FC2ブログ

徒然のブログ

つれづれの思いなどを

ラジオでO.ヘンリーを思い出した

 NHK第二放送でOヘンリーの番組のシリーズがあって、ずっと聞きつづけてきて、今夜の放送が最終回だった。
 放送の話者は作家について、何ほどのことも言っていなかったが、私がO.ヘンリーを、私が少年といっていい年頃のときに読んだことを、私に思い出させてくれた。
 O.ヘンリーという人は、ヒューマンでユーモアを書く短編作家というのは私は思っていたが、ラジオの話者のいい分では、そのとおりらしいけれど、さらにもっと奥深い中身があるらしいのだった。話者の言うことを聞いていたら、あのころ読んだことの記憶に残っていた細部を思い出して、そうなのだなあと納得した。 
 でもラジオで言っていて初めて聞いたO.ヘンリーという人の、私の知らなかった人となりは、貧乏で、わがままで、妻と別れたり、人と喧嘩したり、逮捕されたりして、ずいぶん俺と似ていると思った(ちなみに私は離婚はしていない。結婚もしていないから離婚はできない)。
 ラジオを聴いて、そしてO.ヘンリーのWikipediaを見て、そうしたらO.ヘンリーを、アメリカにいる自分の生まれ変わりみたいに思ってしまって、O.ヘンリーのほうがとっくの先に生まれているのに、会ったこともないのに、おれが死んだらおれの代わりにおれの生きたいように生きてくれる人みたいに思ってしまって、O.ヘンリーをもういちど読んでみようかなと思った。

本田は切腹するか芸術をきわめるか、どっちかにしろ

 今日ワールドカップで日本代表が敗退したが、前にも書いたが、本田が人間として駄目だから、チームが勝てなかったのだろう。
 本田はサッカーの日本代表の親分ヅラをしていたのだから、偉そうにしていたのだから、でかい口をたたいていたのだから、そして負けたのだから、負けて結果が出せなかったのだから、切腹してもらわなければならない。すくなくとも精神的にでも、いったん死んでもらわなければならない。
 だって今まで、あれだけの大口をたたきつづけて、そして自分がシュートしてゴールして目立ちたいためなのだろう、試合で背の高いフォワードにパスを出さずに、自分勝手にゲームをして、そのあげくに、その背の高いフォワードを排除したのだから。
 そうして結局、本番のワールドカップで自分のやりたいやりかたをして、グループリーグで結果を出せなかったのだから。
 その責任を取るために、日本国民に謝罪するのがスジミチだろう。日本の代表という呼び名を使っているのだから。
 でも本田は、ブラジルから日本に帰ってこないで、すぐクラブチームがあるミラノに戻るらしい。逃げやがった! やっぱり本田という奴は卑怯な人間だ。

 だけれど本田の発言はいつも、大げさにいえば芸術的なのだ。おもしろいのだ。
 本田はもしかして芸術家なのだろうか。
 芸術家ならば、どこまでも、芸術としての嘘をつきとおしてくれればいい。
 でも芸術家はキリギリスだから、野垂れ死にが本分で覚悟だぞ。

ベッドマットで腰痛が治る

 四月下旬にベッドを買って寝ているのだが、腰痛がなくなった。
 ベッドを買う前にベッドマットレスのことをインターネットで調べたら、ベッドマットのスプリングには、ボンネルコイルとポケットコイルの二種類があるそうで、詳しいことはネットに書いてあるからここでは書かないが、今まで私が使っていたのはボンネルコイルだった。
 その知識を仕入れてリサイクルショップに行って、実際に寝転んでみたら、ポケットコイルの、それもポケットコイルの中でも固いマットが、腰には気持ち良かった。だからそれを買った。
 二週間くらいそれで寝起きしてみたら、すぐに腰痛はなくなっていた。それから約二ヶ月たつが、腰は痛くなっていない。
 買った中古のベッドはどういうわけか、マットまでの高さが60センチくらいあるもので、ベッドに腰かけると足が着かなくて宙ぶらりんになって、夜中におしっことかでベッドから立ち上がるときに、寝ぼけていると転びそうで危ないのだ。だから、電気ドリルでベッドの腰板をとめているボルト穴を、今より低いところに穴をあけて、マットをささえる板の高さを下げて、足が着くようにして使っている。これで夜中の暗い中でも、安心してベッドから降りておしっこに行ける。ナットは鬼目ナットというものが付いていたから、ホームセンターでそれを買って付けた。一つ五、六十円のものだ。
 ネットでの知識では、マットは何ヶ月かおきに裏表や頭と足の方向を変えて、体重がかかる、とくにお尻の重さがかかるへこみの場所を変えるのがいいそうだ。自動車のタイヤローテーションと同じことなのだろう。だから買ってから一ヶ月たったときに、マットの頭と足の向きを変えた。何年かしてマットがへたったら、マットだけ買いなおして使おうと思う。

