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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

女アイドルの坊主頭

 AKB48の峯岸みなみが坊主刈りにしたのをネットで知って、YouTubeでそれを見た。AKBは恋愛禁止なのに彼氏のマンションに泊まったからだという。それはどうでもいいし、むしろ自然なことだ。女は本当は男より性欲が強いのだ。命を産む性なのだから。

 AKBのことは好きになれないから今までブログに書かなかった。性的なことで売っていて、性を売り物にするのはラクで安易だから。
 AKBというのはあれは今の時代の、今の若い男たち向けのストリップ劇場で、AKBのメンバーたちはその舞台に上がるストリップ嬢なのだ。そう思えば自然なことだ。

 その中で唯一、峯岸みなみは好きな顔なのだ。ちなみに卓球の福原愛も好きな顔だ。私は目が大きくて丸くて丸顔が好きなのだ。体つきがむっちりしているのもいい。
 性格はもちろん知らない。知らない女だから、モニター画面で見るだけの女だ。

 しかし峯岸みなみのYouTubeを見ていたら、不覚にも涙が出た。人間の本気を感じたのだ。AKBを好きでもないむしろ嫌いな私が、許すも何もないのだが、峯岸みなみが頭を坊主にして、泣いて謝っているのを見て、いいよいいよと、思わず涙が出た。
 私に涙を流させるのは、これは峯岸みなみの私小説だ。それに感動したのだろう。

 その後正気に戻って、AKBはメンバーの女タレントを坊主刈りにするような、いろいろな売り方をしているのは、頭を働かせて頑張っているなと思った。私小説はもちろんフィクションだから。
 峯岸みなみの坊主頭は可愛らしくて、そしてセクシーだった。福原愛の坊主刈りも見てみたい。そういう私は変態でラクで安易を求める人間なのだろう。

安岡章太郎が死んだ

 安岡章太郎が、この一月二十六日の真夜中に死んだ。
 さっきそれを知ったとき、僕はちょうど、安岡のデビュー作の『ガラスの靴』の文庫本を読んでいたのだ。
 その中の『宿題』という小説が、読んでいて身につまされて、だからなのか気持ち悪くて、何度も読むのを中断して、気分転換にネットを見て、「安岡章太郎 宿題」というキーワードで検索してみた。
 そうしたら出てきたサイトで、死んだと知った。
 そのあとラジオのニュースでも言っていた。
 九十二歳だったそうだ。自宅で亡くなったというのが不思議だった。

 ああ、僕が勝手に思っている安岡章太郎という僕の先生が死んだ。
 だから、僕は新しくなれると、勝手に思っている。
 安岡章太郎、ありがとう。

議論に勝つことで幸せにはならないが

 おれは議論では日本中の誰にも絶対に負けない自信がある。口喧嘩でも負けない。その秘訣は、正直さを貫き通すことと、オリジナルさを貫き通すことだ。
 知らないことは知らないと言い、もし間違えたら間違えましたすみませんと謝り、事実を明らかにする。
 嘘は言わない、卑怯なことはしない。
 事実と非事実を明確に別けて、相手に分かる言葉で、でも自分の言葉で、ものごとを客観的に伝える。
 自分だけが不正に益を得ようとしない。益を得るときには適正な対価を払う。
 もし相手に損害を与えたら、その分を弁償する。もし弁償できないときは、人生をかけて謝りつづける。
 こうすれば議論は負けない。簡単なことだ。もちろん政治家や官僚にも負けない。あらゆることで論破できる。

 だけど政治家の仕事は議論に勝つことではない。世の中の人々が、自分はまあまあ幸せだと思えるようにすることが政治家のやるべきことだ。
 だから政治家は、おれに議論で論破されてもいいのだ。世の中の人々がまあまあ満足できる世の中にすることができれば。

 しかし世の中の人々の、全部の人がまあまあ幸せだと思えるようにすることはできない。ものごとには百パーセントはないし、百パーセントの人間が満足する世の中になることはできない。なぜなら人間はそれぞれ価値観が違うのだから。

 今の民主主義の世の中では、選挙で勝てばその政治家のやり方が通る。
 そのためには、世の中の過半数の人間をまあまあ満足させて支持されればいい。いや選挙に行き投票する人間の中で、その中で一番の得票率を得れば勝てる。それは今なら、全有権者の三割も得票率を取れば当選するだろう。二割でいいかもしれない。
 ということは、必ず自分に投票してくれる三割ぐらいの人間が、満足できる世の中になるようなやり方をすれば、選挙に勝つ。だから、そのやり方をすることになる。

