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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

かならず幸せにしたいその人のための仕事、二葉

 独立したばっかりの頃に依頼してくれた人が、また仕事を頼んでくれた。
 十年ぶりに見たその人は八十を過ぎて白髪になっていた。だけど可愛らしい顔はそのままだった。夫をなくして、長く一人で暮らしていた。それでも自分のことは何でも自分でやって暮らしていた。
 作業しながらその人と久しぶりに話す内容で、その人はやっぱり頭のいい人だとわかった。喋っていて話の中身が深くておもしろかった。その人と、良寛のことを話した。北前船のことを話した。人間が人間を搾取することを話した。人間が生きることや人間が死ぬことを話した。戦争のときのことを聞いた。その人は秋田の生まれということだ。新潟市民の悪口を言いあった。ほかにもいろんなことを話した。
 その人は初めて会ったときに私が渡した名刺を、自分の手帳にセロテープで貼っていた。それを見せてくれた。そこに書いてある電話番号で電話をかけてくれたのだ。これからはいつでも連絡できるように、その名刺のすみに、私の携帯電話の番号を太字のサインペンで書き足した。
 仕事の前の連絡は、その人の県外に嫁いだ娘と携帯メールでやりとりした。娘からのメールで、母親は頼むなら他の誰でもでない、ダガシさんに頼みたいと言っていると書いてあった。だからなのか自分の体も頭も心も、いつもよりもっとフル回転して仕事をした。そうして成果を出した。
 銭金でなくこの人のためになりたいと思って結果を出せたから、幸せな気持ちになった。
 安くもない仕事の料金は、私の銀行口座にその人の娘が振り込んでくれた。

ブログサービスはどこもあぶない

 去年だったかfc2がスパム行為をして、fc2ブログが検索エンジンからインデックスされなくなったことがあった。今もそれがつづいている。検索順位も大幅に下がった。最近もfc2がスパムと同じようなことをして問題になっている。
 このブログは商売から離れて書いているからインデックスされなくなってもいいのだが、fc2ブログ自体がなくなっては困る。その時その時に考えたことをメモしておくために書いているから、メモをなくしたら困るのだ。
 fc2だって自分がなくなったら困るだろうから、自分自身が存続するために自重してくれ。

 他のブログ会社に移ろうかと思うこともあるのだが、fc2ブログが一番使いやすいから移れない。ブログの文章を書くページは見やすくて書きやすいし、カテゴリーの編集とかもやりやすいのだ。文章を書くときの画面が白を基調にしているのが、上品な感じがするしノーマルな感じがして、気分がいいのだ。
 それに初めてブログを書こうと思ったときにfc2ブログに決めたのは、htmlを自由に書き換えられたのが一番の理由だった。seesaaブログもそうだったけれど、fc2の方が操作が軽かったのが決め手だった。今はfc2、seesaa、Livedoorをブログで使っているが、やっぱりfc2が一番使いやすい。書かなくても管理画面を毎日見ているから、目にも手にもなじんでいて書きやすいのだ。

 駄目なのはアメーバブログだ。駄目な理由はチャラチャラしているイメージがあるからだ。だから商売用のブログをアメーバで書いている人間の無神経さにはあきれている。職業人であるはすの自分をチャラけた無責任なイメージで打ち出しているのだから、そういう人間は信用できない。
 文は人をあらわすとはよくいうが、仕事で書いているアメーバブログを読めば、その無責任の体質がにじみ出ていて、儲けたいという気持ちだけが出ていて、やっぱり悪徳商売人というのがわかる。だからアメーバブログを読んで仕事を依頼することはない。もともと世の中のほとんどの人間は泥棒根性でズルくて汚い人間だから、仕事を頼みたいとは思ってないが。
 WordPressというのもあるが、最近WordPressのアカウントのトラブルがあるらしいからWordPressも使いたくない。
 今はseesaaがいいかなと思っているが、seesaaは使っている人が少ないから、いつ会社がなくなるかもしれないと思って怖い。
 ということは、どこのブログサービスも使ってはいけないということになるのだが、そうもいっていられないから、その中でリスクとデメリットが一番少ないものを選ぶしかない。それが今どのブログなのかはわからないし、これからどのブログサービスが良くなっていくのか悪くなっていくのかもわからない。
 だからどのブログを使っていても、いつブログが閉鎖されても仕方がないと思いながら覚悟しながら書いていくしかないのだと思う。

