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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

スピード恐怖は認知症に関係あるかもしれない

 年々高いところが恐くなる。
 スピードを出すのも恐くなる。

 子どもの頃は屋根にのぼるのが楽しかったのに。
 そうすると、降りろ! 危ない! とおこられた。

 サスが弱っていてフレームがやわい昔のヨンヒャクで、140出して車体がフワフワ踊ってもアクセルを戻さなかったのに。

 それが五十も近くなると、大きな橋を走るのも恐い、バイパスの高い道を走るのも恐い、東京タワーを見るのも恐い。
 オートバイで70キロを出すのが恐い。

 スピード恐怖症というのは、高所恐怖症や先端恐怖症や狭所恐怖症やオンナ恐怖症や人間恐怖症と同じで、神経症なのだろうか。
 それとも年寄りがなる心の病気かもしれない。
 克服できるかどうかはわからない。
 克服できなくても仕方がない。

国民健康保険の建て直し方法

 さっき教育テレビの福祉ネットワークという番組を観たが、相変わらずNHKは泥棒根性だ。
 テーマは、国民健康保険の仕組みが成り立たなくなりそうだということだった。
 厚顔無恥なアナウンサーと、頭の悪そうな大学教授とやらが、そいつらが言うことはすべて、保険料を、集める方法についてだった。

 そんなことより、コストを減らせよ!
 公的な仕組みで飯を喰っている人間が多すぎるから、仕組み自体が成り立たなくなっているんだよ!
 もう一つは、仕組みを悪用して、無駄に生きながらえようとする年寄りが多すぎるから、仕組みが倒れるんだよ!

 他人様の金で飯を喰っていい人間は、五体満足でない人だけだ。それだって、ごく軽い医療を受けるだけにするべきだ。それで死ぬ人は、その寿命だったということだ。それで満足するように、日々何かに打ち込んでくれ。人生を打ち込むことがないから、ヒマだから、他にすることがないから、もっと生きてみようかなんて思うのだから。生きるに足る打ち込むことを探せ!

 それから、仕組みを食い物にしている人間たちは、今すぐ、自分自身の力で、自分しかできないことを自分の仕事にして、その仕事の客を自分で開拓して、それで飯を喰う方法を探せ!
 これが真っ当な仕事のやり方であり、生き方だよ。
 それなのに公金にたかる人間の多さよ! 寄生虫の多さよ! 泥棒根性の人間の多さよ!

 もう一つの方は、七十五過ぎたら、金のかかる医療は受けない、受けさせない、ということを徹底しろ!
 お前のような、生きていても生きていなくてもどっちでもいいような人間は、そうして今まで散々ズルク立ち回ってきた人間は、世の中の人が世の中の大事なことに使うために、これから先に生きていく人間のために使う、だからお互いに助け合う目的で出し合っている公金で、もうそれ以上無駄に生きないでくれ!
 これは俺自身にもいえることだがよ。

 もちろん当たり前だが、あるていど医者がかりをしないで長生きしている年寄りの人には、自分の健康に注意して、もっとそのまま長生きしてくれ。そういう人を見るのは気持ちがいいんだ。

 それから医者たちも、公的健康保険を食い物にするな。
 公的な仕組みに依存しないで、その場所から出て、自分の力で患者を集める仕事をしてくれ。

放射能とラーメンの恐さ

 今朝はインスタントラーメンを食べた。インスタントラーメンは私にとって御馳走なのだ。でも体に毒だから十日に一回の割合でしか食べないようにしている。そしてたまに食べるからなおさら美味いのだ。

 でももう年だから体に毒のものも食べてもいいかと思っている。だからラーメンも恐くなくなっている。
 化学調味料の摂取量を自分で考えて、食べるか食べないかを決めれば、自分で選んだことだからあきらめもつく。
 だが放射能の恐さは、自分で摂取するかどうかを選べない。知らないうちに体に入っているから、恐い。

 明日もインスタントラーメンを食べてみようか。二日続けて食べたことはない。やはり放射能もラーメンも恐い。

今年の花粉症のおわり

 今年の花粉症はいつのまにか終わっていた。
 たぶん五月の中ごろに、クシャミが出なくなったと思う。

 今年は長びくなあと思いながら、でもそれほどひどくないなと過ごしていたら、知らないまにクシャミは消えていた。
 今年は花粉症の始まりもいつ始まったかわからないくらい、いつのまにか始まっていたのだ。

 いつ始まって、いつ終わったかわからないのは、大地震があったから、そっちのほうに気がいっていたからかもしれない。

政府とマスコミと、そして自分も信じるのは馬鹿

 原発が津波にかぶってからその後、海の水を入れ続けたかどうかで政府と東電がもめている。海水注入が一時止められたといわれていたのに、原発の所長が自分の判断で注ぎつづけていたとか言っているが、それはぜんぶ嘘かもしれないじゃないか。
 所長が言う海水注入を続けていたというのも、作り話かもしれないじゃないか。

