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徒然のブログ

つれづれの思いなどを

もうすぐ秋になる気配、夜の涼しさ

 昨夜は涼しくて、それまでは窓を開けて網戸にして、何もかけずに寝ていたのだけれど、夜中に、涼しいというより肌寒くなったから、暗い中で押入れから毛布を出して、胸までかけて、寝た。首までかけるとさすがに暑かったのだ。
 今朝はカーテンを閉めていたから、遅く起きた。六時過ぎまで目が覚めなかった。
 夏は朝四時半ころに明るくなるから、そのころに目が覚めるのだ。そして夜中も暑くて、一時間おきに目が覚める。だけれど昨日の夜は、ひさしぶりにぐっすり眠れた。
 八月二十七日の夜だ。もうすぐ九月で、もうすぐ秋だ。

 追記
 29日月曜日は、朝から八月上旬の真夏なみに暑くなった。
 秋になるまでは、涼しくなったり、暑くなったりしながら、ほんとうの秋になるのだろう。
 30日は新潟県に台風が来る予報だ。

電子レンジは便利で電気がありがたい

 100円ショップで売っている一合炊きのプラスティック釜を買ってご飯を炊いてみた。
 食べたら不味くはなかった。アルファ米よりよっぽど美味い。
 二合弱くらい炊いても炊けるかもしれない。こんど炊いてみる。
 しかし電子レンジというのは便利なものだ。子どものころは電子レンジで温めたものは体に悪いとか、電子レンジが動いているときに中を見ると目がつぶれるとか、電子レンジが動いているそばにいると電磁波を浴びて癌になるとか、スイッチを押した後見ていないと爆発するなどと思っていた。今でも少しだけそう思っている。だから電子レンジを毎日のように使いだしたのは三年くらい前からだ。
 電子レンジは消費電力が高い。500ワットとか700ワットだ。アパートでは、炊飯器やエアコンや掃除機やドライヤーと同時に使うとブレーカーが落ちる。でもどれかのスイッチを入れなければいい。
 電子レンジを使うと、電気というのは便利だなあと思う。エジソンに感謝だ。でも電気を使いすぎないようにしている。原発に頼らないようにしなければならない。原発は気持ち悪いから。

中ノ沢で他人の家の墓に参ったこと

 二年前の八月十三日に新発田から三川に行く道で、49号の長いトンネルを通らないですむように山道を走った。その道は三川の駐在所の若いおまわりさんに教えてもらったのだった。
 今年は逆コースの49号から山道に入ってみた。49号は車は多かったのに、山道は車もバイクも走っていなかった。自転車も歩く人もいなかった。山の中の道に私一人だけだった。
 途中でヘルメットを脱いで、ヘルメットは左腕にぶら下げて、ゆっくり走った。スピードメーターの針は時速10キロから15キロくらいを差している。ジョギングくらいの速度でバイクを走らせると、ヘルメットをかぶって汗だらけの頭と髪の毛を、涼しい風がかわかしていく。スピードを出さないからエンジンの音が静かだ。遠くで、うぐいすの鳴き声が聞こえた。