 税金で飯を喰っている政治家は、自分を幸せにするために、自分と同じ種類の人間の、公務員をはじめとした税金と公金で飯を喰っている人間が一番幸せになる仕組みを作りたがる。
 その仕組みというのは、無から有を生み出すことじゃなくて、自分で何かの価値を造り出して、お互い納得して契約をして、自分が無から造り出した価値と適正な対価を交換するという真っ当な仕事じゃなくて、税金公金という名前をつけて他人の持っているものを奪って自分のふところに入れるという、一番ラクなやり方だ。
 政治家どもと官僚どもは頭が悪くてずるいから、それをする。頭を使わないラクな方法だから、それをしかできない。
 払わないと牢屋に入れるぞと脅しながら、警察というこれまた税金で飯を喰っている人間を使って、武力や暴力を背景にして、強制的に金を取り上げるのだからラクなものだ。そうして取り上げた金で、自分たちはまたさらにラクをする。
 そしてこのやり方をするのは、古今東西権力者といわれる人間がそういうやり方をする。

 だから民主主義の国の権力者は、税金と公金で飯を喰っている、ラクを目指している人種を、全人口のだいたい四割から五割くらいにしておけば、その人間たちが選挙に行ってくれて、自分に投票してくれて、自分たちだけが幸せになる世の中の仕組みを作って続けて、それでもって税金公金で飯を喰っている側の人間は万歳だ。
 その人種には銀行も大企業もマスコミも入る。銀行や大企業は、民間といえども大量の税金公金が投入されているし、そういう人種が得になるような法律で守られているから。税金と公金を売り上げにしている中小企業もそうだ。
 だがそれで万歳万歳している奴らは、のうのうと生きるのをやめてほしいが。

 議論で勝つことが政治家の役割ではないのと同じで、人間は議論に勝っても幸せになれるわけではない。だから、おれは議論には勝つけれど、それで幸せになれるわけではない。それもわかっている。
 だけどおれは本当は、議論に勝つとか議論に負けないとはいったいどういうことなのか、何に勝って何に負けるのか、勝ったとしたらそれは何になるのか、負けたらどうなるのか、そういうことが正直なところまだわかっていない。

 今思ったが、政治家は議論が上手であるべき人ではなく、交渉をすることが有能であるべき人なのだろう。
 そして議論で勝つことより交渉を有利にまとめることの方が難しいだろう。

軽躁はいけない

 阿川弘之の『大人の見識』という本を偶然手にとって、読んだ。新潮新書で、初版は2007年11月20日発行の本だ。
 読みながら、人間は、かるがるしく怒ってはいけないのだということを、私は短気な自分に言い聞かせ、教えさとしたい気持ちになった。
 その箇所を書き写す。いつものようにブログ用に、勝手に改行したり、漢字をひらがなに開いたり、一行あけたり、大事だと思ったところは太字にした。

 ※※※

 18p 『和魂』
 日本人の性格がどうも軽躁であると見抜いて注意を払っていた戦国武将は、武田信玄です。「主将の陥りやすき三大失観」と題した信玄の遺訓を読むと、
 一つ、分別あるものを悪人とみること
 二つ、遠慮あるものを臆病とみること
 三つ、軽躁なるものを勇豪とみること
 そう戒めています。さすが風林火山を旗じるしに掲げた武人の洞察力だと思います。


 信玄の言う「軽躁なるものを勇豪とみること」は、時代が現世に近づくにつれて、「失観」とも思われなくなるんですが、歴史を逆にたどって行くと、古く平安時代の説話で、やはり軽躁を戒めたものがあるのです。

 清原善澄という学者の家に、あるとき強盗が押し入り、家財道具一切合切を盗んで行く。床の下に隠れてそれを見ていた善澄は、どうにも悔しくて我慢ならなくなり、ようやく一味が立ち去ろうとする時、後ろから
「お前たち、明日、必ず検非違使に届けて捕まえてやる」と罵った。怒った泥棒がとって返して、善澄は斬り殺されてしまう。

 この話、『今昔物語』に出ています。作者は、こう批判している。
「善澄、才めでたかりけれども、つゆ和魂[やまとだましい]なかりけるものにて、かくも幼きことをいひて死せるなりとぞ
 要するに、なかなか学識のある人だったのに、わが国固有の智恵才覚を持ち合わせず、軽々しく幼稚なことを言ったばかりに、むざむざ命を捨ててしまった、と。