 それは所長が嘘を言っているかもしれないし、東電が嘘を言っているかもしれないし(いや今までも東電は嘘を言い続けているし)、政府が嘘を言っているかもしれないし(政府はいつも平気で嘘をつくし)、政府の発表を信じて、喜んだり怒ったりするのは馬鹿げている。

 あんな大事なことで、政府が本当のことを言うわけがないじゃないか。
 なぜなら俺を含めて日本中の人間は嘘吐きなのだから。政府はその嘘吐きどもの代表の嘘吐きどもなのだから。

 マスコミも、儲けるために嘘を報道したことなど数え切れないほどある。
 政府の言うことを信じるのも、マスコミの言うことを信じるのも、馬鹿だ。
 自分が思ったことさえ、それをすぐさま信じるのは、馬鹿だ。
 俺を含めて、馬鹿は生きるのに不全なのだから、大いなる自然にとっては、死なすべき存在なのだろう。
 大地震と大津波が、それを教えてくれている。

新相馬節

 バイクに乗るときは音楽を聴きながら乗る。というか音を聴きながらでないと恐くて乗れない。
 このバイクでバイパスに乗って初めて70キロを出せたのも、カセットを聴いていたからだ。無音でバイクに乗っていると、心が鬱々としてくるのだ。たぶんある種の神経症なのだろう。

 十五年ぐらい前の東北一周ツーリングで、恐山を走っているときはモーツァルトを聴きながら走った。
 太平洋側の海沿いの道を走っているときは、正調東日本民謡というカセットをかけていて、ちょうど相馬地方の海辺を通るときに、新相馬節がかかって、それを聴いていたらどうしてか涙が出てきて、景色がぼやけて、目をしばたたきながら夏の暑いアスファルト道を走った。

 だが今の福島の海側地方は好きになれない。原発利権にたかってうまい汁をすすっていたくせに、それを忘れたふりをして、政府や国家に全部の責任をなすりつけている人間が大勢住んでいる場所。
 被害にあったのは気の毒だが、今までのラクして受け取ってきた銭のことを考えてほしい。
 もちろん原発の事故でいい気味だといっているわけではない。原発事故のリスクは、日本中のすべての国土に溢れているのだから。他人事ではないのだから。

 しかしこの唄は何度聴いてもあきない。
 相馬恋しや、なつかしや、というところで、自分自身の生まれ故郷を思う。

技術の難易と報酬

 買ったバイクはフロントフォークのオイルが少しにじむのだが、今のところ走行には支障がないからそのままにしている。
 バイク屋に、オイルシールのパッキン類を替えてフォークのオイルも替えるオーバーホールを頼むと、工賃だけで1万3千円くらいだそうだ。部品代をいれると2万円弱になる。
 それは商売でやっているのだし、それなりに手間もかかるのだから正当な料金なのだろうが、頼む気になれない。
 なぜなら、バイク屋が信用できないからだ。

 ヤフオクで買って、他県から届いて、すぐオイル交換をしてもらった新潟市のバイク屋のHPには、オイル交換の工賃は無料と書いてあった。けれど、請求のときに工賃で980円取られた。
 後で考えたのは、工賃無料というのは、自分の店で買った客だけが対象なのだろう。
 それならそれで、それを書いておくべきじゃないか。

 オイル交換の工賃が980円というのは、別に高いとは思わないが、そういうふうに、言っていることとやっていることが違うのは詐欺だ。
 その場では追求もしなかったし怒らなかったが、もう行きたくないと思っている。そのときは、それぐらいの細かいことを追求するのは、人間が小さすぎると思ったのだ。でも細かいことだからこそ、後で怒りの気持ちがわくのだ。
 他のバイク屋にも、部品の取り寄せや整備のことで電話で問い合わせたのだが、どのバイク屋の喋り方も、いかにも新潟市民のコズルさと横柄さがにじみ出ていて、やっぱり行きたくないと思った。

 それがググってみると、俺のバイクのほとんどの整備の方法が、画像入りで詳しく書いているブログがあった。
 それも、いくつもそういうブログがあるのだ。世の中には、好き者がいるものだ。
 フロントフォークのOH、ディスクブレーキのパッド交換、ブレーキフルードの交換、タイヤ交換、キャブのOH、その他いろいろ。
 しかもフロントフォークの、インナーチューブとアウターチューブをはずすための特殊な工具を、高い工具を買わなくても済むように、棒ネジとナットを使って代用するアイディアを書いている。
 他にも金をかけずに整備する方法が満載なのだ。

 それを読めば、その通りに作業すれば、バイク屋に頼まずに済む。
 そのブログ主も、バイク屋への不信感を持っていると書いていた。
 他にも、YouTubeでも、バイク整備の映像が沢山アップされている。

 バイク整備の業界は、人間の手の技術より、道具に依存しているのだろう。
 だから、やり方さえわかれば、誰にでもできるものなのだろう。
 四輪の整備も、そういうものなのだろう。

 暴言を言うが、二輪、四輪の整備の業界など(ハウスクリーニングの業界もそうだが)、一般的に地頭の良い人間が就く仕事ではない。
 だからその技術は、誰にでもできるように、標準化されているだろう。
 まずマニュアルがあって、それに合わせて作業するのだろう。
 やっていることは、本当の意味の仕事ではなく、作業だろう。