 中ノ沢の部落に着いた。そのまま行くのもおもしろくないから、部落の奥にゆっくり進んでいった。左側は山だ。道のわきの家がなくなって、部落のはずれに来た。左の山の斜面に墓場が見えた。だけれどほとんどの墓は倒れていた。そんな墓地はめずらしいと思ってバイクを停めて、墓場に歩いていった。
 小包の段ボールくらいの大きさの石が何十個も転がっている。石は黒ずんで汚れているが、横を見ると、明治十年とか明治二十年とかと掘ってある。ほとんどの墓石の正面には、戒名らしい文字が刻んである。それが三十個も四十個もばらばらに横倒しになっているのである。
 しばらく見ていたら、二人の男が道から墓場に歩いてきた。年寄りの方が私にすこしだけ会釈をした。若い方は睨んだ目をしているように見えた。
「どうしてこの墓石は、みんな倒れているんですか」 私は年寄りに聞いた。
「さあ」若い方が答えた。本当にわからないようにも、本当は教えたくないようにも、どっちともとれるように答えた。
「墓のことを調べていなさるんか」年寄りが私に聞いた。
「はい、墓とか墓場のことに興味があるんです」そう言ってから、自分はまっとうに働いている社会人ではないと言っているようなものだなと思った。でもそう言ってしまったのだから、そういう人間で押し通そうと思った。
「この上に本当の墓場があるんだよ」と年寄りが指差した。私は年寄りの後を、ついて山道を登っていった。
 細い登山道のような道を登る。先頭の若い男はひょいひょいと身軽に登っていく。年寄りも年のわりには足が軽く登る。私は二時間くらいバイクに乗る格好で膝を曲げ続けていたから、足が思うように動かない。木の根や転がっている石に何度もつまづきそうになった。
 五分ほど急坂を登ったら、目の前が開けた。平らな場所に出た。それでも十畳くらいの広さでしかない。その広場に墓が二十個ほど立っている。こちらの墓地の墓は新しいものばかりだ。りっぱで大きい今風の墓が並んでいた。
「ここまでこれだけの墓石を持って上がってくるのは大変だったでしょうね」と私が言ったら、二人とも返事をしなかった。息が切れているわけでもなかった。
 若い男は広場の奥にある、墓地の中でも一番大きい墓の前に立った。
「きのうスイカを3個置いといたんだけど、なくなってるよ」
「猿が持っていったかな」年寄りが答えた。
「いや、どうだかな……」盗んだのは猿ではないと言っているようだ。年寄りはそのことには答えずに、帽子を脱いで、毛のない頭の天ぺんの汗をタオルで拭いている。
 若い男は雑巾で墓石に上がる三段の階段に落ちている木の葉をぬぐい落としてから、墓に近づいて、ろうそくに火をともし、線香に火をつけた。
 そうして男二人は、黙って墓に手を合わせた。私は二人の斜め後ろに立って、同じように目を閉じて手を合わせた。
「知らない家のお墓に参らせてもらうのもいいもんです」と私は言った。それは男二人へのベンチャラではなかった。本心だった。
 年寄りは笑った。若い男も私に笑顔を見せた。そして若い男は年寄りに、「おじさん、ありがとうございました」と言った。お参りが済むと二人はすぐに今来た道を降りていった。
 私も年寄りのすぐ後を追いかけるように降りていく。年寄りの男は歩きながら、後ろにいる私に、墓石の後ろにたてかけてある卒塔婆のことや、自分が子供のころは、ここいらはまだ死んだら土葬だったという話や、下の墓場も、この上のほうの墓場も、寺の墓地ではなく、部落の人間たちが共同で作った墓場なのだということや、上の墓場に登る道の両側は昔は田んぼだったということなんかを教えてくれた。
 私は年寄りの男の後ろから降りながらその足取りをよく見たら、年寄りの男は、左足をこころもち引きずりながら降りていた。来年はもうこの山の上の墓地には墓参りには来られないかもしれないと思った。でも年寄りの足のことは言わないでおいた。そのかわりにでもないが、墓地にも道にも灯りなどはないから、「夜には墓参りはできないですね」と聞いたら、若い男は、あたりまえだというふうに「うん」と答えた。年寄りは、「雨が降ると、この道は沢になって歩けたもんじゃないんだ」と言った。
 それからバイクを停めていた舗装道路で二人と別れた。私は、赤谷を通って、二年前と同じように戊辰戦争の碑のところでアンパンを食べて、それでも満腹にはならないから、新発田に行き、最初にあったセブンイレブンでカップラーメンを食べた。
 カップラーメンを食べて満腹になった後、店の隣に大きな墓場があったから、入ってみた。中年の女が墓に花をそなえていた。その墓地のほとんどの墓には、生花が豪華にそなえられている。墓の前には長い棒の先に逆三角形のフタのない提灯のようなものが二つづつあって、夜になるとすべての墓の前にある逆三角形の提灯に火がともされ、昼間のように賑やかになるのだろう。その墓地のお寺は新発田でも由緒ある禅寺だそうだ。その部落は五十公野というらしい。墓に花をそなえていた中年の女に聞いたのだ。女は私に、いじみのです、と答えた。そういえば中ノ沢の墓には、花はほとんどなかった。
 今日は朝は涼しかったのに、昼前の十一時過ぎから急に空気が熱くなった。本日八月十六日は最高気温が35度だったそうだ。今年の夏一番の暑さだ。

