳴っていたのは、ほとんどの新潟市民と同じように、単に威張りたがるためだったのだな。

 泉田という知事も偉そうに大和の社長に、無神経にコウシャクをたれたらしいが、どいつもこいつも商売をやったこともないくせに、というかラクな商売の大きい会社のラク仕事と、税金で喰っている官僚という公務員仕事しかやったことがないくせに、商売とはなんぞやということも知らないくせに、それを考えぬいたこともないくせに、だからなのだろうが偉そうに高みからものを言う。

 あいつらが、俺が払っている金から給料を取って、ふにゃふにゃとした顔で生きているのは腹が立つのだが、何とかならないだろうか。

 あいつらに一週間、大和の店で研修をうけさせたい。
 店頭の接客から、倉庫の荷物運びから、便所掃除から、店の前のドブ掃除から、商品の飛び込み営業セールスもだ。
 いや、それじゃ足りないな。商品の仕入れ、商品の値決め、商品の陳列、商品のたたみ直し、作業の段取り、人の募集、人の配置、部下への指示命令、QC活動、集客のための広告やパブリシティや広報、店の出店計画、金の借り入れと、そういう商売のことをやってみろ。これだけじゃないんだぜ、やるべきことは、まだまだあるんだぜ。

 一ヶ月くらい研修を受けて、いや、こき使われて、仕事とは何をすべきかということを、そういうことを分かれば、あいつらも、ああいう横柄で無神経なことは言えなくなるだろうし、即刻辞表を出すだろうか。

新型インフルエンザだったか

 ちょっと前、咳とくしゃみが続いて、生まれて初めてなのだが右の肩というか腕の付け根の盛り上がっているところの筋肉が痛くなって、体じゅうの間接が固くなって、左上の奥歯の親知らずが生えるところの歯茎が痛くなって、胃がキリキリ痛くなって、そういうのが三、四日つづいた。
 それは今までの重い風邪とは違う場所が痛くなったのだ。
 だが熱は出ないし体はそれほどだるくないから、普段どおり作業は出来てしまうのだ。
 作業のない一日朝から夕方まで、しっかり食べて、ふとんをかぶって暖かくして寝ていたら、だいぶ良くなったのだった。
 そしていまはもう治っていて、元気なのだ。

 お医者に行ってないから正確なところは分からないが、それはたぶん新型インフルエンザだったのだと思う。
 新型のは軽いとテレビで言っていたし、特に中年以上の人間はかからないし、かかっても軽いのだと。
 そうであればラッキーだったと思う。

 新型のワクチンが足りないとかどうのこうのと騒いでいるが、世の中のたいがいの人間は、しっかり栄養をとって、ふとんをかぶって寝ていれば治るのだから、ああいう騒ぎは、猿芝居というか、ごっこ遊びというか、暇な人間が趣味でやっているひまつぶしなのだろうと思う。

越後とはどこか

 越後というのは本来、直江津のことだろう。
 越前、越中、越後と、それぞれの相対的な距離からいっても、歴史からいっても、高田直江津が、越後というのだろう。
 新潟県のほかの場所が越後と称しているのは嘘っぽい。卑怯っぽい。
 せめて、上越市と魚沼地方と長岡市だけが、越後と名のるのは許されるだろう。
 それ以外の街は正直に別の名前でいくべきだろう。

トクッピは弱者の戦略で行け、GO

 近くのスーパーで、トクッピという新しいフリーペーパーをよくもらってくる。
 フリーペーパーは、とくにクーポン広告をメインにしているフリーペーパーは、中身がないから見たくないのだが、トクッピだけは中身がないのは置いといて、どうしてか見たくなるのだ。
 何が見たくさせるかというと、雑誌のキャラクターの擬人化した犬とスーパー袋を見ていると、なごむのだ。
 馬鹿馬鹿しい雰囲気なのだが、つい見たくなるのだ。
 それに一週間分のテレビの番組表は便利だし、料理だとか風邪予防だとかの豆知識もまあまあ面白い。

 ページをめくると広告は少ない。
 ということは経営的には苦しいだろう。
 この雑誌には頑張ってもらいたい。
 といって俺が広告を出すのは別問題だ。
 俺の商売はまだ黎明期なのだから弱者の戦略でいかなければならない。ということは他人が作っている媒体に広告を出すべきではないのだ。それは独立したばかりの頃、新潟情報にエアコンクリーニングの広告を出したが、まるで広告効果はなかった。
 そのとき、弱者は見込み客を絞って、直接アタックしかないのだと悟ったのだ。

 トクッピも弱者の戦略で行くべきだろう。
 であれば、顧客を絞りに絞って、徹底した差別化と、自家製造と直接販売がキモだ。
 トクッピに広告は出せないが、少なくとも読者でいたいと思う。

イナカモンは安易にセックス産業の真似をしてヤスイ雑誌をつくる

『美少女図鑑』というのがあって、それは新潟市から生まれたといって、それが町おこしになるといって、最近マスコミで取り上げられている。
 俺は四、五年前から仕事先でときどき読んでいた。

