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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

あやとりの記

 私がこれを読んで涙していた夜に、父は一人で死んだ。
 父が一人で死んでいった悲しみを、私はこの本を読みながら感じていたのだろう。

 これは子供が読んでわかる本ではない。大人が読むものだ。いや、そこらへんの年をとっただけの人間が読んでもわからないだろう。自分と自分以外の世界の悲しみを、いつもどうしようもなく感じてきて生きてきた人が読んで、やっとわかって感じることができる文章だ。

p231『生まれない前のわたしかもしれん!』
 さっき萩麿の上に明るくも寂しい光が降りてきたとき、みっちんは、おもかさまの言葉を思い出したのでした。
(陽ぃさまの沈ます闇夜の向こうにゆくものは、美しか位を持っとる)
 それでどういうものかそのとき、萩麿のいる川の中へ這入ってゆきたくなったのです。
 草履を両方とも川の水にあげたのは、もうずうっと大昔の、生まれない前ぐらいから、水に呼ばれているせいかもしれません。
 水蓮の葉っぱの上の露の玉や、小川の岸の草の葉先で、今にもこぼれ落ちそうになっている露の玉を見かけると、息が止まるかと思うほど、胸がどきんとすることがありました。
(生まれない前のわたしかもしれん!)
と思ってしまうからです。生まれない前の自分、ああなんとその自分に逢いたいことか。みっちんが、水とか露とかを見て魂がとろとろなるのは、そういうわけなのです。

 ※

 いま集中的に石牟礼道子を読んでいる。
 石牟礼道子は小説の天才だ。文芸の天才だ。
 あと何冊か読みおわったら、石牟礼道子のことを書く。

あやとりの記

地球ラジオ最終回と、三十年前に仕事した人と会ったこと

今夜で、くらまつゆうきのラジオ番組が終わった。
昨日の夕方も聴いたのだが、昨日の話で、明日、春の高校野球の放送が伸びたら、今日で最終回ですと言っていた。
今夜車のラジオを聴いていたら、いつもの音楽がかかって、ああ、今日もやるんだ、今日も聴けるんだ、今日が最終回なんだ、と思った。
くらまつゆうきは、怒りっぽいおれを、最後まで怒らせずに放送をやりとげた。大したものである。これからも、その頭の良さをいかして、自分のために、世の中のために、頑張ってほしい。彼女は頑張るだろう。

話は変わるが、今日、道を聞こうとして話しかけた人は、30年前に仕事で担当した縫製会社の社長だった。白髪になっていたが、スマートな体型も、かっこいい長髪も、いい男の顔つきも、変わらなかった。
そしてあの頃より会社は南十倍も大きくなっているようだった。社長の車が入ろうとしたところは、広い敷地と大きな建物だった。そして門に書いてある看板は、あの時と同じ、めずらしいハイカラな会社名だったのだ。だからわかったのだった。
社長が乗っていた車も、すごい高級車だった。
あなたは、三十年前に、あそこで、縫製会社をしていた、社長ではないですか? 忘れて、おられるでしょうが、私は、あの広告会社に、勤めていた、あなたの、会社の求人チラシを、担当したダガシです、と、つっかえ、つっかえ言ったら、社長は覚えている、今どこにいるんですかとおれに聞いた。
どこどこで、これこれをしています、とおれは答えた。
おもしろい日だった。

死にたいと思わなくなった不思議

 私は怒りんぼうだが、逆にのほほんと生きてきたし、おっとりしているとも言われてきたが、本当はいつも死にたいと思いながら生きてきた。いつも、自分など死ねばいいと思ってきた。
 それが、父親が死んだら、不思議なことに、死にたいと思わなくなった。
 いつも腹が立ちやすいのは変わらないが、怒った後で怒った自分を責めることはなくなった。
 自己中心的になったのだろうか。鈍感になったのだろうか。ある種のあきらめだろうか。成長したのだろうか。

父の死と落語、とくに片棒

 父が死んで二十日間くらいたったが、落語の片棒を聴いてみたくなってネットで探して聴いた。
 何人かの落語家の片棒を聞いておもしろくて、夢に見たあとのように、父の死を自分の体の血肉にすることができるようになった気がした。
 片棒のほかにも葬式をテーマにした落語を聴いて、私は父の死を咀嚼することにつとめた。
 そういう落語を探してみると、落語とはあんがい死をテーマにしているのが多いのがわかる。死は笑いにつながるのか、死を笑いにして悲しみを減らそうとしているのか、どういうわけなのか知らないが、肉親の死をあつかった落語は、どうしてかおもしろくて何べんも笑った。
 そのおかげなのか、父が死んだことの不安がやわらいだ気がした。

春分の日は一年の、いや人のサイクルが、わかる日

 このごろ三日くらい前から電気あんかの電源は入れなくなった。それでも寒くなく眠れるのだ。足元が暖かいと体ぜんたいに汗をかいて目が覚める。
 二日前の雨の日から、朝は窓を開けて空気を入れるようになった。雨だから花粉も舞わないから部屋に入らない。だから窓を開けられる。
 今日は晴れていたけれど、窓を開けていた。さっきまで窓をあけて空気を入れていた。それでも寒くないのだ。暖房もつけてない。あさってくらいが彼岸の中日だろう。だから今年の寒さは終わるのだ。このごろから暖かくなる。
 体があたたかくなれば、気分もあたたかくなるだろう。一年のサイクルがまわっているのがわかるのだ。
 人生のサイクルも、まわっているのがわかるようだ。それは僕のサイクルも、まわりの人のサイクルも。

広道

 父が広い道に出た。
そのおかげで僕は父と和解できた。
父は今、ゆったりと広い道を歩いているだろう。
いつか僕も、広い道に出られるのだろう。
それまで、いろんなことを、苦しんだり、楽しんだりするのだろう。

スマホ嫌いだからグーグルも嫌いになるかもしれない

 ホームページをスマホで見やすくしたら検索順位を上げるとグーグルが言っているそうだが、おれは自分のホームページをスマホで見られたくない。だからホームページの中で、スマホで見ないでください、パソコンで見てください、このサイトのすみずみまで読んでから問い合わせてください、と書いておいている。スマホ対応などということも、絶対にしない。
 スマホで見て問い合わせてくる人間は、礼儀知らずで泥棒根性の奴ばかりだからだ。ちょっと前は携帯電話でホームページを見て問い合わせてくる人間も、自分勝手なクズばかりだった。
 手軽に見て、サイトの中身をよく見もしないで電話なりメールをしてくるから、おれの仕事の信念を知らずに、いやおれの生き方を知らずに、我侭勝手に接してくるから、喧嘩になる。
 そういう馬鹿どもとかかわると、また逮捕されるはめになるから、スマホで見て連絡してくる人間から電話が来てもメールが来ても、最近は無視している。

 グーグルはスマホごときに媚びているようだが、馬鹿を集めて相手にして儲けようと思っているのか。
 スマホというようなものを嫌いな、まっとうな人間がいるということをわからないようなら、おれのほうからグーグルを見放すぜ。

春になるから粉をだそう・花粉症

 風邪もひいてないのに、今日の夕方から大きなくしゃみが出た。
 花粉症の始まりだろう。
 今年はずいぶん早いようだ。

 木も草も春になったと思ったから、自分の中の粉を出したのだ。
 自分の中の粉を出して、自分を変えようとしているのだ。
 おれも自分の中の粉を出そう。
 2015年2月末。
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