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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

地球は人間を嫌がっているかも

 今日、地球の人口が七十億人になったそうだが、私が小学生のときの学習雑誌には四十七億人だと書いてあった。
 これだけ人間が増えたら、地球は自分の表面をかゆがって嫌がるだろうと思うが、今のところ何も聞こえないからわからない。
 地震や津波や洪水やらが、地球が自分の皮膚をかいているのかもしれないと思ったりするが、そんなこともないだろう。

 人間だけが数を増やしたら、地球のバランスは崩れるだろうから心配なのだが、そういえば太古の時代の恐竜も、異常に栄えてその数を増やしたらしい。誰も見たこともないのだが。
 それでも立派に恐竜は絶滅して、地球のバランスを元に戻した。地球がそうさせたのかもしれないが。

 人間の方が大事か、地球の方が大事か、それは簡単にはわからないが、人間の数も異常に増えすぎたなら、立派に絶滅して地球を救うことになるだろう。
 恐竜のときと同じように、地球の方から、いなくなってくださいと言われるかもしれない。
 絶滅したくないなら、どうすればいいかはわかるだろう。
 地球にとっては、人間が滅びようがどうなろうが知ったこっちゃないのだから。

TPPやれ

 日本中がTPPで騒いでいるが、騒ぐこと自体を嬉しがっているだけだ。
 TPPのことは結論からいうと、どっちでもいいが、積極的ではないが、やればいい。
 なぜなら、何でもものごとは、変わることがいいことだからだ。

 騒いでいる奴らは、騒ぐこと自体で金儲けをしているだけだ。
 テレビやメディアに出て、反対だとか賛成だとか言っているのは、もっともらしいコウシャクを言うこと自体で楽しんでいるだけなのだし、言うこと自体で出演料をとることができるのだから。

 TPPになってどうなるのかなど、実際わかる人間は世界中にいないぞ。
 アメリカにそのシナリオを作った人間はいるだろうが、世界のものごとが、そのシナリオどおりにいくわけがないのだから。なぜなら神様のような完璧な人間などいないのだから、人間の書いたシナリオなど間違うものだし、次から次へと世界中に、思いもよらないいろんなものごとが起きるからだ。
 そのたびに決まりは直していかなければならない。決まり自体が変わっていくのだ。
 だから、TPPに入るかどうかなど、どっちでもいいのだ。

 そして日本がTPPに入ったとして、反対派が言うように日本がダメになるわけがない。
 なぜなら、この先いろんなことが起こって、TPPのことなどまた変わるのだから。この世のものごとは、すべて変わっていくのだから。太古の昔から変わってきたのだから。
 この先いつまでもアメリカが、世界で一番の腕力を持っているわけでもない。世の中は変わるのだ。諸行無常とお釈迦さまも言っているぞ。栄枯盛衰という言葉もあるぞ。

 これから何十年後か、万が一日本がダメになったとしたら、それはTPPのせいじゃない。
 それは日本人が平和ボケでいっそう怠け者になったからだ。それだけのことだ。怠け者や泥棒は死ぬだけのことだ。それが世の中の理だ。
 TPPに反対している人間は、変わりたくない人間であって、変わるためのエネルギーを出すことを怠けている人間だし、そいつらは既成の世の中の仕組みの中で良い目を見ている泥棒根性の人間ばかりだ。既得権益をむさぼっている奴らばかりだ。

 俺はものごとが変わることが善だと思っている。
 変わることそれ自体によって、新しい良い価値が生まれると思うから。
 そして変わることは善だという価値観は、生き物のDNAに組み込まれているのだから。

さんや先生と書くな

 北杜夫のキーワードでブログ検索してみたら、他から引っ張ってきた事実をそのまま書いてそれで済ましているブログばっかりだが、そういう猿真似ブログは無視するとしても、名前に「さん」とか「先生」とかを付けているのに腹が立つ。
「さん」は北杜夫と面識があるなら付けてもいいが、そういう人はブログなど書かないだろう。ブログでむやみに「さん」付けするのは馴れ馴れしいぞ。

 それから北杜夫は学校で教えていたことはないはずだ。だから北の生徒はいないはずだ。だから「先生」と呼べる人間もいないはずだ。
 お医者をしていたことはあったが、でも「先生」と呼べるのは、北杜夫に診察してもらった患者だけだ。
 しかも精神科なんだから、北に診察してもらったということは精神病者だということだぞ。
 それに北杜夫は医者としては修業だけで終わった医者だから、先生と呼べるほどの医者の実力はないぞ。
 マンボウのときの船で治療してもらったという人がいるかもしれないが、医者時代の患者も、そういう昔の人はもう生きていないだろうし、生きていたとしても今パソコンなどやっているわけがない。
 だから作家をすぐに「さん」付けしたり「先生」というのは、無神経で馴れ馴れしすぎて読んでいて腹が立つのだ。

北杜夫は半分リアリスト

 十月二十四日に北杜夫が死んだそうだが、中学生のときからずうっと読んできた。
 晩年の、茂吉のことを書いた長編は読んでいないが、死んだと聞いたから、頃のよいときに読もう。

