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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

ブログ休み

 明日からブログを休む。
 新しいアイディアをひらめいたから、それに集中するために。
 来年になったらまた書く。
 それまでに、アイディアを少しでもかたちにしたい。
 ※
 十六日に追記
 朝目覚めると雪が降っていた。
 七センチは積もっている。
 今年の初雪だ。

今年さいごのバイク

 きのう久しぶりに雨が降らなかったからオートバイに乗った。一月ぶりぐらいだ。
 セルでエンジンがかからなかったから、また押しがけをした。気温が低いからチョークを引いて押した。

 体を暖めるために柔軟体操を念入りにしたが、バイクにも準備運動をさせるように、八の字をいつもの倍くらい回った。
 ほかにもスラロームや急制動やUターンをたっぷりやってから、道に出た。

 走っていると膝からももに冷たい風があたって、その寒さが体全体に上がってきて、もう走っていられなくなって、海沿いの道を二十分乗っただけで戻った。八の字走行をした時間を入れて、一時間ちょっと乗っただけだった。きのうの最高気温は七度だった。

 今年はもう乗らないだろうからバッテリーをはずそうかなと思ったが、冬でも二週間に一回はエンジンをかけるつもりだから、バッテリーは付けたままにする。
 むかし新発田でリッターバイクに乗っていたとき、ひと冬乗らずにいて、春になってさて乗ろうかとバイクを見たら、キャブからガソリンがもれていたことがあった。
 だから冬のあいだでも、何回かエンジンをかけたほうがいいと思うのだ。
 でも寒くて走ることはしないだろう。
 しかし走らないでエンジンだけかけてバイクを見ているのは退屈だろう。

新聞社は野球や政治でなく報道で勝負しろ

 ジャイアンツの親会社の人間たちが訴訟合戦をしているが、どっちも軽蔑する。
 とくに会長だか主筆だかという偉ぶっているジジイは、浅はかで、欲張りで、どうしようもない人間だ。
 だが、言っていることはスジミチがある。あのジジイは頭はいいらしい。
 だけど私はあの人間個人を嫌いだ。あのジジイは政治屋もどきの言いいぐさと行動で、人生は政治であると思っているふうな底の浅さが見える。偉いか偉くないか、人を使うか使われるか、主人になるか下僕になるか、そういうことが人生で大切なことだと思っているふうな浅はかさが見える。

 人生とはそういうものではない。人生とは、自分が生きるプロセスだ。
 人生とは、社会に迷惑をかけない範囲で、自分の一回かぎりの人生のプロセスをかみしめることだ。その自分の人生が、社会をちょっとでも楽しませることにつながれば、もうけものだということなのだ。そのもうけものがなくても、自分の人生を自分がかみしめて、考えて、かみしめて考えることで楽しめた、と思えれば、ああよかったなあということなのだ。いや、どんな苦しい人生でも、生まれてきただけでももうけものだった、ああよかったなあということなのだ(言っておくが、この思想はダガシのオリジナルだからな)。
 あのジジイは、それがわからないらしい。偉ぶって人の上に立つことが、人生の価値だと思っているらしい。

 もう一方の野球会社の社長だったほうは頭が悪いし、卑怯だ(卑怯な人間というものは、頭が悪いものだ)。
 言っていることはスジミチが通っていないし、甘えている。私はこいつも嫌いだ。
 球団が勝てなかった責任は自分にあるのに、その責任をはぐらかすために騒動を起こしているようだ。
 自分が責任を取って、潔く球団組織から辞めなければならないのに。

 私が裁判を裁くなら、スジミチどおりにジジイに勝たせるが、一億円を払えというのは高すぎるし、球団社長が一億円も持っているわけがないだろうから、金のやりとりは、球団社長の個人資産の三分の一程度を差し出させるぐらいにさせる。
 そして裏からまわってジジイを引退させる。
 そうして、あの新聞社をいい方向に持っていかせる。
 球団社長の方はビルの便所掃除でもさせる。私の下についたら、厳しいぞ。

マウスの買い替え

 光学式マウスが壊れたようだ。ときどきポインターが動かなくなる。そのときマウスをひっくり返してみると赤い光が出なくなっている。
 マウス用の台から数えきれないほど落っことしたからな。