 一般にはこうした「撃ちてし止まむ」風の勇猛な精神が「大和魂」だと思われているようですが、『今昔物語』が「和魂[やまとだましい]」と書いている通り、ほんとうは漢才に対する和魂なんです。日本人なら持っていて然るべき大人の思慮分別なんです


131p 『ポリュビオスの言葉』
 ギリシャの歴史家ポリュビオスによれば、
物事が宙ぶらりんの状態で延々と続くのが人の魂をいちばん参らせる。その状態がどっちかへ決した時、人は大変な気持ちよさを味わう」。

 この言葉、近代の英国では軍人も政治家もよく取り上げる決り文句。英国のエリートは、物事がどちらにも決まらない気持ち悪さに延々と耐えねばならないという教育をされている。世界史に大をなす国の必要条件ということです。
 ははあ。それが英国流の大人の叡智か。自分にゃとても真似出来ないけどと思いましたよ。今でもそう思うんだもの。
 当時一文学書生の私に、そんなこと考え及ぶべくもなかったのは当然として、軍や政界の大物に、やはりそういう「必要条件」を満たそうとするエリート意識を持つ人、一人もいなかった。

 ※※※

 今まで、ものごとがどっちにも決まらない気持ち悪さに延々と耐えるという忍耐が、私にはなかった。文学の用語でいえば、どっちにも決まらない延々とした気持ち悪さというのはサスペンスの状態であり、それがどっちかへ決したというのはカタルシスの快感を得たということだろう。実生活の中で私は、自分にも相手にも、早くカタルシスを感じたい、感じさせたいという、おせっかいであり、せっかちな人間だった。

 だから私は、早く結論を出したほうがお互いのために良いのだ、そのためには怒ることも手段の一つだ、いや怒ったほうが正直な気持ちを表現するのだから潔いのだ、恨まれたり嫌われたりするリスクを負って、でもあえて怒るのだから相手のために自分を捨てているのだ、だから許されるのだ、相手に対して良かれと思って怒るのは相手に対してもそして自分に対しても誠実に生きていることなのだ、だから怒るべきときは怒るべきなのだ、などと思って傲慢に生きてきたように思う。
 いや本当は、私という人間は、ものごとがどっちにも決まらないことの不安に耐えられない、こらえしょうのない、心の狭い、人間として小さな人間なのだろう。

 これからは、ある種のずるさも入れ込めた忍耐を持ちながら、生きたい。そう自分を変えたい。
 それに、日々世間の人間たちの泥棒根性にうんざりしているから、世間の人たちに良かれと思わなくなっているから、だから世間の人たちのために自分を捨てて怒るなどということもしたくなくなっているから。
 だから人のために自分が苦労して、怒らなくてもいいのに怒って、そうして結論を出してやろうなどということは避けようと思うようになっている。

 それから、迷惑をかけられたら、その分の仕返しをするべきだと思って生きてきたけれど、それがスジミチを通すことになる、相手を無視しない誠実さなのだと思ってきたけれど、それも軽躁なのだろう。とすれば、迷惑をかけられた相手を軽蔑しながら黙殺すればそれで済むと思えばいいのではないかと思った。いちいち相手をする必要はないのだ。相手をすることで、自分の時間も自分の感情が傷つきゆがむことももったいない。
 そういうふうに考えられるようになったそのタイミングで、この本を手に取ることができ、読んだのだと思った。

 しかし、迷惑かけられた相手を、相手にしないで上手に生きられること、そしてむやみにやたらに怒らずに暮らしているのは、世間の人たちは当たり前にやっていることであって、私のように五十をすぎて、いい歳をしてあらためて考えこんで、自分が生きるとはなんぞやなどと悩んで時間をこねくり回しているのは、私は相当いびつな人間なのだろう。
 でもいびつでも、それが自分なのならば仕方がないのだから、誰も私に代わって私を生きてくれないのだから、私も私以外の誰かの人生を生きることはできないのだから、遅くなってもゆっくりでも、自分がよく変わっていくことを自分で感じることができれば、それが自分で自分自身を生きるということなのだろう。

