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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

中国が変わるか変わらないかを決めるのは中国人

 中国の新幹線の事故で再認識したのは、中国はものづくりには向いていないということだ。とくに精密機械をつくってそれを上手にうごかすことはできない人種だろう。
 それは仕方がないことだ。中国人というのは、細かいところに気が利かないのだから。

 しかしそのかわりに、四千年の歴史の中の、哲学や思想があるじゃないか。孔子や老子がいるじゃないか。他にも日本が学んできた暮らしの仕方があるじゃないか。漢字という文字は、中国で生まれたものだ。

 だが今の共産党の体制では、世界に向けた新しい哲学も思想も生み出せないだろう。
 なにせあそこの政府は、失敗したら隠すことがよいことだと思っているのだから。人の命など石ころみたいにしか思っていないのだから。
 そして封建社会と変わらない、特権者たちによる独裁政治が続いているのだから。

 別に中国人が幸せになろうがどうなろうが私にとって知ったこっちゃないのだが、中国特有の新しい思想と哲学を、感じてみたい気持ちはある。
 そのためには、共産党の一党支配が崩れなければならないだろう。でもそれは何十年もかかるだろう。

 それを壊すためには戦争が一つの手段だが、今の核爆弾がある世の中で、戦争になることは考えられない。
 もう一つは、インターネットで、内側から革命が起こればいいのだが、これだって共産党政府は、広い中国の国内で、核実験をするみたいに小型の核爆弾を使って鎮めようとするかもしれない。

 北朝鮮でさえ、その体勢は温存されている。中国はもっと大きくて我侭で強いのだから、その形が変わることなんて遠い先だろう。
 アメリカだって、地球の反対側ぐらいの距離なのだから、それほど力を入れないだろう。

 今ふと思いついたことだが、日本と、東南アジアの国と、インドで、中国包囲網をつくれば、中国は変わるのかもしれない。いや、もっと意固地になるかもしれない。だが変化するきっかけにはなるだろう。

 でも、直接的な迷惑をかけられているわけでもないのだから、中国に変わってほしいと思うのは、単なる私の我侭であって、中国が変わるか変わらないかは、中国人が決めるべきことなのだろう。

水が引いて、緞帳が引かれて、夏の舞台になる

 やっと大雨が去った。
 七年前の三条の大雨よりもっと降ったそうだが、そのときより人死にはとても少ない。人間が勉強したのだろう。

 この大雨は、夏になるための儀式というか、夏に変わるための産みの苦しみみたいなものかもしれない。
 今年はいままで、梅雨が明けても何だか雲っていて涼しくて、夏になった気がしなかった。
 明日からはセミが鳴く声も、うるさいくらいにもっと大きくなるだろう。

大雨、自然には勝てない

 今日は三条と加茂、五泉方面でものすごい大雨だったが、今のところ大きな被害がないから、人間はひやひやしたが、作物にとっては恵みの雨になればいい。少し雨に浸かったが、負けずに実ってくれたらいい。
 梅雨の大雨といえば、何年か続いて、糸魚川方面に集中して雨が降った時期があった。
 その後オートバイで糸魚川から長野県に向かって走ると、急な山肌に、大男が酒を飲んで暴れて、長くて鋭い爪で山を引っかいたような跡を見た。
 山には夏の濃い緑色の樹が茂っているのに、そこだけ縦に、なだれのように土砂が崩れて、茶色い山肌が見えていた。

 人間が住んでいない場所の大雨と土砂崩れなら、後から見れば面白いなどとノンキなことも言っていられるが、大勢が生活している場所の川の土手が切れたら、人は死ぬし、復旧に途方もない額の税金が必要になってしまう。
 そうならないように、昔だったら、雨やみの儀式をして、いけにえを供えて天に祈るか、現代なら、途方もないぐらいにはならない額の税金を使って、土手が決壊しないように、土木という人間の文明で自然に対抗するのだろう。

 だがたぶん、いくら科学が進んで文明が発展しても、自然が怒ったら、簡単に土手は切れるし、水は人間を飲みこむだろう。
 人間ができることなんて、土手が切れたら、切れた土手より少しだけ固くて高い土手を作りなおすぐらいしかできなくて、自然はまた、片手をひょいと振り払うように、その土手を壊すだろう。それでまた人間は死ぬのだろう。
 人間は悲しむだろうが、自然は、悲しみなどというしめった感情を持っていないから、サッパリとしていさぎよく、人間がつくった土手をまた壊すだろう。そのくりかえしなのだろう。

大雨でも水不足でも冷温でも猛暑でも、誤差の範囲

 今年の夏は今のところ、雨が降って気温が上がらない。人間にとっては良いことだ。
 だが稲はもっと暑くなれと思っているだろう。

 暑くならないからエアコンも使ってない。
 エアコンを使わないことを自慢しているわけではない。そんなにぶりっ子ではない。
 たんに体がエアコンに合わないだけだ。不自然な冷風に当たると寒気がして、関節が痛くなるし、筋肉の動きが鈍くなるし、頭も働かなくなるのだ。
 毎年今年ぐらいの気温なら丁度いいのだが、へんに体にラクをさせていると別のところで苦が押し寄せてくるだろうから、夏はもう少し暑いくらいが丁度いいのだろう。

 きのうと今日の大雨は、地球がおかしくなったように感じるが、今年はまだ梅雨が明けたと思わないで、今が梅雨の終わりの大雨の降りどきなのだと思えばいいのだろう。
 この大雨がやむと、いつものカッとする暑さがおおいかぶさってくるのだろう。

