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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

価格を決めるヤジロベーの傾きで節約

 三日ぶりにフジミスーパーに行ったら、ほとんどの商品が値上げしていた。
 卵は一番安い十個パックが228円。飲むヨーグルトは300円近くしていて、それも売り切れ。納豆は150円くらい。白菜は四分の一が198円。のきなみ倍ちかくの値段になっている。

 値上げしていないのは、どこだったか忘れたが外国産のかぼちゃと、エノキダケとかのきのこ。そして中国産の生姜だった。
 外国産は放射能は関係ないし、きのこは長野県と魚沼の、建物の中で大量生産しているのだろうから、これも放射線は当たらないからオーケーだ。

 だけれど、このぐらいの高い値段が、本来の値段なのかもしれない。
 生産者が、ふつうの生活をおくれる報酬を得られるための、価格なのかもしれない。

 しかしこれが、フジミスーパーが便乗値上げをしていたならば、もう買わないぞと思うのだが、それほど馬鹿じゃないと願う。
 あるいは問屋が、目先の儲けのために値上げをしているのならば、それこそ政府の出番だぞ。でも、この値上がりは、そうではないだろう。
 品薄なのに買いたいほうが多くて、単純に需要と供給のヤジロベーが、品物の価格を上げる方に傾いたのだろう。
 この時期は仕方ないと思って、節約しながら買い物をするしかないな。

両手でブイダガシ

外壁塗装工事でのダガシ
 外壁塗装のときの休憩中に、職人さんに撮ってもらった。
 まだ肌寒い2011/3/7のダガシです。

はぐらかすことが上手だと出世する、それが組織

 東京電力の社長の記者会見をテレビで観た。
 意地悪そうな顔つきだった。
 何を言われても、はぐらかす物言いだった。

 私は新潟市に来てから、人と喋ると違和感を感じるようになった。
 それは、私が問いかけていることへの答えが、いつも問いに対して違うものが返ってくるからなのだ。
 それは、新潟市の人間は、わざとそういう答え方をしているようなのだ。

 特に公務員、銀行員(その中でも第四銀行が特にはぐらかす)、そして北陸ガス、東北電力、NTT、ドコモ、ホームセンターコメリ、ムサシ、イトーヨーカドー、ジャスコ、他小売店、清水フードセンターや他の食品スーパー、その店長もレジ打ちパートも。医者、看護師、その他医療関係者、介護関係者、福祉関係者も。
 すべての組織の人間が、その責任ある立場の人間も下っ端も、すべての人間が、私の問いに対して真正面から答えずに、はぐらかすのだ。
 だから新潟市に来てから、怒鳴るようになった。

 新潟市だけにかぎらず世の中には、人からの問いかけに対して、不誠実にはぐらかす人間だらけだ。
 そのことを、東電の社長の物言いを聞いて、再認識した。
 あの無責任体質、当事者意識のなさ、相手からの問いかけに対する、はぐらかし。

 組織にいる人間は、はぐらかすことが上手だと出世するのだなと、再認識した。
 それはトップから下っ端まで、すべての人間がそうなのだなと。

 私は幸せなことなのか、不幸せなことなのか、たぶん不幸なことなのだろうが、二十代前半でそんなことはわかってしまって、そして私の劣等な性格のおかげもあって、人からの問いかけにはぐらかすことが嫌いで、組織にいる人間は、組織で上に立つ人間は、はぐらかすことが上手で、責任を誰かに押し付けることが上手だと、それが良いことであり、いい目を見ることになるのだと、そういうことが大きな会社に勤めてみてわかって、私の劣等な性格はそれが嫌だと思ったから、だから組織にはいたくないと思って、いつか何かで独立して一人で仕事をしたいと思ってきて、いま運良くそれをやっている。

 新潟市で生活していてわかるのだが、新潟市の人間は特に、責任を他になすりつけようとする。
 はぐらかすという行為を自然にやれれば、はぐらかしていることはわからないのに、それがほとんどの人間は浅はかで、東電の社長も、新潟市の人間も、そしてほとんどの人間は、はぐらかすことを完結できないのだ。ボロが出るのだ。私には簡単にそれがわかってしまうのだ。
 なぜなら、そもそも人間は、はぐらかすことが出来ないようになっているのだろうと思う。自分を有利にしようとして、出来ないのに無理してやろうとして、尻尾を出す。
 私は、そういう人間の頭の悪さと無神経さが癇に障るのだ。
 そして、その頭が悪く無神経な人間なのに、人間として劣っているのに、そういう人間が組織で偉くなっていることに、癇に障るのである。

 はぐらかす人間は、はぐらかすことが上手なことが、頭が良いと思っているのだろう。
 それは断じて違う。
 なぜなら、その人間がはぐらかしているのだと、私はわかってしまうのだから、その人間は自分のやろうとした仕事の結果を出せていない。ということは、その人間は頭は悪いじゃないか。少なくとも私より頭が悪いじゃないか。

 神様というのは細部に宿っているということを、知らないのだろう。
 そんなことも知らないのは、頭が悪く、無駄に年を食ってきた証拠だ。
 オンナとコドモなら、元々バカなんだから仕方ねえなあ、と思うこともあるが、大の大人の男がそれじゃ、ダメだぜ。