 その前の十六日だったかの、日曜朝の短歌の番組に娘が出ていたのを観た。
 それがどうしたというものだが、思い出しただけだ。

 あんなユーモアエッセイを書いているくせに、昔、まびきのことや、精神病者の座敷ろうのことを肯定して書いている文を読んで、俺もリアリストの部分を半分持てたのだ。

芥子漬けの素はもう使わない

 キュウリの芥子漬けを作って食べたが、不味い。
 キュウリの旬は過ぎたし、その三五八漬けもちょっと飽きたから、カブを漬けようと思っていた。
 そうしたら最近どうしてなのか、スーパーで三本128円とか、今日はそれが98円とか、キュウリが安く売っている。
 この間つい買ってしまって、さてどうやって食べようかと思ったのだ。前から食べてみたいと思っていた、芥子漬けを作ったのだった。

 既製品の芥子漬けの素を買って、漬けてみた。
 それが化学調味料の味がして、怖いような味なのだ。
 三日間冷蔵庫に入れておいたら、芥子漬けのキュウリは中が水で満たされたようになって、水の味しかしなくなって、それは腐ったのかもしれないような味になって、残っていた一本を捨てた。
 もう芥子漬けの素はやめようと思って、今日また三五八漬けの素を買ってきた。

長風呂で吉田知子

 二時間も風呂に入っていた。吉田知子を読んでいたのだ。
 もう今は吉田知子にはまっている。また十冊借りてきた。
 吉田知子を読むのに慣れたから、つっかえつっかえしなくなった。でも前よりゆっくり読んでいる。わかるようになったら急いで読まなくなった。

 女の作家の作品を一気に全部読むのは初めてだ。読めば読むほど、やっぱり吉田知子は天才だとわかる。
 お湯につかりながら吉田知子を読むのも、なおさら心にしみていい。

酒も小さいところがうまい

 日本酒を、テレビで宣伝している大きな会社のものを買って飲んでみた。不味い。熟成されていない、アルコールそのものの味みたいだ。

 テレビなど信用できないと再認識したし、大企業のいうことも信用できないとわかった。

 酒も、小さい会社がつくっているのがうまいとわかった。

夜逃げ鳥

 四、五日前の夜十時すぎに、渡り鳥の鳴き声が聞こえた。
 夜なのに飛んでいるのかと心配をした。

 あれから渡り鳥の声はしない。
 気の早い鳥の一群だったのか、道に迷った一群だったのか、それともあてもなくどこかに逃げる鳥の家族だったのか。

馬は神様に似ている

 今日、はじめて競馬を最初から最後まで見た。テレビでだが。
 いままでテレビで競馬の番組が始まると、おもしろくないからチャンネルを変えていた。それが今日は他のチャンネルに変えても面白そうなのはなかったから、我慢して観たのだった。

 競馬というゲームは形式にこだわっているように見えた。競走前の馬たちがグラウンドみたいな場所で、人間二人がかりで綱を持たれて何周も歩いていた。儀式みたいに見えた。
 でもそれぞれの馬は態度が違った。ゆったり落ち着いているのもいれば、興奮しているのかしきりに首を振ったり、横を向いたまま前に歩いているのもいた。どうしてか斜めに進もうとしてしまって、むりやり前に引っ張られている馬もいた。馬は人間に似ていた。
 一番人気の馬は自信ありそうな態度だった。これは一番の人気だとテレビで言っていたからそう見えただけかもしれない。

 レースの最後の直線コースを先頭で走っている馬は、長い尻尾の毛が揺れながら後ろにたなびいていた。その金色の毛は、見たこともないけれどギリシャ神話の神が、空を飛んでいるときの長い頭髪のように見えた。トップを走っているのは一番人気の馬だった。
 その馬が圧倒的速さで勝って、それほどのドラマはないものだなと思った。
 このレースで勝って、馬は三冠王になったのだそうだ。何の三冠王なのかは知らない。興味もない。
 だけど、勝った馬の走る姿は、人間じゃなく神様に似ていると、神様も知らないのにそう思った。

橋下にさせてみたい

 私は橋下徹という人を支持する。
 彼を批判している人間は、世の中が変わらないほうが得だという人間がほとんどだ。

 変わるということはエネルギーがいる。変わらないのはラクだ。
 変わりたくない人間というのは怠け者なのである。
 怠け者だから、自分で生産しないで他人が生産したものを泥棒したがる。それが公務員というものだ。他にも税金と公金で生きている人間どもということだ。

 そういう既得権益者たちは死んでもらわなければならない。
 カダフィだって殺されたんだから。
 生物としての命をもらうとまでは言っていない。
 競争にさらされて、世間から選択されて、だから頭と体を使って、自分の仕事の依頼者を幸せにした分量を金額に換算した、その公正な売上げというものを追求してほしいだけだ。人間の真っ当な仕事のやり方で生活費をかせいでほしいだけだ。

 テレビで橋下知事に反対している人間は、税金公金でメシを食っている人間がほとんどじゃないか。既得権益者、特権者がほとんどじゃないか。今の自分のラクしてメシが食える立場を捨てたくないと思っている人間ばかりじゃないか。
 競争にさらされた上で依頼を勝ち取って、それからその仕事の結果を出した人間はいないじゃないか。
 大学受験がちっとばかり上手だったというだけで、学校生活の延長で遊び半分で仕事をしている、結果責任などということは考えたこともない人間ばかりじゃないか。
 単なる学校の勉強ができたということと、仕事の結果を出すこととは、別問題だぞ。人間としての本質的な頭の良さとは別なことだぞ。

