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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

インターネット業界の人間の書くものは意味が通じない

 商売の方のブログを新しくしようと思っていて、このごろWord Pressとか偶然見つけたbaserCMSというものを勉強するために、ホームページを作る会社がやっているブログを読んでいるが、その文章がぜんぜんわからない。
 インターネットの専門用語がわからないのは仕方がないし、わからなければ検索して調べればいいのだが、文章自体が読みにくいのだ。
 主語と述語と目的語がつながっていない。文の中に主語、述語、目的語のどれかがない。助詞の使い方も間違っているから、意味が通じない。事実を書いているのに断定しないから、それが事実なのか書いている人間の推定なのかがわからない。安易な修飾語が多いから意味が薄まってわからなくなる。体言止めが多いから何を言いたいのか、意味が固まらない。読点もそのときの気分で無原則に打っているから、言葉がどの言葉にかかるのかがわからない。語尾に「ね」があると、疑問形なのか推量形なのか、はたまた丁寧語のつもりなのか、はっきりしない。
 丁寧語、謙譲語、尊敬語、まるででたらめで書いている。とくに二重敬語がはなはだしい。何でもかんでも考えなしに丁寧語にしている。丁寧とはどういうことをいうのかを、まるでわかってない。なんでもかんでも形だけ丁寧にすれば、自分に得があるだろうという姑息な根性が透けて見える。
 むやみやたらに改行するし、行あけするから、その文章が上のほうに関係するのか下のほうの段落にかかるのかわからない。いや、行あけしすぎて段落というものがなくなっているから、文章と文章のつながりもわからなくなっている。そういう文章を書いている人間には、段落という概念はないのだろう。
 改行した次の行の頭をあけないから、改行したのかどうかわからないから読みにくい。だがこれはもうネット界隈の文章ではその方が多い。改行という概念もないのだろう。
 詩じゃあるまいし、文章の途中で、ぶつぶつと切って改行しているのもある。おれも自分の商売のホームページの一部の箇所で、それをしているが、それはサイトの横幅の関係での、見た目のデザインのためだ。でもブログという文章のかたまりでそれをすると、言葉を目で追う流れが途切れて、リズムが狂って、かえって読みにくくなるのに。
 そういう文を書いている人間たちは、読みやすさ、わかりやすさ、文章の意味を伝えるなんて、どうでもいいと思っているのだろう。自分勝手な人間なのだろう。

 インターネット業界のブログは、小説でもないのに、事実を言わなければならない文章なのに、意味をぼかしている、気持ち悪いオンナクサイ喋り方の文体なのである。ようは責任を取ろうとしない根性なのだろう。そして頭が悪いのだろう。
 そういう人間たちは、小さい頃から読み書きをしてこなかっただろうし、勉強もそれほどできなかっただろうし、それなのに仕事でブログという文章を書いているのだから、しかも得意げに上から目線でネットのことを、あやふやな物言いで語っているのだから、笑う。それはラジオの国会中継の言葉にも、似ている。
 そしてそういう人間たちは、インターネット業界や国会の中にだけいるわけではないように思う。世の中の人間たちがほとんど、そういう種類の生き物になっているように思って、困っている。

名刺不要論

 今日また初めて会った業者さんと喋ったときに、名刺を渡されたのだけれど、こちらは名刺を作ってないから、「名刺は作ってないんです。だから持ってないんです」と言うと、そして名刺を出さないと、いつものように一瞬、変な顔をされた。
 その大工さんは、自分だけ名刺を出したことが不満なのだろう、それもわかるから申し訳ないのだが、出されて渡された名刺を返すのも変だから、もらって、さっきの言い訳を喋ることになる。
 先に名刺はいらないと言いたくて、そのために目立つようにメモ帳とボールペンを出しておいて、相手の連絡先を聞こうとしているのだが、相手は先に名刺を出してしまうから、もらわざるをえないのだ。だからいつも、こちらは渡さないのに、困りながらもらってしまう。

