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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

猫科、三毛

 三毛猫はメスだそうだが、ジャガーやチーターやヒョウは、オスも三毛だ。
 トラもメスもオスも三毛だ。黄色、黒、白。
 猫は三毛だけじゃなくて、いろんな毛の色がいる。模様の種類もおおい。
 人間も人種の種類がおおい。

2014年の花粉症の始まり

 わたしの花粉症が今日からはじまった。
 はじまったけれど、それほどくしゃみの数はすくない。
 はじまりだから少ないのかもしれない。
 それに今年の花粉症は遅い。
 今年の花粉は少ないのだと、ニュースで言っていた。
 それは本当らしいから、らくでいいなと思う。

今年の暖房のおわりは早い

 昨夜は、あんかのコンセントを入れなかった。
 この三、四日の夜も寒くなかったから、あんかを足で布団のはしのほうに押していた。
 それで昨日、ネットの天気予報を見たら明日の朝の最低気温は十一度だというから、電源を入れなかったのだ。
 それでじゅうぶん眠れた。足元も冷たくなかった。
 今朝は暖房でエアコンも使わなかった。夜もつけていない。もう今シーズンは暖房のスイッチは入れないと思う。
 今年は冬がおわるのが早い。雪もほとんど降らなかったし。
 これからあとの春の心配は、花粉症だ。

テレビをみなくてもいい理由

 テレビを見るということは、世間の新しい噂を知るためということだろう。
 新しい噂を知ったところで、それがどうしたというのだ。
 噂など、世間の無責任で泥棒根性で強迫神経症の奴らの暇つぶしのためにあるのだし。
 世間の強迫神経症の奴らは、新しい噂を知らないと発作がおきるのだろう。馬鹿な奴らだ。
 馬鹿な奴らは、ひとが何を言っているのか怖くて不安で、びくびくしながら生きているのだろう。
 新しい噂を知らなくても、生きることには、まっとうに生きることには、ぜんぜんかまいやしないのに。

質より量を目指す日本人と欧米人

 ロシアがクリミア半島を領土にしたそうだが、それでいいと思う。プーチンは男らしいし、フィギアスケートのリプニツカヤの可愛いさと頭の良さで、私は今のロシアを好きだと思っているから。それは自分でも何というミーハーな考え方なのかと思うけれど、そう思ってしまうのだから仕方がない。

 インターネットのニュースでは、ウクライナの中でテロをして政府を転覆させた勢力を援助したのは、アメリカとヨーロッパの国々だというじゃないか。それが本当なら、というかテロをして作った政府の要職の人間を招いているアメリカの方が、まさしくウクライナを混乱させているのを証明している。
 でもそれを日本のテレビやラジオでは、どうしてなのか報道しない。何か意図があるのだろう。

 プーチンもオバマも、そのほかの国の首脳たちも、一人の人間としては、他人にたいして思いやりがある優しい人なのだと思う。でも家の外に出て仕事をしはじめると、その人たちは、自分のやっている仕事上の人格を演じるようになってしまって、生き物が持っている泥棒根性になってしまうのだろう。
 それはつきつめれば、自分が一番大事だと思っていることにつきる。それはふつうの人間なら仕方ないかもしれないが、国家の何億人の人々の代表ならば、自分を捨ててほしいと思うけれど、何億人の代表になる人間は、普通の人間の心も代表するから、普通の人間の泥棒根性になってしまうのだろう。

 そういう自分さえよければいいという浅はかな人間は、最後の感情にまかせて核爆弾の発射スイッチを押してしまうのじゃないかと心配するのだけれど、そのスイッチは、核弾頭をのせたミサイルを発射させるには、何重にも段階があるのだろうと勝手に思っている。スイッチを一回押しただけではミサイルは発射しないのだと、どうしてか思う。前もって人間の浅はかさを計算していて、発射を制御しているのじゃないかと、希望的なことを思っている。そうであってほしいと。

 クリミア半島でのアメリカの動きは、今のところロシアのスピードに追いつけていない。ロシア軍の動きを、アメリカは知らなかったのだろうか。アメリカ軍の、人工衛星を使って調べる地上映像は、ねずみの動きでもわかるということを聞いたことがあるが、それは私の聞き間違いだったのだろうか。
 衛星から調べる映像がそれほど不正確ならば、核弾頭のミサイルの命中精度も正確ではないのかもしれない。核ミサイルというのも、きちんと目指す相手の位置に落とすことはできないのかもしれない。いや本当は、発射することさえできなくて、発射前に爆発してしまうのかもしれない。ということは、核爆弾を持っていることが、負けてしまうことになる。