 各論で反対ならば、その個別の論を修正すればいい。
 重箱のすみをつついて、変わろうとする力をそごうとするのは姑息だ。見え透いている。

 橋下知事のやり方に任せてみて、それが万が一良くないものだったら、また変えればいいのだ。

冬の三五八漬けはカブにする

 そろそろキュウリの旬も終わりだと思っていたら、おとといくらいからスーパーで安くなっていた。三本で138円だった。
 それを買ってきたから、今シーズン最後のキュウリの三五八漬けにする。

 こんどはカブを漬ける。
 白菜の固いところもいい。

労働基準監督署の不誠実

 この春から、あることで、新潟市の労働基準監督署の職員たちに何度も嘘をつかれている。
 今夜の電話の担当者は、ことさら卑怯な物言いだった。

 約束した時間は、すっぽかす。
 質問の答えは、はぐらかす。
 嘘を言っても間違っても、絶対に謝らない。
 自分のやるべきことは何もやらないで、自分の都合を言う。
 人間としての誠実さなど、かけらもない。公務員はいつもそうだ。

 そいつは、私が頼んだ事のことづてを聞いていないと言った。
 私が、組織でそういうことは非常識ではないんですか、と問うたら、常識か非常識か自分にはわからないと言った。
 卑怯な物言いですねと言ったら、そいつは自分で、卑怯でもいい、と言った。

 その卑怯な担当者は、アカツカと名乗っていた。下の名前を聞いたら、言う必要はないと言った。
「私は労働大臣から全権を委任されているといってもいいでしょうな」などと、せせら笑うように言っていた。
 今は厚労大臣というんだろ?

 どうしてくれようかと思っている。
 こっちには落ち度はないのに。
 こっちは、やるべきことはやっているのに。
 こっちは、お天道様がいつも見ているんだから卑怯なことはしないと自分に誓っているのに。
 腹が立つ。
 凶暴になってしまう。

 私が電話で怒鳴ると、たいがい「録音しますよ」と言われる。今夜の卑怯なアカツカも言った。
 どんどん録音してほしいのだ。私は相手が卑怯なことをすれば、物言いは乱暴で凶暴になるが、自分で言うのも何だが、喋っている中身は誠実だ。断言できる。
 なぜなら、嘘は言わないし、間違ったり、迷惑をかけたら謝るのだから。何か良くしてもらったら、有難うございますとお礼を言うのだから。自分で言ったことは、必ずやり遂げようとする。できなかったら、申し訳ありませんと謝るのだから。
 これって、人間の基本的なことだろ?
 だから、録音してもらいたいのだ。相手の不誠実な対応も記録させたいのだ。

 厚生労働大臣に文句を言ったら、どうにかなるだろうか。

 こんど卑怯な不誠実なことをしたら、具体的なことを、事実を事実として世間に公表する。

新発田藩の人はおっとりしているかも

 昼から二王子神社に行った。初めて行った。二十年前に新発田市に二年間住んでいたのに行ったことがなかったのだ。
 山のふもとの集落から左に入る山道は、とたんに舗装が荒れて道が細くなった。晴れているのに湧き水で道が濡れて滑りそうだった。
 道に猿がいた。もうちょっといくと猿が増えて、その先の段段田んぼで三十匹くらいの猿が集まっていた。もっといたかもしれない。落ち穂を拾って食べているのだろう。でもどうしてか一枚の田んぼだけに集まっていた。何かの大事な会議を開いているようだった。
 その猿たちを写真に撮ろうという年寄りが、細い道の真ん中に車を停めていたから、車のわきを、崖に落ちないようにオートバイをやっとの思いでそろそろと通った。そういう細くて荒れた走りにくい道が、五キロくらい続いた。

 細い沢にかかっている短い橋を渡ったらT字路にぶつかって、そこに小さい看板があった。
「左、二王子神社 二王子岳登山口。右、登山者用駐車場」と書いてあった。
 駐車場にオートバイを停めて、神社に歩いた。駐車場から二百メートルくらいのところに、山の中なのに、村役場くらいの大きさの、背の高い木造建築が現れた。
 太い木材を何百本も使った古い神社だった。それが二王子神社だった。
 大昔にこんな山奥まで、太い木材を運んできたのだろうか。
 でも少し考えたら、まわりは杉林だから、この杉を切り倒して、宮大工たちが泊り込んで建てたのだろうと思った。

 餡パンを食べていたら、二王子岳を登った男たちが何人か降りてきた。ここは登山口でもあるのだった。
「頂上まで何時間くらいですか」
「私は遅いから、三時間くらいかな」
「危ないところはありますか」
「ありませんよ」
 中年の男は水場で顔を洗いながら教えてくれた。
 こんど登ってみたいと思ったが、ここまで来るあの細い道を車で走るのは怖い。自動車の運転は下手だから、崖に落ちるかもしれないと思う。オートバイでもいいが、歩きつかれた後でバイクに乗るのもいやだ。でも鳥海山にも八海山にもバイクで行ったのだから、二王子岳もバイクで大丈夫だろう。
 今日は平日なのに、登山者の車が二十台は停めてあった。しかしあの細い道で、車がすれ違えるのだろうか。不思議なのだ。

