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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

横綱はただの人間で人格者でもない

 こんかいの朝青龍のことは、まだ本当のことが分かってないからどうこう書かない。

 相撲取りが素人を殴ったのはまずかったが、殴った相手が悪人だったなら、仕方ない。そうならば後遺症が残らないていどに、もっとぶん殴ってやればよかった。

 朝青龍にやましいことがないならば、続けてもいいし、いっそ辞めてもいいし、どっちでも好きなほうをとれ。

 ただ、殴らなければならないような駄目な人間と付き合っているのならば、お前が駄目な人間だということを知れ。

子供の肩甲骨が天使の羽だという仙人

 サリンジャーが死んだそうだが、とっくに死んでいたと思っていた。
 小説のタイトルのせいで、エロなミーハーな中身だと思っていて、ずっと読むのをためらっていて、はじめて読んだのは三十も半ばを過ぎてからだった。
 でも短いものもぜんぶが、エロでもミーハーでもなかった。
 どれも詩のような小説だった。

 サリンジャーは、梶井基次郎を思い出させる。
 作風が似ているかといえば、似てもいないのだけれど、どうしてか連想するのだ。
 年を数えてみたら、サリンジャーは梶井の二十ぐらい下なのだ。

 梶井基次郎を読んだのは、世間知らずの十七、八のときだった。
 サリンジャーを読んだときは、ちょっとだけ世間を知ったときだった。
 そのとき、どっちも、似ていると思ったのだ。

携帯メールが一番

 携帯電話の無料通話料金の残金は、毎月何百円か余っている。
 いいことなのか悪いことなのか携帯電話でこちらからかけるのが少ないのだ。

 独立したばかりのときは何回か下請け仕事をしたことがあって、そのとき元受先との連絡を携帯電話でかけていた。
 それまで携帯電話を持っていなかったのだ。持ちたくなかったのだ。
 だが、「携帯電話の番号を教えてくれ」とか、「携帯電話も持ってないのか?」と言われて、元受けとの連絡のために仕方なく買った。
 そういう連絡は頻繁にしなければならなかった。意味のない連絡が多かった。だが仕事をもらった負い目で、こちらからかけることも多かった。だから携帯電話料金が多くかかったのだ。

 元受け先の態度が横柄で、我慢ならずに何べんも喧嘩して、もう下請け仕事はこりごりだと思って、直接お客さんと取引きする仕事のやり方をするようになったら、携帯電話で喋ることがめっきり減った。

 メールは沢山している。問い合わせを受けたり、依頼されるまでのやり取りを携帯メールでしているし、お得意さんとの連絡も携帯メールでしている。
 だが携帯メールの料金は、一回五円しないくらいのものだ。安いものだ。

 メールといっても、メールはパソコンメールではなく、携帯でするのが良い。理由は早いから。
 自分が気短かだから、自分のお客さんも気短かだと思っていて、何事も早くするべきだと思って、連絡は早く済ますべきだと思っているし、パソコンメールはパソコンを使える場所しか見られないから駄目だし、携帯電話は作業中は電話に出られない。そうすると携帯メールが一番だと思うのだ。手があいた時にチャッと見られるし送れるし。

 そういえばパソコンを持つ前は、毎日のブログの投稿は携帯メールでしていたし、その頃はSeesaaの方に写真投稿も頻繁にしていたから、無料通話料金では足りなかった。
 この今の携帯の使い方は、私にとって良いと思う。携帯で喋るのが嫌いだから、メールでやり取りする。メールは相手の時間も自分の時間も拘束しない。携帯メールは早く見られる。良いと思うのだ。

風呂屋は我慢の訓練

 大学のときは風呂なしアパートだったから、銭湯に行っていた。
 銭湯は東京にきて初めて入った。たしか二百四十円だったと思う。節約するために毎日は行かなかった。二日に一回か三日に一回だった。
 洗面器に石鹸やタオルを入れて、それを抱えて歩いていった。歩いて五分くらいのところに風呂屋はあった。

 湯船に入る前は前を洗わなければならないと、何かで読んでいたからそうした。石鹸をつけてよく洗った。ついでだと思ったから、湯船に入る前に、髪の毛から足の先まで体ぜんぶを先に洗った。
 苦痛なことがあった。前を隠さないで湯船まで歩くことだった。隠す人は半分ぐらいいた。隠さない人は堂々としているように見えた。
 隠すべきか隠さないべきか。そんなことを考えている自分に自己嫌悪を覚えた。銭湯で人の前のところばかりを見ている男はろくでもない男だと自分をさげすんでいた。だからなのか隠すこと自体が何だか恥ずかしく思えて、いつも我慢して隠さないで、洗い場のタイルの上を湯船に歩いていった。

 私の前のものはキレイに全部大人になっていなかったから、それのコンプレックスもあった。だから隠さないかわりに、恥ずかしさで猫背になっていたと思う。
 そういうかたちの人は男性の六割か八割はそうなのだと、これまた何かで読んでいたから、それですくわれた気持ちも助けられた気持ちもあって、隠さないで歩いていけたのだろうと思う。恥ずかしさを我慢する訓練を銭湯でしていたのだと思う。