 私は基本的に、日本国は核爆弾を作って、ミサイルを作って、原子力潜水艦を作って、それに核爆弾をのせて、100発くらいは他国にいつでも落とすことができるようにしておきたいと思っている。でも今のアメリカに実質的に占領されている状態だと、核爆弾を作ることも、ミサイルを作ることも、潜水艦を作ることも、それができない。私がアメリカなら、日本に勝手なことはさせないだろうから。
 だから日本は、核爆弾を持って、いつでも発射できるようにしたいと、アメリカに素直に伝えて、素直に宣言することを、日本の人々の世論にすることが大事だと思う。別に戦争したいと思っているわけじゃないのだから。覚悟をしめすだけなのだから。

 でも、自分のことを自分でしないで、怠け者がほとんどになってしまっている日本人は、大切なことから目をそらす人間になっている。その証拠は、生きることの大切なことから目をそらして、金儲けと、無駄に生きる時間を伸ばすことという、質より量を求める、考えなしのミーハーの価値観が世論になっている。

岸田秀『唯幻論大全』

『唯幻論大全』は、岸田秀の全集というような本だ。
『唯幻論大全』岸田秀
 私は岸田の本はすべて読んでいると思っていたけれど、この本の中の三つの章は初めて読むものだった。その一つは書き下ろしだった。その三つの章は第一部の自我論の中にあった。自我論は岸田が自分のことを書いた小説のような文だ。
 あとがきでも岸田はこう書いている。
「今では、それほど欝状態に陥ることはないが、電車に乗っているときなど、ふと死んだ日本兵のイメージが浮かんできて、涙がにじんでくることがある。敗戦からもう三分の二世紀を過ぎているが、十代で心に刻み込まれた印象は生涯消えないようで、死んだ日本兵たちはまだわたしの心のどこかに住みついているらしい。はじめは、欝状態に陥るのは治さねばならない変な病的症状だと思っていたが、治らないので、その後は、光栄ある名誉の戦死を遂げた兵士もいたであろうが、多くは惨めな死を死んだ日本兵のイメージ(幽霊?)に取りつかれた者が日本人の中にいてもおかしくはないだろうと考えて、抵抗しないことにしている。」
 もう八十歳になろうとする老人でさえ、そして私は世界の精神分析学の天才だと思っている岸田秀でさえ、日常のふとしたところで、自分の長年の神経症で、苦しんでなのか、つらさなのか、それとも別の感情なのか、それで涙を流すというのは、ある清らかなあきらめの心で、そおっと自分を包みこむことが、自分を救うことになるのだろうかと思った。
 その場所の文章を読んで、岸田秀をますます尊敬して、ますます好きになった。

 第三部のセックス論は、十五年くらい前に月刊の文芸誌に連載されていたときに読んでいたが、第一部の自我論と第二部の歴史論ほどには、私には身につまされなかった。だが岸田が言うキリスト教と資本主義とセックスとの関係は発見だった。

 自我論は私小説としておもしろかったし、そうして歴史論は私の神経症の解決のヒントになるようで、その二つは、つっかえつっかえしながら考えながら、カーテンを引いて部屋を暗くして、スタンドの明かりだけで読んだ。夜中に読むときは枕元のスタンドをつけて、布団の中で胎児のような格好で読んだ。

税金公金で研究しているのにコピペしたら刑事罰にする

 再生医療とかいう科学の分野で新しい発見をしたと騒がれていたのが嘘っぱちだったらしいが、体を再生してまで無駄に長生きしたいということが、命というものを冒涜している。そういう根性だから平気で嘘をつくのだろう。
 死ぬときは死ぬことが大切なのだ。だからこそ一生懸命に生きるのだから。