 今年もセミが鳴き始めたのは7月19日だった。いつもの年と同じだった。
 セミは地球の時計をおぼえている。
 とうことは、地球はわずかな揺れの範囲内であって、それは誤差の範囲内であって、それほど心配するほど、おかしくはなっていないのだろう。

食材を買うとき放射能を思い出してしまうわけ

 宮城県の稲わらが放射能に汚染されていたそうだが、県をまたいでいれば放射能はかかっていないと思うのは仕方がないだろう。これは稲わら業者を責められないだろう。

 牛肉はふだんからほとんど食べないが、牛肉に放射能が入っていたというニュースを聞いてからは、まるで手が出なくなった。
 値段が高いとか、栄養が豚肉より少ないとか、味がうまくないとか、そういう問題ではなく、おっかないから手が出ない。
 だが豚肉も鶏肉も、魚だって、全品とはいわないが、放射能を検査してほしい。しかし誰も知ろうとしないことが不思議だ。

 魚も、東北の太平洋側のは恐いから買わない。
 スーパーの魚売り場に岩手の生鮭が売っていて、身が輝くような赤い色で、買おうかなと一瞬思ったが、放射能のことがよぎったから、やめた。
 野菜も、茨城や千葉のはあたりまえに手に取らず、栃木、群馬のものも買わなくなった。
 被災地やそのまわりの地域には申し訳ないような気持ちもあるが、これは善い悪いとは別の、仕方がない行動だろう。
 そしてこの気持ちはたぶん、泥棒根性の電力会社の人間や、泥棒根性の官僚をはじめとした公務員や、泥棒根性の政治家や、俺自身を含む安易に原発や役人や政治家に頼ってきた泥棒根性の人間を、困らせたいという無意識が、そうさせているのだろう。

すきまある住まい良い

 ちょっと昔から高気密住宅というのがある。
 エコというのものが良いものだといわれている。
 どっちも私は嫌いなのだが、やっぱり高気密もエコも、まがい物だとはっきりした。ついでにロハスというのも胡散臭くて嫌いなのだが。

 家というのは、すきま風が吹きこむくらいがちょうどいいのだ。
 自動的な換気になるじゃないか。空気の入れ替えに電気を使わなくて済むじゃないか。
 夏場はとくに、高気密住宅などというものはエアコンに依存しなくてはならなくなる。節電節電といわれているこのご時世で、エアコンがなくては暮らせない住まいというのはエコではないぞ。

 家というものは夏に向いたようにつくるものだということは、昔からいわれていることだ。
 ということは風が通り抜けやすい家が、良い家なのだろう。

 そういう家には冬にもすきま風が入りこむが、そのときは、ちょっとぐらいの寒さは、重ね着をすればいいのだ。
 夏でも冬でも、季節にかんけいなく換気というのは必要なのだから。暖房をしていれば、とくにだ。

つぐなう、あやまる、できないイナカモノ

 ものごとの簡単な理屈を新潟市のイナカモノどもは分かっていないらしいから、書いておく。

 一つ、やらなければならないことは、やる。
 二つ、やってはいけないことは、やらない。

 だが人間とは間違うものだ。
 三つ、間違って相手に迷惑をかけたら、償う。

 この簡単な三つを守って行動していればいいのに、新潟市のイナカモノは、それをしない。
 自分に都合が悪くなるとすぐ嘘をつく。

 そして、つぐなうということは、言葉で言うぶんには簡単だが、やるとなると簡単ではないぞ。
 償うとは、元通りに直すということだからな。

 でも、元通りに戻すことができないこともある。
 それは人を殺したときだ。

 だから、人殺しは死刑に処する。
 自分の命と引き換えにして、それを償いとするのだ。簡単な理屈だ。

 厳密にいえば、ものごとを元道りにかえすことなど、できないことだ。
 だから金銭で解決するということになる。

 お金で解決しようとしても、金がなかったらどうすればいいのだ。
 だから人様に迷惑をかけたら、精一杯謝る、自分の人生をかけて謝る、ということが必要なのだ。

 新潟市のイナカモノは、償うことも謝ることもしようとしない。
 だからイナカモノなのだが、別名、厚顔無恥ともいう。泥棒ともいう。
 嘘づきと泥棒はセットになっている。

日馬富士はよい

 日馬富士が十四日めで優勝したというニュースを聞いたから、千秋楽の今日、最後の方の何番かを観た。
 その全部の取り組みが、朝青龍の相撲みたいに気迫に満ちていた。見ていて興奮した。

 大関以上がぜんぶ外人だそうだが、それでいいと思う。
 私は相撲を、日本人だから応援しようとか、地元出身だからひいきにしようという気持ちがない。
 それは相撲は、チームでやるものでなく、個人プレーだからだろう。個人でやるものは、その人のものだと思うからだろう。

 そして相撲は、興行でもあるのだから、楽しむために見るものだと思って、見世物だと思って、観客より一段低いものに見えるのだ。その理由は、相撲というのは、八百長という筋書きのある勝負だと思っていることもあるだろう。

 だが今日の相撲は、真剣勝負に見えた。必死さが伝わった。
 これならお金を払って観る価値があるように思えた。

 日馬富士は好きな力士だ。体つきが小さい方で、素早い動きで、闘志を見せてくれるから。
 だが横綱になってほしいような、ほしくないような、大関のままで優勝し続けてほしいような、矛盾した気持ちがある。

赤谷の奥でカモシカを見た

 オートバイで49号線を走り、三川村から赤谷に入って、そこから加治川ダムというところに行った。
 途中で道が細くなり、ガードレールがないから道の端を走ると下の崖が見えるし、私以外に車も走ってないから心細くなり、来るのじゃなかったと思いながら走っていると、一車線の細いトンネルにぶつかった。暗いトンネルの入口に信号があって、赤だった。
 いつものようにトンネルが恐いし、そのトンネルは暗くて細いからもっと恐いし、赤い信号のランプが私を見つめているようで恐いし、もうこれ以上はダメだと思ってトンネルには入らずに引き返した。