 その恥ずかしさも、自己訓練のおかげなのか、一月ほどでなれたのだった。今は自分のものも人のものも、同じ前のものだと思って関心もなくなっている。だけど、どうということも思わなくなっているのも何だかさびしい気持ちもする。

嫌なら辞めろのわけ

 小沢一郎はいつも不機嫌なのだが、それは仕事が面白くないのだろうかと思ってしまうのだ。
 政治家を嫌々やっているように見えるのだ。
 それなら辞めろよ、と思ってしまうのだ。

 なぜなら嫌々やっている人間から仕事してもらっても、いい仕事はできないからだ。
 いやたまには出来るのかもしれないが、嫌々やっている人間は必ず、してやっているという意識になるだろう。
 となると恩着せがましくなるだろう。
 恩を着せられてまで仕事をしてもらいたくない。俺は乞食じゃないんだぜ。

 そして恩着せがましい気持ちで仕事している人間は、恩を着せているんだから、威張りたがるようになる。
 私は威張られるのが嫌いだし、威張るのも嫌いだ。

 そして嫌々やっているのならば、自分の報酬は、自分が出した成果よりも、低いと思っているだろう。
 となると、もっとくれ、もっとくれと思うだろう。
 それが積もり積もると、そういう人間は、客から泥棒するようになるだろう。
 もちろん、出した成果より本当に低い報酬ならば、正々堂々と高く請求すればいい。そのためには業者は、事前に料金を提示しておくのがスジミチだ。
 それが出来ないときは、反作用として自分をいじめてしまうようになって、最後の最後の究極は、自分を殺すことになってしまう。

 国会議員の場合は、議員の給料が、議員たちの出している成果より低いとはとても思えない。しかも給料の他にも、いろんな名目で金がいっぱい支給されているのだし。
 そして報酬を自分で決める立場で仕事をしている政治家が、国民に対して恩着せがましい気持ちがあったら、その政治家は社会から泥棒をするようになるだろう。

 こういうことが、私が小沢一郎をテレビで見るたびに、何だか気持ちよく思えないことだ。
 そしてこういうことは、政治家だけじゃなくて、何の仕事でも当てはまることだ。
 だから嬉しい顔で仕事をしていない人間を見ると、仕事中だけでも客にたいして嬉しい顔を作れない甘えた人間を見ると、私はいつも怒鳴りつけるのだ。
「おい、嫌なら辞めろよ!」と。

 だが、わざとらしい笑い顔はもっと駄目だからな。
 小沢一郎の場合は、結果を出してくれるのならば、いつもイライラしていて怒鳴っていてください。そういう人は俺は好きだから。
 でも結果を出せないならば、すぐさま辞めてもらうだけ。
 そして公金や公金に準ずる場所から金を引っ張ったら、死刑だよ。

ホームページはブログみたいな見ためで

 ホームページを作る商売をしている業者は、ちゃんとやっていけてるのか、ときどき心配になる。
 世の中にその業者は多い。腐るほどいる。田舎の便利屋でさえ、ホームページ制作しますとうたっているぐらいなのだから。
 だがその便利屋のホームページを見ると、ダサくて素人感丸出しで、自分のホームページも満足に作れないのに、それを商売としてやります、金をください、などと言っているのは、自分は嘘つきだと言っていると同じじゃないか。あきれるのだ。

 しかしホームページは、ちょっと勉強すれば、基本的なものならばもう誰にでも作れるようになっている。ということは業者に頼まなくてもいい。ということは業者は、どうやって受注しているのか興味がある。
 ハウスクリーニングというのも、掃除など誰にでも出来るといえばいえるのだから、わざわざ金を払って掃除を頼む人はいるのかというのと同じだ。

 うちの場合は、普通の人では落とせない汚れを落としたりという、普通の人では出来ないことを請け負っているから商売として、そして安くもない料金設定なのだが、ホームページ屋さんもたぶん普通の人では作れないホームページを作ることでお金を稼いでいるのだろう。

 では普通の人では作れないホームページとは何だろう。これといって思い浮かばないのだ。
 トップページでアニメーションがうるさいぐらいに動くのや、文字が小さくて読みづらいのや、こまかい枠に分かれててリンクがいっぱい貼られているのやが、専門家が作ったホームページなのだろうが、私はそういうのは嫌いだ。

 いまやホームページの作り方の大概のことは、ホームページの作り方を書いているホームページを探して読めば知ることが出来てしまうし、そういう本を読めば作れてしまう。
 きらびやかな見ためのホームページを作るためには専門知識がいるだろうが、うちみたいな個人事業の商売では、そういうきらきらしているのや整然としすぎているホームページは逆効果だと思っている。自作のものだと分かるぐらいのほうが、丁度いいと思っている。
 むしろ書いている中身や文体の方が大事だと思う。一番大事なのは、嘘を言わないということだと思う。私が見る側だったら、それが一番大事だと思っているから。
 そしてブログというのは嘘は書かないもので、だから私はホームページでも、あえてブログみたいな見ためにしているし、ブログみたいな文体で書いている。