 名刺を作らなくなったのは独立して二年くらいで、考えたら名刺というものは無駄なもので、だから名刺はいらないなと思って、それからはホームページに、私は自分の住所氏名連絡先顔写真をホームページに出しているので、名刺というものを作っていませんから、誰にも渡していませんと書いておいてある。それを免罪符にして名刺を作らなくなった。
 私のお客さんはホームページを見た人ばかりだから、名刺がないということはわかって納得してくれているようだ。私のような変人に仕事を依頼する人も本当は少しは変人なのだろうと思っているから、そして変人の私に似ているところもあるのだろうから、名刺などはいらないと思っていると私は勝手に思って、そうしている。今のところお客さんとの応対で名刺がないことで困ったことはない。

 だいたい名刺を集める趣味もないし、名刺に凝ることもないし(いや独立したときに作った名刺はとても凝ったのだが、凝って作ったから、もったいなくて渡したくなくて、もったいぶって、あんまり誰にも渡さなかった。だから減らなかった)、そし今は名刺づくりなどに凝るヒマはないし、紙だからもらうとたまるし、名刺を渡し渡されるあの時の形などというものは間抜けのきわみだと思うし、名刺などというものは本当はもらっても見返しもしないし、そしてもらっても連絡しない名刺がほとんどなのだから、渡すほうももらうほうも無駄なことをしているなあと思うのである。それなのに名刺交換するということは、これは趣味というか、惰性というか、何も考えない馬鹿がやるものなのだろうと思っている。

 連絡先というものは携帯電話とパソコンに入れておけばいいのだから、それですむのだから、そうすれば名刺という紙を保管するスペースもいらないし、いらなくなった名刺というゴミを捨てることももなくなるのである。いらない名刺でも、もらった名刺を捨てるときは、どうしてか罪悪感みたいなものを感じてしまうから、それも困るのだ。だから名刺がないということは、とっても良いことなのである。

春、もうすぐ新潟市の春

 このたびの冬になりがけの、天気の長期予報は暖冬だといっていたのに、十二月になったばかりで大雪が二回降って、予報ははずれたと思ったけれど、そのあと雪はかたまって降らないで、そのまま二月の下旬にきたのだから、長期予報はあたっていたのだろう。
 今日二月二十二日の新潟市の最高気温は十四度だったから、もう春になるのだと思わせるのだけれど、インターネットの天気予報は後三四日したらまた雪マークが出ているのは、雪の国の陽気の三寒四温というべきものだ。
 きょうの、日が暮れごろから降ってきた小雨は頬に、手の指に、つぶつぶとあたってもあたたかい水けで、これから春になるのだろうと明日もあさっても、そのずっと先の日を思う期待が自分のなかに一つ、二つと、ふくらまっていくのがわかるのである。
 このごろ読んでいる、はまっている、石牟礼道子という作家の文体にえいきょうされて書いた。

冬に海沿いの道と信濃川の下のトンネルを走ること

 去年東区に引っ越してから、西区に行くときは信濃川の下を掘ったトンネルを通って行くようになった。トンネルを出てからは海沿いの道をえんえんと走って行く。
 このあいだ海沿いの道を走っていくときに、雨は降っていないのにフロントウィンドウ一面にしぶきがかかって、前が見えなくなった。海から吹く強い西風の大風で、海の潮が舞い上がって、霧さめみたいにガラスに降って、ガラス一面に塩が白くくっつくのだ。海沿いの道を十分も走ると、ガラス全体に塩の白い粒が張りついて、ウィンドガラスの向こうが見えなくなるのである。
 前が見えなくてあぶないから、道のところどころに作ってある駐車場に車を停めて、ハッチバックを開けて荷台に載せてあるペットボトルの水をウィンドウガラスにかけて、手の平でこすってガラスを洗った。そうしてから、また走った。

 海から一キロくらいのところにあるお客さんの家の窓掃除にかよっていたのだが、西がわの窓のサッシのレールの溝は、パウダーみたいなこまかい砂が、いっぱいたまっていた。砂は海岸から西風で飛ばされてくるのである。何年もかけてたまった砂なのである。いや、南がわも北がわも、西と反対の東がわの窓のレールにも、砂は大量にたまっていた。海の近くは、東西南北、上から下から、雪が降るように砂が舞って降りるのだ。
 海沿いの道を車で走ると、道の両脇には砂丘みたいに砂がたまっているのが見える。夏よりも冬のほうが砂はたまっている。風は冬のほうが強いから、冬のほうが砂はたまるのだ。

