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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

コンビニが増えている

 新潟市の中央区の中心部で、またコンビニが増えつつある。
 三、四年前はコンビニが次々とつぶれていたのに、そのつぶれた店からすぐ近くの場所に、新しい店ができている。

 私の住んでいる町内でも、二年前に一店、一年前に一店、今年また一店と、歩いて二分以内に三店ができた。
 新しい店は駐車場が広いのが多い。だがいつも、広い駐車場にお客の車は少ない。

 住民の数は増えていないのに、今、コンビニだけが増えている。
 たぶんまた二、三年後に、ぐっと数を減らすのだろう。

領収証は小さいほうがいい

 商売上の経理ではノートに領収証を貼って保管しておくのだが、もらう領収書は大きすぎて(ときどきノート一ページくらいの大きさのもある)、貼るにものりが余計にいるし、貼る場所もとるし、不経済で、無駄なのである。スーパーやコンビニのレシートぐらいが、ちょうどいいのである。でもそういうレシートは日付の文字が小さすぎてわかりにくいから、そこだけ大きく印字してほしい。

 世の中で使われている領収証というのは、お札の一回り小さい大きさだ。どうしてその大きさになったのだろうと思うのだが、昔のお札の大きさに合わせたのではないか。
 昔のお札の大きさは知らないけれど、日本国に力もお金もない時代だから、日本のお札は、今のお札より小さい、今の領収証ぐらいの大きさだったのだと思う。

 会社に勤めていたときに上司から、「領収書というのは現金と同じ価値があると思え」と教えられた。
 だから昔は、領収証もお札と同じ大きさで作って、やり取りしたのじゃないかと思うのだ。
(ググッてみたら領収証は小切手の大きさに合わせているものが多いらしい。ならばなぜ、領収証は小切手の大きさになったのだろう。そして、どうして小切手はあの大きさなんだろう。やっぱり小切手もお札の大きさに合わせたのじゃないだろうか?)

 でも領収証というのは中身が確実にわかればいいのだから、日付と、金額と、宛名と、発行した者の名前と、何のための金銭のやり取りかということが、はっきりわかれば、小さいほうが整理して保管するにはよいのである。
 ただ、業者から個人のお客さんに渡す領収書は、小さすぎるとありがたみがなくなるような気もするから、私がお客さんに出す領収書は今ぐらいの大きさがいいと思ってしまう。

今年の冬至の気持ちは躁に

 毎年冬至の日に書くのだが、今年2012年は今日21日が冬至だそうだ。どうしてかいつもの年より三、四日早いと思う。
 太陽が出て沈む時刻を教えるサイトで調べたら、今日の陽が出る時刻は6:56で、陽が沈むのが16:28なのだそうだ。それが明日から陽がある時間が増えていく。それがどうしたということなのだが。

 この六、七年太陽が出ている時間が短いと鬱になるのだが、今年はそれほどならなかった気がする。理由は知らない。五十になったからかもしれない。偶然かもしれない。これから鬱になるのかもしれない。

 冬至はうれしい気持ちになるから、明日からは躁になるのかもしれない。とくに今年はそうかもしれない。たまにそうなってほしい。

2012日本維新の会の選挙結果と、これからとるべき戦略

 おれがおとといの総選挙日前日15日に書いた日本維新の会の当選者は49人くらいになるだろうというのは、実際は54人だった。当選した候補者の小選挙区と比例での内訳は、小選挙区14人、そのうち大阪府内で12人、比例で40人だった。

 おれの予想の内訳は、小選挙区で、大阪府で10人、大阪府以外の近畿地方で10人、首都圏で7人、他の県で7人の、全国の小選挙区で34人。比例で15人。合わせて49人だと思った。
 実際当選した小選挙区は、大阪府で12人、他近畿西日本で2人だけで、東日本で小選挙区で勝てた人間はいなかった。地域政党を脱しきれなかった。
 だが比例区180人のうちで40人も受かったということは、日本人が選ぶ政党や政治家の選択肢の上位に入ったということだろう。

