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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

里芋をおいしいと思う今年

 今年は里芋を食べるようになった。里芋など大嫌いだったのに。あのぬめりが気持ち悪かったのだ。
 子供のころに食事で横で食べていた祖父が、食べるあいだにもしょっちゅう咳をして痰を新聞紙を折りたたんだものに出していた。それでご飯を飲み込むのも気持ちが悪くて、でも祖父を悲しませないように平気な顔をしてご飯を味噌汁と一緒に飲み込んでいた。
 父と祖父がいつも取っ組み合いの喧嘩をしているのを見て、そのころは父が好きだったから祖父を憎んでいた。だから祖父の痰が気持ち悪いと思ったのだろう。
 里芋も気持ち悪かったし、納豆も嫌いだった。生玉子も想像するだけで吐きそうだった。カエルの腹もぬめぬめして怖かった。
 それが今年は里芋を食べられるようになった。おいしいと思っているのだ。父が死んで、祖父のところに行って、私も人間なのだからいずれあそこに行くのだと実感したからかもしれない。

人生最高の気持ちいい趣味

 嘘を言わないで、すじみちをとおしきって、いい人になることをつらぬきながら卑怯者を怒鳴りちらして、それを趣味にして生きるのは、誰にも文句を言われないし、自己満足の極みを感じられて、気持ちいい。
 世間に迷惑をかけない範囲でやっている人様の趣味を批判することは誰もできないのだから、いい人になることは世間のためにもなるのだから誰にも批判されない。こんな気持ちいい趣味はない。それはおれの趣味。
 すこし罪の意識は、ある。

怒らないのはマゾ

 このごろは客に卑怯なまねをされても、仕返しをしないでいる。怒鳴らないでいる。我慢している。
 仕返しをしないことや我慢することが善いことだと思ってしているのではない。自分の心を動かすのを自分ができるのだというのをやってみる実験をしているのである。
 その後で嫌な気持ちになる。落ち込んで寝込む。誰とも口をききたくなくなる。そのために酒を飲みすぎることもある。死ね、死ねと一人で怒鳴ることもある。大きな深呼吸を続けて過呼吸で貧血になりそうになることもある。
 そのことで自分がなおさら傷ついているのがわかる。傷つくことがわかっていても、実験なのだと思ってやってみている。そうしていやいやながらも成功している。
 自分の精神を自分が思い通りに自在に操れることができるとは思わないが、我慢して暴発しないようにすることはできるようだ。
 だけれどそれは、マゾヒスティックなことなのだろう。いろいろと我慢しているのだから。だから自分はマゾのほうの人間なのだとわかる。

慈光寺へ行く道での悟り、人は鬼が当たり前ということ

 このごろはオートバイに乗ろうと思っても、どこに行けばいいかわからない。新潟市からはあちこちに行きつくしたような気持ちだ。
 だから今日は、本当に小さな集落に入り込むようなバイクの乗り方をしようと思って、出た。
 まずルートを先に書く。信濃川の堤防の道路を走って加茂に行って、加茂川ぞいに走る。そうして290号線にぶつかったら村松方面に曲がる。途中で右側に曲がり、小さな集落の道を迷いながら、そしておもしろながら走る。そういうコースを考えて、走った。
 小さな集落で迷いながら、道を歩いている男に、この道で村松に行く道を聞いた。
 村松ならすぐそこだから広い道(290号線)に出て走ればいいと言われた。それでは最初の目的ではないから、昔ながらの集落を見ながら走って、そうして村松に行きたいのですと、わたしが本当に思っていることを言った。
 そうしたら男は顔つきが変わって、それならばこの道を行って、途中で慈光寺に行く道はおもしろいよと、私に教えた。

 慈光寺は私にとってそれほどおもしろい寺ではなかった。帰り道に入り込んだ集落の景色の良い三叉路で、今朝自分で作った握り飯を食べた。三叉路には細い用水路が走っていた。私の母親くらいの年の老婦がバケツを持って用水路に来て水を汲んだ。
 私が、その水は何に使うんですかと聞いたら、老婦は畑の野菜にくれるんだと言った。
 老婦は二杯目を汲みに来て、握り飯を食べている私が腰かけている、用水路のコンクリートの堤防に、私と同じように腰かけた。
 その後は私は、慈光寺のことを聞いたり、私の実家のことの愚痴を言った。死ぬことや、死んでからのことを喋った。棺桶のことや葬式のことやを喋った。老婦はおもしろがって聞いていた。