 五百円で中古品を買ってきた。昔ながらのボール式だ。重くてゴロゴロした感触がなつかしい。接触がわるいのか、ポインターの動きがにぶい。
 それでも動かなくなることはないようだから、使えている。
 もう台から落とさないように、使わないときは畳の上におろしている。

言論の自由とスジミチを通す責任

 先回の冬季オリンピックのとき、キムヨナと真央を比べたことを書いたときは、ゆきずりの匿名ヒステリー女からの喧嘩コメントがあって疲れた。
 それなのにこの頃は私は天皇制に反対だとか天皇制をやめたいとかと書いているのに、批判コメントを吹っかけられない。まるっきりブログが見られてないわけでもなさそうなのに。
 日本人は、スジミチのわからない人間ばかりではないのだなと思った。

 身元を出しながらそういうことを書くのだから、本当は怖いのだ。年をとって、肉体的な喧嘩も弱くなっているだろうし。
 喧嘩では何人相手だろうと死んでも負けないと思ってきたが、もう、負けて死ぬかもしれない年恰好になっている。
 でも卑怯な生き方はしたくないと思っているから、書いている。
 日本には言論の自由があると信じて、そして卑怯なことはしないぞ書かないぞと、私はブログを書いているから。

世界の時代劇

 日本のテレビには時代劇があるが、外国にもあるだろうか。

 ヨーロッパは歴史があるから、いろいろなドラマが書けるだろう。でもヨーロッパの時代劇は世界に流通していないようだ。たんに日本に来ないだけだろうか。
 戦いが時代劇の大きな要素だが、あのヨーロッパの騎士のヨロイや槍は、日本の鎧以上に動きにくそうだ。戦いのシーンは、それほど迫力はないかもしれない。

 アメリカの時代劇は西部劇だろうか。「大草原の小さな家」もそうだろうか。

今年はまだぶり大根はうまくならない

 先月から何回かぶり大根をつくっているが、うまいと思わない。
 あぶらが乗っていないのだ。
 まだ寒くならないからだろうか。
 でもつくるたびに、少しずつ脂っけは増えているのはわかる。

 ためしに惣菜で売っているぶり大根を買って食べてみた。脂がのっているようだ。うまいのだ。
 それはもしかして、別の脂をたしてつくっているのかもしれない。それともぶりの種類が違うのだろうか。それともつくりかたが違うのだろうか。それとも私の味覚が変化しているのだろうか。

吉田知子ラブ

 吉田知子の本を読めるだけ全部読んだ。図書館においてなかった何冊かのエッセイと、ルポルタージュ小説だという『大興安嶺死の八〇〇キロ』は、それは読むのはあきらめた。
 ネットの古書通信販売で買えるらしいのだが、今は読まずに、縁があったら読もうと思う。これから先に吉田の本を読む楽しみを残しておこうと思うのだ。

 吉田知子のエッセイの一部分を書き写す。
 いつものように、太字にしたり、改行したり、ブログ用に一行あけにしたり、一部カッコでくくった文章を付け加えたりしたのは、私が勝手にやっている。

 ※

『ずぼら人間体験す』
 昭和四十八年七月一日第一刷 青春出版社発行

 女がオトコと認識するとき彼を愛している

 私は「女」の言葉でない言葉というものを、男にも納得できる形で男の世界へ持ち込み、そのうえで未知未開の、もうひとつの存在を切り開きたい、という殊勝なる大志をいだいている。
 私は犬についての話を書いたことがある。それは飼犬の話であって、立場上から見ると人=男、犬=女という図式が成立する。
 そこで他人が読めば、これは女の男に対する怨念を犬の姿を借りて諷したもの、ということになる。それはそれでいいのだが、私の気持ちとしては、犬=人間なのである。

 人間は受身のものだ、という考えがある。それは男でも例外ではない。男は女に比較すると能動的のように見えるが、大きく見れば、たかが知れている。
 生まれ、生活し、死ぬだけなのだから

 男がどんな大偉業をなしとげようと、勇敢な行為をしようと、女が感じる気持ちは同じだろう。それを尊敬といい、賛嘆といってもさしつかえないが、その底には「アア、オトコダナァ」と思う心がある。それは彼の価値を決して卑しめるものではない。
 オトコだと認識したとき、女は例外なく彼を愛しているものであるから。ただ、それが持続するかしないかということには個人差があるが。

