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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

インターネット休み

 今日引越しをする。それでインターネットが来月の中旬まで使えなくなる。プロバイダーとNTTに年末年始の休みがあって、使えない日がのびたそうだ。
 もう八年、ネットを毎日見ている。それが二週間くらい見られないとなると禁断症状みたいなものが出るのじゃないかと恐れる。テレビも見ないから、視覚が空く。目が、手持ちぶたさみたいに泳ぐかもしれない。仕方がないから、難しくて面倒くさい本を読んでいようと思う。
 ネットで毎朝ニュースと天気予報を見ていたが、それが見られないから、ラジオで聞こう。インターネットを使わなかったころはニュースや天気予報はテレビで見ていたのだから、だいじょうぶだろう。

かぼちゃとお汁粉の合わせ技

 スーパーの惣菜コーナーでかぼちゃぜんざいというのを見つけた。パックに冬至というシールが貼ってあって、冬至にかぼちゃを食べるというのはなんとなく知っていたけれど、あんことかぼちゃを一緒に食べるのは初めて知った。めずらしいと思ったから手にとって、買って帰った。
 酒の肴にするのだが、本来の酒の肴を食べ終わった後に、かぼちゃぜんざいを食べるつもりだ。ご飯の代わりでもある。
 冷めているのを食べるのか、温めて食べるのか知らないから、まず、冷たい餡子を箸ですくって口に入れてみた。温度が低いせいか、それほど甘くはない。うまみも感じない。これは温めて食べるべきだと思い、電子レンジに入れた。温めるあいだおしっこをした。
 チン、という音とともに取り出して、人肌よりすこし熱いくらいのパックをあけてみたら、それはおしるこになっていた。一口食べてみた。冷たいものより甘い。かぼちゃの苦味としるこの甘みがマッチして、うまい。小さい白玉団子が二つ入っていて、それを半分かじったら、やわらかくて甘くておいしい。
 今までおしるこなどというものは甘いだけで何の思想もないと馬鹿にしていたのだが、食べてみればよい味だし、体もあたたまる。一年に一回ぐらい食べるなら、よいものだと思った。
 かぼちゃぜんざいといういわれを知ろうと思ってググッたけれど、どこでいつごろ始まったかわからなかった。

国家から離れる決意

 政治家はもともと信用できなかったし、公務員どもももともと信用できなかった。そうして今はもう弁護士も信用できないし、裁判官も信用できないし、警察の一部の人間は信用できない。ということは立法、行政、司法をやっている人間どもを信用できないということになっている。ということは国家を信用できないということだ。
 国家だけじゃない。誰も何も信用できなくなっている。これをニヒリズムというのだろうか。これが本当の純文学というものだろうか。

 おれみたいに国家を信用できなくなっているから、信用できる国家をつくりたいと思って政治家になろうとする人はいないのかなと思った。
 でもいないだろうな。だって俺だって政治家になんかなりたくないのだから。それに俺みたいな人間は圧倒的に少ない。少ないということは政治家としての力はない。ということは何も変えられない。だから国家のスタイルは変わらない。

 ということは国家に頼らないで生きるという選択を選ぶしかないのか。
 そういう人々は世界にいっぱいいる。東ヨーロッパや中国に多い。資産は身に着ける宝石と、自分の甲斐性と、子供への教育だ。その中でおれが作ることができるものは、俺が俺らしく正直に生きられるような、いろんな意味の甲斐性だろう。

ラジオと酒は爛漫

 このごろはもうNHKラジオの番組は馬鹿馬鹿しいからほとんど聞かない。でも民法も同じく馬鹿らしくて聞かない。
 だけど落語は好きだから日曜の夜は秋田の美酒爛漫提供のラジオ寄席を聞く。
 これは私が子供の頃からやっている番組だ。あのころこれを聞いていたら父親から、こんなものを聴くな。それでも聴くなら東京に行って落語家になれ! と怒鳴られた。
 さっきまで爛漫提供の落語の番組を聴いていた。この番組のスポンサーをしているというセンスの良さが好きだということと、この番組をつづけてもらいたいからもあって爛漫を飲みながら。
 最近飲む酒は爛漫だ。実際おいしいのだ。

日本が生まれ変わるのは生産する人間を増やすこと

 誰も言わないことだが、日本国が衰退している原因は簡単なことで、事務手続きをしている人間が増えて、品物やサービスを生産している人間が少なくなっているからだ。
 事務手続きをしているのは公務員であり政治家だ。いや、民間の会社でも売り上げと利益を上げる部署の人間より、経理や総務や企画の係が幅を利かせている。だから経費だけが増えて利益が減って、やっていけなくなるのは決まっている。