自分の昔の食の我がままを思い出させた本

 日本の地方地方の昔の食生活をつづった本を読んだ。『聞き書 新潟の食事』という本だ。それは都道府県別に一冊を書いていて、そのシリーズの中の新潟県のを読んだのだ。
 何回も出てくる言葉があった。食いのばし、かて飯、という二つの言葉だ。米が少ないから、大根などを飯に混ぜて炊くのをかて飯といったそうだ。そしてそうやって米を節約して食事することを食いのばしと書いていた。
 著者は村上昭子という人だ。著者の写真が載っていたくらいだから、写真が発明されてからの人だ。文章にも書いてあったが、戦後のことを書いていた。本には食事のお膳のカラー写真も載っていた。本に書かれていたのは昭和二十年代から四十年代のことだろう。そのころでも食いのばさなければならないほど米はとれなかったのだ。白米を食べるのは盆と正月くらいで、醤油は貴重品だとも書いてあった。それが昭和三十年くらいの時だったのだ。
 その前の時代はもっと米はとれなかっただろう。江戸時代では、ふだんはアワやヒエを食べていただろう。麦やイモや大根が、おいしい食べ物だっただろう。米を食べるのなどは、医者を呼ぶことと同じで、死ぬ前くらいのものだっただろう。いや江戸時代の農村では、死ぬときでも医者は呼べなかっただろうし、白米を食べることもできなかっただろう。

 私が子供のころ、この本に書いてあるように、朝に母親が米を炊いて、味噌汁(おつけ)をつくり、こうこの漬け物ていどのおかずで朝食を食べていた。生卵をといてご飯にかけて食べるのがごちそうだった。だけれど生卵が出るのなどは二週間に一回くらいだった。いや一月に一回だったかもしれない。
 昼食は父親母親が田んぼ仕事から帰ってくるころに、年取った祖母が朝食の残った味噌汁の半分を別の鍋に移し、その鍋にご飯を入れて煮て、ぞうせを作る。それから残った半分の味噌汁は煮温める。煮詰めることになるから、しょっぱくなるし、苦くなる。
 父母が帰ってきての昼食には、茶碗に朝炊いた冷たいご飯を半分よそって、その上に熱いぞうせをかける。それが毎日の昼の食事だった。茶碗の上の方が熱くて、下の方は冷たいという、それに上の方はしょっぱくて、下の方は味がしないという、へんな食感、食味の食べ物だった。味噌汁の具は、夏ならば毎日畑からとってきた、なすだった。おかずはこうこだった。たまにきゅうりの漬け物があった。
 子どものころの私は、「朝のおつけを昼に食うのはまずいがあて。昼にも新しいおつけを煮ればいいろ。毎日毎日ぞうせは、やらて。別のもんが食いてえて。玉子か豆腐が食いてえて」と毎日の貧しい食事に文句を言った。そうすると祖父と祖母は不思議な物を見るような顔をして私を見たことをおぼえている。父と母はどうしてか私から顔をそむけるようにしながら下を向いて、ぞうせを口にはこんでいた。

 この本を読んでいると、子供のころのワガママな自分を思い出して、読み進めなくなる。とちゅうでつっかえつっかえしながら、何度も読むのをやめて、一週間くらいあいだをあけて、また読んでもいいかなと思えるようになったら、もういちど本をひらいて、読んだ。それで長い時間をかかって、全部読みおえた。
そういえば本の中で、こびるという言葉もいくども出てきた。小昼で、おやつのことだ。おもに田植えや稲刈りのときの十時と三時の食べ物のことだ。子どものころの田植えや稲刈りの日のこびるは、田植えの日は草もちだったり、味噌おにぎりだったりで、稲刈りのこびるは梨だったのをおぼえている。親戚のおばさんが田んぼのあぜ道で皮を剥いてくれた梨は、「ほらっ」と言って私にわたしてくれた梨には稲わらがついていて、私は汚いと思ってしかめっ面をした。その顔つきをおばさんに見られたのが、後で自分を嫌な人間だと思ったのを今でもおぼえている。おばさんはおととし死んだ。