 男の眼は、(自分以外の)人間を見ている。(自分が所属している)社会を見ている。そこでの評価を気にする。
 女は気にしない。
だから女の視野は狭く、大局的判断ができない、ということになる。これは見ている対象が違うからである。
 女は天を見ている。
 連綿たる生死の歴史を見ている。
 天皇制だろうと奴隷制だろうと何党だろうとさしつかえはない。
 歴史は勝手に流れる

 男は自分たちが歴史を作っていると考えているらしいが、それは錯覚である。たしかに研究によって歴史の流れはある程度予測ができるだろうが、それだけのことである。
 歴史は勝手に流れていくのである。見ているものが違えば判断も違ってくる。

 女から見ると男は視野が狭くて、たかが五十年か百年の歴史のことであくせくしている珍しい生きものに見える
。年中コップの中で騒ぎ、争い、興奮し、爆弾をつくり、戦争をし、戦争反対運動をおこす。
 それらに対し不動の眼を持っている女族がいなければ、かりに単性生殖の道が発見されたとしても、世界は今世紀のうちに破滅してしまうだろう。

 ああ、オンナギライのダガシでも、もう、吉田知子ラブになっているよ。

米の味覚は変わる

 このあいだスーパーで買った加茂産の米は袋にコシヒカリと書いてあったが、どうせ嘘だろうと思って食べてみたら、もっちりとして甘みがあって、これは本当のコシヒカリだなと思った。
 でも今まで十年も二十年も三十年も、本当のコシヒカリなど食べていなかったから、子供のころに食べていたコシヒカリの味は日常の味ではなくなっていて、それほどうまいとは思わなくなっている。
 私の味覚は、あっさりとした太平洋側の米の味に慣れてしまっていて、コシヒカリの味は、しつこく甘ったるい舌ざわりにかわっている。

 私のように普段コシヒカリを食べていない人間は、コシヒカリの味をうまいと思わないだろう。
 そしてそういう人がほとんどなのだ。
 もしかしてコシヒカリのブランドは、落ちてしまうかもしれない。

 TPPによって、アメリカの米の味が、日常の味、慣れた味、家庭の味になるのかもしれない。
 敗戦後に、アメリカに、日本の庶民にパンの味を広められたように。

今年は雪が少ないだろうという根拠なき予想

 もうタイヤ交換はしたが、今年はもっと遅くに換えるつもりだった。十二月の下旬くらいに。
 タイヤを換えて、そのタイヤがおかしくなっていて使えなかったら困るから、思っていた時期より早めに換えただけなのだ。

 そして今年は雪は少ないと思うのだ。二年間大雪だったから雪は少なくなると思うのだ。根拠もないのだが。

弁護士と公人の一人称

 橋下市長は自分のことを「僕」と言う。
 すこしだけ違和感はある。
 私も普段は僕を使う。なのに橋下が使うとヘンに聞こえるのだから俺もワガママだ。
 公人が一人称で「僕」を使うと、幼い頼りない感じがするのかもしれない。
 府知事になる前のタレントの時は、ぼくと言っていても普通に聞こえていた。

 弁護士が「僕」と言っていたら、これも違和感がある。
 人懐こい爺ちゃん先生だったら、僕という人も、品がいいような気がする。正直な感じがする。

 テレビを観ると、大阪の男は僕という一人称を使うのは多いようだ。
 橋下市長も、僕と言うのは普通のことなのだろう。

 弁護士の仕事のときも、法廷でも僕と言うのだろうか。
 裁判では、一人称は使うことがないのだろうか。
 弁護士の仕事では、スジミチが通っていれば、一人称など何でもよいのだろう。

鯖缶は季節商品

 好きで好きで一週間に二缶は食べる鯖の缶詰だが、鯖缶は美味しいものと不味いものとある。
 それは季節によって違うように思う。
 あぶらがのっているか、そうでないかが違うようだ。
 それがそうならば鯖がとれた時期で味の違いが出るのだろう。

 このあいだ買ってみた一つ98円の知らないメーカーのが思ったよりうまかった。
 ということは鯖の缶詰は値段やブランドの違いじゃなく、製造した季節で旨いまずいがあるのだと思った。