 初めて見たときに思ったのは、こりゃ東京の真似だなということだ。
 読者モデルをファッション雑誌に出して、それを売りにするというのがあの頃流行って、そういうのを真似しているのだろうと思った。
 真似するのは汚らしいのだが、それは田舎者のツネだからしょうがねえなあ、頭が悪いなあ、と思っていた。

 もう一つ汚いと思ったのは、オンナを売り物にしているところだ。
 不潔なんだよ。
 必要以上に脚を出していたり、必要以上に薄着だったり、必要以上に化粧をしていたり、そういうふうに、セックスを必要以上に感じさせる写真を売り物にしているのが、田舎者の安易さを連想させて、汚らしいのだよ。
 これは、頭の悪いオンナと、そういう人種を客層にしている店にしか受けないだろうなと思った。

 そして、頭の悪いオンナを客にしているのは、業種としてやっていけないよ。
 なぜなら、頭の悪いオンナは、そもそも金を持っていないんだから。
 バブルの頃の首都圏だったら、オンナそのものをズバリ売り物にできたけど、今は世間全体が金が回っていないんだから、オンナという商品を買う層というのにも金はないのだから、そういう風俗商品を売るにも買うにも、安くしかならないのだから。

 ただ、田舎で新しいことをしようとする意気込みは買う。
 だけど趣味が悪いよ。
 そんなことで町おこしになるなどと言っているマスコミも無責任だ。まあそもそもマスコミなんていうのは無責任なのだけれどさ。

 かわいそうだけど、断言するけど、美少女図鑑は駄目だろうな。
 もうほとんどの県でフランチャイズみたいに同じような雑誌が出来ているらしいが、イナカモンたちが、頭の悪い人間たちが、浅はかなやり方で儲けようとしてやり始めたのだろうけど、駄目だろうな。

ビートルズは昔

 こないだ夜中にNHKでビートルズをやっていた。
 ひさしぶりに観て聴いて好きだった頃を思い出した。
 それなのにどうしてか気持ちが燃えないのだ。
 それどころかビートルズを幼稚だと思ってしまったのだ。

 昔のものはそういうふうに思ってしまうのだろうか。
 数え切れないぐらいに聴いて観ているから、またかと思うのだろうか。飽きているのだろうか。
 それとも私の感覚が成長したか退行したか、すくなくともあの頃とは別のかたちで世界を見るようになっている。それはどうしてかさびしい気持ちもある。

 そうして観つづけようとしたけれど、眠くなったから消して、ふとんをかぶったのだった。
 だがあの番組を、もういちど昼間に観たい。

みんなの企画部

『みんなの企画部』
 商売上のちょっとしたネタを毎日更新している。だから毎日読んでいる。
 おもしろいし、ためにもなるし、毎日新鮮な気持ちになれるのだ。
 しかし毎日ネタを探すのは大変だろうに。

デフレの克服するには

 テレビでデフレだどうしようと騒いでいる。
 俺が思うに、中国やインドに輸出したり輸入して貿易すれば、日本より経済的に貧しい人と競争することになるわけだから、こっちも貧しくなるだろうさ。
 といって先進国だけじゃもう経済は回っていかれなくなっているんだから、インドや中国と経済でも付き合っていかなけりゃならないとなると、そういうところの暮らしぶりにも否が応でも合わせることになるだろうさね。しょうがないさね。
 そういう経済の向きは俺の商売にとっても困るのだが、しょうがないと思わなければな、ハハ。

 解決策は、インドや中国で出来ないことを商売にするか、経済とは世界を別にする商売、たとえば芸能とかスポーツとか、浮世離れした商売をやるしか、贅沢な暮らしをすることは出来なくなるだろうな。だけどそれもほとんど誰もが出来ないことだろうけど。

人生とは人生を燃やすこと

 今日、作業でラジオを聴いていて、NHKの頭の悪そうなアナウンサーが「たった一つの命、たった一つの命」とくりかえしていたが、なんだか聴いていて腹が立った。
 どうしてだろうとしばらく考えたのだが、命というものに価値をおいていることに、傲慢さと考えの浅さに違和感を持ったのだ。

 命には価値はない。
 価値があるのは、人生なのである。

 だから言うべきことは、「たった一回の人生」ということなのだ。
 人生はいっかいきりなのだから、大事に精一杯一生懸命人生を送るのだ。

 命というものを消えさせないことだけにうつつを抜かしていると、寝たきりの年寄りを生かせ続けることや、生まれてもすぐ死んでしまうことが分かっている赤ちゃんを何ヶ月か何年か生かせることに、そういうことに世間全体のエネルギーを使いすぎて、自分が生きて自分の人生を送っていると意識している人たちの、世の中の人間たちの、そういう人生を送ることが何よりも価値があるのだということを忘れてしまう。

 人生の価値は、長いとか短いとかは関係ないのである。
 命というものだけを思ってしまうと、人生の長さだけが価値だと思い込んでしまう。死なないことが価値だと思ってしまう。