 帰り道だと思ってゆっくり走っていると、バックミラーに三台の自転車がこっちに走ってくるのが見えた。
 人間がいたのだ。しかも自転車乗りだ。自転車は競輪みたいなレース仕様だ。自転車乗りたちはあっというまに私を追い抜いた。
 私はダムまでどのくらいで着くのかを聞こうと思ってアクセルを開けた。

「ダムは後ろにあるんですか」
「はい」
「ダムまで何キロくらいですか? 5キロくらいですか?」
「いや、2キロくらいです」
「ありがとうございます」
 自分の足でこいでいる自転車乗りたちが頑張っているのだから、オートバイに乗っかってラクをしている私はもっと頑張って行かなければならないと思ったら勇気が出た。

 トンネルを二つ抜け、途中で道が二またに分かれ、左は登りで、右は下りだった。
 上り道はダムの天辺に行く道らしい。百メートルぐらい上にダムの先端が見える。恐い。
 下り道に向かった。
 舗装が剥がれていて尖った小石が沢山散らばっていて、パンクが恐かった。
 暫く走ったら鉄の柵があって、行き止まりだった。どうしてか安心した。やっと引き返せる。

 道の先端まで走ったということに満足しながら、帰り道だと思いながらゆっくり走っていると、十メートルくらい先に、子牛くらいの灰色の生き物がいた。
 後ろ向きだった。大きな野生の犬だろうか。ふいにこちらを振り返った。短い角があった。丸い大きな瞳と目が合った。カモシカだった。
 二秒くらい視線を凍らせたあと、カモシカはガサッと音を立てて、崖側の茂みの中に飛びこんだ。

 新潟県にカモシカがいるのかどうか、知らない。
 大町市の博物館で見たカモシカの剥製より、一まわり大きな体つきだった。なぜかふっくらしているように見えた。やさしげな顔つきで、あれはメスだと思った。

 帰り道で丸太を切っている林業の男二人組がいたから、バイクを止めて、聞いた。
「カモシカを見たんですが、このあたりにカモシカはいますか」
 若い方の男は、知らないなあと言った。そうしたら年寄りの方が、うなずきながら真面目な顔で、「いる」と言った。
 やっぱり私が見たのはカモシカだったのだ。

 それからまた走っていると、猿が一匹道にしゃがんでいた。
 猿もオートバイを見たら山側の茂みにあわてて飛び込んだ。
 それから赤谷から新発田に出て、新新バイパスを走って、帰った。

福岡嫌い

 相撲の魁皇が人気があるようだが、私は魁皇が嫌いだ。
 魁皇は、相手の肘の関節を傷めるワザをかけても平気な顔をしている。
 小手投げでも、上手投げでも、ちょうど相手のひじの上に自分の腕を押さえつけて、わざと相手の肘を折るようにしながら投げを打つ。
 これで何人も肘を傷めている。朝青龍もだ。

 世間は朝青龍の駄目押しを、いけないとか、やりすぎとか、スポーツマンらしくないとか言っていたが、魁皇のあの肘折りは、相撲の技としてはやりすぎだぞ。
 それを当たり前みたいな平気な顔でやるのだから、自分さえ良ければ、対戦相手の力士生命が絶たれてもいいんだと思っているのだろう。そうとう精神が残忍なのだろう。まるでヤクザだ。

 相撲の技は、相手をケガをさせるような技はないはずだ。
 土俵から出すか、土俵で転ばすか、それで勝負はつくのだから。

 関節を折るなどというのは、柔道かプロレスか、そういうものだ。相撲ではない。
 柔道だってプロレスだって、相手の関節を傷めることなどめったにない。

 それに、勝った数の千代の富士の記録を更新したとかいうが、無駄に長くやって、それにたぶん相撲界で問題になっている八百長もやっていただろう。それで記録を作っただけだろう。
 なぜなら、数え切れないほど角番になって、それでも次の場所には角番を脱出して、それに、この記録を作ってすぐに引退をしたじゃないか。

 相手をケガをさせてもいいから勝ちゃいいんだ、自分さえ良ければいいんだ、という根性なのだろうが、そういうやり方は相撲ではない。だから私は九州の人間が嫌いだし、とくに福岡県の人間が嫌いなのだ。

百円で買った漬物にする野菜

 千円札が要りようになって、その場の近くにあった病院の、売店で何か小さいものを買って両替代わりにしようと入った。
 売店にナスとキュウリが何本か入ったビニール袋があって、このごろ三五八漬けを漬けているからキュウリとナスが必要で、ちょうどいい、買おうと思って手に取った。

 値札が付いてないから、いくらですかと聞いた。
 タダです、もって行ってください、と言われた。
 売り物ではないらしい。売店の売り子のおばさんが作ったものらしい。
 お金を払わないで何かをもらうのは嫌だと言うと、それなら百円だと言われたから、有難うございますと頭を下げて、財布から100円玉を出して渡した。

 かんじんの両替のための買い物は、菓子パンがあったから一つ買って、大きいので申し訳ありませんと一万円札を出した。
 おばさんは嫌な顔もしないで、おつりをくれた。

 帰って、ナスとキュウリを洗って切って、三五八のタッパに入れた。
 明日の朝には漬かっているだろう。

女の執念には勝てないのかもしれない

 なでしこジャパンがワールドカップでランチェスター的にどうやって優勝したかを自分に向けて分析しようとしたが、できなかった。
 そもそもランチェスター戦略とは戦争のためのもので、それはすなわち戦いのもので、スポーツは戦いであるから、スポーツは即ランチェスター戦略なのだから、分析する必要性がないのだろう。
 そしてトーナメントならなおさら、一対一の局部戦なのだから、即弱者の戦略であって、トーナメントすなわちランチャスターなのだ。だからランチェスターそのものの現象を、ランチェスターで解説や分析することはナンセンスなのだろう。