新発田でタイヤ交換で自分を洗濯

 今日タイヤを替えた。いつもの新発田市のタイヤリサイクルセンターに行って換えてもらった。
 なぜわざわざ新発田に行くかというと、その店の人は新潟市の人間と違って、接していて気持ちがいいのだ。
 ぶっきらぼうだけれど丁寧なしぐさで、もちろん仕事は速くて上手なのだ。

 半年に一回だけ会える人だけれど、会うたびに、その人の人間性のおかげで、自分の人間性も新しい発見をする。
 他者の新しいことを見るだけじゃないのだ。自己の新しい中身も見つけることができて、自分自身が新しくなる気がするのだ。自分が洗われるのだ。
 自分のゴミや汚れを落として、自分を新発見して、それが安い値段でできるのだから、そして短いドライブでできるのだから、ありがたいのだ。

橋下がやろうとしていることは地方分権ではない。

 橋下新大阪市長は地方分権を目指しているわけではない。
 地方行政の無駄をなくそうとしているだけだ。
 それを今の新潟県知事と新潟市長は、橋下市長にすり寄ったことを言っていて、醜い。
 橋下が持っている発想力も決断力も実行力も、そして自分を捨ててスジミチを通す倫理観もないくせに、橋下のおかげで地方分権が進むなどと言っているのが滑稽だし、頭と意地が悪すぎる。

 橋下という人は、腐った大阪を壊して、そうしてまた新しく創り上げたら、東京に行って総理大臣にならなければならない人間だ。
 総理大臣になって、今度は腐った日本を壊して、新しい日本を創らなければならない人間だ。
 そのときに、中央から橋下が独裁的にバッサバッサと変革していかなければならないのに、頭と意地が悪い田舎者どもが、地方分権だなどと小ざかしく抵抗していると、日本の変革ができなくて困るのだ。

 地方分権が悪いことだというのは、それぞれの市役所に行ってみろ。
 窓口から見える怠け者どもが大勢いて、怒鳴りつけたくなるぞ。
 中央の官僚どもも政治家どももずるくてダメな人間どもだが、田舎の小役人どもも、田舎の議員どもも、田舎の首長どもも、頭が悪くてずるくて、救いようがない。
 そういう田舎の怠け者の税金公金泥棒どもが、地方分権で今より権力を持ったらどうなるか、わかるじゃないか。

 ものごとが変わるのはへんぴなところからというのは、橋下のことをいうのだ。
 へんぴなところというのは、地理的なことだけをいうのではない。経済的にも、精神的にも、中央から離れているということだ。
 そして周辺から変わるということは、地方が変わるということではない。
 日本の中央が、日本全体が、周辺から現れた変人に見える今までいなかった人のおかげで、変わるということだ。

世代がかわったら天皇制をやめにしたい

 皇室に男が少ないから宮家を増やせと宮内庁が言っているらしいが、増やすな。
 これは泥棒根性の宮内庁の人間が、自分たちの特権を維持したい、拡大したいだけの話だ。

 私は天皇制は反対だから、天皇としてふさわしい人がいないなら、日本は天皇制はもうやめたい。
 私は今上天皇個人と美智子皇后個人を好きで尊敬しているから、今は天皇制があってもいいかなと思っているだけだ。

 今のところ他の皇室の人間の人間性は好きになれそうもないし、テレビで観るかぎりでは、そこらへんの凡人と同じだ。ということは尊敬もできないし好きになれないし、むしろ軽蔑してしまう。
 とくに皇太子の弟は、ダメそうな人間に見える。人間としての心底からの教養もなさそうだし、日本のために命を投げ出す覚悟があるとも思えない。ただ天皇制という仕組みに乗っかっているだけに見える。それは宮内庁の泥棒根性の人間どもと同じに見える。世の中の人々が、助け合うために、必死の思いで払っている税金で、のほほんと生活しているだけに見える。

 軽蔑してしまう人間が、自分が必死の思いで払っている税金で暮らしているのを見て、嬉しくはない。

 特権者は殺さなければならない。もちろん生物学的な命を取れというわけではない。特権をなくせということだ。既得権益をなくせということだ。
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