 人間の技術の中で、世間の人が重きをおいている技術は、医療の技術だろう。なにせ人体をあつかうのだから。
 でも、お医者さんの知識や技術だって、もしかしたら、道具や機械やマニュアルに依存しているのかもしれない。
 もしかしたら現場では、やっていることは、仕事ではなく、作業かもしれない。
 そういうものに、公金からいっぱいお金を払っているのかもしれない。

 俺は昔から思うのだが、誰にでもできないことは、芸術とセールスだけだと思うのだが。
 芸術とセールス以外は、努力と時間さえかければ誰でもできるぞと。

網戸で節電

 今年は網戸を新しく取り付けたいという人から問い合わせが多い。
 原発事故で節電しようということだろう。

 だが思うのだが、空気を入れ替えるためには、網戸は邪魔だ。
 網がない方が風は入るぞ。

 それからよくトイレとキッチンの、小さい窓にも網戸を付けたいというが、これは無駄だ。
 どっちも開けておく窓を見たことがない。
 網戸は、しばらく長い時間開けておく窓に付ければいい。

 子どもの頃の夏は、縁側の窓を開けはなって、家中の窓を開けて、網戸も開けて、風を入れていた。
 そうして蚊取り線香を何巻きも、もくもくと焚いていた。

 蚊は、ひゅー、すとん、とおもしろいように落ちた。
 何匹も何匹も落ちた。落ちた蚊は、ほうきで掃いた。

 一般の会社からの問い合わせも多いが、蚊を入れさせたくないというのだろうが、蚊は昼間はいない。
 ということは昼間は網戸は要らない。

 でも夜でも事務所で仕事をするのだろう。だから網戸が要るのだろう。
 照明の電気も節電したほうがいいから、早く仕事を終わらせて、暗くなったら帰ったほうがいいと思う。

与党と野党はもっと喧嘩すべき

 テレビでもブログでも、与党も野党も一緒になって今この国難を乗り切るべきだとか、喧嘩をしている場合ではないとか、もっともらしく言う人間ばかりだが、与党と野党が同じことを言ってはいけない。
 反対意見がない社会はダメだ。
 少数でもいいから違った考えの存在自体を認めない社会は、腐るぞ。
 だいたい泥棒根性どもの政府ごときに、議員や官僚ごときに、何かを期待すること自体が腐っている証拠だ。

日曜の夜はテレビを観なくてすむ

 今夜は大河ドラマを自分の意思で観なかった。
 あの馬鹿馬鹿しい演出は珍しいなどと思って、いやいや観ていたが、観なくてすんだ。
 もうこれからは観ないだろうから、せいせいする。

 しかし大河ドラマというのは、最初だけめずらしさだけで観るが、それも惰性で観るが、三分の一ぐらいで観なくなる。
 そういうものだろうし、そういうものでいいのだろう。

 NHKに払う料金は、ラジオを聞かせてもらうために、ラジオ部門を存続させるために、支払っている気持ちだ。
 それであれば、高いぞ。

仲人に相手にされない

 夕方に一旦帰ってきて別のお客さんのところに行く準備をしていたら電話がかかってきて、出たらダガシさんでしょうかと言うから何かと思ったら(ダガシと書いているがもちろん俺の本名を問うたが)それは、ひまわり会とかいう組織で、一瞬なぜダガシさんですかと問うのかと思ったが、はいと答えたら、仲人をする会社だか組織だと名乗った。

 初老のおばさんの声だった。俺が独身だというのをどこかで聞きつけて世話してやろうというおせっかいな集まりなのかと思って、俺はどうしてかエヘヘと笑ったら、どなたか独身の方を御存知なら紹介していただけませんかと言った。

 俺に相手を見つけてくれようとして電話をかけてきたのじゃないのか。
 そうしたらとたんに腹が立ったけれど、自分が怒ったのを悟られるのが恥ずかしく、わかりませんと返事したら、そうですかと答えて、電話が切れた。

 まったく失礼しちゃうぜ。
 さて、でもなぜ俺の名前と電話番号がわかって電話かけてきたのだろうかと疑問が生まれたが、あまり追求せずにお客さんのところに出た。

 帰ってきてググってみたら、その組織は簡単にいえば年寄りの結婚相談所みたいなものらしい。
 それでもどうして俺のところに営業電話をかけてきたのかが不思議だ。
 救いだったのは、喋りがセールスがましくなく、あっさりしてしつこくなく、声質もバカっぽくなかったのは、よかった。

バイクで仕事に行く

 オートバイで仕事に行った。今までも打ち合わせとか下見のような、作業のないときはバイクで行ったのだが、作業のときは道具がいるから車でしか行けなかった。
 でも網戸の張り替えなら、道具はリュックサックに入るし、張り替える網は、必要な長さを切って丸めて、しわを付けないように昔使っていたツーリングネットでふわっと包むようにして、後ろシートに押さえて運んだ。
 張り替えのときに網戸の枠の下に敷く段ボールは、30センチの正方形に切ったのを8枚、後ろシートの一番下に積んだ。
 二泊三日ぐらいのツーリングの荷物の量になった。