 阿川弘之は私にとって純文学作家ではなくて、歴史小説や伝記小説を書く人だと思っている。だから阿川弘之の小説は、私小説風のものを一つ二つしか読んだことがないし、それも何を読んだのか、どんな作風だったのか、忘れている。歴史小説は文体に気を遣わないし、登場人物の人間としての深いところをえぐらないし、小説の中に詩味がないし、リリックじゃないから。
 だけど阿川弘之のエッセイはよく読んでいる。正直で短気な性格の人の書くエッセイはおもしろいから。
 それからこの本で、鈴木貫太郎という太平洋戦争終戦時の総理大臣のことを知った。鈴木貫太郎という人は興味がわく人物のような気がした。

人と暮らせない理由

 テレビの馬鹿馬鹿しさに観なくなって、そしてラジオを聴きだしてもAMでもFMでも、テレビと同じくらい自分勝手な物言いで腹が立ってスイッチを切ることが多くなっている。
 そうすると、音のないことの寂しさが、かえって気持ちよかったりしている。
 部屋の中で音がしないことになれだしている。

 すこしだけさびしいから、音楽を聴こうとして、YouTubeを開いてみる。自分でギターを弾いて歌ってみる。
 でも、音楽を聴くだけじゃ満たされない。
 生で人が喋る音が聞きたい。

 でも、馬鹿馬鹿しい自分勝手な物言いは聞きたくない。
 ということは、生半可な気持ちで生きている人間の喋りも聞きたくないことになる。
 じっさい、聞きたくない。

 そうだ。だからおれは、そこらへんに生きている人間と暮らすことができないんだ。
 それでも仕方がない。
 だってそうしか生きられないんだから。

関屋分水の鳥

 今日は晴れたからバイクに乗った。といっても一時間ほどだが。
 冬のいつものように押しがけをした。今年は寒いけれど雪が少ないから、半月おきぐらいにエンジンだけかけている。一週間前にもかけておいたから、今日は押しがけ二回でかかった。

 広い駐車場に行き、8の字をゆっくりたっぷり走ってから、道路に出て、海に行った。寒いからおとなしく走った。
 海沿いを走っていると佐渡ヶ島が見えた。佐渡は海の水より青くかすんでいた。ところどころに白い点々があって、そこに佐渡の雪があるのだなと思った。去年の佐渡の白いところは横に長く広がっていたのを思い出した。

 関屋分水は大波で、関の外側の波で高くなったり低くなったりしている河口の水の上に、鴨だと思うが鳥が十羽ほどかたまって浮かんでいた。鳥も寒そうだった。
 関の内側は湖みたいに波がなくて、こっちには広い川面に何十羽も鳥がいて、思い思いの場所ですいすいと泳いでいた。それぞれの鳥の後ろには、鳥が泳いだあとの波形が長い三角になって重なって伸びていた。

幸せになれない哲学者という人種

 世間の人間たちは、哲学という言葉の意味を間違って使っている。
 世間の人間たちは、哲学とは、主義主張のことだと思っているが、違う。

 哲学とは、考え抜く行為そのもののことだ。
 だから哲学という言葉は自動詞にもなる。哲学する、という。
 考える、いや、答の出ないことを考え抜く、という行為そのものの言葉だ。

 だから哲学者という人は、食べることをそっちのけで、日々暇さえあれば考え抜く。
 長年その行為をしている人のことだ。
 答が出ないのだから、それなのに考え抜いているのだから、頭が疲れて、疲れ果てて、脳梗塞や中風になるかもしれない。
 そしてある種のきちがいといえる人のことかもしれない。

 かならず言えることは、そういう人は、幸せにはならない人であるということだ。
 幸せにならなくてもいいから、答を考えたい、見つけたい、という人だ。
 わがままなのかもしれない。

非科学と科学が交じり合うところのラジオ番組で哲学

 このあいだ一月二日に書いた、年末年始にラジオで聴いた番組で、生き物の細胞の中の分子レベルの話があって、現代では、細胞の中の分子と分子の結びつきぐあいで、脳の中のメカニズムを解いていき、それによって人間の感情の動きを科学で、というか原子と分子の化学反応で解き明かしていく学問があることを知った。
 ということは感情だけでなくて、記憶だって、化学反応で解き明かされるかもしれないと思った(だけどこれは、ラジオで言っていた感情と記憶を、私が反対に記憶しているかもしれない)。
 そしてこれは、ロボトミーという脳外科手術というようなこととは別次元のことだ。原子や分子レベルのミクロのことだ。むりやりに医療のことでいえば、内科的な分野のことだろう。いや医療ではなくて、生物学と化学と心理学が融合したものなのだろう。放送したラジオ番組は、NHK第二放送の、カルチャーラジオ 集中アンコール特集 歴史再発見『科学の歴史を旅してみよう』というものだった。