 信濃川の下のトンネルをよく通るようになった。道づくりをしている奴らと道をつくる計画している奴らを税金泥棒といつもののしっていたけれど、あのトンネルは今のおれには役に立っている。でもそれにしてはあのトンネルを通る車は、いつも少ないのだ。だからいつも申し訳ないと思いながらトンネルをくぐらせてもらっている。

深夜ラジオの昔の歌はお経に聞こえる

 夜中に目が覚めて眠れなくなったとき、ラジオのスイッチを入れるのだが、NHKのラジオ深夜便の二時台と三時台は音楽を流している。そのとき、昔の音楽、戦後の日本の音楽を特集することがあるが、ボリュームを小さくして聴くと、お経が流れているように聞こえて、気味が悪い。
 その頃の歌手は歌うときに声を張らないから、そう聞こえるのだと思う。それにメロディに抑揚がないのもお経に似てしまう。伴奏にドラムを使わないから、というかボーカルに比べると伴奏の音量がとても小さいから、暗い中で、聞こえるか聞こえないかぐらいの力のない人間の声だけがしていて、不気味なのだ。
 美空ひばりは、今の歌手に比べればそうでもないが、それまでの歌手の中では声は張って出しているから、お経に聞こえない。それに覚えやすい高い低いのメロディがあるから、気味悪くならない。
 民法のラジオを聴けばいいじゃないかというだろうが、民法の放送は、くだらないことを言って、おかしくもないのに作り笑いをして、出演者の自分たちだけが楽しんでいるから、腹が立って聴きたくない。
 そういう自分勝手なつまらなさは、昼間のNHK第一放送でもそうなっている。午前中と午後の番組は、どうしようもない。NHKラジオは、いつまでそういう自分勝手な番組を垂れ流しているんだろう。

ノロウィルスになったこと、すこし痛風になったこと、最近の病気

 先月一月の中旬にノロウィルスにかかった。牡蠣を食べたのだ。生牡蠣と加熱用の牡蠣を両方買ってきて、両方を別々のどんぶりで洗ったのだが、同じ右手を使ったから、加熱用の牡蠣に付いていたウィルスが生牡蠣に移ったのだろう。それとも生牡蠣にもノロウィルスがついていたのかもしれないが。
 生牡蠣を洗って、そのあと手を石鹸で洗ってから、加熱用牡蠣を洗えばよかったのだろうが、その時はそこまで頭がまわらなかった。生牡蠣は生で食べた。加熱用の牡蠣は煮て食べた。それで大丈夫だと思ったけれど、だめだった。
 水曜日の夕方日本酒を飲みながら食べて、次の日の木曜の夜に熱っぽくなって、体がだるくなった。今もだが、その頃もインフルエンザが流行っていたから、とうとうインフルにかかったかと思って、あたたかくして寝た。
 金曜の昼間に体温を測ったら37度7分で、それほど高い熱ではない。咳も出ない。インフルエンザとくゆうの筋肉や関節の痛みもない。おかしいと思った。だが腹が痛くなって、何度も下っていた。腹をとくに暖かくして、また眠った。
 金曜の夕方、目が覚めたら身体のだるさはなくなっていた。熱を測ったら、36度5分だった。平熱だ。こんなに早くインフルエンザが治るわけがない、おかしい、念のために安静にして、ベッドに横になっていた。そのときは自分はインフルエンザにかかっていると思っていたのだ。
 おしっこをしているとき、ふと思った。もしかしてこれはノロウィルスというものじゃないのかと。ネットで調べた。ノロウィルスは牡蠣に付着していることが多い、牡蠣を食べるとかかることがある、症状は腹痛がひどく、下痢がつづくと書いてあった。ああそれだと思った。
 熱が引いても三日くらいは人に菌をうつすそうだから、外に出ないようにして、冷蔵庫にあるものと缶詰めを食べていた。どうしてかノロウィルスにかかったというのは恥ずかしくて、お客さんには、すみませんインフルエンザにかかったので伺えませんとメールした。一週間くらい、横になりながら本を読んでいた。