 差別化戦略というのもランチェスターだが、背の低い脚力のない人間が11人いるという(大昔入れ込んだ少女漫画のタイトルを思い出すが)、それが差別化なのかもしれないが、でもそれはアジア人ならそうだろうから日本チームだけの特徴ではない。

 ということはよく言われることだが、優勝したいという気持ちが一番多かったから、優勝させてくれたのかもしれない。執念ということかもしれない。そいういう考え方はオカルト的だから嫌いなのだが、仕方ないのかもしれない。
 それは、男どもが、ランチェスターとか、ドラッカーとか、他にもいろいろなナンチャラ戦略を無責任にうたっても、女の執念には勝てないのかもしれない。恐ろしいことだ。そして女はすぐに調子に乗るから、だから女はいつも、男の一歩後ろに置いておかなければならない。そのことは男だけの秘密にして、女どもには内緒にしておかなければならない。

三と五と八で甘いうまい

 このあいだ実家に用足しに帰ったときに、父親が、三五八漬けをつくったのを食べてゆけと言い、そのナスの漬けたのを食べたらうまかった。
 それで自分でも漬けようと思った。

 キュウリとナスとニンジンを漬けた。
 キュウリがいちばんおいしい。

 ほのかに甘いのだ。
 醗酵しているのだという。

 三五八でググッたら、私の好きな会津地方の特産の漬物らしい。
 どうりで美味しいわけである。

 母親の腹の中で嗅いでいた匂いに似ている。

なでしこでもいいと思った

 目覚ましもかけていないのに朝の三時半に目が覚めた。
 これは女子サッカーを観ろということなのだろうと思って、パソコンの電源を入れ、ネットで何チャンネルがやっているのか調べた。NSTで放送しているとわかってテレビをつけた。

 テレビでは、フジテレビのアナウンサーなのだろうが、なでしこジャパン、なでしこジャパンと連呼して気持ち悪いし、無駄にはしゃいでいてこれも気持ち悪いし押し付けがましいし、嫌になってNHKにチャンネルを替えた。男子サッカーの外国の大会の試合をしていた。こっちの実況は落ち着いていて、聞いていて腹が立たなかった。
 だが縁もない外人の運動の試合を見てもおもしろくないと思って、もういちどチャンネルを戻したが、わざとらしい、なでしこ、なでしこ、という繰り返しを聞いていると腹が立ってくるから、音声を消して、画面を見ていた。

 私は、なでしこという言い方が気に入らないのだ。
 押し付けがましくウソ臭い広告臭がプンプンするし、なでしこという名前は日本の女子サッカーには合わない。
 なでしこという言葉は、美人で、清楚で、ほっそりとした女性というイメージなのに、日本の女子サッカー選手たちは、美人とはいいがたく、私と同じく寸胴で背が低く尻の大きな体型ばかりじゃないか。
 いちおう言っておくが、私は美人が好きだとか、尻の大きな女が嫌いだとかというわけじゃないぞ。むしろその逆のことも多いのだ。
 私は、安易になでしこという言葉を使っている、それは本体を嘘のイメージで塗り固めている、その卑怯さが気に入らないのだ。正直さがないウソ臭さにげんなりするのだ。それは世の中の広告全般にも言える。

 そして今朝、女子サッカーの試合というものを初めて見たのだが、音を消しているせいか、お涙頂戴のストーリーを排除して、試合を試合として見ることができた。
 女子サッカーとは、おもしろくないものだと再認識した。
 パスの精度が悪く、そのボールスピードももたもたしていて、見ていて、運動の試合としての美しさを感じられない。
 アメリカチームの方は体格が大きく、そしていくらかスピードはあるが、どちらもパスを出すとそれをすぐに相手に取られた。高校生の部活のチームと、中学生の部活のチームが、まちがって試合をしているみたいだった。テクニックはどっちもどっちで、下手だ。
 とくに日本の選手は、もっとドリブルで相手のペナルティエリアに入ってシュートを打てばいいものを、バスケットボールのスリーポイントシュートをするみたいに、外から遠くからしかシュートをしない。それはマグレを狙っているように見えた。無責任なやり方に見えた。

 個人のフィジカルでも技術でもかなわないし、試合の分も悪いし、アメリカに先に点を入れられて、これは負けたな、大量点差で負けるな、と思っていたら、点を取られた後、十分後くらいに取り返した。相手のミスを突いたという、爽やかさに欠けるゴールだったが、アメリカから点を取ったのは立派だった。
 でも延長戦でゴールされたときは、これで負けたな、力の差だ、これが自然なことだ、とあきらめた。これで決着をつけてくれたと思わせたアメリカの一番背の高い相手選手を誉めたいと思ったし、何だかそのとき気がラクになったのだった。
 でもそのあと澤がゴールしたときは、冷めた目で見ていた私も、小さくガッツポーズしていた。自分でも自分を驚いていた。

 そういえば延長戦で点が入る前、このまま点が入らないでPKに持ち込めば、日本が勝つぞと思っていたのだ。
 後半だったかで、アメリカの美人ゴールキーパーが足を痛めたし、運動量の多いアメリカ選手はバテていて、最後の集中力を欠けるだろうし、PKなら体格差もスピードも関係なくなるし、日本人の方が細かいところで集中するだろうから、と思っていたのだった。