サバ缶がまた不味くなっている

 鯖の缶詰の在庫が減ってきたから、まとめ買いしようと思って、近くにあるスーパーで一種類ずつ買って味見している。
 それが不味いのだ。
 前にも書いたことがあるけれど、鯖缶は季節によってなのか、身が固くて、身は固いのにもろくてポロポロになって、脂が乗っていなくて、苦くて、塩味もよく染みこんでいないことがある。
 缶には製造年月日は書いてなくて、賞味期限しか打刻してない。最近買った鯖缶の賞味期限は2017年4月だった。缶詰は取った魚をすぐに缶詰めに加工するだろうし、賞味期限は単純に製造月日から何年後というふうにしているだろうから、その缶詰の製造も、四月だろう。
 それに鯖の水煮缶は去年ぐらいからどこも品薄だから、売っているものは作ったばかりの缶詰だろう。
 ということは今売っている鯖缶は、このあいだ取れたばかりの鯖を使っているだろう。ということは、春に取れた鯖は不味いということなのかもしれない。
 魚は、冬に脂が乗ってうまくなるといわれる。だから春になれば魚の味は落ちるのかもしれない。ということは、春の魚を使った缶詰は不味いのかもしれない。
 でも夏の鯖缶は不味くなかったように思うが、夏に買った味を忘れたし、わからない。
 この今の時期はまとめ買いはしないでおいて、梅雨明けぐらいになったら、また買って、味見してみようと思う。

 ※追記

 鯖の水煮缶の場合は味の美味い不味いというのがあるのだが、味噌煮缶は味の悪いものがない。それは不思議なのだ。
 この間買った味噌煮缶は身がしまっていて不味くはなかった。安い味噌煮の缶詰では、味は単調でしょっぱいだけのものがあったけれど、鯖の身はぱさぱさしてはいなかった。食べるのには嫌な気持ちはしない味だった。
 どうして水煮缶は味のばらつきがあって、味噌煮缶はそうではないのかはわからない。でも夏場は、味噌煮の缶詰めを買っておこうかと思った。

水道料金のことと、泥棒根性が頭を悪くすること

 水を使うのを節約したのに水道料金が300円しか下がらなかったから、料金の計算が間違っているのじゃないかと思って水道局に電話した。
 税金公金で飯を喰っている人間らしく、何かをごまかそうをしている雰囲気を出している、語尾を延ばす、はいという返事をはーいと間延びさせる、それらは表面上のやさしさを演出して中身を隠そうとする魂胆がミエミエだから、腹が立って、いつものように、「語尾を延ばさないでください」、「はといの間を伸ばさないでください」と言った。
 そうすると相手はいつものように、返事をしないのだ。そういう奴ら特有の、機嫌が悪くなると返事をしたくないから返事をしないという公私混同が始まったのだ。だからそれにも腹が立って「返事をしろ!」怒鳴りつけた。
 そういう経緯があって、係長というのが電話に出てきたが、そいつも同じく返事をしないのだった。
 そいつを数え切れないほど怒鳴りつけて、もちろんそいつが筋道を通していないという根拠を理論づいけて怒鳴ったけれど、そういう人間は嫌なことは理解できないというか理解したくなくて、私の言う根拠も理論も何もわからず、公私混同しながら自分勝手に喋るのだった。
 その中でおもしろい発見をした。
 そいつが私の水道料金を事務的形式的に計算して喋るのを聞いていて、それを私は理解できなかったのだが、なぜ俺はそういう簡単な計算をわからないのだろうかと自分に聞いた。
 わかったのは、自分の水道料金はもっと安いはずだという気持ちが働いて、いや単純に、金を払いたくないという気持ちが、簡単な計算を邪魔して、相手の言うことを理解できないのだと思った。私の、金を出したくないという気持ちが、私の頭を悪くしているのだったのだ。
 頭が悪いというのは客観的になれないということで、客観的になれないということは、考える足場の視点が少ないということだが、それは自分勝手ということだが、頭が悪くなるのは、けち臭い気持ちに原因するというのはあるのかもしれない。
 頭がいいということは、いろんな立場から、いろんな方向から、ものを考えられるということであり、それは、自分や自分の身内が儲かるとか、自分の立場が悪くなることを、考えの中に入れないで、ものを考えることだ。それが客観的ということだ。それはけち臭い根性とは反対の心ねであるということだ。
 そして、自分が儲かるとか、自分の立場が悪くなることとか、そういうことを自分の勘定に入れないことが、誠実な生き方ということだ。宮沢賢治の書いたことを思い出してほしい。

