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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

歌詞に意味があることと、メロディにも意味がくっつくこと

 今FMでジャズっぽい歌を聴いている。ちょっと前に山下達郎の歌は歌詞に意味がないから機嫌良く聞けると書いたが、英語の歌も同じかもしれない。何を言っているのかわからないから耳にすんなり入ってくれるのだ。
 でもそれはアメリカとイギリスの歌だけかもしれない。英語でもインドのメロディはメロディに意味が付着してしまって聞けなくなるだろう。シャンソンもメロディが聴きなれないから、メロディに意味を考えてしまって聴けなくなるだろう。ロシアもインドも中東もアフリカの歌もそうだろう。中国語や朝鮮語の歌は、その国じたいが嫌いだから三秒でも聴きたくなくなる。

 演歌は嫌いだが英語の歌詞で演歌を歌ったらどうなるか。演歌のメロディが意味を作ってしまって聴けないだろう。
 歌詞のない楽曲ならどうだろうか。クラシックを聴いても乗れない。ジャズなら乗れる。それは楽器の音が人間の声の代わりに泣いたり笑ったりするからだろう。喋ったり歌ったり溜息をついたり、楽器と楽器が誰かと誰かの会話に聞こえたり、楽器が聴いている私と会話するからだろう。

サッカー選手の怪我と、代表チームとクラブチームの違い

 今朝のメキシコ戦で長友選手がまた足を怪我したそうだが、怪我が治りきらないのに無理をしたらもっと傷めるだろうに、長友は何をやっているんだ!
 怪我が重くなると、クラブでも代表でもチームに迷惑がかかることを思わないのか!
 まったくその場さえ良ければいいと思っている頭の悪さに怒りがこみ上げる!
 ザッケローニもザッケローニだ!
 怪我をしている長友を使い続けたらこうなるなど誰でもわかるだろうに、まったく馬鹿ばかりで困る。コンフェデの試合など本番ではないのだから、怪我をさせるほど無理させてどうするんだ!

 それから、選手は、クラブの時と代表の時のプレイのしかたは違うだろうから、その時その時で、どうやって折り合いをつけているのだろうと思う。
 体はクラブのやり方を覚えているだろうから、代表の試合の時は戸惑うこともあるだろう。
 その戸惑いが怪我をおこしやすくさせるのではないだろうか。
 でも代表チームで試合に出ることは誉れだろうから、怪我をしていても、ついつい本気になって無理してしまうのだろう。

ヤフオクは物売り場で人は売っていない

 このあいだ980円の腕時計を買って、1980円のウェストバッグを買って、そして1980円の財布を買ったら、もう欲しいものがなくなった。だからヤフオクを見ることもなくなっている。腕時計もウェストバッグも財布もヤフオクで買ったのではないけれど、物が欲しくなるとヤフオクを見るから、欲しいものがなくなるとヤフオクを開くこともなくなる。

 今欲しいものは、いやずっと欲しくて手に入らないものは、客観性と正義感を持った友人と嫁さんだけれど、いない。たぶんそういう人は百万人に一人ぐらいのものだから、よっぽど運が良くなければ会うことは、ない。
 そして人間は物じゃないからヤフオクでは手に入らない。だから今、ヤフオクは見なくなっている。

貸し借りは良いことだけれど物にかぎること

 私は物にたいする所有欲がほとんどない。だけれど私の父は物の所有にたいする意識がものすごく強い。そのことでいつも喧嘩する。
 父は自分では昔から、年を取ったら仙人になって山奥で暮らしたいなどと言っていたが、今となっては嘘じゃないかと思ってまた喧嘩になる。調子のいいところがある父だから、その場で思ったことを言ったのだろうけれど、その言葉を何度か聞かされたおかげなのか、私は父親よりもっと仙人になりたがる人間になった。

 私は、物を貸し借りするのは良いことであると思っている。だから借りたがるし、貸したがる。いつか返してくれると思うから、いや返してくれなくても、私が貸した物でその人がその場が助かったら、他の誰かに何かを貸せば、それが回りまわって世の中が助けられると思っている。だからなのか借りることもまるで罪悪感がない。貸し借りは世の中のために良いことだと思っている。

 だけれど、どうしてか金の貸し借りだけは罪悪感がある。
 たぶん金は物じゃないからだと思っている。
 物ではないものを貸し借りするのは、悪いことだと思っている。
 人間も物ではない。
 だけれど人間を貸し借りするのは良いことだと思っている。
 私は人間にたいする所有欲もない。
 だから私は結婚できないのだと思っている。
 父は所有欲があるから結婚したのだろう。そしてそれは生き物としてふつうのことなのだろう。

ひさしぶりの腕時計

 腕時計を買った。二十年ぶりぐらいに買った。二十年間、外で時計を持たなくても困らなかったのだなと思った。
 腕時計をしなかった始めの十年は、生鮮食品の売り場にいたのと、介護の仕事をしていたから、腕を清潔にするためと人を硬い物で傷つけないために、仕事場で腕時計をしてはいけなかった。後の十年は携帯電話を持つようになって、腕時計をしなくても時刻がわかるようになった。
 だけれどオートバイにまた乗るようになって、乗っているときに時刻を知りたいから、腕時計が欲しくなったのだ。

 ホームセンターで980円のを買った。まあまあ良い。だけど腕時計をしていても、自分が腕時計をしていることを忘れているから、左腕を見る回数は二時間か三時間に一回くらいだ。そして腕時計を買ったことさえ忘れているから、オートバイに乗るときも腕時計をしないで出ることが多い。途中で時刻が知りたくなって、ああ、そういえば腕時計を買ったのだったと思い出す。
 そうして普段は使わないから、ウェストバッグの小さい方のポケットに入れっぱなしだ。