 だが、はぐらかす人間たちは、浅はかにはぐらかし合っていて、互いの浅はかさを、傷の舐めあいみたいに許し騙しあっているのだろう。
 はぐらかすことが良いことだと思っているから、はぐらかす人間どうしでかたまりたがるのだろう。
 下手にはぐらかす人間ばかりの組織だから、それで、今のところは、もっているのだろう。

 もしかして私は、そういう人間が組織で偉くなっていることに、嫉妬しているのかもしれない。
 だが私自身がはぐらかしがうまくなって偉くなっても、自分が嫌になって死にたくなるだけだから、嫉妬しているのとは違うと思っている。

 あるいはもしかして、嫉妬しながら、嫉妬している自分を嫌になって、それを嫉妬している相手の責いにしてしまって、人の責いにする卑怯な気持ちの持ちように自己嫌悪して、その自己嫌悪している自分にまた自己嫌悪してしまって、私はそういう無限ループにはまっているのかもしれない。

 今日、自転車に乗っていて、向こうから車道を右側を走ってきたチャラけた男とぶつかりそうになって、怒鳴りつけたら、「やるか?」などと言いやがったから、腹が立って、十五分くらい大声で言い合いをした。

 実は私は中学生の頃から、肉体的な喧嘩をしないために、右手のこぶしを鍛えているのだ。
 もうコンクリートや石を思い切り殴っても痛くないほど、皮膚と骨を固めて硬くなっているのだ。
 この拳で人を殴ったら、大袈裟にいえば死なせてしまうか、確実に大怪我をさせてしまう。喧嘩のために格闘技も練習していた。
 だから、俺は怒ったら、俺は人を怪我させてしまうかもしれないと思っていて、だから私は、自分が怖いのだ。

 それが自分でわかっているから、絶対にグーでは人を殴らない。前に何人かの高校生と喧嘩したときも、全員をパーで引っぱたいた。それは自分の拳が怖いからなのだ。
 そして私は、基本的に人をグーで殴れないのだ。夢で、怒って人を殴ろうとしても、そのとき腕が動かなくなる人間なのだ、私は。

 それから私は、口喧嘩でも、負けないのである。
 コツは二つある。
 その一つは、喧嘩のときでも、正直を通すことである。
 二つ目は、喧嘩の時でも、相手からの問いに対して、そして事実に対して、絶対にはぐらかさないことなのである。

 はぐらかして嘘をついた瞬間に、その嘘を塗り固めるために、その後から永遠に嘘をつき続けなければならない。
 そうすると、喧嘩に注ぎ込むエネルギーが分散されるのだ。だから負けてしまうのである。

 具体的な方法は、知らないことは知らないと言う。
 自分が間違ったり、無意識に人様に迷惑をかけたら、怒鳴りあいの途中でも、すぐさま謝る。
 この二つを守るかぎり、基本の部分では真っ当なことをしているのだから、遠慮なく卑怯な人間に対して怒鳴りつけることができるのである。

 右側通行をしてきて私にぶつかりそうになって、私に「やるか?」と言った男は、最後は論理が破綻して、「お前のツバが俺の顔にかかった! 汚ねえな、オッサン! ツバを吐くな!」ということしか言わなくなって、自転車で逃げていった。

 東電の社長のことから、だいぶ話がそれたが、福島県の人たちも、他の県の被災者の人たちも、たぶん、ものごとをはぐらかす人間ばかりだろう。だってほとんどの人間がそうなのだから。はぐらかさない人間は、一万人に一人ぐらいのものなのだから。
 そういうことを思うと、私は、そういうはぐらかす人間のために何かをしたくなくなってくるのだ。
 福島の人も宮城の人も、卑怯な人間どもは、どうとでもなれと思ってしまうのだ。
 だが、それは人間としてどうなのだと自分に問いかけてしまう。

 わからない。
 わからないが、天災で困っているのだから、そうなったら助けるのは当たり前だろうと思っているのだが、それを自分に問いかけても、気持ちよく肯定する返事は、私には今日は来ない。
 それともう一つは、誰かを助けたいと思うことは、自分に対してイイカッコをしたいのだろう。
 それが後後になって、自己嫌悪にならなければいいのだが。
 それは自分が劣等な性格の責いなのだが、自分が劣等でどうしようもない性格なのだと認識していることぐらいが、救いだと思っている。いや、そう思うことが精一杯の言い訳だ。

タイヤを替えた2011の春と花粉症

 今日、タイヤを替えた。
 いつもどおり新発田市のタイヤリサイクルセンターで。
 今年の三月は寒さがつづいた。
 タイヤを替えようかと思ったら雪が降った。くりかえした。

 新発田バイパスの終わりの高架橋は高すぎて怖くて、いつも降りる。
 だから俺にとっては無用のものだ。
 何十億も使っているのだろう。
 それなのに車は少ない。

 国土交通省の馬鹿どもが。
 他人の金だと思って。泥棒野郎どもが。

 今日は晴れたから、タイヤを洗って干している。
 花粉症のくしゃみと鼻水は盛大になっている。

短歌も俳句も年がかわる、桜はもうすぐ咲く

 教育テレビの短歌と俳句の番組が、今日で司会者と解説者が変わるといっていた。
 去年の今ごろだったかも、そういっていて、それを書いた。

 朝六時から始まるようになって、寝ていて観られないことが多くなったのだが、今日は偶然テレビのスイッチを押したから観られた。

 日曜の朝は寝ていたい。朝七時からに戻してほしい。
 この何年かの日曜美術館はおもしろくないから、日曜美術館のほうを早朝にして、短歌と俳句を普通の人が起きるくらいの時刻に放送してほしい。