 もし科学で感情や記憶が操作できるようになったら、人間の記憶や感情という、科学と反対のところにあるだろう心というものが、化学反応の力で、いかようにも変えられることになる。映画の世界だ。私の嫌いなオカルトの世界になるかもしれない。
 そういうミクロのことやマクロのことや、何が何だかわからないあいまいもこなことや、誰がやっても答の出ないことやを、オカルトを排除しながら、きわのきわまで考え抜くことが哲学なのだけれど、科学と哲学が結びついたところのおもしろさを、年末年始のラジオ番組で味わった。

 インターネットができてからは、ググれば地球上のことでも宇宙空間のことでも人間の心理のことでも、大概のことの答は簡単に見つけることができる。だから哲学はやりにくくなっている。
 やっぱり哲学のいちばんの真ん中の道は、自分という人間が生きるとは(そして死ぬとは)、どういうことなんだろう? ということを一生かけて考え抜くことなのだろう。こればかりはネットにも答は出ていないから。

安倍晋三という人はもしかしてよい人かもしれない

 安倍総理になってから、ネットやらラジオやらで総理大臣を前面に押し出してごり押ししている(テレビは観ないから知らない。でもいっぱい出ているだろう)。
 フェイスブックもやっているらしい。そのときどきのあらゆる流行ものを使って顔を出している。強者の戦略にかなっている。
 前に維新の会もそうやれと書いたのに、今のところはインターネットでの露出は少ない。ネットは、同じ質なら早く始めたもの勝ちなのに。

 安倍総理はネットかいわいでは頭が悪いと言われている。出身大学の学力偏差値のせいらしい。だが私は安倍晋三という人は頭が良い人だと思っている。
 このあいだの朝方のラジオで安倍総理が何かの質問に答えていたが、その物言いは、事実は事実として断定し、事実でないことは「~のはずです」と言った。事実とそうでないことを区別し、事実でないことは推量の形で喋ることができるのは頭がよく働いている証拠だ。
 そして事実でないことをさも事実だと思わせるように喋るのは卑怯だ。できないことをできると言うことは嘘を言っていることだからだ。ほぼ100%の政治家がそういうふうに卑怯に喋る。いや、ほとんどの人間がそういうふうに卑怯に喋る。

 だから安倍晋三という人は、すくなくとも悪い人ではないように思う。そして少なくとも、私にそう思わせることができるのは、頭が良い証拠だ。自民党の中のほとんどの泥棒根性の人間どもには珍しい人かもしれない。
 だが良い人だからといって、やっている政策は、公務員をまた増やそうとする既得権益者を守ろうとするような、自分と自分の利害関係者さえ得になればいいという、成果と報酬を比例させない卑怯な泥棒の政策と、景気対策は公共事業の土木工事しかないという頭の悪い土建屋政治にうんざりする。

ぶりとあんかの関係

 ぶり大根をつくった。うまい。今年のぶり大根は、うまいのだ。あぶらがのっているのである。
 今年は、寒いからだろう。新潟市は今のところ雪は少ないが、朝はマイナスの温度が何日もつづいている。
 正月に買ったぶりの刺身は、子供の頃に食べたのを思い出したぐらいの、あぶらののり方だった。
 ぶりがあぶらをたくわえているということは、今年はことさら寒いんだ。
 電気あんかも毎日つかっている。

税金と公金を払いたくなくなる気持ち

 また泥棒根性の自民党が公共工事をやるやると言っているが、その根拠の一つに道路やトンネルの維持管理をやると言っている。
 維持管理の経費などは毎年予算に入れていると思っていたが違うのか。メンテナンスのコストを考えずに道や建物を造っていたのか。馬鹿だ。
 わかっていたことだが、これで政治家も官僚も馬鹿が証明された。馬鹿と泥棒がいっしょになっているのだから、そして威張っているのだから、こいつらは生きている価値がない。

 道路や建物は、この狭い日本ではこれ以上もういらないんだよ。もう充分なんだよ。新しいトンネルもダムもいらない。港湾もいらない。埋め立てもしなくていい。年寄りの無駄な長生きのための金も不要だ。
 これからは税金は、既存の道や施設のメンテナンスと、少しの国防費と、古くなって使えない原発を上手に廃炉するためのお金に、少しだけ使うだけにして、あとは日本の借金を返すのに使え。