 おれは維新の会には比例でも投票しないだろうと公示日の12月4日に書いたが、結局比例で、日本維新の会に入れた。
 おれの区域である北陸信越の、日本維新の会比例一位の中田とかいう候補者は、怠け者でずるがしこいだけで頭が悪いくせに偉そうにしているから嫌いなのだが、仕方がない、そいつのためじゃなく、橋下を頭が悪いと何度も書いたから、橋下へのおわびの気持と期待の気持ちをこめて、維新と書いた。

 これから維新の会がとるべき選挙戦略は、比例ではランチェスターの強者の戦略で行け。具体的には、広域戦・遠隔戦・確率戦・空中戦としてインターネットを縦横無尽に使え。物量作戦をするために、受かった議員もこれから出ようとする人間も、ブログやSNSやホームページやで大量にネットで顔を出して意見を書け。

 逆に小選挙区では弱者の戦略で行け。だからもっともっと自民党の政策と差別化してアピールしろ。これから維新の会から立候補しようとする人間は、定期的に決めた場所で辻立ちをしろ。おれがブログを始めたときに決めたのは、誰も読んでいないと思っても、絶対に毎日書き続けるということだった。だから誰も聞いていなくても、決めた日には辻立ちをしろ。それが後後きいてくるから。だけど毎日ただ喋っていればいいわけではないぞ。喋る中身にも気を遣えよ。気を抜いた無駄などうでもいいことは一言たりとも言うなよ。
 そうやりながら、チラシをポスティングしたり、挨拶したり、落ちているゴミを拾ったり、他人に親切にしたりして、地域の人たちの心に喰い込め。その合間にいろんな勉強を続けろ。詩も哲学も経済もだ。その行動を、毎日毎日眠っている以外は一瞬たりとも気を抜かないでやり続けろ。お天道様が見ていてくれると思えば、やれるから。

 そして、自分が嘘を言ったらその場で死ぬと思え。卑怯なことをしたら家族も即死すると思え。そうすれば先鋭的なことを言っていても、嘘を言わなければ、卑怯なことをしなければ、正々堂々とほがらかに生きられるから。そうやって誠実に正直に生きていれば、心ある人ならば聞く耳を持ってくれるから。

 クズな奴ら(この場合は既得権益をむさぼっている奴ら)には嫌われてもいい、いやむしろクズどもと喧嘩して、クズどもから嫌われることが大事なことであって、価値あることであって、心ある人だけに気に入られればいいと思うことが、差別化ということだ。おれはそうやって生きているぞ。世の中の人間全員に好かれようと思うな。それはもともとできないことなのだから。
 心ある人は、その仲間の人も心ある人だから、心ある人に宣伝してもらって、良いサイクルで自分の志がサイクルで回っていくのだよ。
 そうやって地道に活動していけば、小選挙区でも受かるぞ。頑張れ!

2012の総選挙前の維新の予想数字

 評論家やコンサルタントという馬鹿で卑怯な人間は、ものごとが終わってから、終わったことを、ああだこうだともっともらしく理屈をつけて喋る。
 そういう馬鹿どもとの違いをしめすために、このあいだの十二月四日の公示日に書いたみたいに、おれはものごとの結果が出る前に、結果の予想を書く。

 おれは日本維新の会は今年2012年の夏までは200議席は取ると思っていた。
 内訳は、300区の小選挙区のうち、それぞれの県の一区を中心に都市部で勝って、近畿で50議席、首都圏で50議席、地方のそれぞれの県で50議席、それで150議席。
 180人が受かる比例代表で、50議席。
 合わせて200人は、維新の会の人間が議員になると思った。勢いに乗ればもっと取って、らくらくと第一党になると思っていた。