 人生とは、量より質なのである。

 といって、誰もがいつも精一杯一生懸命とならなくてもいいのだが。
 なぜなら生まれつき精一杯生きられない人もいる。
 だから自分なりの精一杯でいいのだ。

 人生で何が価値があるかというと、俺が思うに、人様に迷惑をかけない範囲で、自分の価値観にそって生きるということだと思う。
 それが出来たら、長さより質だなあと思えるのだと思う。

 そういうことに近くて別のことを思い出した。
 俺は人に、「仕事とは結果を出す事だぞ! 結果を出せないのなら辞めろ! 今お前の出すべき結果とは何だ? 答えられないのか? それなら仕事をやる段階にも達してない! 甘えるな! 消えろ! 死ね!」と怒鳴ることが多い。

 仕事とは結果だ。
 だが、人生とはプロセスなのである。
 生きる過程というか道程ということそのものこそが、人生なのだ。

 人生は命を長くすることではないのである。
 人生とは、自分なりの長さの人生を味わいながら、自分自身の人生を燃やすことだ。

 そうして自分の人生の甘みも、塩っからさも、酸っぱさも、苦味も、そういういろんな味をあじわうことだ。
 そうして、頃のいいところで死ねばよいのである。

~ねという語尾が嫌い

「ですよね」という語尾がブログによくある。疲れるからソッコウで他に画面を移す。
 なぜ疲れるかというと、その物言いは頭が悪くて傲慢だからだ。
 その物言いは人様に自分の意見を強要している。それを自覚もしていないから救いようがない。
「~ね」というのは、念押しとか命令に通じるのに。
 それと、それは自分の意見を言うのに自信がないみたいだし、自分の意見をぼかしているみたいだし、何かで隠しながら言って、なし崩しで済まそうとする卑怯さを感じるのだ。

 手紙文の中で、その相手がよっぽど親しいならまだいいが、世間一般に向けて書いているらしいブログで、~ね。~ね。は駄目だ。
「だよね」というのもあるが、ちょっと前のラップを思い出させて腹が立つ。俺はラップは嫌いなのだ。理由は面倒くさいから書かない。

 ~た。~た。~た。と続ける語尾が俺は好きなのだが、それだと殺風景だから、ちょっと他のも使うだけなのだ。
 だが、た。た。た。は、いさぎよくて気持ちよいのだ。

 それなのにうちのホームページは「~ですね」という語尾を多用している。
 反省している。が広告だから、このまま行く。
 だが、「~ですよね」は、なんだか馴れ馴れしいから、それは使っていない。

ひじの曲がりぐあいは自然がちょうどいい

 マウスパッドを買った。百円ショップで買うものがあって、そのついでに買った。
 私は畳にあぐらをかいてパソコンを使っている。
 そして畳の上に本を三冊置いて、その上に辞書を置いて、その上でマウスを動かしている。
 その高さがマウスを動かすのにちょうどいいのだ。

 座り机はせまいから、モニターを置いて、キーボードを置いて、食べるものを置くと、マウスを動かすスペースはないのだ。
 それに座卓の上でマウスを動かすのは、腕を上げすぎることになって、ひじがつかれるのだ。
 だから畳の上でマウスを動かすのだが、今度は下すぎてひじを伸ばすことになって、そうすると手首が曲がりすぎて痛いから、丁度いい高さにするために本や辞書を置いたのだった。

 辞書はマウスを動かすしやすいのだが、狭くて画面の中のポインターを動かすのに面積が足りなくて、偶然百円ショップでマウスパッドを見つけて、光学式ボール式共用と書いてあったから買った。
 今のところ具合はいい。ダンボールみたいなのを台にして、その上にパッドを置けば手首も疲れないだろう。

 そういうことがあって思ったのは、何かの作業のときに手を置く丁度いい位置というのは、人間として決まっているのだと思う。
 一番いいのは腹から股にかけての高さに手を置くと、作業がしやすいのだと思う。
 今マウスを置いている位置も、股のあたりだ。
 ギターを弾くのも、手は腹のあたりだ。ピアノのときも手は腹のすぐ上あたり。
 バイオリンは首のあたりだが、それはたぶん、ひじの曲がり具合が自然な角度なのだと思う。
 人間工学という言葉があるが、ひじと手首の自然な曲がり具合が、いい仕事をさせるのだろう。

 そういえば男がおしっこをするときも、ひじは自然な曲がりで自分のものを持つ。生きるうえで大事な行為をするのは、自然のなかでちょうどいい疲れないやり方をしているのだと分かる。

SNS嫌い

 Twitteというのが流行っているそうだが、まるで興味がない。あんな短い文を垂れ流して何かが生まれるわけがない。
 あれは何かを思いついたときに書くメモのつもりなのだろうが、本当はメモにはならない。メモというのは人に見せないから自分の想いだけを書くことができて、それにこそ価値があるのだが、ツィッターは必ず無意識にでも人に見せようとして書く。
 人に見せようと少しでも意識が入ると不要な飾りが付いてしまって、メモとして役立つものにはならない。
 メモは手帳に書くほうが、いいメモになる。