 そうするのは簡単だ。生活レベルを落とせばいいんだよ。節約すればいいんだよ。どんどんどんどん石油や核燃料を燃やしてモノを増やして嬉しがる生活をやめればいいんだよ。エアコンやストーブをつけるのが当たり前だという考えをやめればいいんだよ。
 そのためには、物質的な欲望を減らして、頭の中を使って楽しむ人生にすればいい。そういう生き方のほうが、よっぽどかっこいいし、価値がある。

 でも泥棒人間の自民党と、泥棒根性のほとんどの日本人どもは、頭が悪いから、骨の髄から物の欲望で生きている奴らばかりだから、その欲をかなえるために、他人の金だと思って税金をつりあげながら泥棒しながら、後は野となれ山となれで、他人と自分をごまかしながら生きていくのだろう。

 だからおれはもう、税金も公金も、日本のために気持ちよく納めたいという気持ちがなくなっている。泥棒に追い銭を渡して喜んでいるほど呆けていないから。

『科学の歴史を旅してみよう』ラジオのよい番組

 去年からテレビというものを観ていないから、この年末年始はラジオで過ごしていて、偶然素晴らしいものが聴けた。NHK第二放送の、カルチャーラジオ 集中アンコール特集 歴史再発見『科学の歴史を旅してみよう』という番組だ。
 科学というものがどんなふうに発展してきたのかを、地動説から始まって、錬金術を通って、相対性理論を解説し、そして現在まだ解けていない宇宙が広がる謎まで、わかりやすく教えてくれた番組だった。有名な科学者のエピソードや、私たちの身近な生活の中での科学の例え話もおりまぜて、おもしろく語って聞かせてくれるというものだった。三十分の番組を十三回、大晦日と元日と二日の午前に、三日間に分けていっぺんに放送したのを聴いたのだ。

 何年か前の大晦日の教育テレビで観た、アメリカの哲学者だとかいうマイケル・サンデルという人の番組を観たときは、誰でもわかるくらいの底の浅いことを得意げに喋っているなあと思って、こいつは哲学者じゃなくて、テレビ芸能人まがいの政治学者でしかないと思った。
 哲学者でございますとメディアに出てくる人間の喋ることを聞くと、それがどうした、そんなことはわかっていることだよ、今さら言うな、と思う人間ばかりだ。
 経済学者というものはもっと馬鹿ばかりで、終わったことを解説するしか能がなくて、それも上っつらをなぞったことしか言えない人間ばかりだ。なぜそうなるかというと、そいつらは人間とは何か、人間が生きるとは何かを考えていないから、教科書を眺めてわかったふりをした場所からしか、自分の考えを出発できないからだ。哲学者でございという人間たちも同じ場所にしか立っていない。

『科学の歴史を旅してみよう』で喋っていた小山慶太という人の喋り方を聞いていたら、この人は、自分の言うことを相手にわかってもらおうというのを、自分の内側で苦心しながら喋っているのを感じた。現実にこの人の言っていることが理解できたし、聞いていて楽しかった。知らないことを知る喜びも感じた。
 自分の考えていることを相手に理解させて、感動させて、感動のうえで行動させることが出来るひとが、頭の良い人だ。簡単にいうと、おれダガシを感動させられる人が、頭が良いという人だ。小山慶太という人は頭のいい人だとわかる。
 そしてこの人は、新潟県で生まれ育ったのじゃないかなと思った。この人の喋りの語尾がそんなふうに聞こえたのだ。
「~というのは」というところを「~てや」「てや」と言っていた。「そそられる」というのを「そそらいる」と発音していた。それを聞いていて、なつかしかった。他にも喋りの中に可愛らしい方言がまじっているように聞こえた。
 名前でググッてみたら、(経歴などはググればわかるのだから詳しいことは書かないが)神奈川生まれだという。それならこの人のお母さんが新潟県生まれなのかな、なんて勝手に想像した。
 科学の解説の中にときどきはさみこむ比喩もおもしろくて、純文学の朗読を聞いているような気分もした。
 この人のおかげで、科学と歴史と哲学と文学を一緒に楽しむ、贅沢な年末年始の時間を過ごすことができた。ラジオというメディアもよかった。風呂につかって本を読みながらでも、トイレに入りながらでも、酒を飲みながらでも、聴けて楽しめるメディアだというのを再認識した。

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