 帰りに新発田城に寄った。
「二十年前にも、この公園はありましたか」
「いえ、あのお城とあっちのお城が造られたのは、平成十六年に文化庁が何十億円か出してできたんです。そのときに、この公園もできたんです」
 城址公園の案内係りのおじさんは、得意げに教えてくれた。
 私はちょっと腹が立って、「そんなことにそんなに税金を使ったんですか」といやみを言っておいた。
 おじさんはヘンな顔をして、横を向いた。

 今日も二王子神社に行く道で迷って、途中で林業の男二人組に道を聞いた。
「ふたおうじ神社に行く道は、これでいいですか」
「にのうじ神社かね、それなら戻らなければならないよ」
 親切に教えてくれて、「途中でまた聞けばいいよ」と言ってくれた。二王子は、にのうじと言うのも知った。
 戻ったその先の十字路で、老人二人組みに道を聞いた。これまた嫌がらずに細かく教えてくれた。
 山道に入るところの集落で、何かの野菜の実をむしろに干していた老婆にも、「にのうじ神社は、ここで曲がればいいですか」と聞いたら、「はい、そうです!」と大きな声で返事してくれた。山のほうの人は気のいい人が多いように思う。

 帰りの二王子岳から新発田市街まで、新発田の平野は一面見渡すかぎり田んぼがつづいていた。
 実際は知らないが、新発田藩は潤っていたのだろうと思った。

ひらけないニッポン

 夜、信号で対向車がつながって止まっていて、全部の車がライトをつけていると、そこを通るととてもまぶしいのだ。
 止まっているときはライトをスモールにするのは常識だと思っていたが、新潟市の人間は知らないらしい。

 信号待ちの先頭の車だけはライトをつけておけばいい。それはここに車があるぞと周囲にわからせるために。その後の車たちはライトを強く光らせておく必要はないのだから。

 スイッチを切り替えるという手間を怠けているのだろうか。
 それともイナカというところでは、誰も何も本当のことを知らないから、誰も何も本当のことを教えてくれずに、誰も何も本当のことを知らないのだろう。
 ひらけないわけだ。

SEOはグーグルに好かれるかどうかより自分が好きな文章かどうか

 四、五日前から、うちのリフォームのサイトの検索順位が六番落ちた。
 サイトの中身を少しいじった後で、それが原因なのかと思ったが、うちを追い越して上がったサイトはページ数が多い大きな会社のものばかりだったから、グーグルのアルゴリズムが変わったのだろう(だがそういうサイトは無駄にページが多いだけだし、無駄なことを書き散らかしているだけなのだが。そういうことはグーグルという機械にはわからないのだろう)。
 その検索キーワードは抽象的すぎてユーザーが実際にググる言葉ではないのだが、サイトのSEOの力を知るためにいつもチェックしている検索語彙なのだ。

 実際の実用的なキーワードは、いくつかの言葉が複合して検索されている。そうすると、そういう検索されそうな語彙を使ってコンテンツを作る必要がある。でもグーグルはあからさまな下品な書き方は嫌いだと思うから、ちゃんと文章になって、中身の整合がとれていなければならない。なにより書いていることにリアリティがなければならない。それはむしろグーグルに好かれるかどうかより、私が自分で好きな文章かどうかが重要なのだ。

 ちなみに、想定キーワードというものは大事な企業秘密だから書かない。
 そしてこのブログでは検索語彙などというものを、はなから気にして書いていない。むしろ、そこらへんを歩いたり車に乗っていたりする人間から検索されたくないのだから。そういう人間には読んでほしくないのだから。

田舎者の定義に、泥棒を加える

 このところ女からの問い合わせで嫌な思いばかりしている。
 今日もそうだった。
 詳しいことは書かないが、約束の時間をすっぽかす、人様をタダで使って平気だと思っている、嘘を言う、ずるく立ち回る。
 女だけではない。そういうクズ女の亭主や一緒にいる男も卑怯な物言いばかりする。
 だから私もそれ相応の対応を、私が受けたことと等価の対応を、相手にしてやった。もちろんこちらは卑怯なことは絶対にしないが。

 やっぱり新潟市のほとんどのイナカモノに近づくと、ろくなことがない。
 そういうクズどもは客ヅラをしたがる。
 いつも言っていることだが、客とは、業者に適正な利益を上げさせて、はじめて客といえるのである。
 そうでなければ、業者の手間や時間を盗んでいる泥棒でしかないのである。
 新潟市にはそういう泥棒がウジャウジャいる。

 田舎者の定義もまた書いておく。
 田舎者とは、地理的なことをいうのではない。
 田舎者とは精神のことをいうのである。心根のことをいうのである。
 ずるくて無神経な人間のことを田舎者というのである。
 その定義に、泥棒根性も加える。
 そうするとほとんどの日本人がそうなる。ああ、困った。

 もう一つ書いておくが、人真似をする人間も田舎者だ。オリジナルな生き方をしない人間ということだ。
 さらにもう一つ書こうか。目先の利益を追う人間のことだ。近場で済まそうとする怠け者のことだ(近場というのは地理的時間的なことだけではない。精神的な近場も含む)。
 どちらのことも別の言葉で言えば、自分を律していない人間ということだ。
 そうするともう、99.9999パーセントの日本人が田舎者ということだ。もう困りきる。