 今日は地震のことを書かない自分を、ああ、地震のことを少しだけ忘れているんだなと、そして、春になったんだなと、思った。
 だって忘れていたけれど、もうすぐ四月じゃないか。
 桜はもうすぐ、咲くじゃないか。

不幸酔い

 地震でふと思う

 被災者に来い来いというのは
 不幸な人間を見たいからかも

 不幸な人間を助ける自分に
 酔っているのかも

 酔っぱらわないためには
 自分が酔っているとわかることだ

被災地で許される泥棒

 被災地で泥棒する人間がいるとニュースでいっていた。
 崩壊した店から金庫がなくなったり、おもてに出ていた金庫が開けられたりしたそうだ。
 それに、被災した倉庫からカップラーメンを持っていったそうだ。

 ああいうところで現金を取るのは、意味がないだろうに。
 今お金があっても、買うという行為はできないだろうに。
 だから現金を取るということは、幻想の欲望のためだろう。
 それは、今しなくてもいい、お遊びの行為で泥棒するのだから、許されない。

 私が被災者だったら、現金は取らないけれど、食料は失敬するだろう。
 いま食べられるものがないときに、それは他人様のものでも、誰も食べようとしない泥だらけのカップラーメンを取るのは、許されると思っている。
 ある意味、捨てられていると同じことだと思うから。困っているときはお互い様だと思うから。
 カップラーメンやパンや他の食料だって、そのまま腐るより、食べられて役に立って本望だろう。

 そうして年月がたって余裕ができたら、対価の十倍くらいのお金をもって、謝りに行けばいいと思う。
 だが現金を盗むのは、死刑だよ。

花粉、風邪、母なる大地と海、放射能

 今年の花粉症は三月五日ごろから始まった。
 でも地震とか、仕事がバタバタしていて、クシャミが出ても春風邪と間違えていた。

 そういえば今年は、新型インフルエンザの話は聞かない。

 母なる大地も母なる海も、時には破壊の神に変わる。

 東京の水道に放射能が混じったとニュースで言っていた。
 また、水の買い占めが始まったようだ。
 乳児には飲ませるなというらしいが、四、五日飲んでもどうということはないよ。
 いや、根拠もないが、もっと長期間飲んでも大丈夫だよ。

 それで死ぬようなら、はじめから生きるのに向いていない生命だったというだけのことだ。
 みな、自分で責任を取りたくないから、大袈裟なことを言い合っているだけのことだ。

 そういうことをしていると、また母なる大地が怒るぞ。静かなる海が、暴れるぞ。
 花粉の心配でもしていろ。

長風呂に入りたい、日常を思い出したい

 昨日まで体にハードな仕事が続いて、腰が痛くて痛くて、でも今日はお客さんのところに二件打ち合わせに行くだけにしたから、それ以外の時間は寝ていた。
 横になっていると、腰もずいぶん楽になる。

 四、五年前までは、どんなに痛くても一晩寝れば、次の朝はすっきりと痛みはなくなっていたのだが、この頃は痛いのは痛いままで朝をむかえる。
 それに肩や腕や首にも、筋肉痛が残る。

 横になりながら、少し本を読むことができた。
 今朝は二回大きめな余震が来たが、それは福島県が震源地だった。
 こっちはもう、余震の心配はしなくてもいいと思う。
 それが、心に、本を読む余裕をうませたのだろう。

 腰痛のためにも、ゆっくりと長風呂につかりたいのだが、地震がこわくてお湯に入っていられない。
 これが長風呂につかりながら本を読むことができるようになったら、私にも日常が戻ったといえるのだろう。

今は頑張るな

 テレビでもラジオでも新聞でも、そしてテレビは特に、被災者に、頑張れと言いすぎる。
 今は頑張るときではない。
 今は、悲しむときだ。

 今、きちんといっぱい悲しんでおかないと、あとあと心にヘンなヒビが残る。
 大声で泣けばいいし、大きなため息を何回もつけばいい。
 布団をかぶって、一日中寝ていればいい。

 そうやっているうちに、時期がくれば、頑張れる。

地震知らせのメールは、鳴り響くようになっているようだ

 携帯電話をマナーモードにしているときにも、地震の知らせメールの音が鳴るのかを知りたかった。
 けれどマナーモードにすることも珍しいし、そのときに地震知らせメールが来る確率はほとんどない。

 昨日の20日の日曜日にドブ掃除をしていたとき、作業を始めたら携帯に出られないからマナーモードにしていた。
 そうしたら午後二時過ぎだったか、車のダッシュボードに置いておいた携帯が、この頃聞きなれているサイレンみたいな音を立てた。
 ラジオをつけていたから、同時に、これから地震がきますとアナウンサーが叫んだ。

 地震は宮城沖だったからこっちは揺れなかったが、携帯はマナーモードでも地震知らせのメール音は鳴り響くのだとわかった。
 それは私の携帯だけかもしれない。あるいはあの時だけだったのかもしれない。
 だがたぶん、地震が起きたときのメールは、ドコモならどの携帯機種でも、マナーモードでも大きな音をたててくれるのだろう。