 だけれど夏以降の、政策のぶれぶれのていたらくと、解散前の戦略間違いで、戦える体制ではなくなった。選挙期間中の立候補者や応援者の馬鹿な演説でも、世の中の共感を得ることはなくなった。

 維新の会が明日の夜に受かっている人数は、大阪府の19の小選挙区のうちで10人、他の近畿で10人、関東地区で7人、他の各県で7人、そのぐらいだろう。
 ということは小選挙区で34人。比例代表で15人。全部で49人が受かるかどうかぐらいだろう。

 逆に今回は泥棒根性の自民党が大勢をしめるようだ。おれは自民党の政策を一つ一つ完全に論破できる。他の政党の政治家どもの言っていることも論破できる。それなのにまた泥棒どもが生意気に日本のことを決めるとは。
 でもそれは日本国民が泥棒根性であり、怠け者であるからこうなるのだろう。正義感とか、すじみちとか、先の先の時代のことを考えるとかは、日本では、あきらめるしかないのだろう。

 ああ、橋下は頭が悪かった。がっかりしている。
 しかし、頭の悪い人間が集まっただけの日本維新の会が、200議席を取るなどと思っていたおれこそが頭が悪いのだろう。
 だから明日の開票後の維新の会の数字がどうなっているか、今日書いたこととどのくらい違っているか、たしかめて、自分の馬鹿さ加減を自分で確かめながら、自分で自分をたのしむ。

 ※

 12月16日の選挙結果が出てから追記。
 実際に日本維新の会の候補者が当選したのは、小選挙区では14人。内訳は、大阪府で12人、他近畿西日本で2人だけで、東日本で小選挙区で勝てた人間はいなかった。
 比例では40人が当選した。
 合計54人が、日本維新の会として国会議員になった。

塩こうじと鮭

 今まで生鮭を買ってきても、どうやって味付けして食べればうまいのかわからなかった。
 醤油じゃ醤油の味だけで単調だし、塩をふっただけの味はそれはそれでうまいのだけれど、その場限りみたいな味だし、シチューに入れたら生臭くてまずいし、この時期は安くてうまそうなのになかなか手が出なかったのである。

 さいきん世間の動きに遅まきながら乗り、塩こうじというものを使いはじめている。
 まず、野菜の漬物で使ってみた。白菜を切って漬け込んだり、にんじんを薄く切って漬けたり、玉ねぎを細く切って漬けた。塩ょっぱすぎないでほのかに甘くなって、パクパク食べられた。
 肉はどうだろうかと鶏肉につけて焼いてみたら、そこそこうまかった。豚肉にもつけて焼いてみた。味がまろやかになったように感じてうまかった。どうしてか牛肉には塩こうじは合わないと思って試していない。

 魚はどうだろうかと、塩鮭につけて焼いてみたら、塩味が強くなりすぎて、甘みは感じられなくなって、よくなかった。
 それなら味が付いていない生の鮭ならいいかもしれないと、冬のはじめの今の時期にスーパーで安く売っている、時期物の、生鮭に試したみたのだ。

 まず包丁で生鮭の切り身のうろこを取る。それから一切れにティースプーン一杯の分量の塩こうじをなすりつけて、そのままスーパーで売っていたパックに戻し、元からかぶさっていたラップをそのままかぶせて、冷蔵庫に入れる。
 塩こうじをつける前にうろこを取るのは、こうじをつけてからうろこを取ると、せっかくつけた塩こうじがはがれてしまうし、こうじで身がやわらかくなっていて、うろこをこそげ取るときに身がくずれてしまうだろうから、塩こうじをまぶす前にうろこを取ったのである。
 この時期なら冷蔵庫に入れなくてもいいだろうし、二日か三日おいてもいいかもしれない。