 そしてこれからはもっと、女からの問い合わせには一層気をつけるつもりだ。

会計ソフトで経理が怖くなくなっている

 今年から青色申告のための記帳をしている。今年一月にパソコンでできるフリーソフトを入れて、それを使っている。
 難しいことはない。順調にやれている。
 三日に一回、朝に入力している。夜は疲れているのかどうか、そういうことはしたくない。朝ご飯を食べた後、仕事と生活に必要なサイトをチェックした後、レシートや領収証を見ながら入力する。

 そのフリーソフトは、『加藤かんたん会計』というソフトだ。
 使い方のための掲示板もあるし、説明の動画も見られる。経費項目を選ぶための案内のブログもある。無料ソフトなのに、その説明のサイトやブログを見れば、いたれりつくせりなのだ。そして自分でそのソフトのマニュアルで勉強すれば、経理の知識も得ることができる。
「加藤かんたん会計」でググれば出てくるし、「青色申告 フリーソフト」とかのキーワードで検索しても出てくる。

 一番よかったのは、一ヵ月ごとの各経費の使い具合がはっきりとした数字で見られるから、使ったお金を具体的に把握できることだ。
 それと、経理というものに恐怖感を抱かなくなったことだ。

吉田知子

 日本の小説家の中で天才は太宰治と安岡章太郎の二人だけだと思っていたが、三人めを見つけた。吉田知子という人だ。
 去年の末ごろだったか今年の初めだったかに読んだ三島由紀夫の評論本の中で、吉田のことをむやみに褒めていたから、読んでみようと思っていたのだ。
 それがどうしてか図書館に行っても何ヶ月も手を伸ばさなかったのが、このあいだ急にいっぺんに十冊借りて読んでみた。十冊読んだら、もう十冊借りた。小説が十五冊、エッセイが五冊。

 吉田知子には負けた、と思った。何を負けたのか自分でもよくわからないが、人間の本当のことを見つめる力で、負けたと思った。この人は天才だと思った。
 吉田のエッセイの中で、若い頃はつらかったと書いていた。そうだろう、いつも本当のことが見えすぎてしまうと、生きるのは辛い。

 吉田の小説は、読みにくい。ストーリーなどはない。小さな筋を追おうとしても、筋はすぐに横にそれたり行ったり来たりする。登場人物は何の説明もなしに突然大勢出てきては消える。そして女の心身の醜さが、これでもかと書きこめられる。
 タイトルは忘れたが初期の短編で、あまりにも女の汚らしさがあからさまに書いてあって、オンナギライのダガシは腹が立って気持ち悪くなって、もうそこから読み進むことができなくなったほどだった。
 他の短編を読んで気を落ち着けてから、読むのを中断した小説に戻って、あらためて、読んだ。その頃からはもう、吉田知子の小説というのは、人間の本当のことをあらわすしかないものなんだから、読んでいて不快になることもあるし、怒ることもあるというのを覚悟した。それからは吉田の世界観に浸ることができた。でも読みながら嫌な気持ちになるし、吉田の小説を読むと、言葉にできない恐怖を感じつづけるのだ。そしてその嫌な気持ちや怖い気持ちは、快感でもあるのだと感覚するようになった。


 吉田知子の今のところの最高傑作は、『千年往来』だ。吉田の小説の中で一番読みにくい。が読みにくいけれど吉田の世界観を一番よくあらわしている。宇宙の空間も時間も自分も他者も、ぜんぶまじりあって、生も死もまじりあって、ジグザグに行ったり来たりしている。わざとそういうふうに書いていることを、自己批評している文章を、さりげなく小説の中に置いていて、ああこれは純文学だと思った。

 そして吉田の小説は、デビュー作からその全部が実験小説でもある。新しい作品を出すたびに、新しいアイディアで書く。六十歳をすぎても実験を重ねる。本当にこの人は天才なのだと思う。でも、わかりにくくて読みにくくて、簡単には吉田の小説の世界観に入れない。そこらへんを歩いている人間たちには読めないものだし、たとえ読んだとしても何が書いてあるのかわからないだろう。だから売れないだろう。それでもそういう小説を書きつづけているのは、やっぱり天才なのだ。

 今のところの最新刊の『日本難民』だけは読みやすい。筋はつながっている。笑いもたくさんある。ユーモア小説みたいに笑いながら読んだ。
 でも始めのほうの一箇所だけリアリティを感じられない部分があって、その世界観に入り込めなかった。やっと避難して疲れきった夜に煮炊きをしたくなるかなあと思ったのだ。いろんな物を用意して避難しているのだから、おにぎりやパンも持ってくるだろうに。それを食べればいいのに。
「……立ち上がった。急にあたたかいものが食べたい、と思った。ご飯を食べたい。」とあるが、この文章だけで、疲れているのに料理をしたいと思うほどの強い動機になるのか。でも一昔前の女の人ならそう思うのかもしれないかな、と思い直した。
 その部分以外はすぐに小説の世界に入っていけて、やっぱり吉田の小説だから、女の心の醜さも、女が現実に対応しようとする度胸のよさや頭の良さも、存分に出ていて、共感もし、気持ちよく笑いながら読んだ。今の原発事故の騒ぎも連想した。
 お札を燃やすところでは、驚いて、そして声を上げて笑った。文学者というものは、体制や組織というものを信用しないし依存しないのだ、個というところで立っているものなのだ、いや人間というものはほんらい誰でもそういうものなのだ、ということをわからせてくれる。吉田知子は、ハードボイルドでもある。

