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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

問い合わせを無視する覚悟

 ブログの変なコメントを無視することの罪悪感はなくなったからそうしているが、電話とメールの変な問い合わせを無視することはまだできてない。
 電話は普段は留守電にしているから、録音を再生したときの言葉遣いや声質で変な人間だと思ったら、かけなおさなければいいのだけれど、どうしてかかけてしまう。それだからからもしれないが、こちらが横柄な物言いになってしまう。それで自己嫌悪になってしまって、また腹が立って、言葉がきつくなってしまう。
 問い合わせのメールでも、相手が変だぞと思ったら、聞かれた仕事の料金を思いっきりふっかけて返信する。無視するよりはいいと思ってそうしている。でも相手は馬鹿にされたと思って怒るかもしれない。それでもいい。それならば喧嘩しようと思ってそうしている。最終的には裁判で決着つけようと思って、覚悟をもってそうしている。
 でも、でも最近そういうことに疲れてしまっている。だから変な問い合わせは無視することをおぼえようと思っているところだ。
 そういう人間たちと面と向かって会ったら、いつものように怒鳴りあいになって警察が来ることになるだろう。そういうことにも疲れているのである。
 だから無視することをおぼえようと思っているところだ。

人と会うとお化けに慣れる

 このごろずいぶん、お化けがこわくなくなった。
 夜中におしっこにおきても、暗いキッチンも、そのまっ暗な窓も、おっかないと思わなくなった。
 あたたかくなったからか、朝が早くはじまるようになったからか、新しいアパートになれたからか、そのどれもだろう。
 春になって、仕事でもほかのことでも、人と付きあうことがふえたからもあるだろう。

何を忘れたか忘れたまま

 ネットを見ていて、ふと思いついたことを後で調べようと思っていると、いつのまにか忘れていて、それも何を忘れたのかさえ忘れていて、何を調べたらよいかわからなくなっている。
 何分かしたら思い出すこともあるけれど、それはとても少ない。ほとんどが、忘れたことも忘れてしまって、そのまま過ぎ去ってしまう。そのまま死ぬまで忘れたままで死んでしまう。

何年ぶりかの風邪をひいた

 今日、お客さんのところで外壁塗装の作業で、昼におにぎりを食べてコーヒーを飲んでいたら、顔が熱くなって体は寒くなって、頭がぼーっとしてきた。
 風邪かもしれないと思って、だいじを取って、塗装屋さんに言って帰って寝ていた。でも横になっていても眠れないのは辛いものだ。体も寒いが手足が寒い。久しぶりの風邪の感じだ。
 インフルエンザは流行っていないから、ふつうの風邪なのだろう。
 きのうの夕方は風が強かった。そして寒かった。それで足場の上で作業していたのがわるかったのだろう。
 その後帰ってシャワーを浴びてから、薄着のままで洗濯をして、その後自転車で買い物に行ったのもわるかったのだろう。
 今朝のうんこは黒くて、おかゆみたいにやわらかかった。だから体調はわるかったのだろう。それが風邪だったのだろう。
 今夜はあんかをつけて寝ようと思う。一晩あたたかくして寝れば、明日は治っていると思う。
 風邪をひいたのは何年ぶりかわからないほどだ。

 ※

 次の日午前中寝ていたら治った。
 インフルエンザではなかったらしい。風邪でもなかったのかもしれない。
 それでも風邪になりかけたら、すぐに栄養をつけて暖かくして寝れば治るのだろう。

女の涙の会見の不思議

 新しい再生医療の発見をしたと言っている女の釈明会見をインターネットの動画で見たが、オンナギライで人間不信で、信用できる人など世の中には十万人に一人ぐらいだと思っているダガシなのに、あの女を信用したくなっている自分自身におどろいている。
 この女は、きちんと人の目を見て、そして正々堂々と前を向いて、自分の目を見開きながら、その目から涙をはらはら流しながらしゃべる、その顔つき目つきを見て、この女を信用したい、この女を守りたいと思ってしまったのだ。
 俺は、そういうふうに素直そうに誠実そうにしゃべる人間を新潟市では見たことがないから、いつもいつも新潟市の嘘つきどもと喧嘩をしてうんざりしているから、彼女は、そういう嘘つきどもや泥棒根性の人間どもと逆の、誠実な人だと思えてしまうのだ。
 でも女は、新しい再生細胞が存在するという証拠も出さないし、論文の中の間違っている画像を正したということもないし、ほかにも、あの女が言う中のこまかい事柄にも信用できないことばかりなのだ。
 だけれどあの誠実そうな喋り方を見たら、信用したいと思ってしまうのだ。不思議なのだ。このあいだ俺はブログで、この女と、この女の上司に、責任をとらせて牢屋に入れろと書いたばかりなのに。
 俺は女を、映像で見たから信用したいと思っているのだろうが、これがラジオで聞いただけなら、女の言うことは矛盾だらけなのだから、あの女を大嫌いになっただろう。