 一昨日の八日の昼ころに、ひさしぶりに左足の土踏まずが少し痛くなった。痛風になりかけの痛みだ。おとといまで三日つづけて酒を飲んだからだろう。だがそれほどの痛みではないから、お客さんのところで作業した。
 そういえば去年の今頃も痛風になった。 
 鼻のわきも耳の後ろも金玉も、臭くなっていない。おしっこも臭くない。それでも痛風になるのだな。酒はつづけて飲んでいないのに痛風になるのは、寒いから水を飲まなくなったのが原因だろう。
 昨日と今夜は酒を飲んでないから、今はほとんど痛くなくなっている。明日は飲もうと思っている。

 ※追記
 十一日の朝、目が覚めたら、すこし痛かった左の土踏まずの痛みが増していた。治るだろうと思っていたのに。
 足がもげるほどの痛みではないから、お客さんのところに作業に行った。
 作業に集中していれば痛みは忘れるのだけれど、足を広げたり、左足だけに体重をかけたりと無理な体勢になったときに傷む。それでも朝よりも痛みは引いている。
 十一日の夜、飲もうか飲むまいか、考えている。
 マグロとタコと海老の刺身を買ってきてしまっている。たぶん、飲むだろうと思っている。

 ※追記
 十一日の夜、土踏まずが痛いけれど、飲んだ。
 飲んでいるうちに痛みは、やわらいだ。アルコールで麻痺したのだろう。
 十一日の夜中、痛くなった。おしっこに何度も起きた。起きるたびに水を飲んだ。
 十二日の朝起きたら、痛みは残っているが、減っていた。
 十二日の夜には痛みはなくなっていた。五日間痛みが続いた。だが今回は歩けなくなるほどの痛みではなかった。
 十二日、十三日の二日間は酒を飲まなかった。

 今回は体は臭くならないなと思ったら、足の痛みが消えかかった十二日の夕方から金玉が臭くなりはじめ、十四日の夕方まで臭かった。それ以降は臭みは消えた。
 臭くなったのは金玉だけで、鼻の両脇も耳の後ろもおしっこも臭くならなかった。金玉の臭いも、それほどの臭みではなかった。酒を二日間飲まなかったから金玉の臭いがしなくなったのだろう。

サイトの文字の大きさ

 きのうから大活字の本を読んでいるが、読みやすい。活字が大きすぎると文字が目にせまってきて読みにくいかなと思ったけれど、そんなことはなかった。文字に使う紙のスペースがたくさん必要だから、本が厚くなるし重くなるのがよくないのだが、大活字の本は、大きくしたり上下巻に分けたりして、持ちやすくしている。
 その本の著者は初めて読む人で、今まで食わず嫌いで読まなかったのだが、いっぺんに九冊図書館から借りてきた。

 このブログの文字は小さい。読みにくいけれど、ことさら大勢に読んでほしいと思ってないから、文字を大きくしようとも思ってない。だから九年前ブログを始めたときと同じままのシンプルなテンプレートを使っている。検索にも引っかかりたくないから、SEOと反対になるように書いている。
 でも自分の商売のためのホームページは、文字を大きくしている。中身を読んでほしいからだ。それに年とった人にも読みやすくしたいからだ。SEOにも万全に気を配って作っている。検索結果にも満足している。
 でも、どっちに本当は力を入れているかというと、読まれなくていいと思っているこのブログのほうだ。あっちは商売で、こっちは仕事だ。

 ※
 追記
 大活字の本を読み終わって、ふつうの大きさの活字の本をひらいたら、文字がくすんで紙に埋もれているように、紙が灰色に塗りつぶされたように、文字がよく読めないのだ。読めないというより、見えないのだ。それは文字なのか紙についている汚れなのかわからないのだ。紙がぜんたいが灰色に汚れているみたいにみえた。
 大きい文字は読みやすい。それはこちらの目がわるくなっているのだろうけれど。
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