 その嘘をついていた女が、自分が博士号をとったときの論文を撤回するらしいが、これで自分が言っていることが嘘だったと自白したことになるだろう。
 その女が所属している理研という組織を知らなかったのだが、乾燥わかめを作って売っている会社だと思っていた。単純に、民間会社が嘘をついて儲けようとしているのだな、それなら、嘘がばれて、信用をなくして、勝手につぶれればいい、と思っていた。
 それが理研という組織は税金公金でまかなわれているそうじゃないか。それならば話は別だ。その女も、その女の上司も、責任をとって牢屋に入ってもらわなければならない。
 だいたい研究室の壁紙をピンクだかなんだかの色に変えたり、研究室で亀を飼っていたり、厚化粧で仕事したり、そういう遊び半分なことは税金でやるべきことではない。それにその女の年収は一千万円くらいらしいが、世界的な業績をあげているのならいいが、研究者というものは修行僧のようなものであるべきと思うから、それなのに給料が高すぎる。ましてや税金公金から支払われているのだから。

 論文をインターネットからコピー&ペーストで作ったということらしいが、これも民間会社の人間が民間会社相手に嘘をついていたなら民事訴訟で損害賠償をすればいいが、税金公金で飯を喰っている人間が世間を相手に嘘をついたら刑事責任を負わせなければならない。
 このあいだも偽ベートーベンとかいう嘘つきがいたが、あれも聾を自演して障害者手帳を分捕っていたから怒るのであって、そのゴーストライター問題は、褒められたことではないが、しょせん商業音楽の中の話だから勝手にやればいいと思う。その音楽を聴いて良い気持ちになる人がいて、それで対価を払う人がいるということだから、それほど罪は無いと思う。
 井上陽水も山下達郎も宇多田光も、たぶんどこかの音楽から切り貼りして作っているだろうが、それも商業音楽の世界だからまあ許されているのだろう。その上手なコピペの才能が、良い商業音楽を作らせているのだろう。
 商業音楽は商業なのだから、つきつめれば金儲けが目的なのだ。その音楽は金儲けの手段であって、だから言葉は悪いが、しょせん流行り廃りの使い捨ての音楽なのだから。それでも商業音楽の中の良い音楽を聴けば、気持ちはいい。だから金を払って聴くのだ。

 商業音楽は、商業の世界は、税金公金でまかなわれていない。嘘をついてどちらかが被害をこうむったら、その被害がそれほどでないときは損害賠償で決着をつければいい。でも理研はそうじゃない。税金公金がからんだところで嘘をついたら刑事罰を受けなければならないということだ。

 それから、すぐばれる嘘をつかれると、馬鹿にされていると感じて、なおさら腹が立つのだ。ばれる嘘をつくような頭の悪い人間に軽くあしらわれたと思って、ますます怒りがこみ上げてくるのだ。
 だから、嘘をつくなら、人生をかけて、つきとおしてもらわないといけないのだ。

2014年の春の土の匂い

 昨日、新潟県の今年の春一番が吹いたそうだが、それのせいか昨日三月十二日、春の土の匂いが窓から入ってきた。
 海のむこうからくる悪い空気があるし、もうすぐ花粉がとぶから窓はあけないようにしているけれど、あたたかい土の匂いは嗅ぎたいから、十秒くらい開けたら閉めた。
 だけど匂いはおぼえている。

ものぐさ精神分析で、また暗いところが怖くなくなった

 ものぐさ精神分析を読みかえしたら、自分の部屋の夜の暗さが怖くなくなった。二十年前に初めて読んだときも、おばけが怖くなくなったのだ。
 人間にかんすることのすべてのことは幻想なのだという岸田秀の理論は、いろんな神経症をもつおれを、やっぱり生まれかわらせてくれる。
 暗いところが怖いということは幻想なのだし、おばけというのも幻想なのだと理解して納得したら、幻想というのは事実ではなくて、自分が思いこんでいるだけであって、実際には無いものなのだということだから、暗がりが怖いことは自分が思いこんでいるだけであるのだし、お化けというものも実際には無いものなのだと腹におさまるのだ。そうすると理屈屋のおれは自分で納得した理屈で、暗がりもお化けも怖くなくなることができるのである。ありがたいことだ。

 でも読みおわって図書館に本を返したら、夜トイレに行くときにキッチンの暗がりが、またすこし怖くなった。本がお守りみたいになっていたのかもしれない。
 ならばお守りとして本を買って、体の近くにおいておこうかと思ってインターネットで値段を調べたら、文庫本は980円だった。高いと思った。でもこれからずうっと使えるお守りだと思えば安いかなと思いなおした。
 また暗いところが本当に怖くなりはじめたら買おうと思う。