プリンターは持たないことにした

 持っているプリンターの調子が悪くなって、文字がかすれるようになった。五年くらい前にお客さんからもらったものだ。プリンターの製造年は十年くらい前のものだ。
 昨日、A4の紙に40行くらい印刷できるとすると、その三分の一くらいの行がかすれるのだ。何回もインクの出るところをクリーニングしたけれど、かすれは直らない。それどころかかすれる行は増えていく。
 もう寿命なのだと思って買い換えようかとヤフオクを見たが、思い直した。家でプリントするのは、月に二、三枚くらいだから、プリンターがなくても、プリントしたいデータをUSBメモリーに入れて、それをセブンイレブンに持って行って、セブンイレブンのコピー機でプリントすればいいのである。今までも何度かやっていて、家のプリンターより数段キレイに印刷できていた。
 セブンイレブンのプリント代は、A4で白黒なら一枚10円で、カラーでも50円だ。月に多くてカラーを十枚プリントしても500円だ。一年で6000円だ。本当はもっと少ないだろう。たぶん2000円くらいだろう。
プリンターのインク代は、黒色インクが汎用品で一つ1500円くらいだ。カラーのものだと3000円くらいだ。一年で黒色とカラーのものを一つずつ買い換えてきた。そうするとインク代だけで4500円だ。
 セブンイレブンに行ってプリントすれば2000円、家でプリントしたら4000円くらい、セブンイレブンでプリントした方が安い。それにキレイな印刷になる。
 だからもう、プリンターは持たないことにした。
 代えの黒色インクが二つとカラーインクが一つあるのだが、使わないことにした。だけれどプリンターじたいは捨てない。かすれてもいいから緊急で何かを印刷したい時があるかもしれないから、一年くらい捨てないで持っていて、一年間プリンターを使わなかったら、もうプリンターは不要なのだと思って、捨てる。

暑い季節は何を食べていたか忘れている

 今年は事前の天気予報より気温は低くて過ごしやすい。でも五日前に買った十本の人参は二日で暑さで腐った。腐りがない場所を寄って包丁で切って炒めて食べたが、ほとんど捨てることになった。もったいなかった。ビニール袋に入れていたから、熱い湿気で腐ったのだろう。
 今が一年で一番暑い時期だ。食べ物が腐るのは仕方がない。自然なことだ。この暑さでも腐らない食べ物は、かえって気持ちが悪い。昨日また人参を五本買った。風通しがいい場所を探したけれどアパートの部屋の中は風の通りいいところはない。洗濯機の上に洗濯物入れのカゴを逆さに置いて、その上に人参を五本置いた。一日たった今夜でも、腐る気配はなかった。これだけ暑くても、カゴの網目の隙間から空気が流れているから腐らないのだろう。
 毎年この季節は何を食べているか、忘れている。昨日は餃子と鶏肉のニンニク炒めを食べた。今日はさんまの焼いたのと中国産のうなぎと心太を食べた。明日は麻婆豆腐を食べるつもりだ。そして八月になってからは蒸しタコをよく食べている。刺身はマグロもブリも脂がない季節だからまずい。魚ぜんぱんがうまくない季節だ。忘れているが、去年もおととしも、毎年そういうものを食べていたのだろう。
 ビールを毎日沢山飲んでいる。正確にいうとイオンの発泡酒だ。500ml缶が六本で750円で安くてよい。まずくもない。

 後日に追記
 カゴの上に置いた人参も二日でしなびた。もう一日したら腐るだろうから、あわてて一本を麻婆豆腐に入れて食べて、のこり3本は薄切りにしてタッパに入れて漬物の素の液をかけて冷蔵庫に入れた。
 この時期の人参は買ってきたら湿らせた紙に包んで冷蔵庫に入れるべきだろう。

石原慎太郎は芸術家ではなくなった

 芸術家とはわがままでいいのである。王侯貴族よりも偉いのである。
 石原慎太郎は芸術家だ。石原の純文学の小説をほとんど読んでいるが、どれも芸術だ。だから石原は我がままでいい。そして石原は昔から我がままにふるまってきた。それも芸術家だから許されていたし、芸術家としての振る舞いで小気味いいと思ってきた。
 金に頓着しないのも芸術家だ。だから金が自分のものであろうと他人のものであろうと、どっちでもいいとするのも芸術家だ。石原慎太郎が政治家時代に公金を少し横領したとしても(実際いろんな形でしていたのだろうが)、芸術家だから許されていたのだろうし、日本国や東京都の財政が破綻するレベルで横領したわけではないから許されていたのだろう。
 だが芸術家は卑怯者であってはならない。芸術上での嘘は許されるが、実生活での嘘は、芸術家だからこそ命取りだ。
 石原慎太郎は、小池百合子への批判演説で嘘を言ったらしい。それも相手の容姿を貶めながら。
 その物言いは芸術家ではないし、選挙演説などという形而下で下世話なことで、しかも息子を助けるためという世俗的なことで嘘を言ったのだから、芸術家としては死刑にあたいする。
 石原はもう八十半ばだ。もうろくしたのだろう。そもそも芸術家が政治などに手を出すべきではないのである。
 ということは石原慎太郎という人間は、もともと芸術家ではなかったのかもしれない。芸術家の演技が上手なだけの人間だったのかもしれない。
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