 新しい網にシワのクセが残るかと心配したが、張ってみたら、キレイにピンと張れた。
 これからは雨が降らなければ、網戸の張り替えぐらいはオートバイで行こうと思う。
 床の傷補修とかも道具はかさばらないから、バイクで行ける。

 昔は絶対に仕事とバイクは切り離していた。
 仕事でオートバイを使うのは嫌だった。非日常を味わうためにオートバイに乗るのだから、仕事には使わないと決めていた。といってもその頃はサラリーマンだったから、仕事でバイクを使うというのは通勤に乗るということだが。

 でも今はバイクで仕事に行くのが楽しい。
 短い距離でも乗ることが楽しいのだろう。
 だからつい仕事にも乗っていきたくなるのだ。

 しかしそういうことができるのは、マフラーの音が小さいバイクだから、お客さんには暴走族みたいなイメージを与えなくてすむからだ。
 そして何より一番は、お客さんのところに堂々とバイクで行けるのは、私の可愛らしい顔のせいだろう。
 でも年々、元々の性格がにじみ出るのか、憎たらしい顔つきに変わっているのが心配なのだ。

地震速報の音

 ときどきテレビでピャラーンというような電子音が鳴ると、あ、地震だとヒヤッとして画面の上のほうを見る。
 でもそれは番組の中のただの効果音で、安心すると同時に紛らわしいことをしやがってと、番組をつくっている人間とテレビ局とテレビ自体を憎む。

 NHKの地震速報の音は、いいぐあいに不協和音を混ぜて、じかに無意識に通ずる不安感を感じさせる音造りをしたのだというようなことを、ネットで読んだ。
 まあそうなのだろうが、あれは音色も影響していると思う。
 チェンバロみたいな音が主で、その中に明るめのシンセ音を混ぜて、ダダダ、ダダダ、というように段々音階が高くなっていって、そしてなぜか音も段々大きくなっていくように聞こえる。
 だから驚かせるし、同じ音を重ねて、そして段々音量が大きくなるように聞こえさせて、それがしつこい感じがして、それが嫌な感じで、そういうのが総合して不快な音に感じるのだろう。

 昔ながらのサイレンみたいな音なら、普段の外からの騒音にまぎれてしまうのかもしれない。
 携帯電話のも含めて今の地震速報の音なら、生まれてから聞いたこともない嫌な音だから、寝てればはっきり目が覚めるし、何かに集中していても逃げろと思うのだろう。
 だがこれに慣れてしまった子どもの世代が大人になった頃は、また別の音が作られるのだろう。

五月の夜は窓を開ける

 寒くもなく暑くもないちょうどいい季節で、雨も降らないし、これがずっと続けばいいなと思う。
 夜でも窓を開けていても、風も入ってこないし、虫もいないし、静かだし。

 テレビをつけないと、本当に静かだ。
 ラジオを聞こえるか聞こえないかぐらいに小さくつけておいて、本を読む。
 小さくラジオをつけるのは、最低限現実につながっておこうと思って。

 ラジオを切ってみた。
 かすかに秋の虫の音が聞こえるような気がするのは、耳鳴りだろう。

浴室読書

 ひさしぶりに風呂に入った。
 湯船につかる目的は、読みづらい本を読むためだ。
 今日はうまく本に入り込めなかったから、途中で読むのをやめて、出た。

 風呂に入るときは、時計がわりにラジオを聞こえるか聞こえないかぐらいの音でつけておく。
 時報だけが聞こえるように。
 二回時報を聞くことはめったにない。
 三回聞くほど長く本を読まない。

心配は年とともに増えるのか

 買ったバイクのタイヤはチューブ式だから、パンクが怖くて、タイヤチューブをネットで買った。
 そしてスプレー式のパンク修理剤もホームセンターで買った。

 パンク修理剤はチューブ式タイヤには効果がないとか、いやあるとか、どちらもネットで書いてあったが、お守りとして持っていようと思っているのだ。
 タイヤチューブもこれも後ろタイヤの分だけだが、持っていようと思って買った。

 今までタイヤがパンクしたこともないし、パンクする心配もしたこともないのに、なぜかパンクが怖いと思っている自分を発見している。
 年とともに心配ごとが増える。
 最悪の事態を想定するというのは、年を取ることなのだろうか。

 メルトダウンなどという、おっかなそうでもあり、甘くてうまそうな響きもある、どっちつかずの言葉をテレビで言っている。
 原発の仕事をしている人間たちや、政治の仕事をしている人間は、年を取っても悪い方の想定はしないようだ。

 アクセルワイヤーも、念のために買った。
 バイクのためのネット通販は、これで用が足りたと思う。

 送られた製品を包んでいたプチプチシートがたまった。
 心配性の人間は何かで使えるだろうと思って捨てられない。

捨てるには変わる。変わるには死を意識する

 部屋の中はどこに何があるかはすべてわかっていたのに、今年ぐらいから探し物が多くなって、それが探しても見つけられなくなっていて、物をどかすと、ああここにあったのかと驚いて、でも見つけたときにはそれはもう必要なくなっているもので、捨てればいいのにもったいないと捨てられなく、そしてまた物が増え重なり、またどこに何があるのかわからなくなる繰り返し。