2014年夏はタンクに水がたまった。そして腰の痛み

 今年の八月は雨ばかり降って暑くならない夏だった。
 八月七日ごろだった。大雨の日が二日つづいた。その前もあとも雨だった。
 十三日にひさしぶりに晴れてオートバイに乗った。そうしたらエンジンの吹けが悪いのだ。雪が消えてその年に初めて乗ると吹けが悪いのと同じ感じなのだ。ガソリンタンクに水がたまったのかもしれない。
 出先でホームセンターを探して131円の水抜き剤を買って、タンクに入れてみた。エンジンの吹けは良くなった。外に停めているから大雨でタンクに水が入ったのだろう。バイクカバーの下のタンクが濡れていたから、入っていたようだ。
 タンクはガソリンは満タンにしていた。だからタンクの中で結露して水がたまったわけじゃないと思うが、結露かもしれない。それにしても夏にタンクに水がたまったのは初めてだった。

 九月七日に準備体操をしないでオートバイに乗ったら、次の日の朝、腰が痛くなった。腰の痛みはその後十日間くらいつづいた。
 今日ひさしぶりにバイクに乗った。準備運動をしっかりしてから乗った。昼から四時間くらいしか乗らなかったけれど、帰ってパソコンに向かったら、腰に痛みが走った。すぐにベッドに横になって一時間安静にしていた。そうしていたら痛みが引いたから、パソコンに向かっている。
 もう、一日じゅうオートバイには乗れない体になったのだろう。それも仕方がない。四時間もオートバイにまたがって走っていれば、心のほうは満足する体になっているのだから。
 今日、国道ですれ違ったオートバイはほとんどがアメリカンタイプの大型バイクで、そのヘルメットの中は、いっぱい皺がある顔ばかりだった。六十はこえている顔だった。たぶん一日じゅう乗っているのだろう。でもアメリカンバイクは乗る姿勢がラクだから腰は痛まないのだろう。それにもともと腰が丈夫だから年をとってもオートバイに乗っているのだろう。
 オートバイは先月水抜き剤を入れてからガソリンをたしていない。エンジンの吹けは良いままだ。

交換の利益で思ったこと

 このあいだラジオの経済番組で、交換の利益という言葉を初めて聞いた。聞いてすぐに、いい言葉だなあと思った。交換した人はどっちも幸せになれるのだから。交換した人は誰も困らない。それどころか得するのだ。今はやりの言葉で言えば、WINWINの関係ということだ。詳しいことはインターネットで調べればわかる。私もそうした。
 経済番組で話した人は、「交換する人の、お互いの価値観が違えば違うほど、お互いの利益は増える」と言った。考えれば、なるほど、そうだ。
 仕事や商売でいえば、交換というのは、業者が仕事であげた成果と、お客が支払う料金を、業者と客とで交換するということだ。
 それで思ったのは、私は世間の人たちと価値観が違う。おおはばに違う。それは自覚している。ということは私がした仕事は、私自身とお客さんたちを、たくさん得をさせることになる。私も私のお客さんも、いっぱい幸せになる。
 でもまたよく考えたら、世間の人たちも私も、得をしたいという価値観は同じだ。幸せになりたいという価値観は一緒だ。それならば交換の利益はそれほど上がらないのかなとも思った。

 私はいつも、おれは世俗的な利益を放棄していると自分で思っているけれど、やっぱり仕事上では自分が生活していけるぐらいの利益はあげたい。そうでなければ飢え死にしてしまうのだから。
 それにやっぱり、自分のやった仕事の価値を高めたいと思う。仕事の価値を測るのは、仕事の成果を金銭に換算して、それが高い低いかで判断するのが簡単だから、つい売り上げと利益を求めてしまう。
 依頼者から感謝されるのが報酬だとも思っているのだが、それだけじゃ食っていけないのが現実問題だから、金の見返りを求めてしまう。それに依頼者の感謝を求めすぎると、無意識に感謝を強制してしまう自分を見つけてしまうから、それは人間として健康的なことじゃない。