 捏造とか、改ざんとか、悪意とかという言葉が問題になっているらしいが、それらは言葉遊びにすぎない。
 事実かどうかを問題にすればいいだけのことだ。女が示した画像は事実ではないのだから、その責任はとらなければならない。
 それから、悪意があったかどうかを問題にしたがっているのは女が雇った弁護士だろう。悪気がなかったのだから最終的には情状してほしいという戦法だろう。
 悪気がないことが一番悪いという言葉を、おおむかし太宰の小説で読んだ。そして人間とは、喋る内容で信用してはならない、行動でしか信用できないものだということも何かの本で読んだ。そういうことだろう。

 俺は今のところあの女を大嫌いだという気持ちにはなっていない。研究を続けさせてやりたいとも思う。でも客観的に考えれば、あの女は証拠を出していないのだから正直ではない人間なのだろうし、いくつも矛盾していることを言っている。だからあの細胞は存在しないのだろう。女が研究をやりつづけるのは女の勝手だが、正直でない人間が税金で研究をやってはいけない。
 でも、あの女のまっすぐに前を見て涙を流して一生懸命に喋っていた顔を思い出すと、あの女は正直な人だと思ってしまうのだ。いや、あの女が言っていることは本当であってほしい、あの女の望みがかなえばいい、と思っている俺がいることが、俺自身を不思議に思っている。
 だが涙を流せば何でもいいというわけではない。あの女の、馬鹿のような頭がいいような不思議な感じと、誠実そうな感じと、一生懸命さがなければ、涙があっても逆効果にしかならない。

春分の日とお化けの怖さと、出てくれるだけでも幸せかも

 引っ越して三ヶ月だが、部屋の中で寝る場所をよく変えている。なかなかここがいいという位置がないのだ。
 部屋の入り口や、押入れや、窓の位置や、エアコンの設置場所の関係で、布団を置く場所や、パソコンのモニターを置く場所が決まらないのである。こういうことは初めてだ。
 今まで使っていたベッドは捨てたから布団で寝ていて、寝る位置を変更するときは布団を引っぱって変えるだけだから手間はかからないのだが、今のところここが一番いいという場所がない。
 たとえばパソコンのモニターの位置と窓から入る朝の光との関係や、布団の位置と窓や押入れの場所の関係とかで、最適の場所がないのである。
 こういうことで、今の部屋が本当の自分の部屋だという実感がわかないから、自分の部屋が好きになれなくて、だからそれもあって夜の自分の部屋が怖かったのだろうと思う。
 だけどこのごろは、布団や机の位置を何回も試行錯誤していて、ほぼ決まりかけている。だから今は、自分でもこの部屋に慣れているだろうし、知らないうちに愛着もわいていたのだろう、もう夜お化けが出るのじゃないかという怖さも減っていた。
 それは夜の時間が短くなったから怖くなくなっているのだろうとも思っている。げんに三月の中旬くらいから、朝の始まる時刻が早くなってきた頃から、お化けは怖くなくなっている。春分の日を過ぎたら、もうお化けはほとんど怖くなくなっていた。夜中に目が覚めなくなったせいもある。暗がりのなかでトイレに行かないでいいのだから、怖くはない。
 それから、お化けが怖くなくなったのは、暖かくなったせいもある。寒いのは、どうしてもこころぼそくなるから、怖いものが見えるような気がするのだろうと思う。ということは地球と太陽の位置が、私のお化けの怖さと関係しているのだろう。
 だがそれでも、雨露がしのげるだけでも幸せなのだと思えば、そして布団で寝られるだけでもありがたいと思えば、こういう悩みは贅沢な悩みだろうと思っている。すみません。
 そしてもしかしたら、もしお化けが出たなら、出てくれるだけでも、私が生きているのに全世界のものごとから無視されるより、幸せなのかもしれないと、今思った。