 けち臭い気持ちというのは、自分さえ得すればいいという泥棒根性であり、それは田舎物根性であるが、それはもちろん私にもあるが、私が口げんかでいつも、相手を「田舎者!」とか「お前は泥棒根性だ!」とののしるが、泥棒根性じたいが頭を悪くするということであれば、田舎者、泥棒根性の人間は、&頭が悪いということであるということなのだ。
 (これから、てにをはの間違いや、文章のつじつまが合わないと思って後で書き直そうと思った箇所は「&」のマークを付けておく。今までそういうところは日にちがたって何回も書き直していたけれど、面倒だから「&」のマークを付けるだけにして、気が向いたら書き直すことにする)

 水道料金のことだが、先回使った量は21立方で、今回は14立方だった。ずいぶん頑張って節約したのに、金額は300円しか下がらなかったことに腹が立ったのだった。
 先回二ヶ月で21立方使った料金は5388円で、内訳は、上水道が2476円(基本料金が1760円、従量料金が716円)、下水道料金が2656円(消費税5%)。
 今回は二ヶ月で14立方使って5030円で、内訳は、上水道が2460円(基本料金が同じく1760円で、従量料金518円)、下水道料金が2570円(消費税8%)。径13ミリで。
 毎日がんばってがんばって三割も水を節約しながら生活して、それなのに支払う金額はほとんど変わらないのは納得がいかないのだ。
 料金の計算は新潟市の水道局のホームページを見て、自分で計算してみたが、請求額は間違っていなかった。使う水を節約しても払う料金が減らないのは、下水道の料金が高いことが原因のようだ。市のサイトを見ればわかるから詳しい計算はここでは書かないが、下水道料金の計算方式が現実的な従量制になっていない。少なく使っても多く使ってもほとんど基本料金が変わらないのだ。そしてその基本料金が高いから、上水道の方を節約しても、世帯の水道料金が減らない原因だと思った。
 それを改善するのは、極論をいえば私が市長になって改善するしかないのだろうが、そんなヒマはないから、今はここで文句を書いている。

肉類を買わなくても食費は下がらない

 ずうっと酒を飲んでいなかったが、この三日間飲んだ。昨日までの飲酒で痛風は再発していない。だけれど三日つづきのアルコール摂取は怖いから、明日は飲まないでおくつもりだ。
 五月初旬に痛風になって、それから六月の初旬まで酒を飲まないし買わなかったし、肉類や刺身類の、値段が高めのおかずも買わなかった。だから食費がういていると思っていたけれど、家計簿を調べたら、前の月より五千円しか節約していなかった。
 尿酸を体外に排出するために、オシッコをアルカリ化する食品をたくさん食べるために、根菜類をたくさん買ったのだが、そういうものは案外値段が高いものだったのだ。ジャガイモや玉ねぎニンジンという野菜はけっこう高いものだったのだ。ジャガイモやニンジンを、一日二、三百円分は食べていたし、他にワカメ類やご飯もいつもより炊いていっぱい食べていたから、食費はかさんでいたのだ。
 野菜をきちんと食べると、肉類を食べるくらいにはお金がかかるということだったのだ。それでもまた肉や魚を暴食することはやめる。
 肉のなかでは鶏肉が尿酸の元になるプリン体を多く含んでいるそうだ。だからもう一ヵ月半も鶏肉は食べていない。安くておいしくて、そして鶏の皮は味のよい油があってうまいのだが、これからは一年に一回ぐらいのご馳走になるのだろうとあきらめている。