 金銭にせよ、感謝という気持ちにせよ、他のことにせよ、交換の利益を求めること自体は、私と世間の依頼者の価値観は一緒なのだから、お互いに交換の利益は大きくは得られないのだろう。それを覚悟した。
 そういうことを考えたことがおもしろかったし楽しかったし、覚悟したことも自分の人生のおもしろみを知ったと思った。

 それから、交換の利益をお互いが得るためには、その交換が自分の意思でした場合だというらしい。他から強制された交換ならば、両方一緒に得することはないそうだ。それはそうだと思った。
 それを聞いて、私が大事にしている自由意志や自己責任ということが、いかに大切なことかとわかって、うれしかった。
 だけれど困ったことに、自分の自由意志で交換したのなら、たとえそれが損した交換だったとしても、無意識に自分の失敗を否定したいから、自分は損をしたとは思わないだろう。交換して損した人は、何かの理由をこじつけて、自分は交換の利益を得たのだと思い込むだろう。それは人間として健康的ではないけれど、ほとんどの人間の心の自然なはたらきだろう。そしてそれを自覚できる人だけが、何のかたちにせよ、本当の交換の利益を得られるのだろう。

スマホ軽蔑

 スマートフォンというのは、まったくの無駄で駄目なものだ。
 まず、従来の携帯電話より大きくてかさばるのが駄目だ。私が使っているケイタイはポケットの中で邪魔にならないように小さくて薄いものを選んで買った。ズボンのポケットが膨らまないから、とても満足している。それに軽い。
 ケイタイにはストラップの紐が付けられるのがいい。昔何度か、かがんだときにポケットからケイタイがするりと落ちて、コンクリートの地面にぶつかって傷がついた。それからは紐を付けて紐の先に洗濯ばさみを付けて、ポケットのふちに挟んでいる。走ってズボンのポケットからケイタイが飛び出ても、洗濯ばさみがズボンをしっかりはさんでいるから、空中でぶら下がるだけで落ちない。とても安心できる。だけれどスマホにも紐は取りつけられるようだが。
 ケイタイは料金が安いのがいい。私は平均、月千五百円くらいで済んでいる。ほとんどメールしか使わないからだ。
 電話で喋るのは嫌いなのだ。自分の携帯電話にかけられるのも嫌だ。誰かに縛りつけられているように感じる。犬が首に縄をつけられているようなのだ。突然電話がかかってくるのも自分の時間を奪われるようで嫌だ。それに単純に、急に電話が鳴ると、驚く。
 何かの作業をしている時や、お客さんと大事な打ち合わせをしている時に、携帯電話が鳴ると、それまでしていたことの集中力が切れる。電話が鳴っているから出なければならないから、作業が中断する。それが困るのだ。
 だから相手の時間を奪うのも嫌だし、相手をびっくりさせるのも嫌だから、よほど緊急の連絡がある時しか私は自分から携帯電話をかけない。リフォームやハウスクリーニングの仕事で緊急連絡をしなければならないことなどないから、私が携帯電話をかけることは一か月に数えるほどしかない。お客さんにも業者さんにも、連絡する時はほとんど携帯メールだ。
 従来の携帯電話は、画面もボタンも見なくても片手でメールが打てるが、スマホはそれが難しいらしい。いちいち両手を使うのが無駄だ。それに私のケイタイは文字を打ち始めると、何の言葉を打つのかを予測して、画面にいくつも候補を出してくれる。そこから選べばいいから文字打ちの時間が節約できる。
 出先でのメールは仕事で沢山使うが、携帯電話でできるし、ケイタイで文字を打つ方がスマホより早いし、受信した文章を読むのもケイタイの方がすばやく見られる。ということはスマホよりケイタイの方が価値が高いということになる。