 どうすればいいかというとこれも簡単だが、事務手続き部署の人間をクビにして、生産する部署の人間を増やせばいい。
 事務手続きの仕事しかできない人間は生きる価値がないのだから死んでもらう。そういう人間は悪知恵だけは働くから、仕事をしているふりだけは上手な嘘つきの泥棒根性だから、いっそ死刑にしなければならない。
 そうして成果主義を徹底して、一人ひとりが出した成果に応じた報酬を得ることにすれば、それが一番公正なのだから、そうすれば日本国家は、また発展する。第二次世界大戦で負けたときにアメリカから財閥解体や農地解放をしてもらったのがそうだったのだ。明治維新がそうだったのだ。戦国時代がそうだったのだ。

 日本国家が発展しなくてもいいが、一人ひとりの人々が、公正に幸せになるためには、泥棒根性から離れることだ。そのためには一人ひとりが、自分が出した成果に応じた報酬を得ることだ。

コリンウィルソン、俺の生きかたを決めた作家の一人が死んだ

 コリン・ウィルソンが死んだそうだ。この十二月五日だったらしい。
 俺の好きな作家が死ぬといつも言うことだけれど、とっくに死んでいると思っていたが生きていて、それもコリンウィルソンは八十二歳まで生きていたというじゃないか。あの「アウトサイダー」を書いた人間が、生きすぎだろうさと思ってしまう。

 二十代なかばに新潟市に転勤になって、偶然見つけた厚い文庫本を買って、幸町の安いアパートの部屋で何日もかけて読んで、イチコロにされたのだ。
 今でもおぼえている。夜中に部屋の明かりを消すと、白いしっくいの薄い壁と柱の隙間から、隣の電気の光が何本もの薄い筋になって差しこんでくる部屋で、そういう部屋で、隣の女のあえぎ声が聞こえるなかで、アウトサイダーの文庫本の一ページ一ページをめくりながら、どうしてかこれは俺のために書かれた本だと思いながら、そう思うからほとんどのページに折り目をつけて、読みすすめてはまた戻って読み返したりして、つっかえつっかえしながら読んでいった本だった。そうして何回も何回も読み返した本だった。
 だけど「アウトサイダー」はもう読みたくはない。これは若いうちだけに読む本だ。……と思うけれど、また読むかもしれない。いやまた読むだろうと思う。そのときはどう思うだろうか。コリンウィルソンは82まで生きたんだから、俺はいつまでも年下として読める。

米のPM2・5の検査が必要

 去年ぐらいから言われている中国の汚い空気のことを考えたら、新潟県の雪は、中国の方から吹いてくる冷たい風が元だ。その風に日本海の水蒸気が昇って、湿った西風が越後山脈にぶつかって、大雪が降る。
 汚い空気はPM2・5というらしいが、その有害な空気は冬に強くなるという。ということは新潟県に降る雪にPM2.5がたくさん混じっているということだ。
 雪は春になって溶け、山から川になって流れ、田んぼに入って稲の根に吸いこまれ、米になり、私たちの口に入る。
 毒が体の中に入るのは嫌だ。放射能と同じように嫌だ。
 新潟県庁はそれを検査して公表してくれ。

借用書、領収証、嘘つき弁護士、嘘つきどもと勝負する

 何日か前に東京都知事が出した借用書がどう見ても嘘っぱちだったのを、警察はなぜ早く調べて逮捕しないのか。
 あんな嘘をついている人間を野放しにしているならば、警察も自分で自分を逮捕して牢屋に入れ。
 前にネットで見たが、民主党の前原議員が出したというコクヨの領収証も子供だましの嘘のものだとわかるものだった。なぜ逮捕されないのか。
 こいつらは嘘をついて心がいたまないのかと思うのだが、いたまないから政治家なんぞをやっていられるのだろう。
 政治家だけではない。世の中のほとんどの人間が嘘をつくのがあたりまえだと思って生きているのだから始末が悪い。
 政治家も役人も警察も嘘つきばかりだ。そこらへんを歩いている人間どもも嘘つきばかりだ。

 今日、あることで喧嘩している相手の弁護士から手紙が着たが、いけしゃあしゃあと嘘を書いていた。その嘘つき弁護士は恥ずかしげもなく学校で教えているらしい。弁護士も嘘つきばかりだ。もしかしたら裁判官も嘘つきばかりかもしれない。たぶんそうなのだろう。誰も信じられない。
 嘘つきどもと勝負をつけるために裁判をするつもりだ。
 でも判決をする裁判官が嘘つきならば、どうなるかわからない。
 だが裁判なのだから、その中身を、事実を、世の中に公開し、さらけ出す。相手の嘘も世の中に公表する。
 お天道様を信じるためにも、勝負する。