 ユーモア小説であっても、吉田知子の小説だから人間のほんとうのことが書いてある。
 小説を読むとは、人間の本当のことを知りたいから読むのだ。人間とは何か、自分が生きるということはどういうことか、ということを考えたいから読むのだ。その小説が吉田知子の小説なんだ。

 しかし俺はどうして今まで吉田知子を知らなかったのだろう。不思議だ。
 そして俺は吉田知子を好きになっている。オンナギライのダガシでも、こういう女の人なら結婚してほしいと思っている。だけどこういう女とは離婚してしまうだろうとも思っているが。
 吉田知子にいつか会いたいと思う。もし会えたなら、自分の母親より年上の吉田に、「結婚してください」と言って、ほっぺにキスしたい。引っぱたかれるだろう。

放射能が行けばいい建物

 ネットで放射線の量が群馬県で高いのを知った。どうしてフクシマから遠い群馬県に放射能が行ったのか。風に運ばれたのか。関東平野を風に乗っていって、谷川岳の山脈に当たって、吹き返されて雨と一緒に落ちたのか。
 原発の利権には関係ない県だろうに、かわいそうだ。そうすると同じ原発のない長野県にも放射能は行っているだろうか。それとも碓氷峠の山山にさえぎられただろうか。
 放射能は風に乗って東京に行けばいいのだ。東京で使っていた電気のものだったんだから。とくに国会議事堂あたりに吹き溜まって落とせ。東京電力の本社ビルの窓をやぶって突風になって吹きこめ。

夜のラジオはありがたい

 夜中に目が覚めたときにスイッチを入れて、声が聞こえるとうれしい。
 でもスイッチを入れたとたん、つまらない喋りや、聞きたくない音楽が鳴ることも多い。

 好みの話し声と、好きな音楽を聴くためには、ラジオ局を自分で経営するのがベストだろう。それはお金がかかるから、自分の好みを共有する人たちとお金を出し合ってラジオ放送を流すのがいい。

 だけど自分と同じ趣味の人は少ないだろうな。
 少ない人数でラジオ局を運営するのはできないから、今のままで、夜中にスイッチを入れたらライブで人の声がするというだけで幸せだと思わなければならないのだろう。
 でも一月千円ちょっとというのは適正な値段なのだろうかわからない。

街づくりは津波は忘れろ

 家畜根性の人間や奴隷根性の人間は経験に学ぶ、自律している人間は歴史に学ぶ、というものいいがあったようななかったような気がするが、太平洋側の東北地方で、街づくりを高台でしたいと言っているらしいが、やめろ。
 今回のような大津波は千年単位のものだから、千年先のことを心配しても仕方がないぞ。無駄だぞ。
 かりに住宅地を高台に作ったとしても、仕事場は海岸ぞいになるのだから、同じことだ。
 それに歴史に学ばない人間どもは、十年もすれば大津波があったことなど実感として忘れてしまって、また大地震がきても高いところに避難することなどしないだろう。なぜなら家畜や奴隷は怠け者なのだから、思考停止がラクだと思っているのだから、そういう人間が世の中のほとんどなのだから。

 高台に街を作れなどと言っている人間は、土建屋と公務員と政治家だ。泥棒根性の発達している人間どもだ。庶民から税金と公金を泥棒したくて、高台に、高いところに、と言っているだけなのだから。魂胆があるのだよ。
 ガレキを始末したら、今のところに住めばいいのだ。

 ああいう津波が来るのが当たり前という場所に住もうというならば、歴史に学ぶか死ぬか、どっちかを選ばなければならない。
 歴史に学ぶとは、自分の経験を信用しない、自分自身を信用しない、自分以外の今でも昔でも、人間として頭のいい人をあちこちから探して真似するということだ。
 そのためには、人間として大事なことは何かということを、いつもいつも考えつづけることだ。そうして自分なりの人間の大事なことを決めて、自分の責任で実行して、それが間違ったとしても他人に責任転嫁しないことだ。
 だけれど田舎者はそんなことはできないよ。
 自分が自分が一番と思っているし、自分の貧相な経験が一番と思っているし、自分と自分の程度に似ている人間としか付き合えないし、自分がしたこと以外を想像することができないし、目先のことと自分に近い人間の真似をすればいいと思っているし、そうして何でも自分以外の責任にしようとする。そういうことが頭が悪いということなのだが、家畜根性であり奴隷根性であるということなのだが、そういう人間は、津波が来ても避難しなかったのだから、自業自得だよ。他人や世の中の責いにするのは卑怯だよ。

排出は快感

 たしかな固さのうんこが出るのは気持ちがいいことだ。
 このあいだの一時間おきに下痢がつづいたことを思えば。
 あのときはおしっこが出なかった。
 うんこが水だったから、おしっこをつくる水分がなかったのだろう。
 おしっこを出すのも気持ちいいものだ。
 水みたいな下痢でさえ、出すときは気持ちいい。
 体からなにかを出すのは気持ちいいのだろう。

ゲゲゲから将軍の息子の演技

 いつもの役者たちの下手な演技と、「ごう、ゆけ。Go!」などという馬鹿馬鹿しいセリフが嫌になって、一時期は観なかった大河ドラマをまた観るようになった。
 向井というゲゲゲで出ていた若い男役者の演技がいいからだ。