成果主義が一番良い理由

 私の生きる根本の考え方は、働かざるもの食うべからずということと、天は人の上に人をつくらず人の下に人を作らずという、二つのことだ。
 ということは成果主義ということだ。生き物として簡単でシンプルなことだ。
 だから天皇制はやめるべきだし、公務員は最小限の数にする。働かないでも怠けても食えることを肯定するような共産主義もだめだ。
 この二つのこと以外を基にしたいということならば、それは人の出した成果を泥棒したいということだ。
 泥棒がまかり通るならば、それはもう無法地帯になるということで、暴力OKということになるぞ。であれば私も暴力に訴えるぞ。私は暴力は得意だぞ。いいのか?
 でも私は暴力はいやなのだ。

 だから暴力以外のことで世の中をまわしていくには、泥棒行為を否定しなければならない。ということは働いて働いた成果を出した人が自分の成果分を得る仕組みにしなければならないし、生まれつきのことでひいきされるのは成果を出したことで成果分を得ることと逆のことになる。
 だから成果主義が一番良いことなのだ。
 最低限の最低限だけのセイフティネットはあってもいいが。

魚のかまは菩薩、三五八漬けも

 生鮭をフライパンで炒め焼きするとき、魚の上から三八五漬けの素をぱらぱらと振りかけて焼くと、ほんのり甘くて塩ょっぱくなってうまくなるから、このごろはそうしている。
 そして鮭にかぎらず魚ぜんぱんは、身より、かまのほうが好きになっている。身とかまを一緒に食べて味を比べると、かまの肉のほうがだんぜん味が濃いのがわかる。
 かまは形がおっかないような形でおいしそうではないし、その形を思うとどうしてか骨が多いように見えて、食べるのが面倒くさいと思っていたけれど、骨は少ないのである。いや骨の量は多いのだけれど、小骨がないから骨と身を分けるのが手間がいらないのである。だから食べるのが簡単なのだ。
 簡単でおいしいというのだから、ますますかまを食べたくなるのである。
 そして身より値段が安い。これも魅力である。味がよくて安くて、かつ簡単に食べられて、かまは私にとって魚の菩薩様であるのだ。
 三五八漬けの味も、菩薩様の味に似ているとわかる。どうしてか知っているのだ。

若い人間の投票

 若いものの投票率を上げようとして、ずいぶん税金を使って芸能人をポスターとかに出しているが、そんなことをしても効果はない。広告代理店を儲けさせているだけだ。それで広告屋と小役人どもがいい気になっているだけだ。
 若いものに投票に行かせるには、小学校一年生から、投票は大事なことで、投票に行かなければならないと、教えればいいのだ。

 私は学校でそういうことを教えられたことはない。それはたぶん、昔も今も、若い人間に投票に行ってほしくないと政府の人間たちは思っているからだ。そうでないなら小さい年のうちから投票に行けと、教師に教えさせるはずだ。投票は悪いことではないのだから。むしろいいことなのだから。
 でも現実は、小学校でも中学校でも高校でも、投票に行くべきだとは教えない。大学ならば、もう大人になっているのだから、そういうことはわざわざ言うべきことではないと思うが。

 政府は、若い人間が投票するのが怖いのだ。
 体制をかえられるおそれがあるから。そして自分が税金と公金を泥棒しているという自覚を、意識無意識でも思っているから、やましいのだ。自分たちがいい目を見ているこのままの体制で行かせるためには、若い人間は政治には無関心でいてほしいのだ。

 親も、口では自分の子供には投票に行けと言うだろうが、無意識では政府と同じで、いばっている今の自分の立場を長く続けさせるために、なにごとも変えたがる人間というその若い人間である自分の子供には、投票には行ってほしくないのだ。自分が若いころは、年寄りを攻撃して世の中の仕組みを変えたがっていたのを、意識無意識に憶えているから。

 ではどうすればいいかというと、世の中のほとんどの人間が、若いものも年寄りも、食うや食わずになってしまえば、はっと目が覚めて、政治も国の体制も、変えなければならないと思うだろう。
 でもほとんどの人間たちは、そうなっても、ぬるい風呂の湯につかって気持ちよがっているから、変えようと思って投票はしないだろう。変えようという気持ちはなくなっているだろう。風呂の湯は、急には熱くなったり冷たくなったりしないから。
 知らないあいだに、どうしようもないほどお湯は熱くなっていたり冷たくなっていたりして、心臓は止まっている。

オートバイに乗るときの仕事の悩み

 このごろオートバイに乗るときは、ポータブルCDプレイヤーを買ったから、それで山下達郎を聞きながら乗っている。それで機嫌よく遊んでいる。
 そのCDプレイヤーは、いつものように中古でヤフオクで落札して買ったものだ。すこしだけイヤホンの調子が悪かったから、既製品にかえて使ったら、よく聞こえるから満足している。

 だけれどこのごろ、オートバイに乗るのが、完全に日常を離れる楽しみにならなくなっている。
 オートバイに乗るときはいつも、よそ見をしながら乗るのが癖だ。風景を楽しみながら乗るのがおもしろいのだ。
 だけれど風景のなかには家がある。そうすると仕事の外壁塗装を思い出してしまうんだ。
 あの人の家はこういうシックな色で塗ったらいいのじゃないか、あの人の家はああいう落ち着いた色で塗ったらいいかな、とバイクで走っていても考えてしまうのだ。だから日常から離れられない。それが今の悩みだ。

 峠道やバイパスや高速道路みたいな、家のない道を走ればいいじゃないかというかもしれないが、そういう道に行くまでは必ず家はある。
 そして家が見える道を走るのも、どうしてかおもしろいのだ。

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