 メモではなくつぶやきを聞かせたいと思っているのならば、お前のようなどうでもいい人間の、どうでもいい内容のつぶやきなど聞きたくないといいたい。

 そしてあれだけの短い文では、論理的に考えて構成することができないし、そういう能力はみがかれない。俺自身は構成力がないのが悩みだが、なんとか文章全体を構成できるようになりたいと思っている。
 だがツィッターを書きたがるような人間は、もともとそういうことを目指していないだろうし、そういう人間の呟きなど、ひらめきもないだろうし、読む価値はないということだ。

 ちょっと前はmixiというのが流行っていた。あれも嫌いだった。
 ミクシィは紹介で仲間内に入って、日常のことを書くものらしいが、内輪受けそのものでいやらしい。
 正々堂々としていないというか、陰でコソコソしている感じが好きになれない。

 そうして最近はフェイスブックというのがあるらしい。実名と顔写真を出したミクシィというものだろうか。
 本名と顔を出すのはすがすがしいが、そこらへんにいる人間が名前と顔を出しても、それがどうしたと思うし、そもそもそこらへんにいる人間の書くものに興味がないから、フェースブックというのもどうでもいい。

 俺は今のところブログで手一杯だし、ブログは長いものも書けるし短いものも書けるのがいい。誰かに頭を下げて紹介してもらって仲間内に入って書くこともないし、実名や顔を出したいなら出せるし、出したくないなら出さなければいいし、そういうところがいい(ミクシィはずいぶん前に紹介制をしなくなったらしいが、中の雰囲気はそういうもので、内輪受け楽屋受けの雰囲気だろう。そういう内向きなところが嫌いなのだ)。
 そしてブログは長いものは全体を構成するということを意識するし、短いものは感覚で書く。そういうところがいい。

食料品の値段、去年と今年

 ちょうど去年の今ごろだったろうか、食べるものが値上がりしたのは。
 ラーメン5袋198円だったのが、298円、348円になっていった。
 餃子一袋も198円のが、238円、258円になった。
 野菜も値上がった。ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎが1,5倍くらいになった。

 あれから野菜は値下がりすることもあったが、ラーメンや餃子は高いままだった。
 だがPB商品が多く出て、ジャスコや原信でラーメン5袋で198円のも売り出していた。

 魚は季節で安くなったり高くなったりしているが、それは毎年のサイクルを同じようにきざんでいるだけのようだ。
 肉はどういうわけか去年より安くなっている。鶏の胸肉はふだん100g58円で、売り出しで38円のときもある。もも肉はブラジル産だと58円のも売っている。豚も牛も高くはない。

 一部の食料品が高くなるのは悪いことではない。
 加工の具合で、手間のかかり具合で、値段が高くなることは自然なことだ。大袈裟に言えば付加価値があるものは高いのが当たり前だ。
 そしてPBのように安いものもあるのだから、選択肢があるのだし。

 私の場合は酢はNBを買うし、ラーメンはPBを買っている。それぞれで、買いわけている。

喋りも作業のうち

 喋らずに手を動かせという言葉があるが、俺は喋りながら手を動かせと言いたい。
 お客さんの前で何も言わずに黙って作業するのは失礼だと思うのだ。
 しゃべりでお客さんを喜ばせることも作業のうちだと思っているのだ。
 作業の中で、手だけに集中すべきときはある。そういうときは黙る。
 それはお客さんも分かると思う。

 喋るといっても、昨日観たテレビドラマやバラエティー番組のことやなんかを話題にしたくない。俺がそういう話で面白がれないからだ。
 そういうことで嬉しがる人は、俺のお客さんにはいないから大丈夫だし、それにそういう人はそもそもハウスクリーニングを頼むことはないだろうからさ。

 文学とか哲学とか音楽理論とか、そこまで世間離れしていなくとも、経営とか、人とは、の話をしながら、いつも俺は手を動かしている。俺のお客さんたちも、そういう話を俺にする。
 そういう話が出来ない人間は、ただの作業員は、ハウスクリーニングを頼むような経済的に余裕があって精神的に進歩的で、頭のいい人の家の中に入ることは、出来ないだろうな。

バブルをはさんだテレビドラマの変わり

 テレビドラマは観ない。観ると疲れて疲れて、そして腹が立ってくるからだ。
 それはバブルが始まるちょっと前からだった。
 そのころ、「そんな言い方ないでしょ!」というセリフをドラマの中でよく喋っていた。
 言い方よりも、言うことの中身が大事なのに、言い方のほうを問題にしている物言いに、いつも辟易したのを憶えている。

 その頃のテレビ広告が持つ価値観にも違和感を覚えていた。
 なんというかどう言えばいいか、簡単にいうと、正義感がなおざりにされている風潮だった。
 儲かればいいという価値観が先にたっている感触がぷんぷん伝わってくるものが多くなっていた。
 それは85年から89年頃だ。

 90年91年は、またテレビドラマや広告のつくりが変わった。
 その頃はもう俺はまるでテレビを観なくなっていたから、断片的に観たものの感想だが、キムラというジャニーズのイイオトコといわれたタレントの出たドラマがすごい視聴率で、俺は観ていなかったが、何かでそれが話題になって、ロングバケーションは観ますかと訊かれたから、俺は大滝詠一のロングバケーションだと思って、なぜ聴くと言わないで観るというのだろうと不思議に思ったことがあった。