 あの音はこの頃は慣れたせいか、大事なことを知らせてくれる親切なものだという安心感さえ持っている。
 あのシステムはドコモしかやっていないなら、ドコモは嫌いだが、ドコモに入っておこうかと、思っている。

東京は今でもサムライがいる城下町

 福島原発に水を注入する任務で結果を出した、東京消防庁の特別部隊の記者会見を観た。
 その三人の責任者の、仕事の結果を出した男の、疲労もあるけれど、その疲労は気持ちのいい疲れだという爽やかさあふれる顔つきを、見せてくれた。

 その喋り方は、何かを誤魔化そうとするような回りくどいヘンな修飾語を使わずに、箇条書きのような素直な短い文を重ねて、ごまかしのない伝え方で、これも爽やかで気持ちがよかった。
 それはとても分かりやすくて、それは結果を出す男たちだけが使う、伝達するということを最大限に目的化した言語なのだ。
 そういうすがすがしい言葉と、結果を出すための手段を遂行する綿密な計算を頭の中に持ち、運動神経と持久力と、勇敢な行為をする、心と体を持つ彼らの顔は、誇りに満ちたサムライの顔だった。

 東京には、この大事なときに買占めなどをするイナカモノも大勢いるが、でもやっぱり東京には、頭脳も、精神も、肉体も、人間として優秀な人が集まっているのだなと、東京がちょっぴりうらやましくなった。
 私の三十半ばまでの、激しい東京好きを、思い出した。

災害用のリュックサックを用意しようかな

 三月十二日の明け方の頻発地震の日から、リュックサックを二つ、いつも持ち歩いている。
 一つのには、二日分の着替えと洗面道具。もう一つには、銀行の通帳と、仕事で使う手帳とかUSBメモリーとかデジカメとか携帯電話とか、その充電器とか、現金とか。
 お金はできるだけ細かくして、十円玉と百円玉と千円札にしている。そのほうが使いやすいだろうと思って。だからいくらも入ってないのに、財布がパンパンだ。
 そして大袈裟で恥ずかしいのだが、ヘルメットも持ち歩いている。ちょうど外壁塗装で足場を設置したときに、立ち会ったときにかぶったのを、車につんでいるのだ。13日と14日は、ヘルメットを枕元に置いて寝た。ベッドの足元には、地震がきたらすぐ履けるように、足先を覆う厚手のサンダルも置いておいた。

 でも明日からは、着替えと洗面道具は持ち歩かないようにしようと思う。携帯の充電器もいらないな。お金もそれほど細かくしなくてもいいだろう。
 新潟県の余震はなくなったみたいだから。

 でも、油断してると、もう来ないだろうなんて思ってると、ひょいっと来るのが地震なのだから、洗面道具と、缶詰めと、ジュースと、少しの小銭を入れたリュックサックぐらいは、これからも用意しておこうかな、と少し思っている。

ひとを助けたいのは自分をたすけたいから

 大地震があってから、ブログは地震のことしか書いてない。
 これは被災した人のために書いているわけではない。
 これは自分自身のために書いているのだ。
 つきつめれば、私の気持ちが安らかになるために、地震にあった人を思うことをしているのだ。
 地震を知らなかったら、気持ちはゆらゆら揺れなかっただろう。
 地震があったことを知っているから、それで自分の心が変に揺れているから、その自分の普段と違う揺れ方をしている自分の心を助けたいために、地震にあった人を助けたいと思うのだ。
 でもそれが結果として、人を助けられるのなら、それが人間なのだと、思いたい。
 でもそれで、すぐにでも被災地に飛んで行きたい、何か俺でも、何か役立つことがあるのじゃないかと思って、車を走らせようとする心をおさえている、おさえている。

地震にあった人たち、こっちに来て一息ついてほしい

 昨日休んで世間のブログをざっと見てみた。
 地震のことで、祈るしかできないと書く人間の多さよ。その自己満足の醜さよ。
 祈ることしかできないならば、書くな。世の中の電気の無駄だ。
 それとコピペの多いことよ。
 オリジナルの考えや自分の意見を書かない。その家畜根性、怠け根性。

 そして誰かを批判非難するときは、自分の身元を明らかにして、かつ対案を出すべきだが、政府や東京電力を批判するときも、対案を、それもオリジナルの対案を出すべきだ。
 俺ももちろん、政府の人間や東電の人間の、官僚的な責任を取ろうとしない根性が醜くてみにくくて気持ちが悪くて怒っているが、今は彼らしかやるべき人間がいないのだろうから、仕方なくでもやらせなければならない。

 今日、サッカー場の近くのチャレンジャーに寄ったら、中国人らしい人たちが大勢買い物をしていた。レジで、店員を理不尽に怒鳴っていた。俺もよく怒鳴ることはあるが、絶対に必ず、スジミチを通した中で怒鳴る。そうでなければ、ただの乱暴者になってしまうじゃないか。
 そういえば近くには、新潟市立の産業振興センターという建物があって、そこに避難してきた人たちかもしれない。まさかあれは福島の人だろうか。それこそ、そうでないことを祈る。
 スーパーの売り場は、米が少なくなっていたぐらいで、商品はふんだんに並んでいた。

 道には、福島ナンバーや、いわきナンバーの車を多く見るようになった。
 おとといの15日に、新潟県の公共施設に、福島の人たちをたくさん受け入れろと書いたが、俺が言うまでもなく、自治体職員たちはそうしてくれていたのは嬉しかった。もっと受け入れてほしい。困ったときは、お互い様なのである。