自分の仕事をダンピングするのは泥棒であり奴隷

 安くしただの、おまけしただの、一生懸命やっただの、喜んでもらえただの、喜ばれたのが一番の報酬ですだのと、ハウスクリーニング屋のブログでは奴隷根性の物言いだらけだ。
 それは下請け根性であり、作業員根性であり、よそで使い物にならないからであり、安くしなければ誰も依頼してくれないからであり、それそこが奴隷の生き方であり、そういうのは気持ち悪いのだ。

 そしてそういう奴隷たちは自分が奴隷として扱われてきたから、自分以外の人間に接するときも他者を奴隷として接してしまうのだ。
 根拠のない上から目線で威張りたがるのである。子分や舎弟を欲しがるのである。
 ちょうど中学生の体育系部活動の、勉強が出来ない生徒の先輩後輩の関係みたいに。

 意味なく安くするというのは、業界他社からの泥棒であるダンピングであり、そういう馬鹿どもは業界に迷惑をかけてしまうという畏れはないのだろうな。
 それが回りまわって自分に不利になるという畏れもないのだろうな。
 だって頭が悪いから、無神経だから。

 そして意味なく安くするということは、その仕事を継続してやっていけなくなるという畏れもないのだろうな。
 そして継続してやっていけなくなるということは、お得意さんにも迷惑をかけてしまうという畏れもないのだろうな。
 そういう人間には、お得意さんなんて、ないんだろうから。
 もし居ると言っても、それは安く使われているだけということで利用されているのを気づかないんだろうな。あるいは気づいていても、怖くて目先のことしか見たくなくて、気づかないふりをしているんだろうな。

 それから、ある一部のお客だけに商品やサービスを安くしたりオマケしたりするのは、他のお客さんに対して不公平をしていることなのに。
 安くしないお客から、あの客には安くして、何故うちには安くしないんだと言われるだろうに。不信感を生むだけなのに。
 だから、安くしましたとかオマケしましたとか、そういうことはブログとかで世間に大っぴらに言うべきことじゃないのに。
 そういうことを想像できない無神経さ。ただ目先のことがちょっと有利になればいいと思っている浅はかさ。どうしようもないな。

 安くすれば沢山売れて儲かる、と思い込んでいるのだろうが、品物を売っているのじゃないんだから、一日に売れる在庫は、寝ないで仕事したって二十四時間分と決まっているんだから、製造業でいう大量生産や小売業での大量販売は出来ないんだのに。
 ましてや出張して仕事する業種なんだから、病院の入院病棟や講演みたいに客を大勢集めて一気に作業することも出来ないのに。
 一人の顧客には、必ず一人以上の手間がかかるのに。
 頭の悪いハウスクリーニング屋たちは、そういうことを考えたこともないんだろうな。

 だいたい、ハウスクリーニングという言葉は俺は、お客さんが住んでいる一般家庭のお掃除に行って、お客さんの目の前で作業する、それもお客さんを楽しませながら作業する、という仕事だと思っているのだが、世の中の掃除屋は、アパートや賃貸マンションの空き部屋清掃のことも、いけしゃあしゃあとハウスクリーニングと言っているから間違いのもとなのだ。
 空き部屋掃除は、ちゃんと空室清掃と言えよ。空き部屋掃除というのは下請け仕事であって、ハウスクリーニングとはまるで違う次元の仕事なんだから。

 それから、馬鹿なハウスクリーニング屋たちがよく言う、一生懸命やってます、なんていうのは仕事している上では当たり前なのだから言うべき言葉ではないんだよ。幼稚園生じゃないんだぜ。
 喜んでもらえたから嬉しいだのと無神経に嬉しがっているのは、やって当たり前のことをクリアしただけなのだから、それを言った時点で、職業人として失格なのだよ。

作りおきのおかずはおきたくない

 冬は大根の煮物をよく食べる。鶏肉と人参といっしょに煮て。
 味付けは、醤油、おでんの素、ケチャップと、そのときの気分だ。

 大根といえば、たくあんの薄切りの油炒めは子供の頃よく食べた。おいしかった。
 でもたくあんを薄切りにするのがめんどうで、自分では作らないのだ。でも食べたいのだ。
 スーパーの惣菜で売っていれば買うのに、売ってない。売ればいいのに。

 煮菜も子供のときに毎日毎食さんざん食べたが、自分じゃ作れない。
 いや作れないわけじゃないが、作りたくない。
 白菜をひとくち大に切って油でかるく炒めて、それから味噌と醤油で煮ると出来るそうだが、これもなんだかめんどうくさくて、しない。

 だがそれは、どうしてか常備菜というのを置きたくない気持ちがあるから、二日くらいで食べきれるおかずしか作らないのだと思っている。そのわけは自分でも分からないのだ。

タオルのダガシ

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髪の毛短く切ったら頭が寒くて、部屋にいるときは伸びるまでと寒いのに慣れるまで二日間タオル巻いてます。