 これは年のせいで頭が悪くなっているのが原因で、頭が悪くなると同時に欲望が無駄に大きくなっていて、わけのわからない不安心も大きくなっていき、それが物を捨てられない理由なのだが、捨てるきっかけを、バイクに乗ることに求める。

天皇制

 私の心の中の大部分はパンクロッカーだ。
 だからなのか、少しでも権威の臭いがすると、激しい拒否反応をおこす。

 日本の中で一番権威的なものは天皇制だ。
 パンクロッカーである私は、天皇制には反対だった。

 それが、天皇が被災地の避難所に慰問のようなことで行ったニュースを観たら、どうしてか涙が出たのだ。
 その本当の優しそうな顔を観たら、ありがたくて、テレビに向かって手を合わせてしまった自分に驚いてもいた。
 政府の人間や芸能人が得意げな顔つきで行っているのを見て、その偽善の臭いで辟易していたのに。

 ニュースの映像で、天皇と皇后がガレキの原に黙とうを始めようとした瞬間、天皇の目が一瞬光ったのを見たら、この人は、自分のすべき仕事を完遂しようとする真摯さを持っている人だと、誠実な人なのだと、直感した。

 今上天皇個人を、好きだと思った。
 皇后様も好きだ。

 天皇陛下と皇后陛下は、自分の仕事をまっとうしておられる。
 自分の仕事自体が、自分の人生に重なっている。その幸せ。
 その幸せを体現して見せてくれている。

 いま私は、天皇陛下、皇后陛下を、尊敬してしまっている。
 その自分に、驚いている。

 パンクロッカーで天邪鬼な私にそう思わせるのは、天皇陛下は、そうとう優秀な役者なのだと思う。
 私だけじゃない、国の大勢の人間を、気持ちよくさせてくれるのだから、これなら、今上天皇とその家族に、税金から支払われているお金は、無駄ではないと思った。

 ずっと先のことだろうと思うが、私と天皇陛下のどちらが先に死ぬかはわからないが、自然な順番なら、私が後だろう。
 そのときは、私は、自分の親が逝った時のように悲しむだろう。一生懸命に、自分の親と同じように、喪に服すだろう。
 天皇陛下と皇后陛下が好きだから。
 だけれど、この気持ちは、あくまで、今上天皇個人と皇后様個人に対してのものだ。

日本にも大統領が必要

 大阪の橋下知事が、首相公選制をうたっているが、私もそれがいいと思い始めている。
 今の制度は、首相になるまで何十年も議員をしなければならない。
 そうすると、議員や公務員や公的な仕事に就いている人間のように、泥棒根性に染まってしまう。
 そうすると、総理大臣になっても、自分さえよければいいとか、波風を立てなければいいとか、自分たちは特権階級なのだとか、勘違いしたまま日本の代表になってしまう。

 新鮮な気持ちのまま政府のトップになれば、今の日本を変えることができるのじゃないかと思う。
 そのためには、知事からすぐ首相になるとか、地方議員からすぐ首相になるとか、会社経営者がすぐ総理になるとか、そういうことが大事なのだと思う。
 アメリカは、そうじゃないか。それで大きな問題はないじゃないか。

 それから、議員の数は多すぎる。特に地方議員は無駄に多すぎる。
 公務員も今の十分の一でも多すぎる。
 公的なことに金がかかりすぎる。

 そういうことを打破し変化させるのは、公的な場所に長年住んでいては駄目なのだ。
 一般の場所から、颯爽とデビューした人間にしか、変革というのはできないのだ。
 なぜなら、何ごとでも、変わるのは辺境からなのだから。

音質は心の中で必要なもの

 昨日届いた中古パソコンは、音が出なかった。
 スピーカーが壊れているのか、音が出ないようになっているのか。

 OS上で音が出る出ないのことはやってみたから、たぶんスピーカーが壊れているのだろう。
 でも4980円のだから文句言っても始まらないなと思って、100円ショップで外付けスピーカーを買ってきて、イヤホン用の穴にジャックを差し込んだら、音が出た。

 ゆがんで割れている音質だが、これでいい。
 俺はオーディオでも音の質にはこだわらないし、ましてやパソコンで音の良し悪しなどどうでもいい。

 俺はまだミュージシャンの心を持っているつもりだから、機械から出る音など美しくなくても、それを翻訳する俺の心の中の琴線が、心地よく鳴ればよいのだ。

 メロディも和音もリズムも、わかればいい。
 わかれば、勝手に俺の中の楽器が鳴り響く。

 ※追記

 後でパソコンの品番でググッて、その仕様を見たら、スピーカーは内蔵していなかった。
 外付けスピーカーが必要だったのだ。100円ショップのでよかった、ハハ。

もう届いた中古パソコン

 昨日注文した新しいパソコンがもう届いたから、いつもどおりにフリーのアンチウィルスソフトを入れて、それから必要なソフトを順番にダウンロードしていった。
 この作業はもう手馴れたもので、何も考えることなく手を動かしていれば済む。
 まだその途中なのだが、気分転換にこれを書く。