 冷蔵庫で一日置いておいたのを取り出しておいて、常温でしばらく置いておく。
 それを油を引いたフライパンで弱火でゆっくり焼いた。片面三分ぐらいずつ焼くと、皮めにも肉のほうにも、うまそうな焦げの焼きめがつく。
 それを日本酒を飲みながら食べた。その味は、しょっぱくなく、噛んでいると、口の中で鮭の肉の奥からほのかな甘さが立ちあらわれてきて、ああ秋だなあ、という感慨を味わえるのである。
 白菜の塩こうじ漬けをそえると、日本酒の味もひきたつ。
 三五八漬けもうまいのだが、流行っているらしい塩こうじを使ってみたら、これもうまかったのだった。

新潟日報の見出しの下手さ

 私はテレビは見ないから、インターネットのニュース配信を見るようになっている。ヤフーのを一番見る。でも新潟県内のニュースは新潟日報のニュースサイトを見る。
 それが新潟日報のニュースの見出しが、まずい。記事の中身がわかりにくい見出しなのだ。
 たぶんそれは、昔のテレビ朝日の、ニュースステーションという夜のニュース番組の、久米宏の喋り方を真似しているのだろう。それが格好いいと浅はかに思っているのだろう。田舎者根性だ。

 久米宏の次のニュースを紹介するときの、あえて中身を知らせない、もったいぶった言い方は、それまでなかったから珍しくておもしろかっただけだ。
 そしてテレビというものは、観る側がチャンネルを変えるというアクションをしなければ、ぼーっとしていても、そのまま番組が進行するのだから、次のコーナーの紹介があいまいでも、そのまま観つづけさせられるのだ。
 だから、送り手がもったいぶった、わかりづらい言い方をしても、観る側はチャンネルを変えなければ、そのまま自動的に観つづけてしまうことができた。情報の受け手が手を動かさなくても、画面の中身が次々と変わり、いろんなものごとを見ることができたのだ。

 だけどネットは、ヤフーや新潟日報のホームページは、見ている側が自分で何を読むかを決めて、能動的にクリックしなければ、次の段階に進めない。情報の受け手側がアクションしなければ、知りたい内容を得られないのだ。
 ということは、次の段階の中身の紹介があいまいだったら、何を選んでクリックしていいのかわからない。
 ふだんネットにあるニュースなんかは、生きるか死ぬかほどの問題ではないのだから、エンターテイメントぐらいのものでしかないのだから、読むニュースを選ぶ時間がもったいない。いろいろやることがあるのだ。私たちはヒマではないのだから。
 ということは、クリックするのに無駄に時間をかけさせられると腹が立つのだ。だから新潟日報のホームページを見ると、こいつらは頭が悪くて自分勝手で田舎者だと腹が立つのだ。

 私は新聞を取っていないし、新潟日報社に売り上げを上げさせているわけではないし、だから新潟日報社の利益に貢献しているわけではないから、文句を言える立場ではないかもしれないが、新潟日報は、今までも今もいろんな場面で新潟県の公共の立場をとって、それを利用して利益を上げてきたことも沢山ある。だからおおやけに利益還元をする義務が少しはある。だから私もちょっとは新潟日報に文句を言うことができるのじゃないかと思って、これを書いている。

 それから最近新潟日報はサイトをリニューアルしたが、横幅が広がって横にスクロールしなければならないから見ずらくなった。そして重くなった。
 幅が広がるのは我慢できるが、重くなったのは困る。どうせ中身の内容は前と同じなのだから、無駄に大きな画像とか意味のないリンクとかが増えたのだろう。これも頭が悪い証拠だ。
 軽く開けるホームページにして、分かりやすく見ることができるニュースサイトにしてほしい。それが回りまわって、紙の新聞の売り上げや会社の利益に貢献できることになるぞ。

purpleという、しそジュース

 しそのジュースというのを知り合いからもらって、その液体の色がジュースにしては赤くて毒毒しかったから、何ヶ月か放っておいて飲まなかったのだが、ふと気まぐれで焼酎に混ぜて飲んでみた。
 それがレモン水よりも梅干しよりも、おいしく飲めた。酸っぱさの味が、レモンや梅より複雑な味わいなのだ。これはいいと思った。でもビタミンが沢山あるかどうかはわからないし、しそ味ばっかりで酒を飲むのは単調になるから、しそジュース割りは2杯だけにして、3杯めは健康のためにもレモン水割りで飲むようにしている。