 俺の大好きな上杉謙信は、敵に塩を送ったのだ。もちろん福島県の人たちは敵ではない。同じ人間なのだ。だから、福島の人だけじゃなく、宮城の人も、岩手の人も、こっちに来て、一息ついてほしい。ゆっくりと風呂にも入ってほしい。日本海側の魚を食ってほしい。そして、すこし酒でも飲んでほしい。越後の酒を。
 そしてまた元気を取り戻して、頑張ってほしい。それを見れば、俺ももっと頑張れる。

休みだが寝る春の一日

 今日の午前中に予定だった計画停電はなくなった。
 お客さんたちには、停電になると、電気がなくて仕事が出来ないから行きません、と連絡しておいたし、お客さんのほうから、計画停電があるからハウスクリーニングは延期してください、とメールをくれた人もいた。
 だから、今まで毎日バタバタしていたから、今日は一日休みにしたのだ。
 そうして停電になれば、午前中はベッドでラジオを聴きながら本を読もうと思っていた。

 それが布団に入ったけれど、どうしてか本を読む気持ちにはなれなくて、せっかく電気が来ているのだからと、テレビの地震の番組を観ていた。そうしたらいつのまにか、テレビを観ながら午前中は、うとうとと眠っていた。

 昼に起きて、買い置きのアンパンを食べて、それからまたテレビを観つづけていた。
 神経が高ぶって、何か不安で、こういうときは本など読むことはできないものだと知った。

 今、夕方の四時を過ぎたところだ。
 さっきテレビで、新潟市の今夜の計画停電もしないとニュースで言っていた。
 夕方五時から夜八時までの予定だったから、暗くなる前に早めに酒を飲んで寝てしまおうと思っていたが、さてどうするか。
 だが、せっかくの休みなのに、何かをしようという気持ちになれないのだ。
 だから、被災した人たちには申し訳ないけれど、やっぱり早めに飲んで、暗くなったらすぐ布団にもぐりこんで、眠ろうと思う。
 なんだか、むしょうに眠りたい日なのだ。

原発そかい

 福島の原発が大変なことになっているようだ。
 素朴に怖い。
 発電所に近い人はもっと怖いだろう。

 福島から他の地域の学校やそういう建物に、被災地の人々に移ってもらって、そこで何ヶ月か暮らしてもらって、その間に、専門家の人たちが原発を修理するとかが出来ないものだろうか。
 年取った人や赤ん坊とかだけでも、新潟県とか関西とかの公共の建物に引っ越してもらって、そこで何ヶ月か暮らしてもらうようなことが出来ないだろうか。

 追記
 16日朝のニュースで知ったが、新発田市の公共の建物を開放しているそうじゃないか。やるな新発田市、さすが城下町だ。
 新潟県全部の市町村がそうすべきだ。

 人の輸送は、JRで一気に運べ。ちょうど磐越西線がある。どんどん運べ。そして受け入れろ。
 いま人間を見せるときだ。

死ぬ前の贅沢は、半額でないもの

 12日の明け方の頻発地震で死ぬ思いをしたから、その夜は贅沢に、半額じゃない刺身をいっぱい買ってきて、日本酒を飲みながら食べた(といっても俺が死ぬ思いなどと言うのは、本当の大震災にあった人たちに比べれば、失礼なものいいなのだが)。
 肉売り場では、高級和牛の厚いステーキが4000円の値札で、それが半額の2000円で売っていた。
 夕方前なのに半額シールが貼ってあるのは、実際より高く値付けして、それをカタチだけ値引きして売っているのだろう。卑怯なやり口だ。
 だから、死ぬ前に高級和牛を食ってみようかと思ったけれど、やめておいた。

 12日から、シャツやパンツや靴下の、着替えを二日分と、洗面道具と、ありったけの現金と(といっても2万円ほどなのだが)、そして携帯電話の充電器と、健康保険証と、印鑑と、小さなラジオと、水分補給のための2リットルのペットボトルのレモンジュース三本と、そういうのをリュックサックに詰め込んで、持ち歩いている。いつ大地震が襲ってきてもいいようにと。
 それは、二日間のツーリングに行くときの荷物の量だ。

 そして今日、USBメモリーをもう一つ買ってきて、仕事の経理の数字と、これからお客さんに出す、作りかけの見積書やリフォーム図面を入れて、持ち歩いている。
 新潟市にも大地震が来て、アパートがつぶれて、パソコンがなくなっても、どこかのネットカフェで完成させてプリントアウトできるだろうかと思って。でもあまり意味がないかもしれないが。

 今、夕飯を食べているのだが、いつものように安い焼酎のレモン水割りに、半額の魚を炒めたのと、ほうれん草の卵焼きと、かぼちゃの煮たのが肴だ。
 日常のご飯に戻ったということは、自分の心が、日常に戻りつつあるということだろう。
 でも地震にあった人たちのことを思うと、半額の魚でも、これは贅沢というものだろう。半額の見切り品でも、これを食べていると、何だか申し訳ない気持ちにもなるのだ。
 地球よ、地球も、そろそろいつもの地球に戻ってくれよ。