はたはたはオス

 スーパーの魚売り場で、去年はたはたを煮たけれど美味くなかったのを思い出して、また買ってみた。
 あのときは、ぶりこというのを食べてみたくてメスを買ったのだが、卵はブツブツしているだけで味はしないし、身は食べるところはないしで、ああ買わなきゃよかったと思ったが、これも勉強だと思った。

 今日はオスを買ってみた。小ぶりのが六尾で三百円弱の。
 うまかった。
 小さめなのに身はあるし、身の味もしっかり分かったし、骨も食べられた。
 もっと良いのは、内臓を取るだの、うろこを取るだのの下ごしらえをしなくても、買ったのをちょっと水洗いしてから、そのまま煮れば、あとは食べるだけというのが良かった。

 はたはたは、好きな魚になりそうだ。だがオスに限りで。

砂糖を買って

 年末に調味料で砂糖を買った。生まれて初めて買った。
 今までは甘みというものは馬鹿にしていたのだ。
 味覚の中でカッコイイのは苦味で、次は辛みで、その次はなくて次の次が塩あじで、その次が酸っぱさが来て、それから何段階か下にやっと甘いという味覚があってもいいかなというぐらいの順番だった。

 魚を煮るのに甘みをつけるのを、みりんでずっとやっていたのだが、煮魚は年に何度かしかしないから、みりんは何年も同じものを使うことになって、悪くなっているのじゃないかと心配になって、でも砂糖というのは悪くならないらしいから、賞味期限というのはないということだから、甘みをつけるのは砂糖にしようと思って、買ったのだ。

 砂糖の値段というものを知らなかったのだが、一キロの袋が二百円しなかった。
 子供の頃、じいちゃんとばあちゃんが親戚に行くときに、みやげに持っていくのは決まって米と砂糖の袋だったから、砂糖というのはとても高価なものだと思っていたのに、今は安いものなのだと知った。

 甘みを馬鹿にしていた私だが、玉子焼きに砂糖を入れてみたい誘惑はある。でも今のところしない。なおさら顔がまん丸になるから。
 しかしが、砂糖は使わないから、ぜんぜん減らないのだ。

大雪で車も傷むこと

 今日は晴れて雪はおおかた消えたが、もう一回はひとやま来るだろうな。
 二月の中旬が一番寒いのだから。
 雪が降る晩に車を停めるときに、ワイパーを立てておく人がいるが、それは無駄だし、ワイパーを傷めてしまうのに。

 転勤で昔、雪がたくさん降る街に住んでいたときに、今夜は大雪が降るでしょうとテレビで言っていたから、駐車場に行って車のワイパーを立てて、それから寝た。
 次の朝、車の背丈は倍になっていて、まわりも白くおおわれていて、車までシャベルでかいて道をつくってから、車の上の雪をおろして、ようやくドアを開けたことがあった。
 そしてワイパーを見たら、雪の重みでボンネット側に折れていた。

 あとで考えて分かったことは、ワイパーを立てておくのはあれは、長野市のように雪はあんまり降らないけれど、水道でも何でも氷ってしまう場所で、だからワイパーゴムがフロントガラスに凍り付いてくっついてしまわないようにするものなのだろう。
 雪国はむしろ寝かせておくべきものだと思ったのだ。

 だが寝かせておいてそのままにしておくと、今度は雪の重みで下にさがってしまい、モーターにつながっている歯車を傷めてしまうのかもしれないし、実際にそういうこともあったが、どっちがいいかというと折れるよりは歯車がすこしガタついてもそのほうがいいだろうと思って、それからはワイパーは立てないようにしている。

 そういえば建物のすぐわきに停めていて、昼間建物の屋根から雪の固まりがどさっと落ちて、車の屋根がへこんだこともあった。それからは大雪の後の晴れて気温が上がった日は、家のわきには停めないようにしている。

公金で作った資産は死ぬときは返すのがスジミチ

 小沢一郎の近くの人間たちが逮捕されて、小沢は政治家を辞めることになっては今は良くない。
 小沢本人がどうなろうと私にはどうでもいいのだが、小沢一郎的な人間は、今は政治の世界には必要だ。ああいう独裁者みたいな人間が。他の議員の連中は馬鹿ばかりだからだ。

 だが、公金で個人資産を作るのは、死刑にあたいする。社会から泥棒することだからだ。
 百歩譲って、社会のために大いなる功績を残した政治家ならば、その人間一代かぎりが贅沢をするのはまだ許せる。が、その子孫に公金でつくった資産が行くのは、これは本当に死刑にあたいする。

 小沢一郎が現在、どんなに金を貯めこんでいようが、どんな豪邸に住んでいようが、どんないい服を着ようが、どんなうまいものを喰っていようが、子供や甥っ子がコネで大会社に就職していようが、それぐらいはしていてもいい。
 だが、小沢が死んだとき、その資産は、ほとんどは国庫に返してもらう。それが公金で暮らしてきた人間のスジミチだ。

 私はかすかに小沢一郎という人は、いつもイライラして威張っているのだから、だからこそ本質は清廉潔白で、だから死ぬときは子孫に残す遺産などというケチクサイものは一円もなくて、すべてのものを投げて世の中に返して、裸ひとつで、死んでゆく人だと思い込もうとしているのだが、どうなるか。
 それは自分の理想を、小沢という人間に投影して自己満足しているだけなのだとも思っているが。