拳を鍛える趣味

 また拳を鍛えようと思っている。
 何年か前に高校生五六人と喧嘩して逮捕されてから、肉体的な喧嘩をしないと誓うために拳を鍛えるのをやめた。
 でも最近、自分勝手で嘘つきで卑怯な客と職人業者に腹が立って、腹が立って、そいつらを殴りたくなっている。もう殴る一歩手前にきている。自分が怖くなっている。
 だけども本当に殴ったら今度は牢屋に入れられるだろうから、だから殴るわけにもいかないから、また自分の拳が凶器だという自覚を持てば人を殴らないで済むだろうと思うのだ。
 五十を過ぎて再度拳を鍛えて、またコンクリートや石を思いっきり殴っても痛くなくなるようになるかはわからない。手の甲を傷めるかもしれない。骨折するかもしれない。
 しかし、趣味の一つができるだろう。

「Brushy One String」 一弦ギターでうたう歌

 すごい歌手を発見した。さっきインターネットで偶然知って、YouTubeで聴いた。ギターで弾き語りをするジャマイカ人のミュージシャンだ。それも弦が一本しかないギターを弾きながら歌うのだ。
 その人の名前なのか、出しているアルバム名なのかわからないが、「Brushy One String」というらしい。
 ギターに張られた一本の弦は、五弦の場所に張ってある。そのAの位置にある弦はギターの弦にしたら太いから、たぶんベースの弦を張ってあるようだ。それで音を強く響かせているのだろう。弾きかたも、指でベースの弦をはじくやりかただ。
 弦をヘッドにとめてある場所は、六弦の位置にある。弦が太くて張りが強いから、ネックに近いところで弦を固定しているのだろう。
 弦の張りが強ければネックが曲がりやすいだろうから、ネックを補強しているかな、ボディの板も厚くしているかな、と思ったけれど、ギブソンの大型の生ギターを使っていて、そのギターはもともと頑丈にできているから補強はしていないだろうし、それにギターを補強するのは不自然だから、その素朴な歌手の売り方に合わないと思ったから、ギターの細工はしていないだろう。

 五弦の場所に張ってある弦の開放弦の音は、Aなのかどうかはわからない。Cにも聞こえる。YouTubeを聞きながら自分のギターを弾いてたしかめようと思ったけれど、真夜中だからアパートの住人に迷惑だからやめておいた。

 何年か前、佐賀県出身のお笑い芸人がベースギターの弾き語りで面白い歌をうたっていたが、それを連想した。だけれど声質はぜんぜん違う。「Brushy One String」は自分の声を楽器にしている。ビブラートが不定でゆらぎがある。しかも力強い。アフリカの縄文人(アフリカに縄文人がいたかどうかわわからないが)を想像させる声とリズムとメロディなのだ。

 何を歌っているかは知らない。歌詞は英語らしいとかすかにわかる。私は英語を読み書きできないし、聞きとることもできないが、言葉のあいまあいまに、スティルとかいう英語のことばが混じっているのはわかる。でも歌詞のぜんぶが英語かどうかはわからない。アフリカの言葉みたいな響きにも聞こえるのだ。それがまたおもしろくて、それにどうしてかなつかしい気持ちにもなった。

 齢はいくつくらいかわからない。そっ歯で、糸切り歯が欠けているのか短いのか喧嘩で折れたのか、それが野性味のある顔立ちに見せている。黒人はそもそも年齢がわからないが、顔にしわが少ないから、まだ若いのだろう。野太いけれど張りのある声からすると、三十くらいだろう。

 私はラップが嫌いなのだが、それは語尾の韻を踏むことがくどくて、韻を合わせることが目的になっているように聞こえるし、それが安易だし、韻を踏むことばが駄洒落になっているし、歌詞の内容も浅はかで、だから聞きたくないのだが、「Brushy One String」は何度も韻を合わせるところもあるが、ラップみたいなくどさは感じない。駄洒落にも聞こえない。まったく新しいジャンルを自分で作っているように聞こえる。それで彼の頭の良さをわかるし、楽曲の中身の深さも感じる。
 歌のところどころにせりふのような歌いまわしが入るが、それがアクセントになって心に響く。そこのところが、日本の三味線をかついで歌う盲目のごぜを思い出させる。

 しかし、歌うときに頭にかぶっているカーボーイ風の帽子は、安易にアメリカ人を思わせてしまうから、帽子をかぶるなら毛糸の帽子みたいな個性のないものをかぶったほうがいいと思う。
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