 昨日壊れたと思ったパソコンは、一日コンセントを抜いておいて、今朝差し込んでスイッチを入れたら、普通に動いた。壊れていなかった。
 なんだか動かなくなる前よりも、動きがスムーズになったようだ。
 ときどきそういうことになって、コンセントを抜いて休ませると、回復するのかもしれない。

 いま使っている今日届いたパソコンは、中古だけれど前のより年式も新しくて、見た目もきれいで、新品を使うみたいに気持ちがよい。
 今日は涼しいせいなのか、ファンは回らない。本体が少し大きくて、それだけ部品と部品のすき間があるのだろう、暑さにも強いと思う。

パソコン壊れた

 今朝パソコンのスイッチを押して待っていたら、ピーピーという聞いたことがない音がして、画面が明るくならなかった。
 こういうときはF8だったかF6だったかのキーを押せばいいと何かで読んだことがあるから、押したら画面にいつものFUJITSUのマークが出た。
 それから少したって普通の画面になったから、左下のスタートのところをクリックしたら、勝手にスリープ状態になって、画面が暗くなった。
 エンターキーを押して、もういちど立ち上げて、またスタートをクリックすると画面が消える、その繰り返しだった。
 コンセントを抜いたり差したりしたり、スイッチを長押ししてみたりしたが、直らない。

 これは壊れたかな。
 そういえば昨夜、二十分くらいバイクの動画を見つづけていたとき、パソコンが苦しそうにフー、フーとファンを回していた。
 昨日は昼間から暖かい日で、夜になっても今年一番の暖かさだった。
 熱にやられたかな。
 24時間くらいコンセントを入れないで放っておいて、様子をみることにした。

 今これはノートパソコンで書いている。
 そして本当にデスクトップの方が壊れていたら、買い替えなければならない。
 モニターやキーボードやマウスは壊れていないのだから、本体だけを換えればいい。

 それでさっきノートパソコンで、また中古の安いのをネット通販で注文した。パソコン本体のみで4980円のを。
 OSはXP、メモリーは512MBで、HDDは40GB。それで十分だ。
 CDドライブも使わないから、最低限のものが付いていればいい。付いていなくてもいいのだが、付いていないのはない。そうすると、この機能とスペックで充分なのである。

 壊れたパソコンに入れていたデータは少ないものだし、その中で必要なものはUSBメモリーにコピーして、それをもうひとつのパソコンにもコピーしていたから心配ない。
 バックアップをしていてよかった。

 しかしパソコンを捨てるには、家電リサイクルで3000円ちょっとかかる。
 分解して、小分けして、危険物か燃えないゴミで出せば、お金はかからないな。

 明日になって壊れたデスクトップが直っていたら、さっき買ったパソコンは予備として置いておこう。
 本当に壊れていたら、パソコンの中を見てみる。

 ※追記

 次の日の朝、コンセントを差してスイッチを入れたら、いつもどおりに動いた。
 そして昼に注文していたパソコンが来た。前日の夕方に埼玉県から発送したのに、もう届いた。
 必要なフリーソフトを入れて、すぐ使える状態にした。

風を切ると怖くなくなった

 バイクに、メーターバイザーというものを付けた。
バイクにメーターバイザーを付けた
 メーターより一回り大きなものでしかないから、それほど期待もしていなかったのだが、これを付けたら、胸に当たる風がなくなった。縦ぎみに取り付けたのが良かったのだろう。
 だから70キロは普通に出せるようになったし、80キロも少し出せた。
 ラクに走れるようになったら、体に当たる風というものが、今までこんなにも強かったのかと思い知らされた。
 風は空気のかたまりであり、その透明な固まりが、この見えないものが、人間の感覚や感情までを変えてしまうものだと思い知った。

 自分に当たっていた風がなくなると、スピードの怖さも半減した。
 新新バイパスに乗って、いちばん右の車線に入ってみた。80キロを出した。いつのまにか出していた。瞬間的に90キロも出ていただろう。100もそれ以上も出せば出せていたかもしれない。
 体に当たる風が少なくなると、スピード感覚は麻痺するものだった。メーターを見なければ、速度を知る手がかりは、景色が後ろに飛んでいく速さだ。だが視力の感覚が追いつかない。やっぱり無意識にアクセルを戻していた。

 それに二十年前の中古の250ccの、車体の細部を信用できない。あちこち錆びているこの古いメカで、80キロ巡航をさせるほど私は無謀ではなくなっている。すこしはオトナになっている。いや、弱気になっているのかもしれない。

 それでも時速70キロなら怖くなく走り続けることができるようになったのは、この薄い小さなプラスティックの板のお蔭だ。素晴らしい製品であり商品だ。3980円の価値は充分にあった。良い買い物だった。

 取り付けのときに、ライトを外す必要があった。
バイクのライトを外した内側
 ライトの中を、じかに初めて見た。
 内側が錆びていて、わけのわからない配線がのたうっていて、獣の臓物の中を見たような気がした。すぐに元に戻してネジをしめた。