 民主党の政策のアラ探しは、我慢して一年間はしないようにしているのだが、このことは政策じゃないから、一般論として書いた。

ハハと(爆)は大違い

 いつも思うのだが文章の終わりに、(爆)などと書くのはセンスが悪い。
 自分の笑いに自分が笑っているのは自分の笑いのセンスに自信がない証拠だ。

 それと笑いのレベルとしてはとても低いのに、自分の笑いは面白いと思っているレベルの低さと傲慢さと、それを自覚できない無神経さが、読んでいて恥ずかしい。
 自分のせこいユーモアが爆笑とか大笑いに値すると思っているセンスの幼稚さが、その痛々しさが、かえって悲しいのだ。

 だいたい一流のコメディアンは自分では笑わない。いつもすました顔で通しているものだ。それがコツなのに。

 俺もごくたまに、(笑)というのを何かの文の尻尾に付けることがあるが、それは自分の意見をやわらげようとしているときで、そういうときも、付けるべきか付けないべきか、ずいぶん迷ってから、付けるときは、ごく最小限だけ付けることにしている。

 母親が死ぬまえのこのブログは手紙文で書いていたから、エントリーの中では、(笑)は絶対に付けなかった。
 手紙のなかで(笑)などというものは書かないし、チャップリンは笑わせるシーンでは自分は笑わないのを俺でも知っているから。
 ときどき書く、ハハ、というのは、あれは自分や他人を嘲笑している乾いた笑いの記号として、その自覚の表れとして、書いている。

反省している顔つきの意味

 テレビでの謝罪会見で、「反省しています」というセリフをよく聞くが、俺は俺を含めて人間は、そう簡単に反省などできないと思っていて、俺はそういうのを見るたびに、その反省していますという言葉は信用できないぜ、ああこいつは嘘を言っているなと思ってきたし、俺自身が反省していますと言ったときは、俺は今嘘をついているなと思って、嘘を言うことに対して、ああ申し訳ないな、と思ってきた。

 だがハッと気づいたのは、本人は反省などしていなくとも、会見を観る側は、そいつが嘘でも反省する素振りを見ることで、それは縮こまって悲しそうにしている素振りを見ることで、こいつは今恥ずかしがっているな、苦しんでいるな、少なくとも今幸せじゃないな、ざまみろ、いい気味だと溜飲を下げて、それで攻撃の手をちょっと緩めようと思うのだろうな、そういう効果が、「反省しています」といかにも反省していそうな顔つきにはあるのだな、と思った。

 だから今まで威張っていた人間が、何かの失敗で、申し訳ないですなどとひたすら丁寧な物言いで、今まで見せたことがない低姿勢で謝るのを見ると、楽しいし、ひとしきりそれを楽しんだあと、楽しんだ見世物の観覧料を払うみたいに、まあしょうがない許してやるか、となるのだな。

寝るのに暖かい肉

 今年の冬の夜は寒くないのだ。
 電気毛布も使っていないし、それどころかまだ布団一枚だけで寝ている。

 今までの冬と違うところは、窓をピシャッと閉めて、障子も隙間なく閉めて、キッチンとのさかいの襖もぴったり閉めて寝ている。
 そういうのは、一人で寝はじめた小学校高学年から初めてのことだ。

 部屋の窓やドアは隙間が開いてないと何だか嫌だったのに、今年は空気が動かなくてもいいと思っている。
 それは年末の大雪で、今年は寒い冬だと思い込んでいるのもあるだろう。
 それと毛布一枚分の、ぜい肉がついたのもあるだろう。

成人の日はすいすい走れる日

 今日の道路はすいていてすいすい走れた。
 思ったら成人の日なのだな、と思って信号で止まったら隣の車線で大きなジープがいて、その後部座席にきものを着た女が二人いて、ああやっぱりそうなのだな、と納得した。

 ほとんどの新潟市のオンナは底意地が悪いのだが、顔は日本美人が多いから着物は似合うのだ。
 そして夕方の栗の木バイパスもすいていて、やっぱりすいすい走れて帰ってきた。

戦争童話集

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 去年の夏だったと思うが、教育テレビで、この本の中のひとつの話を紙芝居ふうのアニメーションにして朗読する番組を観た。
 空襲のさなかで、まわりで火がぼうぼう燃えている中で、子供を焼け死なせないように、水気を与えようと、自分がおおいかぶさって、自分の涙や汗やお乳を、それが出なくなると、しまいには自分の血をふき出して、子供のからだに塗って、熱を取ろうとした母親の顔の絵を見たとき、身震いがしてきて、涙があとからあとからあふれたのだった。

 それがどうしてかこないだ思い出されて、図書館で借りて読んだ。
 テレビでやっていたのは、「凧になったお母さん」という話だった。
 読んで、やっぱり泣いた。

 この『戦争童話集』には、全部で十二の話がある。
 そのうち十の話が、ラストで主人公が死ぬ。
 そしてほとんどの話で泣いた。
 読んでよかったと思った。野坂昭如は、好きなのだ。
 それからこの文庫本の表紙をよく見たら、凧が二つ描いてあった。