ラジオで泣いたアナウンサー

 昼すこし前にお客さんのところに行く車の中で、地震のラジオを聴いていた。
 NHKの男のアナウンサーが、被災者の声を読み上げていた。乳飲み子をかかえる母親の言ったことを読んだ。
 ストレスで母乳の出がわるくなり、赤ちゃんが脱水症状になるのではないかと心配していたけれど、粉ミルクとお湯をもらえたので、飲ませることができて安心できた、と読むあいだにときどき、何回か、三秒くらいの無音声がとぎれとぎれに入った。
 無音声のすぐ後のアナウンサーの声は、鼻がつまったように聞こえた。
 ああ、泣いていたんだな、とわかった。
 そのアナウンサーは仙台放送局の人らしい。

 帰り道のラジオで、地震で発電所が止まって、電力の供給不足になったから、計画的に停電をすると言っていた。
 もちろんそうすべきだ。今までがジャブジャブと電気を使いすぎたのだ。
 俺も電気を節約するぞ、と思ったが、もともと電気は使うほうじゃない。自分で言うのも何だが、ガスも水道も節約しながら使っている。
 でも、もう少し、というかもっと、考えて節約しようと思った。

 備蓄している乾電池が四本ある。たぶんどこの家にもあるだろう。
 ラジオも使っていないのが、どこの家にもあるだろう。
 そういうのを被災地に届けられないだろうか、とも思った。

地震の朝と犬の散歩

 今日は二時間しか眠らなかった。
 昨夜は二時まで事務仕事をしていて、それから寝て、どうしてか四時前に目が覚めた。ちょうど地震の十秒前に目が覚めたのだ。
 目が覚めて、ラジオでも聴くかとスイッチを入れた瞬間、ラジオから地震が来るぞというサイレンみたいな音が響いて、そして同時にケイタイも、地震が来る知らせのメールの音を出した。
 そうしたら、ベッドが激しく揺れた。
 真っ暗の中だ。頭に何か落ちてきてもいいように、とっさに布団をかぶった。
 揺れはしばらくしておさまった。
 それから五分おきぐらいに地震が来た。津波のように次々に揺れが襲ってきた。だから眠れないのだ。地震がくるたびにケイタイの地震メールがうるさく鳴るし、怖いし。
 眠いのに眠れないのは、頭がフラフラする。精神的に疲れるものだ。
 揺れがおこるたびに布団にもぐりこんだ。何回も何回もくりかえした。

 そのまま夜が明けて、それでも小刻みに地震はきて、それが六時半ころになると揺れもおさまってきたから、シャワーを浴びて、そしてガスが止まって暖房が使えなくなってもいいように、シャツを三枚、その上にポロシャツを、その上にトレーナーを、その上にヨットパーカーを、その上にオーバーを着た。

 停電になって、ご飯も炊けなくなるかもしれないと思って、コンビニにパンとおにぎりと弁当を買いに行った。
 売り切れてなくなっているかと思っていたが、客も少ないし、パン類はふんだんに置いてあった。

 それを食べながら運転して、お客さんのところに行った。外壁塗装の足場が心配だったのだ。
 信号で止まって歩道のほうを見たら、犬の散歩をさせている中年の女が歩いていた。
 いつもの朝の日課なのだろう、日常の顔つきで、楽しそうに犬と歩いていた。犬も楽しそうだった。

遠い地震で感謝のこころ

 午後、お客さんの家でしゃべっていたら、からだがゆっくりゆれて、すこししたらああ地震だとわかった。
 じきにおさまるだろうと思いながらしゃべっていても揺れやまない。ゆれは長く長く、でも激しくならずに、大波に乗っている大きな船のように、ゆったりといつまでもゆれている。
 これは遠いところで大きな地震があるのだな、と思ったけれど、お客さんの前で知ったかぶるようなことを言うのはやめて、揺れがおさまらないですね、と言った。
 五分くらい揺れていただろうか。こんなに長くゆれるのは生まれて初めてのことだ。

 しばらくしてテレビに地震速報が出て、仙台で震度6だと出て、ああ中越地震と同じ震度だ、ということは大地震だ、ということは人死にが大勢出たのだろう、かわいそうに、と思った。
 そのあとも揺れは、何度も何度も思い出したように揺れて、体は揺れを感じた。

 夕方帰ってテレビをつけたら、東京の首都高速で走っている車の中でテレビカメラを映している映像を観た。
 車がジャンプしているように躍るように揺れていた。こういう映像は初めて観て、不謹慎なものいいだがおもしろいと思った。

 携帯電話がつながらないで、お客さんにも職人さんたちにも連絡がとれない。
 夕方六時半ころになってやっと、少しずつポツポツとつながってきた。

 今日も新潟市は雪が降った。
 この寒い時期に宮城の人たちは、暖房もなく過ごすのだ。
 俺はいまガスストーブにぬくぬくあたっている。酒も飲んでいる。ご飯もこれから食べる。ああ、しあわせなことなのだと、普段なにごとにも感謝しようとしない傲慢な俺でも、自分の幸運に今感謝している不思議だ。

とびます、とびます

 帰るときのラジオが教えてくれた。じろうさんが死んだと。帰ってテレビをつけたら欽ちゃんがばかだよと泣き顔で言っていた。誰でも死ぬのだな。あの人でも、俺でも。

嫌いなフェイスブック

 フェイスブックが流行っているそうだが、アメリカではもうグーグルより身近になっているそうだが、私は好かない。
 フェイスブックというのは、個人の自己紹介ホームページと見た。
 一般人が自分個人をホームページに出してどうしようというんだ。