 それで、勝ったわけだが、私が馬鹿にしていた日本の女子サッカーでも、彼女たちの、あきらめない精神力を、尊敬した。あきらめずにやって、最後に結果を出したのだから、彼女たちを女にしておくのは惜しいと思った。おこがましい言い方だが、何か褒美を与えたいと思った。
 なでしこと名乗るのを許してやろうかと、少し思った。

 それからもう一つ思ったのは、女子サッカーとは、ファウルがとても少ないものだと思った。この試合が偶然そうなのかもしれないが、日本チームもアメリカチームも、必要以上に相手に体をぶつけに行ったり、わざと当たりにいったりすることがなかった。
 プロの試合ではファウルを見ることも楽しみの一つだが、そしてオンナとはズルイ生き物なのに、女子サッカーの選手というのはフェアプレイの精神を持っている人たちなのだと思った。
 アメリカ人というのは根は公正で弱いものを助ける優しい心を持った人たちだと思うが、何かのひょうしに、ガラガラヘビのように残忍に、相手を陥れることなど朝飯前で、卑怯なことを平気でする面も持っている。
 だがこの試合のアメリカ選手たちは、ズルイことはしなかった。もちろん日本選手たちもそうだった。どちらの選手たちも、なでしこの花みたいに、気持ちの優しい美人ばかりだと思った。

夏のホットレモンジュース

 午前中の墓掃除の仕事を終えて、今日も暑いなあと思いながら、昼過ぎに西堀通りから柾谷小路に出て、万代橋を渡って帰りながら、この暑さでも、俺みたいに車のエアコンを付けずに窓を開けている自動車はいるかなと、まわりを見ながら走った。

 いわゆる走り屋というふうな車が二台だけ、窓を開けて走っていた。
 普通の車は、窓を閉めて、エアコンをきかせて、汗も見せずに走っているのだった。

 栗の木バイパスの笹超橋の信号で止まって、右隣の車をふと見たら、私と同じように窓を開けていた。
 車の中で麦わらの帽子をかぶった若い男と、その母親くらいの年格好の、大きなサングラスをかけた女が乗っていた。
「どうして窓を開けているんですか」と私は大きめな声で聞いた。
 男と女は驚いてこっちを見たが、でも男も女も私の突然の問いかけを嫌がっているようでもなく、笑って、だがたしかな返答はしなかった。
「エアコンが嫌いなんですか」ともう一度聞いた。
 男は、ええまあ、とあいまいに答えた。年のいった女は、うふふと笑った。
 信号が青になり、私も右の車も前に出ていって、それっきり言葉をかわすことはなかった。

 車のエアコンは、毎年試験的に、八月に何回か入れてみる。そして部屋のエアコンは、いつものように、七月の下旬の、もう我慢できないという暑さの頃にスイッチを入れるだろう。
 助手席に置いた2リットル入りのジュースは、残り少なくなっていて、朝からの墓掃除で外に置いていて温まっていて、それは冬に飲むホットレモンの味になっていた。

迷惑メールはインターネットの必要コストかも

 オートバイをヤフオクで買ってから、その整備のために部品をいくつもまたヤフオクで調達したが、そのころから私のヤフーメールに迷惑メールが増えた。
 メールの件名を見ると、セックスと金儲けに関するものがほとんどだ。そういう迷惑メールにはウィルスが仕込まれている確率が高いだろうから、開けないでそのまま削除するようにしている。開けてしまっても、いきなり感染することはないだろうが、気持ちが悪いから、どんどん削除ボタンを押す。他にも「入金確認」などという件名で送りつけてくるのだから、ふと仕事に関するメールかなと思い、ちょっと油断するとメールを開いてしまう。

 私は自分のメールアドレスを、どこにも公表していない。どうやって調べて送りつけてくるのか不思議だ。
 jugemのブログに登録してから、それに登録したときに使ったメールアドレスに迷惑メールが増えた。jugemは他のことでも嫌な思いをしたから、ブログは退会した。

 私は、ひととおりフリーメールにアドレスを持っているが、迷惑メールが来るのはヤフーメールが多い。しかし一番使っているのもヤフーメールだ。
 タダで使わせてもらっているのだから、迷惑メールを削除する手間は仕方がないと思ってボタンを押している。

究極のエネルギー対策

 さっきふと思ったのだが、地球の自転や公転をエネルギーにかえればいいのだ。
 それか太陽のエネルギーを直接持ってくることを考えればいいのだ。
 でもそれは世界の誰かが考えて、研究しているだろう。

 研究している人には、頑張れと言いたい。
 研究に行き詰ったら、ダガシに連絡してくれ。俺が励ますから。

いつでもサヨナラできるようにしておくと結婚できない仕方ない

 私の仕事の料金は、絶対に出した結果より安くなるようにしている。
 もらう料金の価値より、絶対に仕事の結果の価値の方を大きくしている。
 そうしないと、お客に借りを作ることになるから。
 それは、俺は誰からも泥棒したくないし、誰からも泥棒されたくないという気持ちにもつながっている。

 私は嫌な人間を客にしたくない。
 嫌な人間から金をもらいたくないし、ありがとうございますと言いたくないし、嫌な人間を幸せにしたくないし、そいつのためにヘトヘトになれないから。

 私は、客が人間としてクズだと思ったら、すぐサヨナラできるようにしている。
 サヨナラするためには、借りがあったらサヨナラさせてくれない。
 だから、借りを作らないように、いつも、もらう金額分より、出した仕事の成果を大きくしておけば、いつでもこっちがサヨナラの決定権者になっていられるから。