掃除屋と豆

 やっと去年の大雪のときの雪かきで出来た手の平の豆が消えた。
 スコップを握って二時間雪をのけたら出来たのだ。

 手の平に豆が出来たのは、何年ぶりだ。
 独立して、初めてだ。
 私の今の仕事のやり方は、何かを握りしめることがない。
 だから豆もできないのだ。

 掃除屋さんに勤めていたときは、豆はいつもあった。
 モップを思いきり握りながら、床に押し付けるようにして拭いていたから。
 床を洗うときの汚水を集めるカッパギも、バッターがバットを振るときみたいに柄を強く握ってかいていたから、いつも手に豆があるのは当たり前だった。

 だが、ある掃除屋さんに勤めたときに、それまでのやり方とはまるっきり反対の方法を学んで、それは汚れ落としの道具はモップではなくパッドやブラシであり、汚水回収はバキュームであり、モップは最終仕上げの水分を拭き取るためだけの布なのだというやり方だった。
 バキュームの使い方も独特で、覚えるのは苦労した。パットやブラシやヘラの使い方も思いもよらない方法で、出来るようになるのに何ヶ月もかかった。
 そういう方法は日本中でやっているところはあるのどうか知らないが、少なくとも新潟県では聞かない。
 それからは、私の手には豆はなかったのだ。

 新潟市に来てから、雪が積もる年もなかったから、雪かきもすることがなかった。
 今日は多めに降ったなあというときだって、次の日は晴れて、車はすいすい走れたのだった。
 だけど、豆がない男の手のひらというのは、なんだか格好悪いように見えるのが不思議なのだ。

円も景気も落ち着くところに落ち着く

 菅直人財務大臣の発言で円安になったから本人が謝ったというらしいが、別に謝らなくともいいのに。
 円安だの円高だのは相場なのだから、為替相場を上げ下げして売り買いをやることを商売にして飯を食っているバクチ打ちのためのものでしかないのだから、瞬間的にちょっと円が高くなろうが安くなろうが、体勢に影響はないのだ。やがては落ち着くところに落ち着くのだから。
 輸出産業や輸入産業に影響が出るだなどと言う低脳がいるが、一過性のことをあげつらって、針が棒みたいに見えるのは馬鹿か気違いか嘘吐きか泥棒か詐欺の証拠だ。

 だいたい相場で喰っている人間は、いつもいつも上がったり下がったりしてもらわなければ商売にならないのだから、何でもいいから上げ下げのきっかけが欲しいのだ。
 それが今回は財務大臣の言葉だっただけの話だ。

 それをテレビはすることがないもんだからギャーギャー騒ぎやがって。
 大臣に謝罪させることが出来て、財務省のコズルイ役人どもは嬉しがっているだろう。煙たいから早く出ていってほしいと思っているのだろうから。

 管直人は、こんなことは気にするな。
 ちょっとぐらい景気が悪くなってもいいから、それは落ち着くところに落ち着くんだから、好きなように暴れてくれ。

田舎テレビには出ない

 たまにハウスクリーニング屋がブログで、テレビに出ましたと自慢げに言っているのだが、そのテレビとは、どこの地方局でもやっている、くだらない夕方のワイドショーの、その中の宣伝臭いコーナーみたいなのにちょっと出たということでしかないのに。それがどうした、というぐらいのものなのに。
 そういう自分を客観視できない物言いは、とっても頭が悪そうだし、浅ましくて、何だか俺の方が恥ずかしくなってしまうのだ。
 頭の悪い人間は、自分のことしか考えられない浅ましい人間は、いい仕事は出来ないものだと相場が決まっているのに。

 断言するが、あんな夕方のつまらない番組を観ている層が、ハウスクリーニングを頼むわけはない。
 俺のお得意さんたちは、たいがい仕事を持っている人だ。
 その人たちは、日々忙しがっている。夕方にテレビなどをボーっと暇そうに観てる人はいないのだ。

 今までブログでは書かなかったが、何年か前、俺のところにもあるテレビ局から、夕方の番組に出ないかという話があった。
 俺は田舎のテレビ局が嫌いだし、俺のお客さんの店の人が、前にそういう番組に出たときにテレビカメラの三脚で店の床を傷つけられたと怒っていたのを思い出し、ますます田舎者のテレビ局の投げやりな人間たちのそばには寄りたくないなと思ったのだ。
 テレビの人間は、乗り気にならない俺を不思議がるようにしていて、その話はどちらからともなく消えたのだった。

 朝日とか日経新聞とかの全国紙や、NHKから取材したいと言われるのであれば俺も嬉しがるだろうが、テレビでも民放テレビはチャラチャラしていて好きになれないし、とくにイナカモンがチャラけて遊び半分にやっているような番組に出るのは、自分の商売にもメリットがないし、会いたくない人間に無理して会って気を遣うのも嫌だし、その後で広告を出せなどと押し売りをされないともかぎらないしと思って、とってもとっても消極的な態度に徹したのだった。
 やっぱり俺は自分の手作りの広告が好きだし、俺はまだまだ弱者の戦略で、ドブ板的なやり方のほうが俺には合っていると思うのだ。