 その500mlのビンのラベルには、purpleと印刷されている。製造元は、新潟市の今代司酒造と書いてあった。
 どこで買えるのかネットで調べたら、そこらへんの小売店で売っているようには書いてない。スーパーのジュースコーナーや酒コーナーでも見たことはない。製造元の酒蔵のホームページでは、purpleの通販のページはあるが、今代司酒造の酒蔵で売っているとも書いてない。ということは近くに住んでいても配送料を払って通販で買わなければならないのだろうか。

 酒蔵に電話してみた。
「ピープルという、しそのジュースは、そちらに行って売ってもらえるのでしょうか」
「当たり前でしょう?」と、なぜそんなわかりきったことを聞くんだよ、というふうに老年の男が答えた。
 そんなふうにユーザー心理を想像しようとしない自分勝手な頭の悪い人間は、そこの社長かなと思った。だけど直販をしているのかどうかがわからないから電話したのだということは言わなかった。もう喋りたくなくなっていた。そしてそういうトップがいる組織に金を出すのは嫌だなと思った。その尊大な物言いに腹が立ったから買いたくなくなっていた。そういえば男は、「ピープルではないんですよ。パープルというんですけどね」と言っていた。
 何日か放っておいたのだけれど、腹が立ったのがおさまったのか、やっぱり買おうと思って、酒蔵に買いに行った。

 酒蔵の入り口に入ると、そこから見える事務所に四、五人の男の従業員たちが机に座ってパソコンを眺めていた。入り口からのびる広い廊下では、若い女が一人で何かの荷物を台車で運んでいた。女は新潟市の女によく見る和風の新潟美人という顔だった。
 パープルというしそジュースを買いたいと言うと、女はこれまた新潟市の女によくいる、いや新潟市民ぜんたいによくいる尊大な物言いで、靴箱にある履物に履き替えてから、奥に来てくださいと言った。おれは棚にある汚い茶色のゴムサンダルを見て一瞬躊躇してから、その不潔そうなサンダルをつまむように持って、足を乗せる面にふっと強く息を吹いてから、履き替えて、あわてて女のあとを着いていった。
 廊下の突き当たりにある入り口をくぐると、昔ながらの酒蔵だというのを思わせる広間にでた。すぐ目の前に軽自動車のワンボックスくらいある大きさの木製の酒のタンクがあって、なぜか後ずさりした。でもすぐにこの酒樽は飾り物だとわかったが、客を驚かすにはおもしろい効果だと思った。
 二本買って1300円払った。ビンを入れるために、何か袋をくださいと言ったら、不釣合いな高そうな紙袋を出したから、もったいないから要らないといって、両手に一本ずつ持って酒蔵の玄関を出た。

 いま、purpleで割った焼酎を飲んでいるが、うまい。能力が低いくせに尊大ぶる人間が多い新潟市民が作ったにしては、うまい飲み物だ。だからこれからはこのしそジュースは、ずっと飲み続けることになるだろう。夏の暑いときには、水で割って水分補給としてのジュースとして飲むだろう。
 そういえば今日12月9日日曜日に、新潟市で初雪が降った。十センチは積もった。この間の秋まで暑くてしょうがなかったのに。この三、四年は、季節のメリハリがきつすぎる。

維新の会とランチェスター

 維新の会は、もうだめだろう。橋下徹という人は頭のいい人だと思っていたが違ったようだ。
 今年2012年の夏ごろからの維新の会のやり方は、ランチェスターで考えたら、すべて失敗することをやっている。
 逆に小沢一郎という人間は、ランチェスター的には優秀だった。それだけは大したものだ。だから2009年の民主党の政権交代ができたのだ。