 家の外でインターネットを見ることは時間の無駄だ。外出先でネットで調べなければならないことなどない。フェイスブックやツイッターなど下劣なものだから近寄りたくないし、他人のブログなど馬鹿馬鹿しいことしか書いてないからほとんど読む価値はない。だから外出している時にネットは必要ないのだ。ということはスマホは要らないということだ。
 だいたい外でインターネットをするのは、よっぽどヒマなのだろう。やることがないのだろう。
 外に出たら外で楽しむことをしたほうが人生は有意義だ。オートバイに乗る、自転車に乗る、山に登る、走る、歩く、景色を見る、人を見る、空を見る、風にあたる、空気のにおいをかぐ。そういうことの方が人生の価値がある。
 外で時間があれば、文学や哲学や詩や俳句の本を読んだ方がおもしろい。何かの評論を読んで知識を深めるのも楽しい。
 一つぐらい楽器を弾きこなせよ。自分の歌を作曲をしろよ。音楽理論を知れよ。腹の底から声を出して歌ってみろよ。
 始終うつむいて小さい画面をにらんでいるのは、人生を無駄に過ごしていることだ。

 携帯電話からスマホに替えるのは、自分はお金があるぞということをしめしたいからだろう。可処分所得が多いぞということを誇示したいのだ。スマホは金がかかるから。金を持っていることが価値観の一番上にある人間ばかりだから、人間の価値は金がいっぱいあることだという人間ばかりだから、スマホを見せびらかしたいのだ。でもスマホよりオートバイの方が金はかかるぞ。ほんとうの人間の価値は、自分だけのオリジナルの何かを造って、それで自分が楽しんでいるということだ。
 それから、まわりがスマホを使っているから自分もスマホを使わなければいじめられる、まわりに溶けこめない、仲良くなれない、という強迫観念があるのだろう。人と同じが安心するという怠け者根性がスマホを増やしている。そうやって日本にとって無駄な金が消費されて、スマホで日本人が同質化して、税金公金で生きている人間ばかりが繁栄して、日本の中で事務処理費、間接費ばかりがたくさん要りようになって、誰も成果を上げようとしなくなって、社会のためのものを何も生み出さなくなって、日本が弱くなって、さいごには日本は隣りの国に飲みこまれるのだろう。私はいつからかもう日本という国にも日本人にも何も期待しなくなっている。

 私は今までときどき、自分の仕事の料金が高いのじゃないかと思うことがあった。お客さんからお金をもらいすぎているのかもしれないと怖くなることもあった。とくに料金が高いわけでもないのに。何かの神経症なのだろう。
 でもスマホを使っている人から依頼された仕事は、そういう怖さを感じない。スマホに毎月五、六千円もかけているのだから、十分お金を持っている人なわけだから、私がもらいすぎなのじゃないかと心配することはないのだ。そういう意味ではスマホはありがたいと思った。
 スマホを使っているのに、自分はスマホに無駄な金を払っているのに、業者に値段を値切ろうとする人間は軽蔑する。

そうなんですねとは何ごと?

 ラジオを聴いていたらまた変な言葉が世の中に出てきた。
「そうなんですね」
 そうなんですねとは何ごとだ?
 それを言うなら、そうなんですか、だろ。
 そうなんですねは、そんなことは知っていましたよと自分が知らなかったことをごまかす言葉だ。卑怯な物言いだ。
 とくに女のアナウンサーや女のラジオで喋る奴に多い。だからオンナは嫌いなのだ。
 テレビを見ないからテレビでもそんなふうに喋っているのかは知らないが、たぶんそう喋っているのだろう。テレビはもっと卑怯な人間ばかりだから。

 語尾に「ね」をつけられるのは嫌なのだ。なれなれしいのだ。何かをごまかしている感じがするのだ。
 きっかりと、きっちりと、ある一定の距離をおいて接しあいたいのだ。親しき仲にも礼儀ありという言葉もある。
「ね」という語尾は、依存したい、自分を良い人に見せかけたい、何かをごまかしたい、責任を転嫁したい、誰かを搾取したい、そういう泥棒根性が見え透いて腹が立つのだ。