 もう一つは、そいつに、精神的にも経済的にも依存しないようにしておく。
 仕事は一回一回が勝負なのであって、別れられなくなってしまうのは、仕事の関係ではない。

 そしてだからこういう人間は、精神的に結婚はできないように作られている。仕方がない。

管があと二年かけてやるべき仕事

 管を下ろさなくてもいいよ。
 もう民主党のほかの人間が首相になるのは嫌だから。
 もう管だけで沢山だから。他の顔を見るのも嫌だから。

 そうしたって管の顔を見るのは、どんなに長くてもあと二年だろう?
 二年我慢すれば総選挙があって民主党は消えるのだから。

 管は解散をして、反原発というスローガンで選挙をたたかうという話もあるが、それを評論家どもがテレビやラジオでまことしやかに喋っているが、そんなものは選挙の争点にはならないよ。だから俺は、評論家とか解説者などという人間を笑うのだ。

 今の日本で反原発に反対できる人間は、戦争のときの共産党みたいに人非人と言われるだろう。
 だから誰も反対できないことを争点にすることはできないよ。

 選挙になれば、野党だって反原発というだろう。
 そうすれば、反原発ということ以外で論争するしかないじゃないか。まともな頭をした中学生でも分かる話だ。まともな頭でない日本中のイナカモノには分からないだろうけれどな。

 民主党の、公務員を減らして、そして他にも無駄な税金を食いつぶすのを減らすという公約はあきらめたから、そして経済をよくすることも期待していないから、だって経済を良くすることなんて政治家や官僚ができるわけがないのだから、そんなことを政府がやろうとすること自体がおこがましいのだから、それを政府がすることでかえって経済をおかしくするのだから、経済方面のことは何もしなくていいから、管の仕事は、あと二年かけて、原発をなくす道をつけるだけでいいよ。
 もちろん東電を含めて原発利権全部をなくせ。それがお前の仕事だ。それだって難しいぞ。だからやりがいがあるぞ。頑張ってくれ。
 それができたら、歴史に残る名宰相になるぞ。

根性は腐りやすい

 南相馬市の和牛から放射能が出たそうだが、これだけあちこちから射能が出た出たとニュースで言っているのに、それなのに出荷したのは、確信犯だ。自分の儲けのためなら人が死んでもいいと思っている。さすが原発利権でメシを喰ってきた人間だぜ(加工した製品としての牛肉の放射能量が健康に影響がないというが、そんなことは分かっている。それと、俺が言っているこれとは別問題だ。俺が言うことは、人間としての性根のことだ)。

 仲買人も、放射能があるのを分かって買っていたはずだ。たぶん、放射能があるのじゃないかといって、安く買い叩いていただろう。それを小売に通常の値段で売っていただろう。これも自分の儲けのためなら、人が死のうがどうしようが関係ないという根性だ。

 せめて、小売店が倫理を持って仕入れと販売をしてほしいが、これも怪しい。
 何を仕入れて何を売っているか、儲けのためなら倫理など知らないふりをするだろう。いや小売店の人間も、もともと倫理という言葉さえ、知らないだろう。

 人間の根性は腐っているというニュースを毎日観ている聴いているが、それはそれとして、根性が腐敗している現実を見ながらでも、理想を捨てたくはない。
 そのためには、矜持と怒りをなくしたらダメだ。人間の根性はすぐ腐ってしまうから。

被災地よ、自分の考えで求めよ、さらば与えられる

 原発のことで原発がある県の知事の言葉はいつも、国の方針を待って、ということしか言わない。自分はこう考えるから、こうしたいとは言わない。無責任きわまる物言いだ。責任を取らないように取らないようにということしか考えていないのだろう。
 それはたぶん、ほとんどの知事というのは旧自治省の官僚あがりがなっていて、だから若いときから税金で喰ってきたから、税金から報酬を得る土俵の中での力関係でしかものを考えられないのだろう。
 それは知事にかぎらず市町村の長も同じ物言いだ。自分の責任でもって、自分の考えを表明するということを放棄している。

 そして被災地の自治体の長は、俺のとこを復旧するのは、俺はこう考えるからこうしたいと、言う責任があるぞ。
 それができないなら長は辞めろ。能力がないのだから。

 そして一般の人も、ブログとかで自分の考えを出すべきだろうに。
 私が知らないだけで、そういう人は沢山いるのだろうか。でも聞かないぞ。
 パソコンなど2万円も出せば中古で良いものが買える。被災地は電話回線がないのだろうか。それでプロバイダー契約ができないのだろうか。インターネットを使えないのだろうか。

 たぶん、パソコンやネットの問題ではないだろう。
 自分のことを自分で考えて、自分で決めて、それを自分で実行していこうという気持ちを、もともと持っていないからだろう。

城下町で宮沢賢治を何人も見た

 三、四年ぶりに県展を見に行った。
 長岡の県立美術館で、今日までだったのだ。
 オートバイで海沿いの道を走って、出雲崎から長岡市に入った。とても長いトンネルがあり、暗いのが続いて、恐くて恐くて、もしかしてこのトンネルは終わらないんじゃないかと思いながら走った。

 県展はラストの日なのに、というかラストの日だからか、混んでいた。
 老年の夫婦がたくさん目に付いた。夫婦の、とくに夫のほうは、田舎の人の純朴な、そして親切そうな感じの目をしている人が多かった。

 アマチュアの作品をけなすのは良くないと思うから、批評がましいことは書かないが、全体に題名を考えなしに付けていると思った。とくに写真の作品は駄洒落みたいなタイトルが多かった。タイトルが考えなしに投げやりだと、作品自体も駄作に見えてしまう。