ぶりかまの焼いたの美味し

 正月のスーパーでは、ぶりかまが多く並んでいた。
 ぶりの刺身のパックが沢山売れて、刺身を切ったあとで出たのだろう。
 かまでぶり大根を作ったが、味はそれほどでもなかった。ぶり大根は、あらの方がうまい。
 だが塩焼きはうまかった。
 塩を多めにふって網で焼くだけ。それが一番味がいい。

 えらの脇あたりの身が厚いところがあるから、焼くのは思ったより時間がかかる。
 なのに大きさのわりには食べるところは少ない。
 しかし刺身よりも、ぶり大根よりも、切り身を焼いたのよりも、かまの焼いたのがうまい。
 かまの値段は、食べられる量のわりに高いのも、わかる。

ホームページは商品の機能性能を深く出せ

 広告の作り方のことでよく言われるのは、機能や性能をズラズラ書くのではなく、この商品やサービスを使ったら顧客は何のメリットがあるかを書くべきだと。
 カメラの広告なら、画素がいくつだとか、レンズの明るさがどうだとか、画像保存枚数がこれだけあるとかを書いても、客はピンとこないのだと。だから良い商品なのかどうかわからないから買わないのだと。というか買いたくならないから、買わないのだと。
 それよりも、軽くて使いやすいとか、小さくてポケットに入るとか、いつもポケットに入れておけるから撮りたい時にすぐ取り出せて、あなたの子供さんの瞬間に見せるいい顔を撮れますよ、などということをアピールすべきだと。

 しかしホームページでは、それは違う。
 ホームページを見る人間は、その商品サービスの存在を知っているから検索してくるわけだ。
 そしてもう、その商品やサービスに興味を持っているのだ。だから検索してくるのだ。

 そしてホームページを見ようとするほどの人間ならば、そのほとんどの人は、興味のある商品サービスの基本的な性能機能はもう知っているし、その時は知らなくても、すぐ知識を得て分かるようになる。
 そういう、分かった人間にとって、いまさらいつまでも初歩的なことを言われても時間の無駄だし、商品を使うメリットも分かっているから検索しているのだ。だからそういうことは分かったから、もっと深いところを知りたい、と思うだろう。少なくとも私はそう思うのだ。

 それなのに世の中の頭の悪いコンサルタントたちは、いつまでたっても同じことしか言わない。自分で手を動かしてないから、どこかからの受け売りしか言わないし言えないのだ。
 性能機能より、客のメリットを分かりやすく示せという、何とかのヒトツオボエしか。

 それはテレビや新聞広告やチラシの作り方なのだ。そういう一般メディアは、まだその商品サービスに興味を持っていない不特定多数に向けて、興味を喚起させるためのものだから。だから、ごく初歩的で、とっかかりの一歩を踏み出させるための広告になる。

 もう一度言うが、ホームページは違うのだ。
 私は、当たり前のことしか書いてないホームページを見たくないし、そういうサイトを作っている会社の社長の頭の程度を疑う。
 私の好きなホームページは、始めから具体論で、商品機能の深いところをえぐっていて、細かい機能を示していて、機能別のそれぞれの性能を詳しく書いているサイトが好きだ。またそうでなくては商品やサービスを知ることができないじゃないか。
 だから小学校低学年向けのようなホームページを開いてしまうと腹が立つのだ。
 人間とは自分を基準にして他者をとらえてしまうものだから、自分の周りの人間も、自分と同じぐらいのレベルだろうと思ってしまう。
 だから頭の悪い人間が作るサイトは、頭の悪い人間向けに作られてしまうのだ。

 そしてもっと腹が立つのは、当たり前のことしか書いてないのに、さも教えてやっているというふうな、上から目線の物言いのサイトやブログだ。ほぼ百パーセントのハウスクリーニング屋のブログがそうだ。
 作業のやり方を中途半端に小出しにして、もったいを付けて悦に入っている、そういうことでしか嬉しがれない、意地の悪い、人間として小さい奴ばかりだ。
 それは、自分の頭の悪さを基準にしているからこうなるのだし、それまでの人生で、レベルの低い人間としか接してこなかったから、本でも音楽でも何でも、レベルの低いものにしか接してこなかったから、そういう物言いになるのだ。
 そういう人間を見ると、腹が立つと同時に、なぜか、こっちが恥ずかしくなるのだ。

自分の気持ちの下書きブログ

 日経新聞の仲間には、流通新聞と産業新聞があった(今はどうか知らないから過去形だ)。
 そのニュースの鮮度の順番は、一番は産業新聞で、次が流通新聞で、最後に日経新聞だ。
 それからさらに遅くなって、読売とか朝日の一般紙になり、その次にラジオで、それからやっとテレビのニュースで伝えられる、という順番だった。
 今はネットで取り上げられるのが、一番新しいのだろう。
 メディアを見る人間の数と鮮度は、反比例している。
 そういえばもっと情報の早いメディアは、それぞれの業界新聞だろうな。