建築職人は文字が嫌い

 私のお客さんたちは、すべて携帯メールで連絡してくれる。そのうち一人だけの人は、年とって目がわるいから携帯の画面がよく見えないから、携帯ではなくパソコンメールでやりとりしたいという人がいる。でも本当はその人は携帯電話でしゃべりたがる。お客さんで電話で連絡したがる人はその人だけだけれど、その人はもう八十も近いひとだし、電話連絡で生きてきた人だろうし、年で気が短くなっているだろうし、携帯電話をかけたい人なのだろうと思う。そしてその人は威張らない人だから、私はその人の携帯電話の連絡をうれしく、おもしろく、受ける。

 私が仕事を出す業者さんたちは、すべてメールをしない。若くてもメールをしたくない人たちばかりだ(建築職人たちはメールはしないが、作業で手があくとすぐにスマホを取り出して見入っている。とくに若い職人たちはそうだ。メールで文字を打たないし文章を作ることはしないが、たぶんゲームをしているのだろう)。
 どうして建築職人たちはメールをしないのだろうと思っていて、ずっと考えていたのだが、たぶん文字を読まないで育ったからじゃないだろうか。
 建築職人たちは学校の成績は悪かっただろう。成績が悪いのだから学校でも授業は遊び半分で受けていただろう。だから授業をまじめに受けることなどしなかっただろうし、授業から逃げていただろうし、ノートをとることもしなかっただろうし、そういうことを無意識に軽蔑していただろう。
 だから大人になっても、文字を読んだり書いたりすることは嫌なことであり、軽蔑の対象なのだろう。だから文字を読みたくなくなっているのだろう。だから、メールという文字も読みたくないから、メールをしたくないのだろう。

 今、私と携帯メールで連絡してくれる建築職人さんは二人だけだ。一人は若い人で受信も送信もする。
 もう一人は私より五歳上の人で、言葉を変換することを覚えたくない人だから文章をつくることはしないけれど、私が出したメールを受信して読んで、その返答を電話でくれる人だ。私はもう、建築職人ならそれで十分だと思っているあきらめがある。

 それから建築職人たちは、基本的に人と接したくないから建築職人になったのだろうと思う。人にことさら親切にしたいとか、人を喜ばせることで自分もうれしいと思うような人間ではない。基本的にはわがままで面倒くさがりな奴らばかりだ。工業高校や農業高校や商業高校の、勉強はできないし、勉強などしたくないし、勉強を軽蔑している奴らだ。そして勉強とは努力が必要だから、建築職人たちは努力をしたくない人間ということだ。

 そうわかったら、私は建築職人に多大な期待をしてきたけれど、もう大きな期待をするのはあきらめている。
 でも私が期待するのをあきらめているのは建築職人だけではない。私が先にあきらめをしたのは、そこらへんにいる一般の人間たちだ。一般の人間ということは、たくさんのお客になりうる人間たちということだ。そういう大勢の人間たちを自分のお客の対象としてあきらめているということだ。正確にいうと、そういう大勢の人間たちと関わりにならないように生きていくということである。

 建築職人にたいしてあきらめているということは、腕の良い建築職人はメールをするのもあたりまえで、お客さんの前で、ポケットに手を入れないし、タバコも吸わないし、専門用語を使わないで素人のお客さんにわかる言葉を使って仕事の中身を伝えるのもあたりまえだと思っていたけれど、そんな建築職人はいないのだとわかったから、あきらめているのである。
 だから、土地建物関係の人間たちが嫌いな私という男が、逆に建築業界で生きていても飯を喰っていても、お客さんのためになるのだろうと、そういう意味で存在しても許されるのだろうと、思っている。

 そうしてメール連絡をしてくれる建築職人は少なくとも新潟市にはいないのだから、メール連絡をするかしないかで私が選ぶことはできない。きちんとした仕事をしてくれて、嘘をつかないで、できるだけお客さんに不快な思いをさせない職人であれば、それで仕方がないと思っている。そういう職人でさえ、ほとんどいないのだから。
 だけどお客さんにたいしては、メールをする人かメールをしない人かで、私が選ぶことはできる(他にも条件はあるが)。だから、私が私のお客さんにしたいと思う人を選んで(もちろんお客さんもお客さんの価値観で私を選んで)、私とお客さんがお互いに選び選ばれして、仕事を頼み頼まれをしたら、私はそのお客さんだけを精一杯喜ばせることで、その対価をもらって、私は生きていければいいと思っている。
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