 そして気に喰わないのは、知り合いが多いのが良いことだと思い込んでいることだ。
 そうして闇雲に知り合いを増やすことが、フェイスブックの役割と見た。

 それはカタチだけの知り合いを増やすことに血道を上げて、「いいね」などというケイハクな物言いの合言葉で誉めあって、それは馬鹿馬鹿しいのだ。
「いいね」というのは多分、英語の「Good!」とか「Good Job」とかいうのを直訳しただけのことなのだろう。安易なものだ(後で知ったがI likeの意味だそうだ。見ず知らずの他人から単に、これを好むと言われたがるのを目指しているのは馬鹿だ)。

 欧米人は個人主義だと思っていたが、アメリカ人は違うみたいだ。
 アメリカ人は、おおいなるイナカモノの集まりだから、自分以外の人間の評価を、病的にとても気にするのだろう。
 だが本当の田舎の人は気のいい人が多いから、それは悪くも良くもないのだが、自分を自分以外に合わせることと、合わせたくないことが、上手に調節できないのだ。
 なぜそれがわかるかというと、私がそうだからだ。
 そういうところがフェイスブックにあらわれているのだ。
 でも、私もいつか、フェイスブックをするかもしれないが、それはあくまでも仕事としてのスタンスでやるだろう。でもしないだろうな。

リフォームとハウスクリーニングと小説

 実際の仕事でも、インターネットの方でも、リフォームのことばっかりやっていたら、いつのまにかハウスクリーニングのホームページの検索順位が下がっていた。
 SEOを怠っていたら、てきめんに順番が下がるものだな。

 でももうSEOは、一時期ほど力を入れていない。
 定期的にサイトを更新して、内容を多めに書くということぐらいをしているだけだ。
 この頃は、それでいいと思っている。

 しかしリフォームは、単価が高いのに、ハウスクリーニングよりは、需要がある。
 ハウスクリーニングは、一つの仕事の単価が低いし、それなのに、リフォームの何分の一か、何十分の一かの需要だ。
 それは、まだまだ家の掃除を、他人に金を払って頼もうという人は少ないということだ。

 前から俺は思うのだが、小説にたとえると、リフォームは大衆小説で、ハウスクリーニングは純文学だと思っている。
 需要の数もそうだし、一つ一つの作業の細かさもそうだし、一つの仕事の規模もそうだし、そういうところが、そう思わせるのだ。
 俺は大衆小説は読まない。おもしろくないから。読むのは純文学だけだ。
 だからどっちかというと、リフォームよりもハウスクリーニングのほうが、やりがいがあると思っているのだ。
 だが利益が上がるのは、リフォームのほうだ。一回の仕事の売上げ規模が違うから。
 でもやっぱり、ハウスクリーニングの商売を軌道に乗せることのほうが難しいし、その難しさが、やりがいがあると思っている。
 それにハウスクリーニングは、精神的にも、物理的にも、依頼者との距離が近いところで作業する。それも、やりがいがあると思っている。
 もちろんリフォームの仕事も楽しいし、人の役に立つものだと思っている。
 だから、どっちもおもしろい。

年とる気持ちとバイクの気持ち

 バイクを買おうかなと一瞬思って、R1-Zとかをネットで探したけれど、買いたいものがなかった。
 他のバイクもひととおり見たのだが、欲しいものがない。
 ということは、バイクに乗りたい気持ちが高まっていないのだろう。

 無意識に、五十を前に乗っておきたい、乗る感覚を取り戻しておきたい、と思ったのかもしれない。
 でももう、オートバイに乗りたい気持ちがないのだ。
 それは、いい年をして、やっと青春からの卒業なのだろうか。

 原付でもいいかなと思ったが、原付は他の車のスピードに合わせられないから、かえって危ない。
 一番の理由は、無意識に、自分の運動神経の衰えを自覚しているからだろう。
 年をとることへの恐ろしさ悲しさを、バイクに乗ることの恐ろしさにすりかえているのだろう。
 いっそ乗ってしまえば、新しい世界がひらけるのかもしれないと、思ってもいるのだが。

封建社会からの距離と東京からの距離

 中東やアフリカで独裁政権が倒されたり倒れそうになっているニュースを観ると、私が好きな独裁主義とは違うものだとわかる。
 私の好きな独裁は、哲人政治の独裁であって、それはほとんど幻想なのだから、実現は出来ないとわかっているかたちだ。
 それでも独裁主義がよいと思っているが、実現ができないのだから、仕方なく私は多数決主義の中で生きている。

 リビアやエジプトの政権は、単なる勘違いしているワガママな人間がトップに就いて、そのかたちで公金をむさぼっている大勢の人間が独裁者をかついで、それで独裁をしているのだろう。
 それは中世の世の中でとどまっているかたちだろう。ようは、遅れているのだ。

 遅れているのだが、人種としてそういう封建的な政治が合っているのかもしれない。
 誰かが誰かを家来にしてしか、お互いに人間関係がむすべない世の中。
 それは新潟市を中心とした下越地方に多くみられるものだ。私は大嫌いなのだが。