 私は今、三つのブログをしている。そのエントリーの鮮度や、マニアックさの度合いは、尖りぐあいの度合いは、順番をつけている。
 一番コアで、十万人に一人しかわからなくてもいいと思って書いているのが、このfc2のだ。だけどあえて文体は易しく書いている。ただこのfc2のは、掃除とか商売とかと離れて書いている。
 その次にマニアックなのはライブドアのにしている。いや間違った。ライブドアのはぜんぜん尖ってもないし、マニアックでもなかった。商売っ気臭いブログになっている。今のところ月に二回の更新ペースにしている。
 最後はSeesaaのだ。これはもう商売の広告のホームページとしてブログをやっているから、依頼してください、問い合わせしてください、という文句がうるさいぐらいだろう。更新も月に一回か二ヶ月に一回かのペースになって、ほとんどほったらかしだ。だけどブログだから日付が出るから、商売としてはあんまり放りっぱなしじゃ良くないし、エントリーは季節感だけは出そうとしている。
 無難さというのも、Seesaaのが一番無難で、次がライブドア。このFc2のは、考えなしが読むと腹が立つだろうと思うぐらいに、無難さと正反対になっている。

 他にもいくつかブログを使ったり無料ホームページを作って、受注の入り口を作ろうかと思ったのだが、今これぐらいで、在宅ハウスクリーニングではうちは新潟県では一番依頼があるようだから、今のところ新しいのは作ってない。
 それに同じようなサイトをいくつも作るのは、姑息な感じがして自己嫌悪になるのだ。
 それから、このブログは、もう商売から離れてしまっているから、自分の気持ちの下書きみたいな気持ちで書いている。

これは新しいと思ったもの

 今まで生きてきて画期的な発明だと思ったのは携帯電話とインターネットだ。
 携帯は、離れている人間と好きなときに話をすることが出来るなんてと、驚いた。
 私が携帯を持ったのは、商売で独立した2003年からだが、1993年に、藤沢市のゲームセンターの入り口で、夜、二十代前半くらいの男が携帯で喋っていたのをよく憶えている。その近くのスーパーで、中年の男が、何を買おうかと大声で誰かと携帯で喋っていたのも見た。

 インターネットを始めたのは2005年からで、タダで使える新潟駅のバナナというところと、私立大学のパソコンを使わせてくれるところと、市立図書館で使わせてくれるところと、ネットカフェだった。
 そのいくつかの場所を使い分けながら、ハウスクリーニング業界のホームページを見たり、業界のブログを見たりしながら、自分のブログを作っていった。普段の投稿は携帯電話を使っていた。
 ようやくパソコンを買ったのは2007年だった。

 だが、テレビと固定電話が出たときのほうが、人々は驚いただろう。そのほうが人間が生きるうえには影響力があるだろう。
 テレビも電話も、もう生まれる前にあったから、世の中に出たときの衝撃というのは知らない。
 そしてそれらはぜんぶ、コミュニケーションというのに関係している。ということは活字が発明されたときも、同じくらい衝撃があったのだろう。
 インターネットも、たいがいが文字だ。

明るい時間がふえるふえる

 冬至を過ぎてからみるみる陽が長くなっているのがわかる。
 十二月は夕方四時半になると暗くなっていたのに、年が明けたら五時を過ぎても、空のすみに明るさが残っているのだ。
 一週間でこれほど違うのかとおどろくのだ。

 大晦日の夜の月は丸かった。
 月の始まりは新月なのだと思っていたが、年の始まりは満月からなのか、そういうものかどうかは知らない。
 知らないが、十二月三十一日の夜、自転車に乗りながら丸い月を見るのは気分が良かった。スーパーに買い物に行ったのだ。

 年を明けてから昨日と今日は、天気予報は悪いのに、雨も雪も降らない。
 これから一年で一番寒いのに、でも陽がある時間が増えていくのだと思うと、それだけのことなのに、心ははずむようなのだ。

粗利益と手数料のこと

 一番最初に就いた仕事が広告屋で、その手数料は15パーセントだった。
 だから今でも15パーセントより高い粗利率の商売は暴利だと思ってしまうのだ。
 だが世の中の大概の商売は15パーセントより儲けている。
 小売なら三割、食品スーパーでも二割弱、手間賃仕事であるサービス産業ならば六割から八割が粗利益だ。
 だから15パーセントより儲けるということに、罪悪感をもってしまって、これは俺はある種の病気なのだろう。治したい。

 手数料という言葉も嫌だった。
 なんだか不労所得で、汗をかかないで、ピンハネで、人をだますズルイことをしている商売の利益の呼び名だと思ってきた。
 しかし手数料の手数という言葉は、てかず、と読めば、手間のことだと思ったのだ。
 手間賃ならば、正当な労働の対価だから、手数料も、クライアントから依頼を受け、てかずをかけた、その料金だと思えば、正々堂々と請求できるのかな、と思った。
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