 そういえばその前に、慈光寺に行く前の道ぞいの家の敷地に、老年の男が二人喋っていたから、私はオートバイを停めて、柿のもぎ時を聞いたら、そっけない返事で、もうもげばいいと言われた。二人の男は意地悪そうな顔だった。私はそれは嘘だろうと思った。人間は嘘を言うもので、人間は信用ならないもので、人を騙したいのであって、人が困ればいいと思っているそのことで自分を救おうとしているのだと、思った。
 そう思えば、卑怯な人間でも、それが人間というものだと思ったら、人間とはそういうものなのだからその人間を恨むこともないし、自分がことさら悲しむこともないのだと、思えた。人間とはもともと鬼なのだ。
 鬼でない人がいれば、それが奇跡であって、奇跡に出会えたら、珍しい嬉しいことだからそれを喜べばいいのだと思った。
 今まで私は奇跡が当たり前だと思って生きてきたから、奇跡など起こらないのだから、いつも、いつも、悲しんできた。
 奇跡を求めることが私の我がままなのだ、自分の思い通りになることが当たり前なのだと思い込んでしまうことが私の我がままなのだ。それを、はっきり悟った。それが私の悟りだった。五十をすぎての悟りだった。

トイレの電球の明るさ

 さっき風呂場の電球が切れた。
 トイレの電球をはずして風呂場の電灯につけた。
 風呂場にあった電球は60Wで、トイレから移したのも60Wだった。
 春に、実家にあった20Wの電球を持ってきていたのを、トイレにつけた。
 薄暗かった。でも子供のころの夜の便所は、このぐらいの明るさだったなあと思い出した。

秋であんかを出してエアコン暖房をつけた

 十月十三日の今朝、着替えるのに寒くてエアコンの暖房をつけた。
 十月十日から、あんかを使っている。九月の下旬にも一夜だけ使った。
 九月の中旬には布団を出した。
 夜中に暑いというのは九月中旬までなのだ。
 したことはないが、もし車の中で寝るのなら布団だけで寝られるのは十月下旬までだろう。

果物を食べない

 秋だけれど果物を食べない。ぶどうも梨も二十年くらい食べてない。
 ぶどうは酸っぱいから嫌いだ。一粒一粒皮をむくのが面倒臭い。種を飲み込むのが怖い。種を出すにしても、実の中に沢山ある細かい種を出すのが面倒だし、あの細かい種が口の中に入っているのが気持ちが悪い。
 梨は甘いような酸っぱいような中途半端な味だから、うまくない。これも皮をむくのが面倒だ。

 夏の果物も食べない。桃も二十年以上食べてない。桃は冷蔵庫で冷やしたのがうまかった覚えがあるが、薄皮をむくのが面倒で嫌だ。手がべとべとになるのが気持ちが悪い。食べ物にしては甘すぎるような気がする。だから一個ぜんぶは食べられない。

 春と冬の果物は思いつかない。樹は春に花が咲いて秋に実が生って、冬は葉っぱも実も落とすのだろうから、春と冬の果物というものはないのだろう。
 いや、みかんがあった。冬のみかんも夏のみかんも食べない。酸っぱいからだ。子供のころはせっせと食べていたが、大人になったら食べなくなった。これも皮をむくのが面倒なのだ。みかんの皮をむくのさえ面倒がっているのだから、いかに果物を好きでないかが自分でもわかる。
 しばらくたって思ったが、そういえばりんごも冬の果物だ。ときどきは外食で付け合せで口に入れたおぼえはあるが、十年以上、自分で皮をむいて切っては食べてない。これも酸っぱいから食べたくないのが一番の理由だと思う。りんごはそれほど酸っぱさは感じないのだけれど、やっぱり果物は酸っぱいのだと思っているのだろう。だから一個ぜんぶ食べたくない。

 だけど何年か前から柿だけは、秋に十個くらいは食べるようになった。スーパーで一個売りをしているから、買い物のついでにカゴに一個入れて、買って帰って食べる。どうしてか柿だけは皮をむくのが面倒だと思わない。柿は酸っぱくないし甘すぎないから食べられる。最近は種無しがあって、食べるのがらくだ。
 だけれど誰かが皮をむいて、食べやすい大きさに切って、皿にもって、フォークと一緒に出してくれれば、柿だけじゃなくていろんな果物を食べるかもしれない。ようするに面倒くさがりでわがままなのだろう。