『屈折くぅちゃん。』好きな漫画

 インターネットを見ていたら、偶然見つけた漫画に、はまった。
『屈折くぅちゃん。』だ。
まんが「くう」の画像

 日常のよくあるちょっとしたことで人間とは何かを感じさせる考えさせるのだから、『屈折くぅちゃん。』は純文学だ。
 漫画でも大仰な話の漫画は嘘くさくて信じられないから、おもしろくない。そういう漫画がほとんどだから、漫画を好きになれない。いや小説でも映画でも何でも、ことさら面白がらせようとする、あざとさが見えるものは作者の浅はかさが見え透いて、読みたくなくなる。見たくなくなる。
 ブログでもそうだ。面白がらせようという魂胆が見え見えのや、自慢がうっとうしいのや、ハウツーものでいかにも役に立つブログですというのや、そういうのは読みたくない。そして世界には、そういう読みたくないブログがほとんどなのだ。
『屈折くぅちゃん。』はフツウの生活が描いてあって人間とは何かを感じさせてくれるから好きだなのだ。それに、くうは悪ぶっているのに正義感のある人だから、好きなのだ。それを自慢もしないし、正義とは何かなんて考えないでも人のために何かをしてしまうから好きだ。この漫画は金を払っても読みたい。
 作者の他の漫画も見てみた。どの漫画も主人公の顔つきが一緒だ。それがいい。主人公の顔のタッチは作者の追求する一つのテーマを表しているように思う。それに共感してしまう。それが純文学を読んでいるように思える。
 作者はPONというペンネームの人だ。作者のサイトのプロフィールで、愛知県生まれの男だと書いてあった。うそかもしれない。女かもしれない。女の気持ちがとてもわかるように描いてあるから。

『屈折くぅちゃん。』の漫画
もう一つ、おもしろいと思った漫画『よるのがっこ』
作者PONのサイトcomic PON

このアパートはゴキブリは出ない。蚊は出る

 今年の正月に別のアパートに引っ越して、夏はゴキブリが出るかなと思っていたが、出なかった。
 夏になると暑くて夜中に何度か目が覚めて台所で水を飲むのだが、前のアパートのときは台所の電気をつけると、ときどき床のすみに黒いものが走っていくのを見た。でもこのアパートでは一匹も見ない。梅雨のころにゴキブリ退治の薬を買おうかと思ったけれど、出ないかもしれないのだから出たら買おうと思ってやめておいた。買わなくてよかった。
 ゴミ箱のまわりにコバエは飛んでいる。コバエは前のアパートでも暑くなるとよく出た。生ゴミがコバエを呼ぶのだろう。食事を作っているのだからコバエが出るのは仕方がない。だけれど九月に入ったころからゴミ箱のまわりを飛び回る数は少なくなった。
 蚊は出る。前のアパートでは蚊は一匹もいなかったのに。今年は十年ぶりぐらいに夜中に蚊の飛ぶブーンという音を聞いた。暑くて窓を開けはなって寝るから、蚊も入るのだ。足を三か所くらいさされて、眠りながらかいていて、かゆいかゆいと思って目が覚める。それを毎晩くり返すのだが、蚊にさされたぐらいで死なないから、毎晩窓を開けて寝ていた。
 このアパートのまわりの家の庭に、葉がおい茂った木が何本も植えてあるし、アパートのまわりの地面は土で、草がたくさん生えているから、蚊は次から次へと生まれるのだろう。バイクのカバーを取るときやかけるときに、足首のあたりに何回も蚊にさされる。かゆくてしかたがない。でもシャワーを浴びたときに、さされたところを石鹸でよく洗うと、その後はもうかゆくなくなる。
 八月の中旬までは寝るときに窓を開けていたのだが、世間でデング熱を騒ぎだしたころから、夜には網戸だけは閉めるようにしたら、蚊は入らなくなった。
 だけれど毎日、夜でも昼間でも駐車場で蚊にさされている。今日もさされた。でも今まで熱は出ていないから、新潟市にはデング熱は来ていないのだろう。
 どうしてか朝は蚊にさされない。蚊は寝坊なのだろう。