 日本の場合、東京から物理的に離れるにつれて、そういう中世的な政治や人間関係が濃くなる。
 それも、仕方ないのだろう。
 嫌なら東京に行くのがスジミチだろう。

春は目覚めは地球の回りに合わせる

 三月に入ってから早く起きるようになった。
 この毎日、目が覚めて枕元の時計を見ると四時なのだ。
 今が季節の変わり目だと自分の体が教えてくれている。
 本を読むほど頭ははっきりしないから、横になりながらパソコンのスイッチを押す。
 窓の外で新聞配達のバイクの音がする。
 一時間ほど寝ぼけながらネットを泳いでいると、また眠くなる。
 そして二度寝する。

 七時すぎにまた目を覚まして、今度は起きる。
 頭はすっきりしない。
 あと半月くらい、朝の目覚めがくるっているが仕方がない。
 本当の春になれば、五時半ころに目が覚めて、そのまま起きて活動する。

 年とともに、夏場と冬場の目覚めの違いがきわだってきている。
 これは、単におもしろくもない季節のバイオリズムというやつだろう。
 あこがれの躁鬱病になれるだろうかと期待してみるが、この年でそういうのにはなれないだろうから、北杜夫はもっと若くてなっただろうから、私はあきらめている。

カンニングは泥棒は罰を与えよ

 京都大学のカンニング事件で、テレビでもネットでも犯人を擁護する風潮があるが、それは日本が泥棒どもであふれているあらわれだ。
 泥棒を擁護する人間は泥棒だ。

 対策を怠っていたと大学を責める物言いの方が多いようだが、悪いのは絶対にカンニングをした奴だ。これだけははっきりしておかなければならない。
 別に大学側は責められる立場ではないのだ。
 どちらが悪いか、何が悪いかを、はきちがえている人間が多い。

 それに、カンニングぐらい大したことないじゃないかと言っているのも多いが、俺はズルイことが大嫌いだから、ズルイことを大したことないなどと言っている奴には、ベロ噛んで一回死ね、と怒鳴りつけたくなる。

 犯人は可哀想な境遇だったというニュースも聞いたが、世の中にかわいそうな人間はいくらでもいる。
 そういう可哀想な人でも、ズルイことをしない人はいくらでもいる。

 だから、やったことに対して、その罪に比例して罰を与えるだけのことだ。簡単なことだ。
 何かの正当防衛ではないのだから。

 だけれど、可哀想なところもあるから、そして正直な人になりそうにも思えるから、今だけ思い切り罰を与えて、あとは普通に世の中に出して、そうして、世の中に役立つ人になってもらえればいいと思う。

病気の冬のスカート

 今年は二月の一時期あたたかかったから、もうタイヤを替えてもいいだろうと一瞬思ったが、いやまてよ毎年三月にも一回か二回は雪が降ったぞと思い出して、そのままにしておいた。
 それが今朝、窓を開けたら雪が積もっていた。

 積もったといっても3センチくらいだったが、屋根も、駐車場も、道路も、久しぶりに真っ白に変わっていた。
 キレイな白色におおわれて、新潟市の病んでいるような醜い心を隠してくれているようだった。
 こういうのを、心があらわれる、というのだろう。でも心は本当は洗われていないのだが。表面上の色が変わっただけだが。
 だが今朝の雪は、まあまあの気分転換にはなったのだった。

 新潟駅の近くの道を車で走っていたら、この雪の寒さの中でも、スカートから素足を出して歩いている高校生がいたが、いつも思うのだが、あの格好は死ぬほど寒いはずだ。
 それなのにそういう格好をしているのは、それは心が歪んでいるのだろう。
 もう感覚が麻痺しているのだろう。
 寒さも感じなくなっているのだろう。

 オンナというものは、催眠術にかかりやすいらしい。
 それは感覚を麻痺させやすいからだろう。
 そして理性がないからだろう。頭が悪いからだろう。
 頭が悪くて、感覚を感じる神経の性能が悪いならば、寒いとか暑いとか、その他いろいろな感覚は鈍いだろう。

 せめて今日ぐらいの気温の日は、ズボンをはけよ。
 小雪がまっている外を、素足というか、ももを出して歩いているのは、それは精神が病んでいる証拠だ。
 新潟の若いオンナは病んでいる人間が多いようだ。
 どういうふうに病んでいるかは、可哀想だから書かないが。
 だから車のタイヤは、いつもどおり三月の下旬に替えようと思った。

三枚おろしは心を探す方法

 今夜のためしてガッテンは、魚を三枚おろしにするハウツーだった。
 私も何回やっても上手にできなかったし、あきらめていたのだが、ためになった。

 私は理屈屋だから、体で覚えるより、頭で理解したら出来るようになる人間だ。
 だから知識を得れば出来る、と思う気がいつもする。

 ステーキナイフで切れば三枚おろしができるそうだ。
 ヒレを支える骨のところを包丁で先に切って、それからステーキナイフに持ち替えて、そうして下からも背骨の下のところを切って、またステーキナイフで切って、上下を切ったら、最後に背骨をはがすように切ればいいそうだ。
 ためになった。やってみようと思う。

 見えない骨を探しながら切るのは、相手の見えない人の心を探しながら、接触していくのに似ていると思った。

 しかし山瀬まみは、番組の中でいつも正解を出す。それはやらせだろうが、そのやらせは特にいやみに感じないから、正解を言う役としての役割だと思えば、見ていられる。
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