 メーターバイザーのお蔭で70キロも80キロも出せるようになったが、だがやっぱり、時速50キロで走るのがいちばん気持ちいいのだ。

原発だとかの独占組織には近づかないことが大切

 浜岡原発を休ませて検査したいと管首相が言ったそうだが、それは良いことだ。
 原発で飯を喰っている人間の、そんなことをされたら原発の仕事が減るから給料が減ってしまうという愚痴をニュースで観たが、発電所は公的なものなのだから、原発にかかわる金は公金であって、税金や公金で飯を喰っている人間や、税金や公金から売上げを上げている組織の人間は、普段は社会に食わしてもらっているわけなのだから、社会が困ったときは、真っ先に節約の対象になるのは仕方ないぞ。だから社会に対して文句は言えないぞ。
 嫌なら辞めればいい。今までラクして、なおかつ安定して給料が支払われてきたのだから。
 社会が困って金がなくなったら、そういうときに社会から出る報酬が減るのは、仕方がないことだよ。

 しかし首相は原発の検査をするなどと言っているが、本当に検査などするはずがないじゃないか。
 今まで公金で飯を喰ってきた人間が、社会のために働く、生きる、などと思うはずもないのだから。
 公金で飯を喰いたいと思った時点で、ラクしてコズルク生きようと思っているのだから。
 そういう人間が、本当に誰かのために、自分以外のために、社会のために、仕事をするはずもないのだから。

 だから社会の税金や公金で飯を喰っている人間は、結局は社会のためには生きないのである。
 これは本当のことだ。
 社会のために生きようとする人は、最初から税金や公金には近づかないものだ。

 首相の、浜岡原発を休ませろという言葉だって、支持率目当てであって、選挙目当てであるのだろう。
 管首相がどういう気持ちなのかは誰にもわからないが、そういう姑息な魂胆だと思わせてしまうのは管首相の普段の行いが、そうさせるのだろう。
 だが、そういうふうに思うのは、俺のゲスの勘ぐりなのかもしれない。

 そういえば発電所が公的なものだという根拠を書いておくが、電力会社は独占企業だからだ。
 究極の独占組織は政府だが、政府の体勢は選挙で変えることができる。
 だが他の組織は俺たちの気持ちがすぐには反映させられないのだから、組織が世の中に合わなくなったら、まずは中にいる一人一人を変えさせるしかない。

男の体の美しさとオンナの美しくなさとボクシング

 亀田三兄弟の長男の試合を見た。
 彼の体が美しいと思って見とれていた。
 ラウンド終わりのゴングで、相手は無視したけれど、相手に挨拶の手を差し伸べた彼は、所作の細部で、彼はフェアプレイの精神を持っているとわかる。

 俺が男の体つきが美しいと思うのは、よくあることだ。
 でも俺は男が好きなわけではない。よく間違えられるのだが。
 言っておくが、俺はいたってノーマルな性癖である。
 だから男が好きなわけでもない。

 でもオンナのすべてが好きなわけでもない。
 ほとんどの女など汚らしいと思っているところがある。
 そして十万人に一人ぐらいの割合いで、たまに好きになれそうな女は見ることがある。
 またそのなかの十万人に一人の割合いで、本当に愛してしまう女性を発見することもある。
 それは年月がかかる。

 向こうも同じように年月をかけているだろうか。
 だけど女というものは、年月はかけないだろう。

 ボクシングの1ラウンドは3分だ。
 タイトルマッチの15ラウンドをまっとうしたら、人生一回分を生きたみたいに感じるのかもしれない。

海は女性名詞

 このあいだバイクで護国神社の前の道から海に向かって走っていったら、目の前に海が見えたとたん、白い大きな波がテトラポットにぶつかったのが見え、白く泡だった波はビルの大きさぐらいに立ち上がり、それは手の平を広げた怪物が私に覆いかぶさってくるように見えた。
 とっさに何度も見たYoutubeの大津波の映像が頭に浮かび、すぐさまUターンして逃げたくなった。

 ふだんは海を見ながら走るのは気持ちのよいものなのに、無数の白波が立っている海原は、どうしてか怒っているように見えて、そして怒ったら手加減などしない凶暴な仕打ちをするように見えて、走りながら海を見つづけることができなかった。

 大きな三角の波は、白いのがあったり黒いのがあったりして、それは一本一本の太い手が、荒っぽく何かを引きずりつかもうとしているように見え、思わず目をそらしていた。

 私がこれほど怖いのだから、大津波にあった人たちは、今は海を見たくないだろう。
 津波にあった漁師たちは、どういう気持ちで海に漁に出たろうか。聞いてみたい。

 鬼になるときもある。
 凪いでいる海は母のようなのに。

またすこしバイクに慣れてきた

 連休中に小間ぎれで300キロほど乗った。
 だいぶ乗れるようになった。
 気合を入れれば70キロで走れるようになった。
 だが時速70キロを気合を入れなければ出せないのだから、まだまだなのだ。だけれど50は普通に出せるようになった。