 帰りは長岡から石地に出ようと走っていたら、道を間違えて、山で林業をしているような男の二人組みに、石地に行くにはこの道でいいでしょうかと聞いた。
 戻って一つ目の信号を右に曲がってまっすぐ行くと薬師峠だから、それを越えたら116に出るから、それを横切って、また山を越えれば海だよ、と教えてくれた。薬師峠のトンネルは短くて、恐くなかった。
 長岡の美術館と山の中で、宮沢賢治みたいな人たちを見て、そして行きも帰りも海を見ながら走って、今日は大満足だ。

良寛にくらべれば食中毒を怖がる

 今日梅雨が明けたそうだ。入道雲を見た。今年はとても早い。
 十五年前の七月十日に、鳥海山に登った。
 行くときも登るときも帰るときも、三日連続で晴れていた。

 ZX10で鳥海山五合目の山小屋まで走った。
 その夕方に、山小屋のオヤジさんに教えてもらった近くの食堂で、明日の昼に食べる弁当を作ってもらった。
 今から考えると傷んでいないかと心配するのだが、大丈夫だった。おいしく食べた。標高が高いから、気温も低いのだろう。
 そして下山したその日に泊まった民宿で、夕食とは別料金で食べた岩牡蠣がおいしかった。二つで500円だった。

 今日の昼に、昨日の朝炊いたご飯を食べようとしたら、においがした。
 今朝までのそれは普通に食べたのに、昼になってご飯に鼻をつけたら、におった。
 電子レンジで暖めるか、おかゆにすればいいかなと思ったが、あきらめて捨てた。
 その後で、聴いていたラジオが、今日梅雨明けしたと言ったのだ。

 良寛は一人暮らしの五合庵で、このくらいのにおいのご飯は工夫して食べただろう。
 冷蔵庫もない、食中毒にたいする知識もそれほどないそういう時代で、嗅覚がセンサーの役目をしていただろう。
 そしてそれ以上に、もったいないと思う気持ちの方が先に立っていただろう。
 だから、もう一度煮たり、焼いたりして、食べ物は捨てずに食べただろう。

 良寛に比べて俺は、人間として、精神的にも器質的にも、弱っちいのだろう。
 もう一度鳥海山に登るべきか。

イナカモノは根性が腐っている

 このあいだの九州のイナカモノ大臣が辞任した原因を、マスコミどもは、乱暴な口調の責いだと言っているが、そうじゃないぞ。
 乱暴な物言いなどどうでもいいのである。
 私が意識的に怒ったら、あんな程度ではない。もっと乱暴に、凶暴になるぞ。
 卑怯なことをしているから、私は怒っているのである。

 その卑怯なこととは、これはオフレコだと言ったことだ。
 そしてそれを書いたら、その社は終わりだと言ったことだ。
 自分に都合が悪いことは隠すという、卑怯な物言いは許せない。
 そして、たかが大臣ごときの権威をひけらかして嬉しがっている、そいつの人間としての浅はかさに腹が立つのである。

 そのあと津南に来たらしいが、税金を使って、来なくてもいいのにイナカモノが新潟県に来やがって!
 そのニュースでそいつは、煙草を吸うところは撮らないでね、などと言っていた。
 そういう、自分に都合が悪いことは隠蔽するという、卑怯な根性に腹が立つのだ!
 さすが寄生虫根性だぜ! 税金公金をすすって生きている泥棒だぜ!
 正々堂々としていないぜ。ダメな人間だぜ。

 今日、私が住んでいるアパートで、また卑怯な管理会社が卑怯なことをした。
 電話をかけたら、いつもの卑怯な物言いだった。さすが新潟市のイナカモノだ。
 こんどそういうことをしたら、正々堂々とした方法で、そいつがやったことを世間に公表して、どこまでも追求することにする。
 しかし、イナカモノとは卑怯者根性だという定義づけは本当だ。

天気予報があって幸せ

 梅雨に入っているが、雨が降る日が少ないように思う。そして寒いと思う日もない。
 この二十年くらい、梅雨寒むという年はない。地球は暑がっているのだろう。

 だからなのか天気予報も当たっている。
 昔、母親が、今は天気予報というのがあるからいいなあ、と言った。
 テレビもラジオも新聞もない家は、明日の天気を自分で予言しなければならなかった。
 夕焼けなら明日は晴れるとか、猫が顔をあらっているから雨だとか。

 これも昔、玄関に、温度計と気圧計が一緒になった目覚まし時計みたいなものを置いていたが、それをどう見るのかわからず、どう使うのかわからず、誰も教えてくれないし、教えてくれというのも良くないことみたいな気がして、長いあいだ飾り物になっていた。
 その丸いものは、いつのまにか壊れて、いつのまにかなくなっていた。

 今日の七夕の夜は雨が降っている。
 壁の温度計は28度だ。
 窓をあけて、扇風機の風にあたっている。ちょうどいい。

新潟県交通規制情報

 このあいだ旧116号線という昔の北国街道を、オートバイで西にまっすぐ走って、大河津分水に突き当たったら右に曲がって、海っぺたを走って帰ろうと思って、そうして行って、大河津分水から海沿いの道に出ようとした。その信号に看板があって、この先は通行止めだと書いてあった。
 仕方がないから引き返して、今まで馬鹿にしていたニセの五合庵を見て、やっぱり、なあんだと思ってから、同じ道を帰った。

 帰ってネットで調べたら、こんなHPを見つけた。
『新潟県交通規制情報』
 それによると、そのときのシーサイドラインの通行止めの理由は、落石だった。

 しかしこのサイトを見ると、新潟県内でこんなに工事中や通行止めの道路があるとは驚いた。
 でも道っていうのは、アクシデントがあるのが当たり前なのだと、あらためて思い知った。