 ランチェスター弱者の戦略の一番の大事なことは、差別化だ。維新の会も、この春ごろまではよかったのだ。相続税100パーセントというのは、今まで誰も大っぴらに言わなかったことだし、死ぬときはキレイさっぱりとした清清しい気持ちで死にたいおれも、だから共感した。そういう政策を出すのだから他のことでも期待していたのだ(零細な生業や零細な農家などは、そのままの形で子供が継げるような法律を作っておけばいいだけのことだ)。

 差別化戦略。
 今の維新の会は、政党の武器であり商品でもある政策と立候補者が、既存政党と差別化できなくなっている。自民党や民主党にいた胡散臭い人間を引き入れたし、今日公示の候補者たちを見ても、既存の党で落選した人間をかき集めるようにして維新の会から出している。
 今までの腐った政治と関係ない、しがらみのない、まったく新しい人を立候補させると思っていたのに。それこそが差別化なのに。

 局地戦に持ち込む。
 すべての県の一区から立候補者を出すといっていたことにも期待していたのだが、新潟市がある一区からは維新の会の候補者は出ない。このことでも差別化できていない。
 もともとの自民党や最近の民主党は農村部に地盤を持っているし、群部の選挙に強い。それとは逆の維新の会は、反対に都市部から攻めるべきなのに。日本中の一区を局地戦として定め、そこにフレッシュな人材という商品を投入して、死に物狂いで一点集中して戦うべきなのに。それなのに新潟市からは立候補者を出さなかった。がっかりした。票を入れたい人間がいない。

 陽動作戦。
 維新の会はゲリラ的に戦うというやり方もしていない。たち上がれ日本とか太陽の党とかいう政党とくっつくというのも、見えていたことだから予定調和でサプライズがなかった。
 この半年で維新の会のやっていることは、たぶんこうするだろうなという安易で無難な範囲に納まっていた。誰もが予測できることしかしていないから、頭が良く思えない。だから尊敬できない。だからものを頼みたくならない。ということは投票したいと思わない。

 接近戦。
 敵やターゲットに近づいて戦うこともしていない。おれの近くで維新の会に関係するものごとを見たことも聞いたこともない。その体臭を嗅いでいないし、うめき声を聞いてもいない。手で触ってもいない。味わいも感じない。
 おれはテレビを見なくなっているから、ただインターネットの中で話題になっていたことにバーチャルで接していただけだ。維新の会の立候補者に、尊敬できる人間として接触したという実感がない。これでは何かをたくしたいと思えない。

 一点集中攻撃。
 おれが維新の会に一番たくしたいことは、税金や公金で飯を喰っている奴らをやっつけてほしいことだ。そういう奴らを極限まで減らしてほしいことだ。
 なぜなら税金や公金で飯を喰うことは安易で、一度なってしまえば簡単に続けられるからだ。それに税金と公金というものは、社会の人たちが皆が助け合うために出し合っているお金だから、一部の人間が分捕ってはいけないし、節約しながら使うべきお金なのだから。
 そしてそういう泥棒根性の人間たちが公的な場所から淘汰されて、機会均等のある正々堂々とした正義感のある社会にしたいのだ。
 今までの橋下の行動を見ていると、おれの考えに近いものを持っていると思っていた。でもそれも、この半年は橋下の態度は、うやむやになっている。やる気が感じられない。
 それどころか、原発をやめることや、相続税100のことや、政策のいろいろな今まで言っていたことがぶれている。ランチェスターの一点突破攻撃がなくなっている。だから突破する力がなくなっている。

 一騎討ちで戦う。
 それぞれの県の一区で、小選挙区の一騎討ちの戦いに持ち込んで勝利し、他の都市部の小選挙区でも勝って、その勢いを比例区におよぼして、一気に勝ちに持ち込むことが維新の会のやるべきことだった。でも、武器と商品が差別化されていないのだから、小選挙区でも勝てないだろうし、広い範囲で戦う団体戦の比例区でも勝てないだろう。