 このあいだユーザー車検をしたが、車検の最後で機械で車ごと高い場所に持ち上げられて車の下まわりを検査されるのだが、高所恐怖症のおれはそれがいつも怖い。普段見ない上からの景色で、そして車を持ち上げている機械が倒れて、車ごとおれが地面にたたきおとされるのじゃないかと、心配で心配で心臓が大きく脈打って、体のあちこちから変な汗が出て、めまいがして、検査官の指示する言葉が聞こえなくなるほどなのだ。
 でも今回は、すこしは怖いは怖いのだが、今までほどは怖くなくなっていた。ものぐさ精神分析のおかげだと思った。唯幻論で、高所恐怖症も治るようだ。

 しかし、今回読んだ本は、二十年前に読んだ本とは違う内容だと思った。前に読んで憶えていたのは、国家論の章と、岸田の私小説のような章だけだった。それ以外は初めて読む内容だと思った。改訂版とかいてあったから、全面的に書き直したのかもしれない。でも、昔読んだ中身を、おれが忘れているのだろう。
 読みながら新しい発見ができたのは、憶えていなかった章だった。とくに自我が時間を発明したところは納得した。哲学書で時間のことを書いてあるのを読んでも、いつもちんぷんかんぷんでわからなかったのだが、岸田の時間の論はわかりやすくて納得できた。だけれど昔に読んでいたのだろうけれど忘れていたのは、ほんとうに忘れていたのか、岸田が書き足したのかはわからない。
 それから、岸田の私小説ふうの章は、文章のぜんぶを憶えていた。それほどおれには身につまされる内容だった。それは岸田の純文学なのだと思った。おもしろいのだ。

 中公文庫の本の中で発見をして、しおりを挟んだページをメモしておく。
 p220 p232 p312 p346

ぎっくり首がなおっても土踏まずが痛くなったこと

 四、五日前から右足の土踏まずが痛くなって、足をつくことができなくなって歩けなくなった。
 土踏まずの痛みは足首のほうにひろがって、それをかばって歩くものだから、右脚ぜんたいも痛くなっていって、そうしたら、右半身がだるくなって、寝込んだ。

 布団の中でノートパソコンで、土踏まずが痛くなるのは何の病気だろうかとググったら、いくつか出て、それのどれも当てはまるような気がして、そしてその中の一番重い病気に当てはまるような気がして、怖くなった。だからなのかますます痛みが強くなっていった。気にしないようにしようとしたけれど、気にしないようにすることはできなかった。だから考えずに寝るに限ると思って、昼から酒をのんで寝ていた。

 去年の二月に首のぎっくり腰になって、それは今年の秋口まで首を左右に向けると首や肩のどこかしらが痛かった。十一月になったころにやっと、首を動かしてもそれほど痛くなくなったけれど、それでも思い切り首を左右に動かすと、首の中の筋にすこしの違和感はあった。
 それはもう完全には元通りにはならないのだとあきらめと同時に思ったから、首が百八十度の右と左に向かなくても、そういうものだと思うようにした。これいじょう悪くなるよりはましだと思った。

 今年の二月は、また首のぎっくり腰になるのじゃないかと怖かった。だから首を動かすのには無理しないように過ごしてきた。体にはよくないことはおこらなかった。
 もう雪は降らないだろうと安心した二月の終わりころ、もうぎっくり首にはならないだろうと油断したのだろう、作業中お客さんの前で全力で走った。それから同じ日、車のオイル交換に行った店の、雨で濡れた滑りやすい床で転びそうになって足を踏ん張った。そうしたら次の日、土踏まずが痛くなった。

 まんぞくに歩けないから、四、五日寝たり起きたりして、お客さんとの連絡はメールでやりとりしていた。問い合わせはメールで返答した。業者さんとの連絡はメールと携帯電話で打ち合わせた。そしてそれはいつもの連絡方法なのだが。
 これを書いている今は、もう土踏まずと足首はそれほど傷みはなくなっている。明日からはまたいつものように動けるように思う。だからここに書くことができている。
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