 俳優が上手だと思って観るドラマは久しぶりだ。演技が上手だと思わせること自体は下手なうちなのかもしれないが、他の役者が下手すぎるから、そういうふうに見えてしまうのだろう。
 とくにワガママさとヒネクレさとイジワルさが上手だ。そしてそれが救いのある演じかただから、また観たいと思うのだろう。
 顔つきも抜群の男前というほどでないところが好感を持つのかもしれない。もちろん頭もいいのだろう。
 だが彼の年をとったときの役ぶりが想像できない。
 でも何とかやっていくだろう。演技にはいろんな役があるのだから。
 今夜もまた観るつもりだ。

中越地方の機嫌よいおじさんたち

 ずっと村松の城跡公園に行ってみたくて、今日行った。地図でだいたいの場所は調べたのだが、近くまで行ったけれどそれらしいものがないから、同じところを行ったり来たりしてオートバイでぐるぐる回った。
 誰かに聞こうと思って人を探したが、どういうわけか歩いている人がいない。草取りをしているおじさんがいた。その人に聞いた。
「お城だったところに行きたいんです」
 おじさんはにこにこして教えてくれた。
 小川の向こうなのだった。お城の土台とはいえないくらいの小さく土を盛った丘みたいなのがあった。質素なお城だったのだろう。これでは大奥みたいな華やかなことはなかっただろうなと思った。
 さっきの道に戻ったら、おじさんはまだ草を取っていた。
「見てきました! ありがとうございました」と大声で言ったら、おじさんは手を上げて、さっきと同じニコニコの顔で見送ってくれた。

 それから加茂のはずれを通って、下田村のはずれを通って、栃尾に行った。栃尾の道の駅で、持ってきた弁当を食べた。
 食べ終わったら雨が降ってきた。今朝の天気予報は全国的に秋晴れになるでしょうと言っていたのに。
 建物の裏口にひさしがあったから、そこにバイクを移して、雨宿りした。
 裏口に、学校の給食に使うような人間が入れるくらいの大きな鍋が置いてあった。小雨になったらおじさんが出てきて、大鍋を洗いはじめた。食器洗剤を無駄にたくさん使ってスポンジでこすった。
 それを見ていたら、おじさんは、どこから来たのと聞いた。
「新潟市からです」
「明日来れば、これでうまい鍋が食べられたのに」
 明日ここで、イベントのようなことがあるのだろう。
「もうすぐ雨もやむよ。気をつけていきなさいよ」と私に言った。

 雨がやんだから、それから山古志の道を走った。
 初めて走ったが、細い道がかろうじて崖に引っかかっているような危ない道路で、高所恐怖症が出て頭がくらくらした。引き返したとしても同じ怖い道なのだから、我慢してゆっくり走った。
 車にひかれてペシャンコになった蛇が二匹いたから、あわててよけた。

 山道を下ったら小千谷に出た。畑のわきの道ばたに停めておしっこをした。
 向かいの家からおじさんと猫が出てきて、おじさんは小屋に入って、猫は道の真ん中で寝そべった。
 おじさんがクワを持って畑に来た。私のバイクのナンバーを見て、
「新潟市から来たかね」と笑いながら聞いてきた。
 山古志の細い道のことを話した。おじさんは話し好きらしく、中越地震の後で山古志にいくつも新しく橋がかかったことや、道が舗装になったことを話した。段段田んぼの写真を撮るといって大勢の人が来て、何十台も車が道に並んだことも言っていた。
 しばらく話を聞いて、エンジンも冷えただろうから、挨拶して出ようとした。猫はまだいるかなと道の方を振りかえったら、いなくなっていた。

オートバイで昔の道を走るおもしろさ

 この頃はバイクに乗るときは細い道を探して走っている。昔からある集落と集落をつなぐ道とか、山のふもとをなぞるようにとおっている道とかを。
 二十歳頃に大学の夏休みに十七号線を走りながら思っていたのは、この街道は江戸時代の旅商人とか旅芸人とかが歩いて通っていた道なのかな、あそこに見える大きな樹は、その時代からあそこに生えていたのかな、あの田んぼはその頃から毎年稲が植わっていて、この土地の人たちが丹精を込めてつくっていたのかな、とか走りながら思っていたのだ。それはツーリングで走るときはいつも思っていた。
 峠道を超えるときも、昔の人はこの山道をわらじで歩いていたのかな、とバイクでブーンと通り過ぎてしまうのを申し訳ないと思いながら走った。

 250ccに乗りはじめてからはスピードを出さないでも楽しいから、なおさら細い道をゆっくり走るようになった。
 北国街道みたいな歴史を感じる道もいいし、そうでなくても、大昔の集落から集落をつなぐ道や、小さい峠を超える一車線だけの細い山道を、30キロくらいの速度でゆったり走るのは気持ちいい。

 昔からの道ぞいには、その土地土地の神社や小さいお堂がある。そういう建物を見るのもおもしろい。道を歩いているその土地の人の顔つきの特徴を見るのもおもしろい。
 だから泊りがけで県外に遠くにツーリングに行きたいという気持ちがおきなくなった。