 橋下徹という人は、ランチェスターのことなんか知らなくても、それまでの生い立ちで本能的にランチェスターのやり方を実行して生きてきた人だと思っていた。だけど違うようだ。おれの眼鏡違いだったようだ。頭の悪い人間のようだ。おれは頭の悪い人間が嫌いだから、今の橋下も嫌いになっている。だから比例区でも維新の会には投票しないだろう。

 だが維新の会は、橋下がすべての戦い方を考えているわけではないだろう。橋下の後ろに戦略を練っている人間がいるのだろう。橋下の後ろに隠れて戦略を作っている人間も頭が悪いのだろう。頭が悪いから、自分は強者だと勘違いしているのだろう。だから戦略を間違っているのだろう。
 でも維新の会は、橋下が組織の先頭に出てきて、そして橋下の弁舌の巧みさで売ってきた集まりだ(本当は橋下の弁が立つというのは、大衆的にわかりやすいだけのレベルでしかないが)。
 だから維新の会というのは、橋下徹の人間としての色が濃く反映されているだろう。それは実態としてもそうだろうし、まわりがそう見るのも仕方のないことだろう。

 橋下よ、今からでも遅くない。選挙期間中でもいいから、たち上がれ日本という集まりや、遊び半分で立候補したような人間や、既存の政治家どもの、既得権益者の、税金公金泥棒たちと、別れてくれ。
 そうして、社会に役立ったという、それは、ものごとの成果を出したという、そういう、成果を出した人間だけが良い目を見られるという、公正な社会を作ってくれ。そうすればおれも応援する。
 いちおう補足しておくが、「ものごとの成果を出した人間だけが良い目を見られる」ということは、成果を出そうとして行動したが出せなかった人間を切り捨てるということではない。再チャレンジができる社会であるべきだ。
 だが、成果を出そうともしない努力しようともしない人間や、仕事をしているふりをしている奴らや、嘘をついて卑怯に立ち回る者どもは、生きることを淘汰されるべきだろう。おれはそういう奴らには優しくはないから。だからおれみたいな人間は政治家になってはいけない人間だとわかっている。

政治批判でいい気持ちになるのは古今東西

 江戸時代からそれより昔の庶民たちは、自分の時代のまつりごとを批評していたのだろうか。
 その時代の人々は、選挙という制度がないのだから自分の意思を政治に反映できない。それに、まつりごとの批判などをしたら、為政者はただではおかなかっただろう。武力がものをいっていた時代なのだから、批判者を探し出して命を奪っただろう。
 だから庶民は、何を言っても無駄なことだと思っていただろう。お上の言うことには逆らわず、それどころか社会のまつりごとには無関心になって、自分と自分に近いまわりのことだけに意識がいっていただろう。
 私は長い間そう思っていた。

 でもこのごろは、そうでもないのかなと思うようになっている。
 古今東西、人間のほとんどは浅はかだ。
 だから誰でも自分のことは棚に上げて、自分以外の人間をくさす。それで日々のうさをはらす。自分より力がある存在を自分勝手に批評すれば、復讐したみたいにいい気持ちになる。批評や評論の真似事をすると、他人から頭がよいと思われるだろうと、酔っぱらったみたいに心地よくなる。
 頭の悪い浅はかな人間たちが集まってそういう話をすれば、その中で頭の悪い方の人間は、自分より少しだけ頭の悪くない方を頭がいいと思うだろう。
 そのあと頭の悪い方は自分よりもっと頭の悪い人間を探して、もっと浅はかな政治の評論の真似事を語るだろう。それがくりかえされるだろう。
 だから民主主義でなかった時代も、庶民はそのときのまつりごとをいい気持ちになりながら批判していただろう。それは今の時代と同じだったのだろう。
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