芸術は個人の中でしか生きられないものかもしれない

 BSNでまたラジオ寄席をやるようになったようだから聴いてみたら、若い落語家が喋っていたが、駄目な人間が落語をやっていた。
 こういう駄目な話をしている番組を流しているのは、駄目な人間が作っている番組なのだろう。ゆとり世代という言葉をを聞くが、本当だろうかと思っていたが、本当かもしれない。いや、ゆとりというのはゆとり世代だけをいうのではないのだろう。人間が余剰な食べ物を蓄えられるようになってから生まれた余剰の人間を、ゆとり人間というのだろう。
 そういう何もできない無責任なゆとり人間が数多くなって、表現という真美善をあらわす端くれの落語家になってきたのだろうと思ったのだが、考えたら違うと思った。
 落語というジャンルはもう終わる表現なのだと思うのだ。だからゆとりの人間でも入ってこられるようになったのだ。
 落語は江戸時代の風俗を題材にしているのだから、表現のジャンルとしては古典だ。そういえば古典落語というではないか。
 新作落語というものもあるが、新作落語を作る人間は頭が良くなければ作れない。ゆとり人間が多くなった今は、頭が良い人間は落語界には入らない。頭が良い人間は他のもっと幸せになれる業界に行くだろう。だから落語は衰退するジャンルなのだろう。
 それは純文学もそうだろう。いや、本は売れないのだから大衆文学もそうだろう。CDも売れないのだから音楽業界もそうだろう。美術界は昔からもそうだろう。舞台、映画というジャンルも儲からなくなっているし、テレビももう最近は見る人も少なくなっている。ということは芸術や芸能のジャンルは全体が衰退なのだ。美術の中の少しだけが、投資として金が集まってくるところがあるくらいだが、それは芸術とは関係ないことだ。
 駄目な人間に芸術、芸能をさせている人間も、駄目な人間がさせているのだ。芸術、芸能のジャンルを支配している人間どもが駄目になっているのだから、ジャンルが駄目になるのは当たり前なのだ。
 もう芸術というのは、駄目じゃない人間の個人的な趣味の範囲の中でしか生きていけないものなのかもしれない。
◆追記するが、上に書いたものは発作的に思ったことを書いたような内容で、いつか書き直さなければならないと思う。

ラグビーは流行らないと思う

 最近ラグビーのワールドカップのことをラジオで言っている。インターネットでもよく出ている。ラグビーなど日本では誰も知らなかったし興味もなかったのに、このごろはメディアでうるさいほど喋っている。
 何年か後に日本でラグビーのワールドカップをやるそうで、それの宣伝をしているのだろう。政治家どもがその利権にからんでいるのだろう。だから放送局がことあるごとにラグビーのことを表に出しているのだろう。それでつられてインターネットもラグビーなどと言っているのだろう。
 今回のワールドカップで強い国に勝ったらしいが、いろんな形で金で買った勝利だろう。それも日本でラグビーを流行らせようとする宣伝のうちなのだろう。

 日本のサッカーもプロになるときは、インターネットはなかったけれど、そんなやりかたで世間の馬鹿どもをあおり立てていた。それで馬鹿者どもが仕事を放りだしてサッカー場に入りびたっていた。それだからラグビーもそうなるように仕向けているのだろうが、今度はそうはならないだろう。なぜなら日本はあのバブルがはじけた1992年ころよりもっと国力が弱っている。庶民はラグビーに金を出すことはできないだろうし、ラグビーはサッカーよりもっと単調なルールに見えるからおもしろくない。私もラグビーのルールを知らない。相撲取りより少しだけちいさな、でも世間の男たちよりよほど大きな男たちが、未熟児の赤ん坊のような形をしたボールを投げたり蹴ったりしながら取り合ってぶつかりあう、だからボールがよく見えなくて、今どっちが優位なのかわからなくて、おもしろくない。
 それに競技のなかで技というほどのものもなくて、ただ体をぶつけ合うだけのように見えるからおもしろくない。相撲でさえ四十八手あるのだ。だからラグビーは頭がよくなさそうに見える。馬鹿な人間に感情移入はできない。
 どうもラグビーとは頭が悪い政治家どもとマスコミどもが金のために流行らせようとしているのだろうが、日本ではラグビーは流行らないと思う。
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