 バブルの頃のドラマや歌は、ふんだんに金がかかっているという雰囲気があった。それはバブルの前の、姑息な感じから脱皮していたように思った。
 だが、今から思えば知的な感じはしなかった。肉体的な欲望を満たそうとすることに、ことさら一生懸命なだけだったと思う。

 じゃあ今はどうなのだろうと時々思うのだ。
 世間のことは置いておいて俺のことを考えると、自分に付随しているものを、極限までそぎ落とそうとしているように思える。
 増やすことより、減らすことを目指しているようだ。

 聞くところによると、テレビドラマの番組は少なくなっているそうじゃないか。
 歌も、それほど流行っているものがあるとは聞かない。
 テレビ広告はひねりのない、直接的に買え買えというようなものが多い。

 時代は、深く考えるということをしなくなっているようだ。深く感じるということもないみたいだ。
 自分の権利は声高に叫ぶのに、自分の義務は知らぬふりをしているみたいだ。
 公徳心などということは何のことだと親に聞いてもどの親も知らないし、そもそも誰も公徳心などは持ち合わせていないだろう。
 だんだん日本人という人間が幼稚になっているのだろう。無神経になっているのだろう。

チャレンジャーで玉こん

 チャレンジャーで味付きの玉こんにゃくを買った。弥彦神社の玉こんを思い出したのだ。 
 さっそく鍋にあけてあたためて食べた。
 しょっぱすぎてうまくない。半分かじると中まで茶色が染みこんでいる。味も単純な醤油味しかしない。

 買ったのは1キロで298円で、ピンポン玉くらいのが数え切れないほど入っている。
 買うときに100グラムで100円という袋があって、それと比べて割安だから大きいほうをカゴに入れたのだ。
 チャレンジャーではまだ、こういうどこのものとも知れないものを買うべきではないな。
 だが店ははやっている。全体的にこないだより安くなくなったようだが、客は多い。

 玉こんは、塩がききすぎているぐらいだから悪くならないだろうし、水でうすめて煮て味を薄くして、ちょっとづつ食べようと思う。

出刃包丁の役割

 百円ショップで包丁を買った。使っていたぺティナイフぐらいの小さめな包丁が切れなくなったのだ。
 それまでもいつも買おう買おうと思っていたのだが、ここ何年かのニュースで、包丁を買うということが何か危ないことをするように見られるのじゃないかと、いらぬ心配をしてしまって買えなかったのだ。
 そういえば二十年ぐらい前も、それまでは小さな子供や赤ん坊を見ると俺は笑いかけたり手を振ったりしたのだが、その頃に幼女誘拐だの子供を殺しただののニュースが流れて、ヘンな人に見られないようにそれからはもうそういうことはしないようにしたのだった。

 だが包丁も、まな板とかレンジカバーとかと一緒に買えば、引っ越ししたばかりの人が買い物にきたという雰囲気をかもし出せるかなと思ってそうした。
 げんに魚を切るために、まな板は必要なのだが今まで持っていなかったから、チラシ紙を何枚か重ねた上に買ってきたパックを置いて、その中で左手で魚を持って、右手で包丁を持って、パックに穴をあけて魚の血が下に流れ出ないように、空中で、切れない小さい包丁で何回にも分けながら切っていたのだ。

 さて、買ってきた小ぶりの出刃包丁を、魚はないから、まずニンジンを切ってみた。
 どうしてか切れあじは悪い。
 玉ねぎを切ってみた。これも切りにくい。
 今までの切れない包丁で切ってみたら、古い方のが切れる。

 こんどは鶏肉を出刃で切ってみた。
 切れた。とてもよく切れる。

 ということは、出刃包丁は肉、魚を切るためのものなのだなと、改めて知ったのだ。
 りんごはどうだろうかと、これから試す。

酒井法子は介護業界など入れないから、子供をつくれ

 酒井法子が介護業界に入ろうか音楽療法士になろうかとか言っているらしいが、どっちも無理だよ。

 まず、介護の仕事は誰にでも出来る。体もラクだ。給料が安いといわれているが、今のご時世の中では安くはない。現場の仕事内容というか作業内容自体は楽しいと俺自身は思っている。

 だが悪い意味で一人では出来ない仕事だから、組織に入らなければならない。
 それが介護業界にいる人間たちは、被害者意識の固まりで、それが元になっているのか意地悪な人間ばかりで、そうして横並び意識の固まりの家畜根性でもあって、かつ奴隷根性でもあり、だから人と同じでなければ怖くて怖くて生きていられない、人の顔色を卑屈にうかがうことばっかりと、それでうまく立ち回ろうとすることに忙しく、だからなのか自分より弱い立場の人間を傷つけようとする精神の奴らばかりだ。

 ということは、元タレントなどという人間が入ってきたら、何とか排除しよう排除しようとして、そうして陰にまわって、あるいは面と向かって、意地悪といじめをする。
 それはお客である老人に対してさえ、意地悪をしている人間ばかりで、それを自覚できない人間ばかりなのだから。