スマホは欲求不満の代償行為

 スマートフォンというものが流行っているが、それがどうしたと思う。
 あんなものを嬉しがって買っても、何に使うかというとテレビゲームの縮小版をするのがほとんどのくせに。あるいは中身のない下らないツイッターだのを吐き出すか、これまた中身のないフェイスブックだの、底の浅いブログだのを垂れ流すか、あるいは世間の中身のないブログやホームページを開いて流し読みするかだ。
 どれも暇つぶしに使っているだけなのだ。よっぽど暇なのだろう。やることがないのだろう。ものを考えないのだろう。自分自身でものを考えないから世間で流行っているらしいというものにすぐ飛びつくのだ。
 そしてそれは世界中のことなのだから、そもそも人間というのは家畜根性に染まっているのだろう。

 金が余っているからスマホを買ったのだと恥ずかしそうに言う人以外は信用できない。とくに何かというとすぐスマホを取り出していじり出すのは、あれは自慰行為の代わりをしているようで、見ている方が恥ずかしい。

雨の中のバイク乗る

 久しぶりに雨の中でオートバイに乗った。
 今朝の天気予報では夜になるまでは降らないということだったのに。だから村松の奥の渓谷に走りにいったのだ。
 ダムを見て、昼ころ帰るときにポツポツと降りはじめた。
 田上町で信号待ちでホームセンターの軒先を見つけたから、そこに走りこんでカッパを着た。そして持ってきたおにぎりを食べた。
 これも持ってきたコーヒーを飲みながら少しやすんで、でも空を見ても止まないようだから、走りだした。

 雨降りの中では50キロを出すのがやっとだ。タイヤを信用できないし、ブレーキも信用できないのだ。昔サンパチに乗っていたときに、路上の砂で滑って転んだことがあるし、サンパチのブレーキは雨が降るとてきめんにきかなくなったのだ。それから雨降りのときは、とたんに意気地がなくなる。

 遅く走っていると後ろの車に迷惑になるから、バックミラーに車が見えると端に寄って、先に行かせた。それをくり返した。
 それでも今日はどうしてか自動車の方も速度をおさえていた。それぞれの信号もタイミングよく赤になって、流れは遅かった。
 今日は土砂降りにならなくてよかった。土砂降りの中でバイクで走るのは、修行でしかないから。この歳でそういう修行は勘弁してもらいたいから。

バイク押しがけ

 昨日バイクに乗ろうとしてセルを押したら、エンジンがかからなかった。風邪をひいてずいぶん乗れなかったからバッテリーがあがりぎみだったのだ。
 こういうときは押しがけだと思って、クラッチを握ってギアペダルを二速にガチャッと押し上げる。でもなかなか二速に入らない。ギアがかみ合わない。バイクを前後にゆすりながら、クラッチを切ったりつないだりしながら、何度も足のつま先で押し上げて、やっと入る。
 キーをオンにして、ひとつ深呼吸してから、両手でハンドルを押して走りだした。
 全身に力をこめて思いきり走る。ニーハンは軽いなと思いながら十メートルも走るとちょうどいいスピードになったから、ジャンプしてシートに横座りしたと同時にクラッチを離した。
 ボロロロ……と音がしてエンジンが動いた手ごたえを感じた。すかさずまたクラッチを握ってアクセルを一瞬開ける。
 右手で前ブレーキをかけながらそのままシートから降りて、アクセルの開度を調節する。エンジンは止まらない。
 うまくかかったようだ。子供の頃に風呂の火を起こすときの、種火を大事にしながら太い木に火を燃え移らせるイメージで、アクセルを慎重に開けしめする。
 思いきりダッシュして走った自分の体をやすめようとして、サイドスタンドを出す。エンジンが止まった。どうして止まったのかわからない。
 仕方なくもう一度走った。
 エンジンはかかった。サイドスタンドを出したらまたエンジンが止まった。
 やっとわかった。ギアが入っているときにサイドスタンドを出すと、エンジンは止まるようになっているのだった。
 もう一度押しがけをして、今度はニュートラルにしてから、サイドスタンドを出した。
 エンジンはそのまま動きつづけた。
 一時間ほど近場を乗った。
 春に久しぶりに乗るときの予行練習になった。

煙草はやめたら余計に嫌いになる

 たばこ税を上げるという話だそうだが、すぐにでもいっぱい上げろ。
 一箱五千円でも一万円でもいいぞ。
 なぜなら私は吸っていないのだから。

 世の中から煙草はなくなってほしい。別に世の中の人間の健康のためではない。そんなことはどうでもいい。あの煙を吸うのが嫌なのだ。煙草をやめてから煙草の煙が死ぬほど嫌いになった。
 税金を取るためではなく、煙草の煙を減らしてほしいのだ。

笑顔の種類

 笑顔には種類がある。
 一つは、ニヤニヤする笑い顔、ニタニタする笑い顔がある。これは気持ちが悪い。
 もう一つは、にこにこしている笑い顔がある。こっちの顔を見れば爽やかで気持ちいい。

 新潟市民の大部分の笑い顔はニヤニヤとニタニタだ。リフォーム業者の顔も、ハウスクリーニング屋の顔も、ニタニタだ。何社にも無理難題みたいな見積りを出させる人間も、ニタニタ、ニヤニヤしている。
 こういう人間には近寄りたくない。何か人をだまそうとしているのだろう。何か魂胆があるのだろう。だからそういう顔つきになるのだろう。

 さわやかにニコニコしている人は、新潟市ではとても少ない。
 それでは自分の顔はどうかというと、ニコニコでもなく、ニヤニヤ、ニタニタでもない。なぜかまるで笑っていない。

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