公務員とNHKの給料が高い理由

 公務員の給料は高すぎる。NHK職員の給料も高すぎる。なぜ高いかというと、公務員やNHKの給料は、バブルの時に大幅に上がった。民間ならば需要と供給のバランスがあるから、景気が悪くなれば給料は下がる。組織が社会に不要になれば倒産するか廃業する。だが民間でない組織はその業界で独占している組織だから、競争がないから、需給バランスがはたらかない。いったん給料が高くなったら、下げる力がはたらかない。
 競争がなく独占しているなら、本来は無理やりにでも給料を低く抑えなければならないし、組織がいらなくなれば解散しなければならないのだが、それができるのは政治家だが、国に政府は一つしかないし、市に市役所も一つしかないから、だから政治家も独占企業のようなものだから、自分の給料を高くしておいても誰からも怒られない。いや怒られることはあるが、それは選挙で落とされることだが、政治家もだが有権者も馬鹿で泥棒根性の人間ばかりだから、政治家にいいふうに言いくるめられて、そして政治家を自分の都合の良いように言いくるめようとして、けっきょく政治にからんでいる人間だけが得をするように仕向けているし、税金や公金に絡んでいる人間だけが、自分の仕事の成果を出さなくても、不当に社会の利益をむさぼっている。
 結局、泥棒根性の政治家を選んでいる、泥棒根性の公務員どもをそのままにしておいている、そういう一般の人間たちが泥棒根性であるということが、そもそもの根本なのだろう。

オートバイで古い道を探して走る

 新潟市から日帰りでオートバイで走りに行こうとすると、決まりきった道しかない。海の方角は海だから、道はあと三方しかない。
 海側を北とすると、西側は海ぞいの道か、116号か、旧116号か、8号か、新津から加茂三条への道か、それらの間を通っている農道を走るのだけれど、平野の道だから遠くを見渡す景色は同じで、面白くない。
 南側は、新津から五泉村松方面か、49号線か、290号線で、これは山はあるのだが道の選択肢が少ない。
 東側は、海ぞいの113号か、7号線で、これもほとんど選ぶことができない。村上から山形に行く道もあるが、それもそれ一本しかない。
 そしてとくに49号がそうなのだが、スピードを出す車が多い。昔より道が広くなったせいだろう。車線が増えたせいもあるだろう。70キロ以上を出すと怖い病の私は、新新バイパスと49号線を走れないのである。バイパスと49号にかかっている橋も、呼び名を知らないが頭の上の鉄の格子がないから、大風で飛ばされるのじゃないかと怖くて、そして橋の下の川がよく見えすぎて、高所恐怖症だからそれも怖くて、長くて広い橋は走れない。
 だから最近は、古い道を探しながら走っているのである。
 車が走る今の道というのは、すべてバイパスなのだと、このあいだ思った。江戸時代の道は車などなかったのだから、人が何人かすれ違えるくらいの道が街道だった。49号だって49号と平行してある細い道が何本かあるが、それがたぶん昔の街道だったのだろう。49号だけではなくて、すべての国道は、江戸時代の街道から離れてバイパスを作って、車が多くなってそのバイパスが狭く感じられるようになったら、また離れたところにもっと広いバイパスを通して、それをくり返して今の広い国道になったのだろう。
 49号を走るときはいつも、脇の細い道を走るようにしている。集落は49号線から離れたところに点在している。集落が離れたところにあるのは他の国道もそうだ。その集落の中の細い道を、250ccのバイクでゆっくりと、ちょっとお邪魔しますという気持ちで、歩くように走る。そうすると昔の旅人になった気分になる。集落の中に鎮守様があったり、地元のお寺があって、その建物を見ながら通る。懐かしいような気持ちになる。
 そういう場所でバイクを停めて、おしっこと水分補給をするのだけれど、神社やお寺の敷地の中でおしっこをするのは、いくら不遜な私でも気が引けるから、ちょっと離れた草むらで用を足して、その後で大きな太い樹が茂っている涼しい場所で、持ってきたジュースを飲む。そうすると、安全運転で帰ろうと思うのである。
<<