 だから酒井法子が介護業界でやろうとしても、その中で一生懸命やろうとしても、現実問題としてそこに居られなくなるのだよ。
 何故それが分かるかというと、俺がそうだったからだよ。
 福祉などといっているが、その中にいる人間は、精神的におかしい人間ばかりだった。
 しかし俺一人でやれるのならば、あるいは俺がトップで俺の方針でやれるのならばまたやりたいと思っているが、今のところは足踏み中だ。

 それから酒井法子が音楽療法の道に進みたいなどとキレイなことを言っても、音楽? 療法? ヘタな歌をシナをつくって唄うしかできないあいつに何が出来るんだ? と俺でさえが思うのだから、実際に現場でやっている人からすれば、ラクな商売をしてきたタレントの犯罪者が何を頓珍漢なことを言っているんだ? 生意気な! 笑わせるな! と言うだろう。

 だからな、酒井法子がやるべきことは、二年ぐらい芸能事務所の下働きでもして、ほとぼりが冷めたら、真面目そうな誰かと新しい子供でもつくって、その赤ん坊の可愛さで自分の罪のイメージをやわらげて、その一年後くらいに、世間に薬物の怖さを伝え、更生した自分の物語を伝える、みたいな売り出し方で動いて、それからだんだんとテレビに出そうか、なんて俺がマネージャーなら考えるけどなあ。

キーボードとマウスは動けばいいし、軽くて光学式というのがいいと思った

 この中古のデスクトップパソコンを買ったとき、おまけで付いてきたキーボードとマウスは、新品だった。だけどチャチかった。
 特にキーボードは持ったらとても軽くて、プラスティックだけで出来ている感じで、ただ文字を打つだけのものの物だった。それは安さだけを追求する、そのことに特化している、ある意味あっぱれな感じだった。

 マウスもやっぱり安いプラスティックのかたまりなのだが、それは光学式だった。
 光学式マウスというのを知らなかったし、それを初めて見た。
 マウス自体も軽いし、ボールがないから素早く動かせてなかなか良い。

 マウスパッドなど持っていないから、本を置いて、その上をすべらせている。
 本によって画面のポインターが動きやすかったり動かなかったりするのだが、よくないのは白地のツルツルしたのだ。
 よいのは辞書だ。この辞書は中学生のときから使っている外側が白地のビニールの。
 そのビニールは小千谷ちぢみみたいに一面にしわがあって、長年使っているから手垢で灰色になっている。
 だから光学式マウスのパッドにはピッタリなのだ。

 キーボードもマウスも、どっちもMADE IN CHINAと書いてある。
 たぶん原価はそれぞれ50円ぐらいのものだろう。
 パソコンの道具はこのぐらいのもので丁度いい。

今かわりましたという株価

 NHKラジオのニュースで終わりに株価を言うが、いつもアナウンサーは、「あ、今変わりました○○円になりました」とわざとらしく喋る。
 そんなに都合よくそのときに変わるものだろうかと不思議なのだ。
 それはたぶん演出だ。あざといのだ。

 株がいくらだとかいうのをニュースでやるようになったのは、バブルの頃からだ。
 NTTが民営化になって、その株が売り出されて、それがとても高い値段がついたというのをニュースでやっていたのを憶えている。

 テレビでも同じように、今変わりましたと言うのだろうが、それはおかしいと誰も言わないのもおかしい。

 民法のニュースは株価を言わないようだが、昔からなのか、バブルがはじけてからなのかは知らない。

 株や保険の、その金の流れの仕組みがまるで理解できないから、なおさら、「今変わりました・・」というのが気に障るのだと思う。

一回を何回もくりかえす記憶

 窓を開けていて書いているが、寒くもない。
 こないだの初雪は夢だったのかもしれない。

 それでもこの季節に、大風と冷たい雨が降るのは今まで生きてきて憶えている。
 毎年の季節の移りかわりが、自分の記憶に残っているのを知っている。

 稲つくりの経験は、人間ひとり、何十回しかない。
 それだけのなかで、練習をかさねて、結果を出さなければならない。

 一年草をあつかう職は、一年というサイクルで仕事をする。
 人生という長いようで短い中で、勉強しながら仕事をする。

 神社の裏の大杉は、何百年も生きている。
 杉は季節を憶えているだろうか、忘れているだろうか。

 窓の外の真っ黒な空に、月がぽっかり浮かんでいる。
 星は空をまわっている。月は星のあいだを歩いている。
 その一回ごとを、数えきれないほど、くりかえしている。

したごころがあるから死ぬことも

 最近人殺しのニュースを毎日やっている。
 女が何人も男を殺して金を騙し取って、いい車に乗っていいものを食っていたとか、男が外人の女を殺してセイケイ手術をして逃げているとか。

 殺した奴は捕まえて死刑にすればいいのだが、そういう人間に殺されたのは、どういうわけか同情できないのだ。
 何か良い目にあいたいという下心があったのじゃないかと思うし、それに生き物としての警戒心がなさすぎる。