 時速70キロが、気持ちよさの境目なのだ。
 そのわけは向かい風だった。
 サンパチに乗っていたときも、70になると胸に当たる風が急に強くなって、それ以上アクセルを開けたくなくなったのを思い出した。
 私にとってカウルがないバイクは、時速70キロが気持ちよく走れる限界なのだろう。

 それから、普通に50キロ巡航で走れるようになったし、60でも70でも出せるようになった理由は、ニーグリップだった。
 このバイクはタンクが細くて、うまくももではさめないのだ。
 車体自体が細いから、かかとで挟みこむのも慣れない。
 それを我慢して意識してやったら、60キロでも、頑張れば70キロでも、出せるようになった。
 でもまだ80は、いけない。

 だから新新バイパスには乗れない。
 もちろん高速道路も走れない。
 そして人と走ることも、できない。
 遅くて迷惑だし、ついていけないから。

 カウル付きの大型バイクに乗ってツーリングクラブで走っていたときは、80や90など当たり前に出していたが、一緒に走っているカウルがないバイクに乗っている人の疲れなど、考えもしなかった。
 無神経で傲慢だった。
 自分が苦しんで、それを自覚しなければ、わからなかった。

 いまの私にとって、250ccは走り心地がとても良い。
 車体が軽いし、両足がちゃんと着くし、エンジンが適度に力不足であるし、中古で古いオートバイでそれほど価格が高くなくて、あちこち錆びだらけでキズだらけだから、バイクに乗る感覚を思い出すための練習台として、もったいないと思わないで使える。
 だから、買ってよかったと思っている。お買い得なバイクだった。よい買い物だった。

 燃費をはかったら、リッターあたり30キロだった。
 ネットで読んだこのバイクの平均燃費と同じだった。

罪のありかたがおかしい

 ユッケを食べて死人が出たそうだが、生肉などを食べる気がしれない。
 ましてや、あの店は、ものすごい安売りを売り物にしていたらしいじゃないか。そういう店の生肉は危ないと思うべきだろう。
 死んだ人に言うのも何だが、たった何百円の生肉のせいで死んだというのは、そういう危機感がなかったのは、俺みたいな人間が言うのも何だが、自分の体や命を、自分で粗末にしていることになるだろう。

 世の中のことは、すべて、自己責任なのだ。
 自分に責任がないのは、隕石が降ってきて当たるぐらいのことだけなのだ。
 通り魔に殺されるのは通り魔が悪いと思っていたが、それだって、外に出なければ良かったのだから、100パーセント自分にスジミチがあるわけではないだろう。

 だから、そもそも食い物屋を信用するべきではないのだ。
 店の奥の厨房の衛生管理や、そこで働いている人間の質など、顔つきや喋りや所作を見ればわかるのに。

 だが店がわの、罪は重いぞ。
 店の社長の会見をニュースでチラッと観たが、責任のがれが先にたっている喋り方で、胡散臭くて、近寄りたくないと思った。
 ああいう人間は、牢屋にしょっぴかれないのだろうか。
 人が死のうがどうなろうが、儲けのために危ないとわかっているものを出すというのは、人殺しだろうに。

 俺はホリエモンは好きでも嫌いでもないが、ホリエモンは裁判で有罪になって、牢屋に入るそうだが、ホリエモンは人を殺していないし、こそ泥みたいに税金や公金を横取りしてもいない。
 自分の才覚で、民間の金を商売で集めようとしただけなのに。
 それなのに税金や公金をむさぼっている大勢の人間どもは、のうのうと暮らしているし、客が病気になっても、人死にになっても知らないという食い物屋も罪にならないのは、どこかおかしい。

よくもわるくも単純USA

 ビン・ラディンが、アメリカの軍だかそういう組織に殺されたそうで、そのニュースで、ニューヨークで大勢が集まってお祭り騒ぎで喜んでいるのを観た。
 いくら仇といっても、人が死んで、それも殺されて、ああいうふうに喜べるのは、さすが単純なアメリカ人だ。

 そして本当にビン・ラディンが殺されたのかどうかさえ、今のところ証拠がないのに、誰もそれを言わない。
 それを疑問に思わないではしゃいでいるのは、これも単純なアメリカ人だ。
 だけど、アメリカがアメリカの中で、それを信じて気がすむのなら、私などが何も言うことはないのだが。

遅いスピードで生きる謝罪

 バイパスでバイクで60キロで走っていると、後ろから周りから、どんどん抜かれる。
 邪魔なのだろうなと思って、申し訳なく思う。
 でも70はおっかないし、80は死ぬ思いなのだ。
 60でも、やっと出しているスピードなのだ。

 これは、生活の速度なのかもしれない。
 人生のスピードなのかもしれない。
 そのときに合った速さで走るのは、仕方ないのかもしれない。
 遅く走ってまわりに迷惑をかけたら、どうやって弁償すればいいのか。

 お金もなくて、力もないなら、ひたすらあやまるしかない。
 死なずにあやまることが、しんけんにあやまることが、弁償なのだと、いま思っている。
 しんけんにあやまっている人を、怒りたくない。
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