 ちょっと遠出するときは、見ようと思う。というか、道の通行止めの状況が日々変わるから、毎日ただ見るだけでも面白いのだ。

セミの生まれる、生まれかわる時間

 小学生の低学年だったと思う。セミがさなぎから出る、一部始終を見たことがある。
 たしか明け方だったと思う。なぜ夜明けごろに目が覚めて、そしてそれを見ることができたのか、さっぱり忘れている。

 さなぎから出たばかりのセミの羽がしわくちゃで、羽に見えないほど小さくて、薄いガーゼのように透き通っていたのを憶えている。
 それは羽だけではなく、体じゅうが薄緑色に透きとおっていたのもおぼえている。

 でもなぜ明け方に成虫になるのだろう。
 捕食者がいない時間帯なのだろう。

 だが、それだけの理由ではないだろう。
 あの音のない、清潔で透き通った時間に、自分の命は生まれかわるのがぴったりだと、知っているのだろう。

 もうすぐ七夕だ。七夕を十日もすぎると、光のない土の中からセミの幼虫が、はい出てくる。
 何年間も黙っていた鳴き声が聞こえてくる。
 セミはいま、真っ暗の中で手足を動かして、準備をしている。

アメリカに犯されるのを待つ日本

 九州の田舎者が何かの間違いみたいに大臣になって、東北の被災地に行って、はしゃいで客ヅラして、言いたい放題やりたい放題していたニュースを観た。
 目つき、歩き方、椅子への座り方、その所作を見たら頭の悪いヤクザだ。寄生虫根性の人間だ。政治家などになるのだから、もともと泥棒根性の人間なのだが。

 いい気になって国債をバンバン出して、国をあげて無駄な贅沢をやっている日本だから、ああいう泥棒どもが政治家気取りで生きている。

 私が勝手に俺の先生と思っている、岸田秀と吉本隆明の書いていることから私が勝手に考えたのだが、日本の政治経済を立て直すためには、アメリカが介入しなければならないだろう。

 日本は幕末で、アメリカにレイプされて目が覚めて、近代国家に少し変われた。そして太平洋戦争でまたアメリカにぶん殴られて、エセでも民主主義ごっこをする国家になれた。

 大事なところは全部アメリカさまに引っぱたいてもらって変われたのだ。
 すべて、日本が自分で生まれ変わったわけではない。日本人には、そんな能力はない。

 だから思考停止になりながら、無駄な建物を造る、無駄な道路を伸ばす、公金で無駄な延命をする、無駄な電気を使う、そういう分不相応な贅沢な暮らしを続けて、そのために国債を出し続けている。いずれ国家の経済は破綻する。

 破綻する前に、アメリカさまが、「おいジャップ! お前らが考えなしに贅沢をして、挙句の果てに破産して乞食になって、世界中から物乞い生活をすると、世界がお前らにめぐんでやらなきゃならなくなるから困るんだ。だから破産する前に贅沢はやめてもらうぞ!」と、世の中の寄生虫どもを始末する政策を押し付けてくるだろう。

 アメリカも考えなしに贅沢をするが、それは政治経済の体力があるから出来るのであって、その後始末を、良い悪いは別として、他の国に押し付けて、自分たちはノンキに暮らすことが出来る。それも善悪は別として、武力というか暴力というか、腕力があるから出来るのだ。
 日本はそのチカラも精神力もないくせに、考えなしに贅沢をしている。安易にアメリカの真似をしているだけだ。

 今まで日本は、アメリカさまに押し付けられた政治のやり方でやってきた。それでうまくいってきたのだ。少なくとも自分ではうまくいってきたと思っているのだ。それが幸せだと思っているのだ。
 だからその代わり、無意識の中では、アメリカを憎む心と盲目的に愛する心が入り混じっているが。

 そして日本の国家としての無意識は、ものを考えることが出来ないオンナコドモであるから、またアメリカさまに理不尽に押し倒されて、強烈な火傷するほど熱い爆弾をねじ込まれることを待っているのだ。それでしか問題を解決できないのだから。

バイクに乗る苦しみ

 昔の、バイクでならいつでも死んでやる病が治ったら、今度は死にたくない病にかかったようだ。
 バイクに乗っても70キロ出すのがやっとだし、半そでで乗るのが恐いのだ。
 転ぶことを想像してしまって、半そでで転ぶと、腕の皮と肉がずりずりとむけて、そして骨折してしまうと思うのだ。腕も脚ももげてしまうと思うのだ。

 でも半そででも長袖でも、転べば骨は折れるだろう。
 だから半そででも長袖でも、ケガになる程度はそれほど変わらないだろう。だが布一枚で助かると思い込んでいるのは妄想なのだろう。

 タンクトップと短パンで高速道路を吹っ飛ばしていたのが嘘のようだ。
 今は、走りながら、ふいに理由もなく転ぶのではないかと思う。これも妄想だ。妄想だと自覚していても恐いのだ。これは、本当に、ただの神経症を通り越しているのじゃないかと、それも恐いのだ。
 バイクに乗ることで、楽しみと同時に、ああ、苦しみが増えた。
 だが、その苦しみより楽しみの方がちょっとだけ多いから、乗っている。

太陽は躁鬱病

 日陰から出て陽に当たると、陽に当たっている肩や背中や、とくにてきめんに頭が熱い。
 子どもの頃は真夏でもこんな感覚はなかった。野球の練習で太陽がギラギラしていても、うれしい気持ちしかしなかった。

 もしかして大気が薄くなっているのかもしれない。
 空気が減って、太陽の熱が、今までよりじかに当たっているのかもしれない。

 あるいは、太陽がいつもよりいっぱい熱を出しているのかもしれない。
 太陽だって生き物なのだから、躁も鬱もあるだろう。
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