 死なせられた人に同情できないという俺も、おかしい人間なのかもしれない。

キーボードを替えたいがもったいないし

 また書きかけの文を消えさせた。
 キーのどこかに手のひらが当たったのだ。
 このキーボードはキーが出っ張っているからだ、と道具の責いにするが実際そうなのだ。
 といっても慣れるしかないのだが。

 古町方面をもう一度活性化させることなど、そして路面電車みたいなのを造ることなども、どっちも根本的に無駄なのだというのを、根拠と一緒に評論的なものを書いたのだが、また気が向いたら書く。

豚肉→鶏肉→魚→野菜→思考が変わるか

 この一年、魚ばかり食べている。肉は鶏肉だけを食べている。
 それまで食べていたのは豚肉がほとんどだった。
 豚肉を食べた次の日、動いて汗をかくと、体から豚肉のにおいがするようになって、だから鶏肉に変えたのだが、それでも次の日は鶏肉のにおいがするようになったから、魚に替えたのだ。

 魚だと今のところは魚のにおいはしないようだ。
 魚といっても、鯖やサンマなのだが、どうしてか青ざかなに手が出る。
 青い魚が好きなのだ。鯖が一番好きだし、その次はサンマだ。一年中安く買えるのもいい。鯖やサンマの缶詰も好きなのだ。

 しかし肉がにおいがするというのも、それは食べ過ぎるからというのもあるだろう。
 手で握ることができるぐらいの量を食べるのなら、次の日に自分から豚肉や鶏肉の臭いがただようということもないのだろうが、ついおいしいから、200グラムは食べてしまうから良くないのだ。牛肉はもともと好きじゃないから、それまでは豚肉がメインで、その後鶏肉がメインになった。
 豚肉の栄養の、ビタミンBというのを摂るためというのも意識の中にあったのだが、それよりも客商売というのを優先した。

 たぶんだが、これから肉も、魚も、食べる量は減っていくのだと思う。
 野菜がほとんどの食生活になっていくのだろうと思う。
 そうすると体が変わるのだろうから、考えも、変わるのだろうと思う。そっちのほうを期待する。

猫の秋の春

 先月十月は夜中に何日も猫がうるさく鳴いていた。
 何匹かでさかっているようなのだが、喧嘩しているようでもあった。
 日付けがかわる頃から明け方まで一晩中窓の下で鳴いているのだった。
 そのたびに目が覚めて枕元の目覚まし時計を見ると、まだ二時か、もう四時か、もうすぐ六時だ、と思った。

 ある朝、自転車でゴミを捨てに行くとき、車道のすみに血まみれのものがあって、牛カエルかなと思ったのだが新潟市の街なかに牛カエルはいないはずだと思い直して、近づいてみると猫だった。
 一瞬私は何かをすべきかと思ったが、急いでいるということを言い訳にして、そのまま通り過ぎたのだった。

 別の日は、作業に行こうとして車に乗ろうとしたら、車の下からのそのそと灰色のかたまりが出てきたから、何だろうと見たら猫だった。
 猫にしては動きがひょこひょこして機敏さがない。よく見たら後ろの両足がカエルの足のように開いたままで、前足だけで自分の体を引きずっている。
 塀に飛び上がって向こう側に行こうとしているのだが、ジャンプする気持ちはあるようなのだが、後ろ足が利かないから飛ぶことができない。しきりにこちらのほうを振り向いている。そのたびに怯えたような目が私を見る。
 そのときも私は急いでいたからそのまま出たのだが、その猫がどうなったのかその後知らない。

 猫がなぜ怪我をしたり死んだりするのかといえば、たぶんメスをめぐってのオスどおしの争いで傷ついたのだろう。
 あるいはメスに乗りかかろうとして拒まれて、逆に噛み付かれたのかもしれない。
 猫というのは鎖につながれていないぶん、街に住むといえども、猫というのは自然を生きているのだなと思った。

近くには幸せはないのだと思ってしまう日常

 今日は急に寒い色の雨が降った日だったが、暖ったかい湘南は良いもんだったなあと思い出すけれど、ここより寒い北海道で暮らしたことがないのだから、北海道の人からみれば新潟は暮らすにはいい場所だと、そして自分のところの冬は辛いと思うだろうが、ロシアの寒さを想像すれば、あそこに比べれば暮らしやすいと思うだろうし、ロシアの人だって北極の熊や南極のペンギンに比べれば、ああ自分は幸せだと思うだろう。

 ホッキョクグマやペンギンが何を食べて生きているのか知らないが、そういうものたちに食われるものたちは、もし知性があったならば、自分を食べるあの白い毛の巨大な凶暴な生き物や、陸上ではのそのそしているくせに海に入ってきたら途端にすばしこくなる狡賢そうなクチバシのある生き物は、確実に自分たちよりも幸せに生きてると思っているだろう。