ブラックの世界から脱却するには泥棒根性を捨てること

 このあいだラジオでブラックバイトというのを言っていた。ブラック会社でアルバイトをしている大学生が、賃金を支払われなかったり、休みの日でもむりやり出て来いといわれて出社させられたり、仕事がヒマな日は今日は帰れといわれたり、そういう会社だから辞めたいといっても、いろいろ難癖をつけて辞めさせられないということがあるらしい。
 ブラックといわれる会社の人間たちは言い訳できないくらいに卑怯だから私的死刑にしてもいいが、ブラック企業に勤めている大学生たちもいい加減な人間だろうから、同じ穴のムジナだと思う。人間のほとんどはいい加減で、泥棒根性の人間なのだから、それは若いうちからも自分さえよければいいという人間ばかりなのだから、ブラックバイトの会社も、大学生たちも、どっちもどっちなのだ。
 嫌なら辞めればいいのだ。アルバイトを辞めたら生活していけないというのなら、大学も辞めればいいのである。それでどこかに勤めればいいのだ。
 そこがブラック会社なら、また辞めればいい。別の会社に勤めて、そこもブラックならまた辞めて、また別のところに勤めて、それをくり返せばいい。そうしてその間に自分で独自の勉強を続けて、仕事と世間を勉強しながら自分を鍛錬していって、あるときがきたら、自分で商売をすればいいのだ。
 だが自分で商売をできる甲斐性がある人は一握りだろう。自分を自分で鍛錬しつづけなければならないのだから。その苦しさを自分に課しつづけなければならないのだから。だけど人生とはそういうものだ。世の中とはそういうものだ。自分で自分の食い扶持をゼロから稼ぐことができないならば、ブラック企業にもぐりこむしかないじゃないか。ちなみに、どんなにキレイゴトを言う人間でも、その人間が税金公金で飯を食っていれば楽して儲けているのだから泥棒根性でありブラックである。
 現実の世界がブラックになるのはあたりまえのことで、だって人間の男も女もほとんどは泥棒根性なのだから、泥棒というのは自分さえよければいいのだから、世の中がブラックになるのはあたりまえだ。
 ブラック企業の中の人間たちも、雇われている大学生たちも、どっちも泥棒根性なのだから、その人間たちの欲望は同じ方向を向いている。楽して金儲けすることが第一だという欲望だ。欲望が同じだから、同じものを求めているから、目指すものを取り合いになって、自分のために相手を利用して、お互いが利用しあおうとするから、戦いになるのである。今は被害者ぶっている大学生も、年取ったらブラック企業で人をブラックに利用するだろう。なぜならもともと泥棒根性なのだから。
 税金と公金のことだが、税金公金から離れて、ゼロから自分の力だけで稼いで、そうして絶対に自分以外の人にブラックなことをしないなら、その人はホワイトな人だろう。
 ブラックから抜け出したいなら、泥棒根性を捨てなければならない。それは世間的な欲望から抜け出すということだ。そのためには、まず自分が泥棒根性を持っているブラックな人間だという自覚をしなければならない。ものごとは、そこから始まるのである。
 それができる人だけがホワイトの世界に行けるだろう。世俗的な欲望を捨て去れば、明るいホワイトな世界に入れるだろう。でもそれができる人は十万人に一人だろう。なぜなら、世の中は男も女も目先の儲けと近場のセックスが欲しい人間ばかりだし、自分のことは棚に上げる自分勝手な人間ばかりだから。
 十万人に一人になれないなら、他人様のブラックさに文句は言わないことだ。

 後日の追記だが、ブラック会社でアルバイトをしている大学生は、そのアルバイトを辞めて昼間の大学を辞めて、仕事をしながら夜間大学に通うとか通信制の大学を卒業するとかという道もある。
 今の大学生は馬鹿で泥棒根性の人間ばかりだから、そういうのの仲間になっているより、早く社会に出て、そうして仕事をしながら大学の勉強をするほうがいいと思うようになった。

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