 そして雪など見たこともない暑い場所に住んでいる人は、毎日暑くて暑くて一度でいいから雪を見てみたい、雪に触ってみたいと思うだろう。

 幸せというのは、誰もが普段の自分の近くにはない遠い場所にある何かなのだと思ってしまうのだろう。それは俺もなのだろう。

郵政民営化を元に戻す根性を、頭の中を、洗濯させなければならない

 この間あることでゆうちょ銀行の窓口に行ったのだが、駄目な対応だった。久しぶりに怒鳴った。
 仕事のやる気もなければ、自分の仕事の知識を蓄えようという気もなければ、客に対して料金分の仕事をしようとする気さえもない。公私混同するだけの泥棒野郎の集まりだった。

 亀井しずかという人間が郵便局の担当大臣になって、生意気にも民営化を元に戻そうみたいなことをやっているが、あいつを誰かが辞めさせないかな。
 郵政を国営みたいに戻す弊害は、俺も細かい意見はあるのだが、長くなるから書かないが、簡単に言うと、景気が一時的にちょっと悪くなったとしても、国民が納めた公金を泥棒するよりは気分いいぜ、ということだ。そして泥棒しないということが、国の活力が生まれるんだよということだ。

 民営化になって、郵政の中の郵便の部門は対応は良くなっている。一生懸命さが見られるようになった。
 俺はそのほかの事業の、銀行、保険、そしてあと何か忘れたが、それらには用がなかったから、今まで関わらなかった。
 だから郵便事業以外の郵政の人間どもの、駄目さ加減を知らなかったのだ。

 ゆうちょ銀行の窓口担当の卑屈そうで、かつコズルそうな顔つきの男は、俺が書いて出した書類を、面倒臭そうに自分の机の上に投げたのだ。俺が見てる前で。
 それは無意識の行為だった。
 それには悪気はないのだろう。なぜならいつもしている事だから。
 だが悪気がないのが一番悪いのだのに。

 他にも窓口での無駄な喋りが多すぎる。無駄な書類が多すぎる。無駄に分かりにくくしていることが多すぎる。
 他の銀行への振込みに使う振込み用紙で、相手先の名前を書く欄に、自分の名前を書くのか相手の名前を書くのかさえも分からないようになっている。他にもほとんどが分かりにくくなっている。
 そして担当者は自分の内輪の言葉しか使おうとしない。たとえば記号番号とは何かをこっちは知らないのにその言葉で押し通そうとする。

 あいつらは、相手の立場に立ってものごとを考えようとすることをしない人間の集まりだ。自分勝手な人間の集まりだ。
 それは新潟市民だからかなと思って、ためしに、あんたは新潟市生まれか? と聞いたら、一人は長野県ですとか、一人は中越ですとかと言った。
 ということは、あの組織に浸っていると、ああいう傲慢な人間になるのだろうな。

 ただだが、中越生まれですと言った女は、俺に怒鳴られてからは、テキパキと小走りに動くようになったし、いやいやながらでも笑顔を作るようになった。そいつは俺も見直した。
 その隣のダラケテいた新潟市民のオンナは、相変わらず不貞腐れた顔つきのままだった。ほとんどの新潟市民の、人間としての出来の悪さが改めて分かった。

 そして俺がいた時間帯の、ゆうちょ銀行の客は年寄りのババばっかりだった。
 そして窓口でもATMでも、一つ一つのことを、書類の書き方やATMのボタンの押し方を、担当者に手取り足取り教えられながら、時間をかけてやっていた。
 それが、教えるほうも教えられうほうも、当たり前だと思っているようだった。
 やり方を覚えて、次からは自分一人でやろうという雰囲気はなかった。
 教える方も、覚えさせようという雰囲気はなかった。むしろいつまでも覚えさせないようにするために、書くものを、ボタンを押すことを、いつまでも機械的に代行しようとしているようだった。それが仕事だと思い込んでいるようだった。

 それが、俺も、ババたちと同じようになったのだ。
 何故なら書類の書き方が、説明されなければ分からないようになっていて、ATMのボタンも説明されなければ分からないようになっているから、初めてやるときは、隣で教えられながらでないと出来ないのだった。
 初めての場合は、書くべきことや、何のボタンを押すべきかを推測できないようになっているのだ。ゆうちょの担当者に訊かなければ出来ないようになっているのだ。

 ああ、これは、無駄な作業を増やすことで、自分たちは仕事をしていると思い込んでいる組織なんだと分かった。
 郵政は、駄目な人間の集まりだと分かったのだ。

 世間の常識的な書類の書き方や、常識的な機械の操作をすれば、もっと効率良くできるのに、それと反対のことを目指して、公金を無駄遣いしている。
 これは、変えなければ駄目だ。
 あいつらを民間という真っ当な世間の常識に引きずり込んで、頭を洗濯させなければ駄目だ。そしてそれは公務員全部もそうしなければ駄目なのだ。

 民主党が政権を取ってから一年は(本当は半年と言いたいのだが一年としておくが)、あいつらも若葉マークなのだから、政権政党の勉強をしているのだと思って、俺も民主党には文句は言わないようにするつもりだ。

 だが、一年たったら、ヘタを打ったら、良くならなかったら、すぐさま降りてもらうからな。
 それが、甘えのない仕事ということだからな。
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